4 不浄の王、あるいは崩れゆく結晶【6】

 闇の向こうより、微かに布をざわめかせる音が聞こえてくる。乾いた音と共に、侵入してくる風の勢いは強まり、寒さが部屋の中に満ちていく。そんな状況が数秒続いた後、再び聞こえる乾いた音と共に風が弱まっていく。その時になって初めて、僕は起きていることを自覚し、ゆっくりと目を開く。すぐ近くを誰かが歩いているようで、フローリングの軋む音は規則的でぎこちない。徐々に近づく足音に不穏なものを感じ、僕は不意に寝返りを打つ。声か物音のどちらかを立ててくれれば良いなと希望していたのだが、そうは問屋が卸さないようだった。覚悟を決め、薄目を開く。ごく狭い視野の中から垣間見える人物は、女もののパジャマを着ており、忍び笑いを漏らしている。僕は、その声に聞き覚えがあった。

「谷山……」不法侵入者は、母の部屋で眠っていたはずの少女だった。「どうして、ここにいるの?」

 彼女は憮然とした笑みを浮かべ、布団からはみ出している手を強く抓る。眠りを完全に追い払うに、十分すぎる痛覚への刺激だった。

「どうしてって、こうして好きな男の子の所に忍んでやって来たということは、理由なんて一つしかないじゃない」谷山は抓りあげた手の甲を、今度は優しく撫で始めた。「君に、逢いに来たんだよ」

 逢いに、という言葉に思考する回路が空転する。谷山はベッドの縁に腰掛けて、横向きに僕と対峙していた。僕は動揺を悟られないようにして、彼女の手を掴む。相変わらず小さくて、強く握ろうものなら折れてしまうのではないかと思うくらい、細くて頼りない指に、自分のものをゆっくりと絡めていく。少しずつ汗ばんでいく掌に彼女の現実感が滲んでいく過程は、大きな安心を与えてくれる。僕はようやく、冷静さを取り戻していた。

「橘は、私がいないと寂しいって言ったから」谷山は、つい先程の発言に対する確認を取ろうとする切実さで満ちていた。「同じ家に住んでいて、いつでもお互いのことを感じられて。それでも寂しいんだよね。触れ合ってないと、怖いんだよね」

 僕は逡巡した後、静かに首肯する。

「ごめんね」

 何故か頭を下げ、彼女は許しを請うてくる。僕には何故、そんな態度を取られるのか、分からない。

「私、橘の想いを知って、少し怖いと思ったんだ。私がいないと、どうしようも立ち行かなくなる人間がいる。そんな人間を受け止め続けることは、私という人間の範疇を超えてしまうものじゃないかって」

 谷山の告白は、僕にとって不意打ちであると共に、驚きでもあった。彼女の悩みは、僕と合同に等しいほどの相似形を描いておる。御しがたく、強いものであるほど、自らは傷ついてしまう。

「私は橘のことが好きなのに、その想いを全部受け入れられないかもしれない。何よりも嫌なのは、それで君の心を損なってしまうということなんだ。全てが嫌悪や嘲りに彩られてしまうかと、それだけで怖くて」

 言葉だけでなく、心だけでなく。肉体にも彼女の恐怖はうっすらと表れていた。闇より覗く瞳の色が小さく揺れ、蒼ざめた頬には一筋の道が見える。体が小刻みに震え、食い縛られた口元から、もう一度同じ言葉がもれる。

「怖いんだよ……」

 その姿が余りに居た堪れなくて、僕は谷山の想いを確かめもせず、繋がった手に力を込めてベッドの中に引き入れる。布団越しに抱きしめ、自分が何をしているのか理解していながら、止めることができなかった。彼女はまるで、拒絶するのが罪のようにして、僕の行為を受け入れる。何をするのか分かった上で、ゆっくりと微笑み、顔を寄せてくる。唇を触れ合わせ、それが扉に対する鍵であったかのように、布団の中へと潜り込んで来る。パジャマ越しの体温は何度も分けあっているはずなのに、谷山の感触は初めて触れ合った時よりも遥かに強く、僕を追い立てていく。

 こんなこと、何の解決にもならない。それでも僕は、彼女の恐怖を何とかしたくて、何より自分の恐怖をどこかに追いやってしまいたくて。一番安易で、簡単な方法に逃げる。痛いくらいに抱きしめ合い、じれったく思えるくらいに少しずつ、深いところを探り当てようと唇を重ね合う。

「良いよ」柔らかく濡れた唇が、切なげな掠れ声をあげる。「私、何をされたって良いから。だから、したいことをして、良いんだよ」

 僕は頬を軽く抓り、その手で髪の毛を櫛付ける。安堵に泳ぐ表情を見て、谷山は初めからこうなるために、忍んで僕の部屋にやって来たのだと、今更ながらに理解する。僕の気持ちが向いているか不安でしょうがなくて、繋がれていることを少しでもきちんと知るために、谷山は僕と肌を重なるのだ。愛情の中に埋もれながら決して同化しない打算が、彼女を突き動かしている。僕がしっかりしてないから、谷山は他に方法を見つけられない。僕なんて比べ物にならないくらい賢いのに、その仕草は余りにも頑なで、一途で、痛々しい。そんなことしなくても良いと示す方法があれば良いのだけど、僕が彼女を傷つけないために、追い詰めないために今できることは、体を重ね合うことだけしかない。

 母の言葉が、否でも身に染みる。肌を重ねる以外の絆を大事にしなければならない人間に恋しているのだと、これでもないくらい思い知らされているというのに。僕は行為に及ぼうとしている。

 相克に身を焦がしながら、耳を撫で、首筋へと手を伸ばす。パジャマ越しに胸をまさぐり、少し強くやり過ぎたかなと反射的に手を離す。谷山は懇願するようにして、僕の手を胸部へと導く。

「もっと痛くしても良いし、辛くしても良いよ」

 無責任で自分を貶める発言に、思わず激情が走る。僕は手を振り払い、口元に押しつけようとして、辛うじて思い留まる。振り上げた指を五本から一本にして、できるだけ紳士的に口元へと添えた。

「お願いだから、そんなこと言わないで」声や口調に怒りが滲まぬよう、冷静に言を紡ぐ。「僕は、人が辛がったり痛がったりするのを見て、楽しめる人間じゃないし……そう思われるのも嫌だから」

 できるだけ配慮したにも関わらず、谷山の怯えは著しかった。まるで、無理矢理犯そうとしている相手の機嫌を取ろうとして失敗したような態度を示し、必死で抗弁する。

「……ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ」

 それくらい、僕にだって分かる。谷山はどんなに稚拙な行為であれ、僕のすることを信じて許す、と言いたいのだ。彼女の言葉は、その欠片に過ぎない。更に強く抱きしめられる身体、熱い吐息、爪先まで満たし合おうとする貪欲な接触、全てが純度の高い愛情から出たものであり、嘘偽りのないものであると確信できる。それでも、ただの一つであっても。僕が谷山のことを傷つけたいと考えているなんて、思わせたくなかったから。

 僕は痛みも辛さも打ち消すような、優しいキスをする。

「橘のそういうキスって、不思議だね」谷山は少しだけ苦しげな息を吐きながら、微風のように囁く。「ほんの一瞬なのに、いつまで経っても胸がちくちくと痛むから」

 意図せず出てきた皮肉に、僕は少しだけ笑う。胸にもっと痛みが走るよう、何度も同じようなキスを繰り返してから、瞳を合わせる。言葉が出し尽くされ、後に残るのは濃い情念と紛れもない想いの場だけ。

 谷山の微笑を見て、今なら何のわだかまりもなく、自然と肌を合わせることができると思った。今までの言葉や仕草が、行為ではない絆の交感であったことを噛みしめながら、丁寧に、そして激しく谷山に接することができる。彼女の瞳から打算の色が抜け落ち、純粋に求められている。背筋が、ぞくぞくした。

「ねえ、お願いがあるんだけど」言葉が甘い息と共に、顔筋を撫でていく。「やっぱり、辛いのや痛いのはない方が良いな」

 僕は約束するようにして頭を撫で、心が疼く以外の痛みを決して与えないよう、ゆっくりと折り重なっていった。

 

 他者の侵入を許し得ない、濃く暖かい空気が部屋の片隅に満ちている。汗に濡れた肌をきつく重ね合わせ、身体の冷えるに任せるけど、ちっとも熱の引く気配がない。谷山の額から珠のような汗を掬い取ると、艶笑を浮かべて柔らかな唇を添えてくる。指についた汗を舌で拭い取ると、首筋に舌を這わせ、滑るようにして咥内まで到達して、中を思う存分かき回していく。心に燻る熱の余波がこちらにも伝わるような行為を包むようにして、背に手を回す。もう一度するのかと期待したのだけど、谷山は唇を離すと何度か深呼吸をして、息を整え始めた。まだ完全に痕跡は消えてなかったが、表面上は理知的で怖がりな谷山裕樹に戻っており、彼女の瞳は鋭く殺気立っていた。僕は、最中の行為で何かやってはいけないことを仕出かしたのかと不安になった。

「私ね、今思ったんだけど」肢体を隠そうともしない谷山を見て急に気恥ずかしさがわき、僕は今更ながらに目を逸らす。「死後の世界って、あるのかな?」

 谷山の頭脳が非常に飛躍的であることは知っているけど、性行為の後でそんなことを聞かれるなんて思わなかったので、僕は思わず、鸚鵡返しに尋ねてしまう。

「死後の世界って、人が死んだら行く所?」

「そう。人は死んだら何処へ行くのか。昔から沢山の人が、色々な説を唱えてきたよね。天国と地獄に振り分けられる、輪廻転生する、実は魂を構成する物質があり、死後に人間の身体を抜けて拡散する、脳機能の停止以後の思考や精神は一切、生まれ得ない……他にも細かいことを挙げたらキリがないけど、あまり難しくするのは避けたいから、今はこれくらいにしておくかな」

 これくらいにしておくと言われても、僕には谷山が何を意図しているのか理解できない。

「それは、今の僕たちに関係があるの?」

「今すぐどうにかなるというわけではないよ。でも……」そう言い置いてから、谷山はとても真面目に話を続ける。「人間はどう頑張っても、いつかは死ぬものでしょ。で、蓋を開けたら永遠に離れ離れってことになったら嫌だからね。出来る限り、一緒に居られる可能性を増やすために、話し合っておくべきだと思ったんだ。まあ、嫌だって言うなら良いけど。私だって、情事の後でこういう話をするの、変だと思うしね」

 いつもの精神状態ならば、僕はのらりくらりと避けただろう。死後の世界まで一緒だなんて余りに辛気臭いし、電波に過ぎる。でも、まだ脳が膿んでいるらしく、割と本気で続けたいと思ってしまった。

「いや、続けても良いよ。それで、どうすれば良いの?」

「そうだね」谷山は考える仕草を見せ、それから一つずつ可能性を潰していくという手法を取った。「脳が止まればおしまいだとすれば、私たちは個別に停止するしかないし、魂が漏れて拡散するとしたら、一つでも橘の粒子と混じるよう、祈るのみだね。輪廻転生すれば基本的に、転生後の記憶は消えてしまうから、これもどうしようもない。ただ、前世の結び付きが強ければ何処かで結びつくって説もあるけどね」

 それから何気に昏い笑みを浮かべ、彼女はとんでもないことを口にした。

「一番厄介なのは、もし天国と地獄に振り分けられる場合かな。私は必ず地獄に落ちるから、谷山も地獄に落ちるような罪を犯して私の元に来て貰うことになるんだ」

「罪って……」どのような罪をもって振り分けられるのか、僕には分からない。きっと基督教の司祭にだって、よくは分かっていないのだろう。どちらにしても、気になるのは谷山が地獄に落ちると確信しているところだった。「何をしたの?」

「即座に地獄行きな罪が、既に二つ。実は本当に救いようがないんだよね、私って」

 あっけらかんとした口調だけど、表情や態度に余裕はない。そうしなければ語れないくらい、谷山に取って苦しみなのだということが容易に想像できる。微かな躊躇が胸を過ぎったものの、結局は情事後の気だるい思考が醸す独占欲に後押しされて、率直に訊ねてしまう。

「それは、具体的に――」

 谷山はこれ以上の言葉を許さぬかのように、鋭い声で僕の質問を断ち切った。

「救いきれない嘘と、おぞましい姦淫」

 そう言って、彼女は不意にキスをする。口と何よりも心を塞がれ、僕の力を奪うかのようだった。始めは抵抗しようとしたけど、唇を離した時に覗いた彼女の表情が、僕に全てを許さなかった。神妙な沈黙に満足したのか、谷山は耳元に約束を吹きかける。

「だから橘も、死ぬ前に何か地獄に落ちるような罪を犯して欲しいな。それとも、地獄に落ちるのは嫌?」

 彼女の問いに、僕は迷わず首を振る。天国と地獄は、主観的でしか有り得ない。例え永遠の安寧を約束されていたとしても全ての人間が満たされる訳でなく、不在の神の場所に永遠の楽園を築く人間だっているはずだ。特に、愛する者が隣にいてくれるのならば。

 もし、この世に天国と地獄があり、谷山が地獄に落ちるしかないのだとしたら。

 僕は地獄に落ちて、良いと思うのだ。

「それなら私たちは、生きている時も死んでいる時もきっと、一緒にいられるね」

 恍惚とした笑みを浮かべる谷山は少し怖かったけど、ここまでエキセントリックなのは先程までの行為の余韻が冷め切ってないからだろう。僕は戯れに笑いかけながら、冗句を口にする。

「でも、もしかしたら谷山は僕に愛想を尽かすかもしれない」

 僕と谷山が別れるとしたら、死後の世界などという胡乱な要因よりも寧ろ、そちらの可能性の方が高いだろう。でも、谷山は頑なに首を振った。

「私は絶対に君を裏切らないし、心変わりもしないよ」

「じゃあ、もし僕が谷山を裏切ったら」

 それこそ有り得ない事だけど、谷山は半ば本気に受け取ってしまったようで、肉食獣のように目をすっと細める。

「もし、私に愛想が尽きたんなら、それは仕方ないのかもしれないね」

 彼女は溜息を吐き、それから兆候を全く見せずにいきなり、剣のような殺気を僕に突き立てた。

「でも、私がいながら別の女性と懇意になるようなことがあるならば、どこまでも追い詰めて、心臓をナイフで刺すよ」人差し指で胸をぐりぐりと弄り、それから痛いくらいにぎゅっと押し付け、中和するようにして胸元に唇を添える。「絶対にね」

 谷山の所作は、心臓をナイフで刺されて血を啜られているような錯覚を抱かせる、倒錯じみた演技だった。冗談めかしているけど、彼女は間違いなくそうするだろう。

「私、嘘吐いてるね」今度は心臓の音一つも聞き逃さないようにして、耳を心臓の上に置く。そこに最早、狂気は存在しない。僕の見たくない、弱気な谷山がいるだけだ。「ダイニングで、人の繋がりは優しいものだって言ったばかりなのに、こんな脅迫紛いのことを口にして……嫌になるよ」

「僕は先程の会話で谷山の優しさが損なわれたとは思ってないし、愛想尽かしたりもしない」そう宣言してから、肌にかかるくすぐったい髪の毛を、そっと払い除ける。「寧ろ、どきどきしてる。僕は、殺したくなるくらいに愛されているんだって……きっと僕はどこか、頭が変なんだろうね」

「うん、そう思うよ」でも、谷山は嫌がるどころか、嬉しそうに頬を擦り付ける。くすぐったくて、気持ちよくて、大きな息を吐く谷山の目には、情欲の火が再点火していた。「そして僕は、普通じゃない君のことを好きになったんだってことを、忘れないで欲しいな」

 胸を絶えず這う舌の動きに、僕は夜の残り全てが谷山との営みに消えてしまうことを覚悟し、震える心を抑えながら、彼女の背を撫でる。心と身体が交互に織り成されていく感覚は、重ねるたびに大きくなっていくようで。成程、これが他人の物になるならば殺したくもなるなと理解できてしまうのだから、何気に恐ろしいことだと思う。

 花束よりも、宝石よりも、ナイフの一撃が何よりも強い愛情を示す。

 僕たちはきっと、そういうものになりつつあるのだろう。

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