4 不浄の王、あるいは崩れゆく結晶【2】

 何ものも遮らない光が見える。カーテンの隙間から漏れる朝日が部屋の中を分断的に、明るく照らす。太陽に急かされるようにして、僕は隣に眠っているであろう谷山を起こさないようにして注意深く立ち上がった。しかし、彼女はそこにいない。ベッドに戻ったのかと布団を剥いでみるけれど、そこにも居ない。トイレだろうか、それとも汗が気持ち悪くて朝風呂でも浴びにいったのかも。期待を込めて30分ほど待ってみたけど、それでも谷山は戻って来ない。背中に嫌な悪寒が走る。もしかして食事しているのかとダイニングを覗いてみたけれど、誰もいなかった。テーブルには二人分の朝食跡が残っており、僕はとうとう観念して溜息を吐く。もう、谷山はここに居ないのだ。それにしたって挨拶の一つくらい、あって良いはずなのに。彼女は何も言わずに出て行った。その事実が、胸の中に少しずつ満ちていく。

 消沈して部屋に戻ろうとすると、母が自室から出てきた。その顔は谷山のさよならを聞いたはずなのに明るくて、僕は思わず食って掛かる。

「声くらい、掛けてくれたって良いじゃないか」

 精一杯の剣幕で睨みつけてみるけれど、母は呆然とするだけで何の反応も見せない。

「えっと……何のこと? 全然要領を得ないんだけど」

「谷山、帰ったんだろ。そりゃ新学期に入ったら会えるけど、でも挨拶くらいはしたかったのに」

 そしてできればキスも。言い隠して母を見ると、彼女は失礼なほど大きく吹き出し、笑い始める。最初こそむっとしたものの、どう見ても陽気そのものな母の様子に、僕は違和感を覚え始めていた。と、母が目を擦りながら僕の肩に手を置く。

「谷山さんが雪に挨拶もせず、出て行くわけないじゃないの、馬鹿ね」馬鹿という単語を酷く強調したので、僕は憮然と困惑をない混ぜながら、立ち尽くすしかなかった。母はなおも、言葉を続ける。「着替えやお金を取って来なければいけないので、一度家に帰りますといって、出て行ったよ。今から一時間くらい前かな」

 聞いてみれば、至極単純なことだった。でも、その単純な事実のために、僕は散々慌てていたのだ。いや、それ以前に谷山のことをきちんと考えていれば、取り乱すことさえなかった。僕は俯き、それから谷山の連れない行動に独りごちる。

「それだったら声をかけてくれれば良かったのに。ここに暫く住むための荷物だったら、重くなるだろうし」

「うん、それはわたしも言ったわ。息子を思う存分、扱き使って良いって。でも、迷惑をかけるわけにはいかないからと言って、逃げ出すように飛び出して行ったのよ」

 逃げ出すようにという母の言葉に落ち着かない感じがして、僕は顔を顰める。すると心なし手の力を強め、肩を圧迫しながら言った。

「大丈夫。彼女は絶対、ここに戻ってくると思う」

 母は迷うことなく確約すると、真剣な表情で僕の目を見据える。そこには如何なる曲解をも許さぬ力強さがあった。

「それより、谷山さんってどういう娘なの?」

 質問の意図することが読めず訊き返そうとしたけど、母は差し挟むことを許さずに言葉を続ける。

「ここ最近、誰かに苛められたとか、酷い目に合わされたとか、聞いてない?」

 どうしていきなり、話がそこまで飛躍するのだろう。不審に思いながら、僕は知る限りの谷山を頭の中に思い浮かべる。先ず苛めだが、クラスメイトとの諍いでは有り得ない。僕の見ている限り現実に起きている様子はなかった。巧妙に隠されていれば話は別だけど、クラスの女子にそこまでの分別を持っている人間はいない。

 それでは誰か見知らぬ人間が、知らない所で谷山を苛めているのだろうか。そこまで考えを進めて、23日の夜、お嬢様学校の制服を着ていた谷山と、売春しているという告白を思い出す。それがもしかして、谷山の意志でなく誰かの強制によって行われているということはないだろうか。しかも今、谷山の唯一の肉親である父親は長期出張に出ている。直接的にも間接的にも、谷山を守る存在、権力は一つも存在しないのだ。そしてそれが、事あるごとに人を試す態度に繋がっているのだとしたら。

 谷山に、不浄の王が君臨しているという可能性は……否定できなかった。

「思い当たる節が、あるのね?」深刻に思い悩む僕の顔を見て、母が詰め寄ってくる。「彼女って、何者かに酷く虐待された人間特有の、怯えた態度を見せてたから気になってたの。他者に深入りしようとするけど、不意に警戒心がわいてきて、相手を試そうと傷つけることや挑発するようなことをする。かと思えば、とても深く特定の人間を愛しようとする。谷山さんの、雪に対する態度にとてもよく似てるから。お願い雪、言い辛いかもしれないけど、わたしを信じて、腹を割って話してくれない? そうしないと、次にどのような手を打って良いのか分からなくなる」

 母の語りは昨日、谷山のことを娘として扱いたいと言ったことが決して社交辞令ではないことを示している。僕は暫し、無言で思考を巡らせた後、語るべき少しばかりの知識と、そして推測を打ち明けた。母は苦虫を噛み潰したような顔でそれを聞き、話が終わると僕の両肩を強く掴んだ。

「わたしは、雪の言ったことを、できれば信じたくないわ」そう言ってから、焦燥の濃い溜息を吐く。「でも、雪の推測を笑って退けるには、否定する情報が余りに足りなさ過ぎる。そして、幾つかの看過できない事実がある。事は多分、そう簡単ではないと思うの。わたしや雪は、谷山さんにもっと相応しい救いの手を差し伸べる必要があるに違いない。けど、今は全てが混迷していて余りに掴み辛くて。何をすることが最善なのか、分からない」

 年長者で賢い頭をもった母でさえ、谷山のことを全て理解できているわけではない。そしてその不理解ゆえに将来、彼女が傷つくことを看過したり、更に悪いことには助長するかもしれないのだ。未知の恐怖に押し潰されそうで息苦しく、僕は母に思わず大声をあげていた。

「だとしたら、僕はどうすれば良い?」

 居るのだとしたら――そんなこと考えたくもないけれど――不埒な男性をどうにかして懲らしめる方法を考えるべきだろうか。谷山を苦しめたその一度ごとに、死ぬほどの苦痛を与えてやるべきなのだろうか。暗く染まる脳内の活動を留めるようにして、母は出来る限りの冷静な声で僕に告げた。

「一番良いのは、谷山さんから真実を訊き出すことだと思う」母は僕の目を見据え、きっぱりと答えた。「彼女がわたしたちをもっと本気で信頼してくれれば、そのうちに事情を話してくれるかもしれない……いや、きっと話してくれると思う。今、わたしたちができる全てのことは、彼女を受け入れること。そして出来る限り側にいて、一人にさせないこと、孤独を感じさせないことだと思うわ」

 それは僕に、谷山を支えて離れずにいろ、と言っているのに等しかった。それこそ僕の望むことだったが、同時にそれだけで良いのか? という疑問も沸いてきた。谷山が事件性の強い厄介に巻き込まれているのだとしたら、僕と母だけでは手に余るかもしれない。

「警察に事情を話して、調査して貰うことはできない?」

 ふと思いつき、母に訊ねてみるが、にべもなく首を横に振られた。

「無理ね。警察は事件が起きて初めて捜査を開始するから。起こってない事件に対しては腰を上げてくれない」そう言ってから、母は俄かに表情を明るくする。「でも、悪くない考えかも。警察に頼るのは無理でも、私的捜査機関――例えば探偵を雇って谷山さんの周辺を調査して貰うというのは、有効な手段だわ」

 探偵、という言葉に僕は眉を潜める。勿論、身の回りにある危機を把握しておくことは必要かもしれない。でも、谷山のプライヴァシを暴き立てるかもしれない行為に対して、反感を抑えることができない。母の案は多分、非常に有効なのだと思う。それは理解できるけど、でも……。

「でも、それは谷山に対して卑怯な気がする」

「そうね」母は気の弱い笑みを浮かべる。その表情を見て、母も探偵を雇うという手段に心から賛同しているわけではないのだと見て取れる。それでも母は、気丈に言葉を紡いだ。「信頼すべき相手の秘密を、影でこそこそ暴き立てるというのは本来、人間として恥ずべき行為よ。そういう心を雪が持ってくれているのは嬉しいと思う。でも、谷山さんは心に頑なな恐怖を抱いてる。恐怖は時として、敵の姿をとても強大に見せ、殆ど手遅れになるまで敵に対して何の行動も取らせなくするものなの」

 そう述べてから、母は一つの事件を例に出した。

「以前、新潟である少女が9年間も監禁されるという事件が起こったことがあるの。憶えてる?」

 僕は直ぐに肯いた。まだ今の半分くらいの年齢だったけど、その衝撃の強さは当時、非常に強烈だった。何しろ僕と2歳しか違わない少女が長い間、男によって閉じ込められ、酷い目に合わされ続けてきたのだから。一度ならず自分のことのように思い、怖くて堪らない夜を幾日も過ごしたことがある。心配をかけるのが嫌で、母には何も言わなかったけれど。

 母は、僕の反応に満足して言葉を続ける。

「監禁された当時、男は殆ど常に少女を見張ってた。でもその内、男は少女をそれほど見張らなくなった。それどころか、細かい用事を言いつけるようになった、買い物にさえ出かけさせたのよ。それでも少女は、男の元から逃げることができなかった。ほんの少しの行動で自らを好転させることができるのに、敢えて闇へと引き返させる源、それこそが恐怖なの。どんなに賢明な人間をも捉え、最も思考の働かない生き物にしてしまうものこそ、恐怖そのものなのよ」

 殆ど強迫観念にすら聞こえる恐怖という言葉を何とか飲み込もうとして、僕は心の中で必死に足掻いた。しかし、母は容赦せず、僕の心に剣を突き立て、抉り付ける。

「そして昔から、恐怖は剣より沢山の者を殺して来たに違いないわ」

 母は僕に、強烈な死のイメージを植え付けた。恐怖によって無力に苛まれ、闇によっていいように苦しめられ、そして朽ちていくという殆ど最悪のイメージを。それが谷山に代わり、蹂躙されるというおぞましい明確さになりかけたところで、僕は心の全てを背けた。谷山が絶望の中で死ぬなんて、考えるのも嫌だった。あんなに利発で、魅力的な少女が心を止めたままに堕ちて行くなんて、考えるだけでも涙が出そうだった。もしかしたら涙が流れていたのかもしれないけれど、そうだとしたら僕の脳は、皮膚の感覚を伝達する些かの余裕も与えていなかったのだろう。どのみち、僕は母の提案を拒むことなどできなくなっていた。

 自分の卑怯さと、力の無さが嫌になる。幸せにしてみたい、なんて口では何回でも言える。実践するにはきっと、何度でも清濁併せ呑まねばならず、それでいてひけらかしたり顔に出したりしてはいけないものなんだろう。谷山のことをもっと、きちんとした形で支えるには確かに、情報が必要だ。でも、こんなやり方しかできないのは、どことなく哀しい。

 もしかしたら僕はやはり、谷山に相応しくない人間なのかもしれない。彼女を守ることができ、幸せにすることもできる、もっと立派な存在が、この世界にはあるのかもしれない。でも、それでも。僕は谷山を手放したくない。あんなにも深く強く繋がった想いと絆を、何もなかったようにして生きることなんて、それこそできない相談だ。だからこそ、それがどんなに道理から外れていても、時として成さねばいけないし。僕は、もっと強くならなければいけない。

 少しだけ強い決意の元、母を見上げると、彼女はすまなさそうに息を吐き出した。それは母の中に残る逡巡、懸念を追い出すためのものだったのかもしれないし、単に条件反射ということも十分に有り得る。

「ごめんなさい。こういうことに子供を巻き込むのは、本当はいけないことかもしれない」母はそう前置いてから、らしくない気弱げな表情を浮かべそうになった。しかし辛うじてのところで持ち直し、僕に力のある想いを向けてくる。「でも、わたしは谷山さんのことを、たった数日しか共に過ごしていないけど、家族のように思えてきてるの。できるならば、彼女を守りたい。庇護する対象としてではなく、家族の一人として。時と場所と想いを分かち合う最高の仲間として。だから、わたしは汚いことも愚かしいことも、雪に次第もらさず話す。それは、論じるべき対象が家族の一人であるからよ」

 言い終えて、母は『わたしの言いたいこと、分かるわね?』と言わんばかりの視線を寄越す。僕は無言で肯き、整理できない心を必死に働かせながら、今の自分の気持ちを言葉にする。

「僕も……もし谷山が脅かされているならば、その威から彼女を何とかして遠ざけたい。それは家族じゃなくて、好きな女の子っていう気持ちの方が強いけど」

 好きな女の子という単語に、心臓が跳ね上がりそうな痛みを伴う。実の親に、最も繊細な部分を知られる気恥ずかしさは、僕のような人間にとっては殊更強い。でも、再確認したからといってそれで怖気づいたりはしなかった。

「誰も、たった一人でさえ味方になってくれない。よく考えると谷山って、昔からそうだった気がする。味方はいないけど、敵もいなくて、だから僕みたいな普通の孤独で済むはずなのに。いつも何かに立ち向かっているようだった。もし、谷山が一人で戦っているのだったら。ただの一人も、声をかけて、抱きしめて、味方になってくれる人がいないのだとしたら。それは哀しいことだし、気持ち悪いことだし、嫌で……嫌なんだ!」

 気持ちが溢れそうになるのを必死で堪えていたけど、感情はどうしても爆発してしまって。眼球の表面が発熱しているみたいに、痛かった。

「僕は、谷山に幸せでいて欲しい、笑顔でいて欲しい。例え騙されてるんだとしても、人間の盾くらいにしか思われてないのだとしても、頼ってくれるなら僕は彼女を助けたい。愛情であってくれるのが一番嬉しいけど、そうでなくても僕は、谷山の力になりたいと思う。せめて僕くらいの心地良い孤独でいられるように、してあげたい」

 余りにも短い間に、色々なことを考えすぎたせいか、思考はおろか感情すら上手く定まらない。笑って良いのか、泣いたら良いのか。悲しむべきなのか、少しでも気丈な自分で在り続けるべきなのか。それでも、僕と母が谷山に対して殆ど同じ方向を向いているのが分かり、その点では大いに勇気付けられた気がする。母は僕の肩に乗せっぱなしだった手を離し、軽い立ちくらみを起こしたのか、よろめいて壁に寄りかかった。壁が微かに軋み、張り詰めていた緊張感も併せて消えていく。母は大きく深呼吸した後、事を冷静にまとめていった。

「さっき話した件は、わたしが進めてみるから。また詳しいことが決まったら、連絡するわ」

 そこで母は視線を遠くに泳がせ、それから暫く黙り込んでしまった。そして何やら考え込んでから、注意深く言い聞かせるようにして、言葉を続ける。

「とにかく、雪は今まで通りに、想うまま接してあげて。そうしてほんの少しだけ、背後に気を配るように心がけて頂戴。今はまだ何も要求しないけど、でも一つだけ気をつけて欲しいの。絶対に、彼女を追い詰めないで。ここにも居場所がないと、思わせたりしないで」

 僕は神妙に肯く。どうしたら、もっと良い形で谷山の気持ちを受け止められるようになるのか分からないけれど。そのことで彼女を責めたり、詰ったりすることが最も恥ずべき行為であることを、僕は既に知っている。でも、一度でも多く心に刻み付けておくに越したことはない。

「あと、これは忠言の類になるのだけど……できれば、肌を重ねる以外の絆を大事にして欲しいの」

 母の言葉に一昨日の情事が蘇り、僕は危うく思っていることを口に出してしまうところだった。実際、積極的にそれを求めてきたのは寧ろ谷山の方で。でも、僕はそれを隠してまっさらな風を装った。

「それは……何か理由があるの?」

「ううん、単なる直観」

 即座に返ってきた答えには論理的なものなど一つも含まれていない。それでも僕は、母の言葉を重く受け止めた。母は、論理以上に直観で物事を正しく捉える性質がある。だから、母の忠告はしっかりと記憶に留めておいた。

「分かった、気を付けてみる」そして他に直観を得ていないか、念のため訊いてみることにする。「それで、他に、何か言うことはない?」

「いいえ、他には何もないわ」母はきっぱりと、そう答えた。「あとは昨夜の雪と谷山さんのように、お互いが想い合っていることを正直に、言葉や態度に出すことが出来れば。壊れたり、崩れたりすることはないと思う」

 昨夜、というのはきっと夕食での会話だろう。恥ずかしさの詰まった一時は僕の顔を少しだけ紅くし、当然のような疑問を紡がせる。

「それは……誉められたと思って良いの?」

「ええ、勿論よ」

 誇らしげに微笑みながら、母は迷わず即答する。

「谷山さんはあの時、雪の言葉を心底から欲しがっていたのよ」

 あの時というのは……きっと、僕のことを好きだって言った時だろうか。

「雪は彼女の気持ちをきちんと受け止め、自分の言葉にして返したわね。それは思ったより難しいことなの」

 そうだろうか? あの時、僕は本当に夢中だったから。谷山の気持ちなんて全く考えず、自分の言葉と想いを部屋中に響かせてしまった。そして、それだけのみっともない行為だと思っていた。母の言葉は僕のわだかまりを溶かすようにして、淡々と大気の中に綴られていく。

「特に日本人は、言葉にしなくても伝わる気持ちを大事にする傾向があるわ。年を経れば経るほど、関係を重ねれば重ねるほど、恋人同士や夫婦は相手に対して気持ちを伝え難くなったと思い込むの。そして、時には相手の想いを疑いだす。当然よね、人は心を読みあうことができないのだから。本当に大切なことは、言葉にしなければ伝わらないわ」

 そこで母は不意に目を伏せ、哀しいことを思い出すようにして、視線を右斜め上に浮かばせる。もしかしたら母は、そこに自分を重ね合わせたのかもしれない。本当のところは分からないけれど、僕にはそう思えた。

「好きな人に好きだと言うことは、恥ずかしいことでも何でもないの。本当に恥ずべきなのは、相手に好きだと言うことを恥ずかしいと思うこと。好きだと平気で口にする人間を浅いと感じる、人の無理解さなのよ」

 母の言葉は、僕の胸に鋭く突き刺さる。正に母の恥ずかしいと思うことを、恥ずかしいと思っていたから。僕は何も言うことができず、黙っていることしかできなかった。

 それから、母はいつもの陽気なペースを取り戻し、朝食を作ってくれたけど、僕の胸は晴れなかった。一分でも一秒でも早く、谷山に会いたい。そして何か、声をかけたいという気持ちは、食べ物が胃に溜まるよりも早く、僕の胸に溜まっていった。母の言葉が正しいなら、谷山が出かけてからもう直ぐ二時間になる。じりじりとしたものが全身をゆすらせ始めてから、どれだけ経っただろうか。だから、チャイムの音が聞こえると、僕は全力で玄関に向かい、ドアを開けた。

 そこには満杯の荷物を詰め込んだボストンバッグを持つ、谷山の姿があった。彼女は疲れた様子で荷物を置くと、俯いたりもじもじしながら、一言も発せず、ただ僕を見て何かに迷っていた。もしかして、不意打ちで飛びついてくるのだろうか。それとも、お互いの唇を共有しようと考えあぐねているのだろうか。今までの行動パターンを基に、僕は彼女が何をしても対処できるよう、十分に身構えていた。

 でも……。

 谷山は僕の予想を裏切り、お決まりの一言だけを口にした。

「ただいま」

 それが余りにか細く、弱々しかったので、僕は本当に普通の返事をして良いのか、迷ってしまった。でも、谷山がここで「ただいま」と言ったのだから、僕の言うべきことは一つだけだろう。

 僕は自然と顔を綻ばせながら、彼女に言う。

「お帰りなさい」

 玄関に一瞬だけ、優しい沈黙が流れる。しかし、それも谷山の目に激しい涙の流れを認めるまでだった。

 僕は慌てて彼女に近寄り、強く抱きしめる。そして、耳元で囁く。「僕、何か、悪いことをした?」谷山は腕の中で首を振り、必死で否定した。

「違うよ」谷山は喉をしゃくりあげながら、涙を隠そうともせず、僕の中に零し続けていて。「お帰りなさいって言ってくれたから。私がただいまと言って、橘がお帰りなさいって答えてくれたから……」

 そんなことで。

 そんなことで谷山は、こんなにも感極まり、泣いてしまうというのか。

 ただいまにお帰りなさいと返すなんて、当たり前じゃないか!

 そんな、僕にとっては常識的な礼儀すら、涙を流して喜ぶに値するのだ。僕は胸の中に貯まる熱さと裏腹に、冷たいものを感じざるを得なかった。彼女が平穏な生活を営んでいるなんて、とても思えない。こんな姿を見た後では、彼女に敵がいないと考えることなんて、到底できそうになかった。谷山には本人でさえどうしようもできない、深い闇が巣食っているのだと、僕は確信する。でも、僕には谷山の抱えている不穏の正体が分からない。何も、全然、さっぱり分からないのだ。

 今すぐにでもわだかまりを解くことができれば良いのに。僕はこうして、絶望的な喜びに浸る谷山を慰めることしか出来ない。祈るようにして、谷山の幸福を想うことしかできない。

 谷山をこんなにも近くに感じていながら、僕は狂おしいくらいに無力だった。

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