4 不浄の王、あるいは崩れゆく結晶【1】

 翌日、当然のことと言うか、谷山の風邪は少しぶり返していた。そのため母にはきつく睨まれたけど、特に如何なるペナルティも受けなかった。部屋にも踏み込まず、その点では息子を信頼しているのか、単に放任して突き放しているのか、判じかねる部分がある。ただ、谷山の身体のことについては過干渉の立場を貫いた。

「今日、同じことをしたら散々蹴って、それから勘当する。良いね?」

 容赦のない物言いに、僕は思わず震えた。母の負の意味での本気ほど、身に受けて恐ろしいものなどこの世にないからだ。僕は母が書斎に消えてから、申し訳無さそうに視線を寄越す谷山の肩を軽く抱き、背を軽く撫でる。それから、畳んで隅に隠してあったシーツとタオルを持って洗面室に向かった。現役として脂の乗り始めた全自動洗濯機は、洗剤を入れてからスイッチを押すと、愚かな人間に代わって洗濯を始める。続けて朝食の用意をしようかと思ったが、台所には飯と味噌汁、数種のおかずが既に用意してあった。一人分しかないのは完璧に、嫌がらせだろう。まあ、僕は元気だから自分で作っても良い。兎に角、これなら谷山の元に持って行くだけで良い。飲み物を用意し、併せてお盆に乗せ、部屋に戻る。両手を使えないので、足を器用に使って開けると、目に刺激的な光景が飛び込んできた。谷山が、着替えをしていたのだ。

 僕は慌てて部屋から出る。しかし、ふと疑問に思う。彼女が24日に着ていた服や下着はまだ乾いてないし、替えのものは一枚もない。不思議に思っておずおず様子を伺うと、すぐに謎が解ける。谷山は、僕の洋服棚から着替えを見繕っていた。今も僕の目の前で、Tシャツの袖余りな感触を楽しんでいる。僕は部屋に入り、彼女に声をかけた。

「何してるんだよ、谷山。それ、僕の服じゃないか」

「うん、その通り、ご名答」

 谷山は恥らうことも怯むこともなく、袖をひらひらさせてみせる。

「ちょっとね、男物の下着を身に着けるというのはどんな心地か実験してみたくなったんだ」風邪を引いてるというのに、その執着ぶり。実に倒錯した悪戯心の持ち主だと、再認識させられた僕は思わず溜息を吐いた。勿論、谷山は歯牙にもかけない。「思ったより下着の中がすーすーするけど、これはやはり睾丸を適温に保っておくため?」

 おおよそ女子高生らしからぬ分析に、眩暈がする。思わず盆を落としそうになり、僕は机の上に避難させてから、挑発するよう、腰に手を当てて胸を張っている谷山に向けて睨みを利かす。彼女は悪びれる様子もなく、訊ねてきた。「可愛い?」

 こういう時、普通並の感性を持っている人間ならば悪態の一つでも吐くのだろう。でも、ああいうことのあった昨日の今日で、しかも細いながら女性的な足が、太股のほんの上部だけ隠しているシャツから覗いていて。屈した僕は溜息を吐きながら、不承不承といった感じで頷く。谷山は肯定されると思ってなかったのだろう、予想に反することをされた時の如才ない瞳を僕に向ける。僅かに萎縮した彼女はちぐはぐな身繕いをしている影響か、滑稽なほど可愛らしい。何時の間にか微かな怒りも静まり、僕の目はまじまじと谷山の方を向く。今度は彼女が照れる番だった。

 照れ隠しのためか勢いが突き過ぎたのか、彼女はタックルするよう、猛然と腰に体当たりし、僕をベッドに突き倒した。それから、覆い被さるようにして抱きしめてくる。

「あまり、素で女性を誉めたら馬鹿みると思うな」谷山はくすくすと笑いながら、下腹部に跨った。痛いのと気持ち良いのが同居して、何やら不思議な気持ちになる。「頭の悪い女性は増長するし、半端に頭の良い女性は男からどれだけ沢山の見返りを得られるか、冷徹に計算する。最も懸命な女性は、笑って聞かなかったことにする。どちらにしろ、男が得することなんて一つもない」

「じゃあ、心配ない」そういう意味では、目の前の女性は何より、信頼できる。もっとも、本当に頭の良い女性が男に何をするかは、聞いていなかったのだけど。「谷山は、僕が知っている中で一番、頭の良い人間だから」

「それは橘の見当違いだと思うな。私ほど、頭の悪い人間はいない」胸に両方の小さな掌を置き、谷山は少しだけ僕との距離を詰めてくる。「だから、困るくらいに増長するんだ。今だってこんなことされても怒らないって確信できるくらい、どうしようもなく自惚れてる。私のことを好いてくれてるって、信じてるんだ。本当、馬鹿だと思わない?」

 それは谷山が馬鹿だからじゃなくて、僕の思考や行動理念をほぼ完璧に把握しているからだ。そのことを無意識に理解した上で、わざと馬鹿みたいに演じている。底が浅そうで、どこまで覗いても見えない。だからこそいつでも、谷山を見るのは楽しいのだ。我侭であっても、理不尽であっても、それは僕にとって彼女の魅力の一つにしか見えなかった。この世に馬鹿が存在するとすれば、それは僕みたいな人間なのだろう。

 情けない考えを転がす僕に、谷山は澄んだ視線を向ける。彼女は気付かぬ間に、僕を深く臨んでいることがあるのだけど、今の視線こそ正にそれで。僕はくすぐったくて、少しだけ目を離す。

「橘のその見方って、好きだな」谷山は唐突に、流れと関係のないことを語り始める。「遠く愛しい空を眺めるような、無垢で広くて優しい感じがする。知ってる? 私ね、君のその双眸に見つめられたいって、ずっと思ってきたんだよ。同じクラスになって、殆ど同じ時くらいから。私はずっと、君のことを見てた」

 余りに突飛過ぎて、僕の中には最初、谷山の言葉が馴染んで来なかった。それから徐々に、その意味を理解し、僕の胸は早鐘のように脈動し始める。抱きしめて、キスをして、肌も重ねた女の子。彼女が、そんなにも前から僕を想い続けてたという一撃は、真偽の程が分からなくても強烈だった。確かに最初に好きだって言ってきたのは谷山だけど、それでも僕は、谷山が自分より早く本気になったなんて微塵も信じていなかった。緊張して言葉も出ない僕に、谷山は言葉を続ける。

「橘って授業中に時々、空を見ていたよね?」

 そんなことしてただろうかと首を傾げ、視線を右斜めに寄せる。ああ、そうだ。僕は暇になると時々、窓越しに都会の昏んだ青空を眺めていた。煤塵に汚された空のプリズムであっても、教室の中にいるどんな存在より価値があると思っていたから。でも、意味なんてなかった。時折、複雑な形をした雲にエールを送っていたくらいで、空に憧れていたわけじゃない。何もなかっただけだ。谷山と本当の意味で出会うまでの僕には、本当に何もなかった。

「君の綺麗なものの見方に、私の胸は疼いて震えたんだ。この眼差しに貫かれてみたい、そうすれば私のように穢れた人間でも救われるかもしれないって」

 彼女の言葉が何を意味しているのか、僕には分からない。想像はできるけど、それを口にして谷山を追い詰めたりしたくなかった。

「だからあの夜、橘と出会った時にはびっくりした。君の瞳が余りに何かを捜し求めるようだったから、教室で戯れに私を見ていたのが、実は本気だったのかもしれないなんて、少し自惚れたりもしたんだ」

 僕はその時、本気になれないものばかりを必死に探していたような気がする。しかし、それは何より切実な欲求でもあった。

「橘は、身を挺して私を助けてくれた。そして、私を買ってくれると言ってくれた。だから、私は橘に賭けたんだ」

 僕は半ば本気で驚く。買うと言ったのは、単なる売り言葉に買い言葉の類で、冗句にすら受け取ることが難しい拙な口喧嘩だと、思い続けていたからだ。そんな戸惑いに素知らぬ風を装い、彼女は満足そうに笑ってみせる。

「そして、私は最も理想的な形で賭けに勝ったんだと思う」

 谷山の信望は、僕の心に酷く痛みを伴って響く。感謝したいのは、僕の方だ。谷山は、僕自身が空虚でないことを、彼女自身が空虚でないことにより、証明してくれた。質量を伴った想い、そして願いとしてこの世界に在り続けている。僕の側にいてくれる、抱きしめることができる。

 そっとキスをしてから、谷山は僕の下着を身に着けたままでパジャマを着込み、ベッドに潜り込んだ。僕は朝食を振舞おうと、ベッドを降りようとする。彼女の手が、僕のパジャマの裾を掴んだ。

「駄目、離れないで、私の側にいて」彼女の目は、強い懇願で満たされている。「食事を暖め直す器械は世にどれだけでも転がっているけど、私を暖め直すことのできるのは、君しかいないんだ。だから……」

 もしかしたら先程の話が、谷山の負の感情を想起したのかもしれない。単純に、僕と離れることを恋人らしく嫌がっているだけなのかもしれない。どちらにしても僕に出来ることと言えば、彼女のすぐ側にいることしかない。

 ならば、せめて冷えないようにと、谷山の身体を強く抱きしめる。そうして僅かに疼くお腹と、朝食の匂いを感じながら、僕たちは眠りにつく。

 

 夕刻には谷山の体調も大分快復し、虚勢ではない元気を表すようになった。その頃には彼女の着ていた服や下着もとうに乾いており、僕は極めて正当な手段で下着を取り戻すことができた。谷山は不満そうだったけど、異性のために作られた下着の心地悪さを感じ始めてもいたのであろう。割と素直に、返してくれた。「匂いを嗅いでも良いからね」谷山の額を軽く小突き、それからシャツと共に洗濯籠の中へと放り込んでおく。魔が差して、一瞬トランクスの中に顔を入れてみようかと思ったのだけど、首を振って誘惑に抗い、手を離した。どんな形であれ、彼女との約束を意味もなく破ることを、したくなかったから。

 途中、味噌の良い香りが漂ってきたので顔を覗かせると、母が食卓に現れなくなって随分と久しい土鍋を、火にかけていた。季節の幸を大量の野菜で閉じ込めた、母の得意料理。小さい頃はよく食べさせて貰っていたが、元々二人で食べるには味気ないもので、いつのまにか封印されていた一品だった。僕は無言で近寄り、何か手伝うことがある? と訊く。料理好きな母は普段、僕に何かを任せようとしなかったけど、鍋を作る時だけは仕事を分けてくれた。鍋とは食べるもの皆で作る料理だというのが母の持論で、こと持論である限り、妥協することは滅多にない。勿論、今回も軽い調子で、僕に仕事を割り振った。

「じゃあ、白菜を適当な大きさに切って。あ、その前に」忙しく台所に行こうとする僕を、母が留める。「谷山さんにも、手伝って欲しいことがあるから呼んできて。もっとも、体調がまだ悪いんだったら無理強いはしないけど」

 それは体調に関係なく、谷山をこの家に留めるという暗意であって。僕は冷静さを装って自室に戻り、彼女に夕食を作っているんだけど、手伝ってくれない? と告げる。谷山は顔を一瞬輝かせてから、伺うようにして僕の視線の下側をおっかなびっくり覗き込んでくる。

「でも、良いの? 私、もう元気になったし、ここにいる意味なんてないのに」

「母はああ見ても選り好みする人だから、嫌いな人間やどうでも良い人間をわざわざ留めて置こうなんて考えたりしない」本当はそこまで酷い人間でもないのだけど、谷山のために少しだけ誇張しておいた。「それに、昨日も言ってたよね。谷山は、いたいだけここにいても良いんだって。母がそう言ったならば、それは正しくそうなんだ。だから谷山は堂々と、この家で家族みたいに振舞って良いし、僕はそうしてくれたらなと願ってる。自分勝手な言い草だけど」

「うん、自分勝手だね」何らかのフォローがあるかもしれない。そう期待した僕に、谷山は平然と言い放つ。「確かに父は出張で当分戻って来ないし、母は少し前に病死した。だからといって、肉親がいないということにはならないよ。兄弟や姉妹がいるかもしれない。祖父母がいるかもしれない。可愛がってくれる叔父夫婦が、代わりに面倒を見てくれていて、今も私を心配しているかもしれない」

 平然とした口調に僅かな棘を感じさせる谷山の姿を見て、勇ましく彼女を守ろうなんて考えていた自分が愚かしく思えてくる。確かに両親がいないというだけで、庇護する人物がいないとは言い切れない。もしかしたら残酷なことを改めて問い質すことになるかもしれないのに、僕は愚かにも訊ねてしまった。

「谷山には、そういう肉親がいるの?」

 いつもなら、彼女は何かの言葉でもって、返してくる。僕は初めて、谷山が沈黙だけを返すこともあると知った。彼女の両手が巧みに、首へと回される。震える体が、心に痛い。肉親の思い出の何が、彼女をこうも怯えさせるのだろう。僕は手を背後にあり、あやすことしかできない。溺れるものが掴む、藁でいてやることしかできない。肌を重ねたくらいで、少しばかり谷山のことを分かった気でいた自分が嫌になる。こうも、彼女のことが分からないというのに。

「こんなことを言うつもりじゃなかった」沈黙に結ばれていた谷山の声が、小さく洩れる。「嬉しいって。ずっとここにいられて嬉しいなと素直に思える。これからも、君と一緒にいられることを幸せに感じるんだ。それなのに、私は何時の間にか酷いことを口走ってる。相手を傷つけたり、試したり、苛々させたり。どこまで踏み込んだら良いのかを、意識せずに測ってしまう。私は本当に、どうしようもなく聡い、愚か者だ」

 谷山の言葉を、僕は黙って受け止め続ける。胸の中で少しずつ落ち着き、静まっていくリズムを身に刻みながら、併せるようにして背をゆっくりと撫でる。それでようやく、震えが止まった。彼女の鼓動が正常なのを確認してから、腕を離し、束縛を解く。谷山はにっこり笑いながら「じゃあ、橘のお母さんを手伝いに行こうか」と、いつものくだけた口調で問いかけてくる。僕は彼女に応じ、肯きながら歩き出す。彼女の小さな背を追いながら、僕は密かに祈る。

 この世界から、谷山裕樹という女性を傷つけるものが、一つでも無くなりますように。

 そして決して、その中に僕が含まれませんように。

 谷山はそんな僕の心を見透かしたかのように、ダイニングルームの入り口で翻り、大きくお辞儀をしてみせた。そして、影のようにするりと部屋に入っていく。急いで後を追うと、白菜の役目は既に谷山へ譲渡されていた。僕には調理用鋏と、身の詰まっていそうなズワイガニ一匹分が手渡される。単純に野菜を刻むより数段面倒臭い、蟹の下ごしらえだが、谷山の前だけに手を抜くことはできない。殻を丁寧に切り取ろうと鋏を構えると、隣からリズミカルな包丁の音が聞こえてきた。僕は蟹の調理も忘れて、その捌き方に目を奪われる。僕もそこそこ包丁を使える方だけど、彼女には叶わない。たちまちザルは短冊状の白菜で満ち、母は思わず溜息を吐く。

「ふむ、手際が良いね」

「ママに、色々と教えて貰ったから」谷山はそう言って胸を張ると、からかうようにして僕の方を伺う。「ほら、手が止まってる。鍋はね、下ごしらえが終わらないと調理にかかれないんだから、きびきびと働いてよ」

 彼女は思ったよりも陽気で、僕はますます分からなくなってしまう。普通の恋人同士のように甘えてくるかと思えば、先程は棘を露にして心に触れさせようとしなかった。そして今、谷山は心から楽しそうな表情を浮かべている。三つは間違いなく同一の人格から発せられているはずなのに、まるで別人のように振舞う。一人が複数の人格を持っているかのような、錯覚をおぼえる。もっと谷山を知ることができれば、表面上の不合理に惑わされず、確固な彼女を真正面から受け止めることができるのだろうか。

 よく、分からない。どう足掻いても結論を動かすことができず、僕は蟹の甲羅と格闘しながら、小さく溜息を吐く。そんな僕の悩みなど素知らぬ風に、二人の女性は談話に華を咲かせている。

「でも、こう言うのってたまには良いわね」谷山に話しかける母の声は張りがあり、活気に満ちている。「一つのテーブルで鍋を囲むなんて久しぶりなの。うち、滅多に来客がないし、息子があんなだから、鍋をしても大して楽しくないでしょう。その点、今日は谷山さんがいるから、とても楽しいのよ」

 母はまるで面白みが全くない息子のように、僕のことを話す。真実だから仕方ないのだけど、もう少し言いようがあっても良いのではないだろうか。ようやく蟹の下ごしらえが終わり、戻ってきた僕に対しても何ら、フォローをする気配がない。谷山は僕に救いを求めるような視線を寄越した後、余所行きの丁重な言葉遣いで、冷静を装いながら母に訊ねる。

「私がここにいて、本当に楽しいと思いますか?」

「ええ、勿論よ」母はこれ以上ない速さで即答し、にっこりと微笑む。「娘ができたみたいに思えて。わたし、ずっと娘が欲しいと思ってたの。その点、谷山さんは行儀も良いし、料理も上手だし、何より可愛いし。こういう娘がいたら良いなと思っていた、その理想みたいなんだもの。できれば、本当の娘にしてしまいたいくらい」

 母は、谷山の頭にそっと手を載せる。最初は驚いていたけど、やがて感じ入るものがあったのだろう。目を細め、無骨な手の感触を無言で楽しむ。と、不意に谷山が申し訳なさそうな表情を作り、頭を下げた。

「すいません。そう言ってくれるのは嬉しいんですけど。娘はちょっと困るかもしれないです」

 谷山の口調は割と真剣で、母も同調するようシリアスな表情を整える。

「えっと、それはどうして?」

 母の問いに、谷山は僕をじっと見据えてから、きっぱりと答えた。

「だって、私は橘のことが好きだから」

 いきなりの告白に、一瞬の沈黙がダイニングを支配する。それは直ぐ、母の哄笑に代わっていった。腹を押さえながら必死で笑うその姿は滑稽で、同時に僕の赤面を誘うものだった。視線を逸らすことさえ許されず、僕は気勢を取り戻そうとあえぐ母が、これ以上の恥ずかしいことを口にしないよう、念を送る。しかし、僕の心は全く届かなかった。

「確かにそうね。わたしが悪かったわ、ごめんなさい。お嫁さんにしたいって言うべきだったわ」

 母の言葉は、僕の羞恥心を一気に抉る。そして、対する谷山も負けていなかった。

「ええ、それでしたら喜んで申し出を受け入れたいです」

 無言の了解を交し合った二人の視線が、僕に注がれる。このままでは夕食に入る前に、散々からかわれそうで怖い。僕はコンロの火を付け、強引と分かっていながら話題を無理矢理終わらせようと務める。

「いや、それは良いから早く鍋を作らないと。僕も谷山も朝昼を食べてないから、お腹が空いてるし」

 適当な具材を鍋に放り込みながら、僕は未だ注がれる二人の視線に耐える。と、谷山の笑みが揶揄ではなく、強い親しみを込めたものに変わる。愛情と抱えきれないほどの信頼を感じ、僕は心の波立ちを覚える。

 谷山は、この家にいるから笑っていられるのかもしれない。少なくとも、この家の中なら安全で、何も脅かすものがないから。僕や母のことを考えている間は、いつも笑っていてくれる。

「谷山っ」

 もどかしさに耐え切れず、僕は彼女に声をかける。でも、何と言ってよいのか分からない。谷山がここにいたいって、少しでも強く想ってくれるよう、僕にかけられる言葉は何だろうか。

 やがて浮かんできたシンプルな言葉は僕を躊躇させたけど、留めたり誤魔化したりはしなかった。僕は谷山の視線を捉え、大事なことを口にする。

「僕も、谷山のことが、好きだから」

 谷山は心底驚いた表情を浮かべ、それから泣きそうな笑顔を向ける。

 鍋の煮立つ音が、平穏な家庭を象徴するように静かな音を立てている。

 母は、僕と谷山を優しい表情で見守っていて。

 成程、確かに涙が出そうなほど、暖かくて、幸せで。

 怖いものなんてないはずなのに。

 それでも、僕は根拠のない恐怖を消すことができない。

 消すことが、できないんだ。

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