5 慟哭の瀬、あるいは小さな世界の終焉【6】

 僕と谷山の入った所は、少しばかり派手な看板――夜になれば、紫を基調としたけばけばしいネオンを存分に光らせる――であることを除けば、ビジネスホテルと余り変わらない。もっとも部屋は勝手に選んでくださいの方式であるし、曇り硝子の衝立越しに覗く、初老女性の表情は厳しくも無愛想であり、普通のホテルとは全く勝手が違う。空室を確保すると、僕は「準備できたよ」と、谷山に声をかける。少し不安そうについてくる様子を見ていると、まるで強引に説得して連れて来たようで気が引けてしまう。

「やっぱ、こういうところは嫌?」

 念の為に訊ねてみると、谷山は直ぐに首を振って否定を示した。

「そんなことは、ないよ」意図的に照明の絞られた、秘め事を予感させる廊下を、必要以上に寄り添って歩いていると、谷山が小声を寄せてくる。「今ここで沢山のカップルが思い思いに励んでいると思うと、少し複雑な気分になっただけ。別に、私と橘が今までやってきたことは、何ら特別なことじゃないんだって……」

 勿論、谷山の言っていることは正しいと思う。性行為なんて、そんなに綺麗なものじゃない。特別なものでもないし、流布される程の快楽を得ることは、実は割と難しかったりする。僕は谷山としていて気持ち良いし、谷山も僕とするのは良いと言ってくれる。その意味では幸運な組み合わせなのだろうけれど、それだってきっと世の中ではありふれているのだろう。しかし、割り切っていても谷山との関係をそう断してしまうことには抵抗があるし、理性をかなぐり捨てて一語で片付けてしまえば、嫌だった。僕と谷山は特別であって欲しい、願いはいつも心の中で木魂している。

「ごめん、戸惑わせるようなこと、言ったね」謝りの言葉からは既に、卑屈な感じは消えており、どことなく人を挑発するような仕草が戻ってきていた。僕は安堵しながら、谷山の言葉に耳を傾ける。「それに、特別じゃなくても大丈夫ってことは、私にとって喜ばしいことかもしれない」

「そうかも、しれないね」

 素っ気無さ気に呟いた僕の耳に、谷山は「でもね、」と囁きかけて、言葉を続ける。

「それでもやっぱり、あの日、私と橘とが出会えたことはとても幸福だったし、特別に恵まれていたんじゃないかって思うよ」

 そう言うと、谷山は僕の手を引っ張り、鍵をひったくって指定の部屋の錠を開け、中に引きずり込んだ。後ろ手にロックをかけ、逃げられなくしてから、首筋にしっかりと腕を絡め、顔を寄せてくる。

「もう、邪魔をする人は誰もいないよ」

 僅かに狂気めいて煌いた瞳は、直向きに僕へと注がれている。僅かに覗く部屋の内観は、おおよそ標準的なツインの部屋より僅かに広いくらいだった。窓には威圧的と思えるほどの分厚いカーテンが引かれ、照明は最小限に押さえられている。清潔ながらも、どこか淀んだ――据えた林檎の過剰な甘酸っぱさのような雰囲気と、怠惰な空気を抱き、大勢の男女が爛れた行為に及んだことを、無音ながらに示していた。やもすると浮かされそうな、しかし谷山はあくまでも独特のペースで、僕に遠慮なく近づいてくる。

「歯止めとか、他者の存在とか、ここでは一切気にしなくて良くて」どこか僕を弄ぶようにして、谷山は頬に唇を寄せる。「皆、パートナと肌を重ねることだけ考えてて。どれだけできるか、どんな感じにできるか、こうして二人でくっついて、内心の興奮を隠さないで、存分に吟味して、一心不乱にセックスする」

 谷山はそれから少しだけ考え込んだ後、苦笑しながら思いの程を率直に述べた。

「何だか、変な感じ。思ったよりどきどきもしないし、興奮しない気がする」

「じゃあ、やめとく?」

 ここで引き返しても僕は構わなかったのだけれど、谷山は無理する様子もなく、首を横に振った。

「お金もう払ったんだし、勿体ないよ。その、何というかさ、行為するための場所だって理由だけで、そそくさと果たすだけ果たして、憚るようにして出て行くの、ありきたりで好きじゃないな。だから……えっと、上手く言葉が浮かんでこないのがもどかしいな」

 頭をがしがしと掻きながら、谷山は少し不機嫌そうに唸り始める。思考の鈍さで苛立ちを感じるなんて珍しいな――というより初めて見た。然るにまだ、そこまで冷静にも明晰にも戻っていないのだろう。僕は何とか助け舟を出そうと谷山の想いを辿り、根拠はないけど相応しいような言葉が浮かんで来たので、迷いながらも口にしてみた。

「つまり、僕たちらしくないってこと?」

「うん、そう、私たちらしくないんだ」谷山の表情が瞬時のうちに晴れやかなものと変わり、饒舌さも今まで以上に彼女らしく走り出す。「だからさ、この場所で二人でできることを、やりたいことを、先ずは確かめてみようよ。結果的に、肌を重ねるだけになるかもしれないけど、ただ記号的な役割に身を委ねてしまうよりは、余程意味があると思うな。勿論、橘が切羽詰ってて直ぐにでもしたいって言うのなら、それでも良いよ。別に嫌だから、避けたいから話を続けてるわけじゃない。それは、分かってくれるよね?」

 飄々としながら、どこか根底に怯えを含んだような、切なる眼差し。僕は答える代わりにそっと頭を撫で、エスコートしてベッドの淵に座らせると、隣にゆっくりと腰掛けた。

「じゃあ、谷山は今、何をしたい?」

 そう言うと、谷山はぴょんと擬音がしそうな勢いで立ち上がり、僕の膝の上に素早く乗りかかる。それから両腕を首の後ろに回し、少し照れたように微笑んだ。

「色々あるけど、それは後のお楽しみということで」谷山は自然な動作でキスをしてから、ぱっちりとした眼で僕の瞳を覗き込んできた。「それより、橘は何がしたいの?」

 何がしたいのかと言われても、微妙に困ってしまう。僕たちがここに入ったのは、そうしたいって気持ちになったからで。そういう気持ちから離れてしまった今、新たに意義を見つけるというのは難しい。太股に当たる柔らかなお尻の感触、見惚れるような彼女の在り方や、温かく胸を揺るがす吐息の近さは、行為の逼迫性を説いているような気もするし、谷山に翻弄されていたいって気持ちもある。

 口から出てきたのは、自分でも全く予期していない言葉だった。

「谷山のこと、もっと知りたい」怪訝そうに目を細められ、気圧されそうになるけれど、僕は言い切ってしまおうと頼りない舌を精一杯に動かす。「それができるための、最も良い方法があればそれをするし、駄目だったら……その、ここでするべきことをしようと思ってる」

 かなりの勇気を振り絞ってみたのだけど、返ってくるのは沈黙ばかりで。何となく宙ぶらりんになっている手を、谷山の肩甲骨辺りに添えて、少しだけ引き寄せてみた。

「私のこと?」必要以上に語尾の上ずった感じで、表情にも少なからぬ動揺が滲んでいる。このまま押し切って良いのか迷ったけれど、僕は小さく肯いた。「本当に、知りたいの?」

「うん」と答えてから、期待を込めた眼差しをじっと向ける。「駄目かな?」

 好きな娘のことって、少しでも多く知っておきたいから。照れ臭そうに付け加えてみたけれど、本当のところは谷山の知らない部分を突然に見せられて、取り乱したり上手く物事を運べなかったり、そういうのが嫌なのだ。どんなに取り繕っても、僕は弱い人間でしかないから。準備もなしに重いことと対峙させられるのが、怖い。

 先程の公園でも、僕は結局、谷山のことを叩くことでしか事態を解決することができなかった。本当は彼女の傷つかない方法で、助けたかったのに。苦しみの根っこを、断ち切ってしまいたかったのに。だから僕は、谷山のことを知りたい。全部じゃなくても、せめて本当に苦しい部分だけでも良いから。

 祈るようにして谷山のことを想っていると、真面目な表情が唐突に、はにかむような笑顔に変わっていく。表層だけを見ると打ち解けた感じがするけれど、僕は少なからぬ時間、彼女のことを見続けてきたから、その含むところが何となく分かった。谷山は……多分、僕を誤魔化そうとしてる。

「橘の気持ちって、嬉しいな。こんな私のことを、もっと知りたいって言ってくれる……やっぱり、優しいね」どこか卑下するような口調からも、本当は話したくないって思ってるのが透けて見える。「でも、それは怖いな……うん、とても怖い」

 谷山は自分の心を覗き込んだのかもしれない。少しだけ身震いをしてから、自嘲気味な、投げ捨てるような言葉を浮かべた。

「私のことを知ったら、嫌になると思うよ。橘は善良な人間だから、余計にそうなんじゃないかって気がする」善良なという一語に嫌味が込められていると感じたのは、僕の気のせいだろうか。「そんなこと訊くのって、私が酷く取り乱したからだよね、普通じゃない人間だって思ったからだよね。もしかして、そういうのって嫌? 理由とか知ってないと納得出来ない? 私がこういう人間なんだって、受け止めたくないの? 前に言ってくれたよね、どんな昏い所だって、私のことなら受け入れられるって、言ってくれたよね?」

 最初は抑揚の利いた振りをしていたけど、谷山は段々と感情の棘を剥き出しにし始める。何時の間にか目つきが鋭くなり、頬には興奮の表れが滲み出ていた。心なしか首に回された腕の力が強まっているような気がする。

「分からないところは分からないじゃ駄目? 私は少し……いや少しどころじゃないか。変なところは一杯あるけど、汚い人間だけど、それでも私は橘のこと大好きだし、素直に愛されたいという気持ちも変わったりしないよ。だからお願い、私の全てを見ようとしないで。今のままの私を好きでいて、お願いだから……」

 谷山は力が抜けたように、頭を僕の胸に預けてくる。木目の細かい髪の毛が頬や顎をくすぐり、胸が微かにざわざわと音を立てる。身体はこんなにも近くにあって、感触は確かに手の中にあるというのに、存在が酷く希薄に感じる。抱きしめることも、手を添えることも、言葉をかけることすらも、全てを壊してしまいそうで。小さく震えながら、僕の反応を待ち続けているというのに、暫くは何もすることができなかった。すると谷山は僕の中に埋もれたまま、くぐもった声をぽつりぽつりとあげ始める。

「虫の良い話なのは分かってる。私は橘のこと、深くまで知りたいと何度も求めて、その度にきちんと答えてくれたのに。泣きそうになるのを堪えて、弱い部分をきちんと告白してくれたのに。私だけ何も曝さないのは不公平なんだって。子供でもやらないような、駄々にも似た我侭だって……流石の私にだって、それくらいは理解できる」

 でも、と。顔を隠したままで、谷山は切なげに言葉を繋げた。

「今はまだ私のこと、橘のことを好きな一人の女の子として、見てくれないかな」

 まるで、ドラマに出てきそうな科白だけど、ありったけの真摯さがこもっていて、胸が詰まりそうになる。

「ふざけるなって詰っても良いし、気の済むまで怒鳴っても良いから……殴っても良いよ」

 殴るという言葉を使ったとき、谷山の身体が跳ね上がるようにして震えたのを、当然のことながら僕は見逃さない。しかしそれ以上に、自分の身体を傷つけても良いなんて平気で口にする谷山に危ういものを感じて、僕は小さく項垂れた背中をそっと擦りながら、耳元で呟いた。

「そんなことは、しない」

 僕の声を聞いて、谷山は一度、安堵の中に身を委ねようとした。しかし、更なる不安を思い出したのだろう、先ほどと同じくらいの、いやそれにも増して逼迫とした様子で、再度問いかけてくる。

「もしかして、呆れちゃった? もうどうでも良くなって、だから私に何もしない? 本当に、何も求めないで不公平を受け入れてくれるの? なんか不満を抱いたりしてない? 我慢を溜め込んだりしてない? もしかして私のこと嫌いになって、それでさっさと最後の肉体関係だけ済ませて、なかったことにしようとか思ってない? 他の女の人と比較なんかしてない、よね?」

 もし、どれか一つでも当てはまるんだったら、お前の首を絞めてやる……それくらい、谷山が首に加えている力は強い。或いは興奮していて、気付いていないのかもしれないけど。僕は圧力に耐えながら、小さく囁く。

「僕は谷山のこと、呆れてもないし、不満を抱いてもないから。我慢もしてないし、嫌いになるなんてとんでもないことだし、他の女の子なんて有り得ないから」

「本当?」

「うん、それに谷山は別に、変なことは言ってないよ。明かしたくないことを嫌だっていうのは当たり前だし、僕は人の嫌がることを無理強いしたくないから。それに谷山の言う通りだと思ったのもあるんだ……相手が自分を知ってるのと同じくらい、自分も相手を知ってなければ、親しく付き合えないとか愛せないとか、そういうのは狭くて良くない考えだって思ったから」

 それは偽りのない僕の本心だったけど、谷山は疑い深い眼差しを更に強めてくる。首にかけられた力も弱まるどころか、今や明確に頚動脈と咽頭を締めにかかっていた。声にならない呻きをもらすも、容赦してくれる様子は微塵もない。目の前に霞がかかり始め、耳の奥から障る高音が唸りをあげる。

 もしかして僕は、何かを間違ってしまったんだろうか。意識はますます混濁し、まともに物事が考えられなくなっていく。明滅する視界の中央で、谷山は苦しげな表情を浮かべている。このまま、僕は殺されてしまうのだろうか……終わってしまうのだろうか。それは、先鋭過ぎる論理に踏み込みすぎて、逆鱗に触れてしまったため? それとも単純に、谷山のことを傷つけたから? 上手く考えられないけれど、何となく後者のような気がする。

 いよいよもって意識が失われそうになる直前、谷山はゆっくりと力を緩め出した。血流と呼吸が徐々に戻っていく。僕は咽てしまわないよう、ゆっくりと呼吸を深め、次いで冷静な思考力も取り戻していく。内耳の奥から響く高周波のような音も止み、最後に視界が苦しみの涙にぼやけながらも、明瞭と取り戻されていく。すると視界には、とんでもないことを仕出かしたと言わんばかりに、驚嘆を顔に貼り付けた谷山の姿が、薄ぼんやりと浮かんだ。

 腕をするりと解き、逃れようとする谷山を、僕は背中から抱きしめる。全身を震わせ、身を縮こまらせること暫し、谷山は観念したようにぐったりと身を委ねてきた。

「ごめん」僕は、谷山の耳元に唇を寄せ、そっと喉を震わせる。「と謝ってみても、実はよく分からないんだけど。でも僕のこと、首を絞めて苦しめてやりたいって思うくらい、憎いって思ったんだよね。許せないくらいの、酷いことをしたんだよね。だから……」

「違うっ!」囁き声を遮るようにして、谷山の大声が部屋の中を揺るがした。「そういうんじゃないんだ、違うんだよ。そんな、橘がいつ、私のことを傷つけるようなことを言ったって? その逆で……嬉しくなるようなこと、優しいこと、もっと貴方のことを好きになるような、そんなことしか言わなかったよ。労りに満ちていて、体の感触はとても心地良いし、心の感触は柔らかくて温かで、しかもこんな私を何も知らずにただ受け入れてくれるって、好きでいてくれるって、そんなこと……私なのに、私のような奴なのに」

 谷山はまるで、手首を薄く切り刻むようにして、自分の価値観を薄く、しかし着実に切り取っていた。虚勢めいた自信すらも、今の谷山からはぽっかりと抜け落ちてしまい、後には抜け殻みたいな弱さだけが朽ちずに残っている……そんな感じがした。

「何か胸が、痛くなって……」

 空いた手を心臓の辺りに当て、谷山は心音を探り当てようと、その奥底にあるものを引き出そうとしている。僕は少しだけ手を緩め、音が聞こえるに任せた。

「とても嬉くて、心臓が締め付けられそうで、愛おしくて堪らなくて、きっと頭が可笑しくなったのかもしれない。急に、橘がいつか私の知らない遠くに行っちゃうかもしれないって、考えてしまったんだ。他にも沢山の可能性が、頭の中に浮かんできて、こうやって私が橘の側にいられるのが、奇跡のように思えて。ましてや、好きでいてくれるなんて、万に一つもないんじゃないかって……そうしたら、無性に怖くて、憎くて、失ってしまうのが嫌になって、じゃあここで終わっても良いやって……」

 思いつめたように俯く谷山の体を、少しばかり強く抱きしめる。脆さすら感じさせる背中を壊さないように、しかし谷山が離れていかないようにと。極めて繊細な平衡を保ちながら、僕は動揺を必死で押し殺していた。谷山を苦しめている過去の記憶や行為、付随して回る忌まわしいもの。それらは、幸せや嬉しさに対して拒絶反応を抱かせてしまうほど、強烈なのだろうか。一面性を容易に放棄してしまえるくらい、おぞましいものだったのだろうか。

 掴み取れそうだったものが再び、するりと遠くに抜けていくような感じがする。どのような誠心誠意でさえも、最終的には谷山のことを追い詰めてしまうのだったら。僕は、抱く両手を今すぐに離して、谷山を解放してあげた方が良いのではないだろうか。もっと楽に愛し合える誰かに巡り合う機会を、奪ってはいけないのではないだろうか。

 彼女に出会った、ほんの始めの頃より思い描いていた可能性を、僕はこれまでで最も強く意識する。脅迫観念にも近い形で、心の中の一部が警鐘を鳴らし続ける。このままじゃ、駄目なんだって。しかし、残りの部分の僕はそいつを抑え付けてがんじがらめに縛って閉じ込めて、二度と出て来ないようにしてしまった。些かの躊躇すらなく、葛藤が生まれる隙すら与えず、今や全てとなった僕は、より強く谷山を抱きしめた。

「じゃあ、もしかして……」唐突に閃くことがあり、僕は谷山の耳元に顔を寄せる。「最初に言ってた、谷山のしたいことって、終わりにすることだった? 僕の首をぎゅっとやって」

「ううん、それは違うよ」少し強めに首を振ると、谷山は気だるげに言葉を続けた。「普通に、ここでするような気持ち良いことをしようと思ってたんだ。でも、橘があんなこと言うから、つい……」

「同じこと訊くようだけど、嫌じゃなかったんだよね」

「うん、とても嬉しい気持ちになれた。だからね、終わってしまいたいと思ったんだ。実は今も、結構思っちゃってるんだ、もう終わっちゃおうかなって。さっき公園で、生きていれば色々なことができるって言ったよね。でもそれは私じゃなくて他の存在じゃないかと考えてしまうと……ねえ、橘は私の隣にどれくらい居てくれるのかな? 短くはないけれど、それは一生じゃないよね。一ヶ月? 一年? もしかしたらもっとかもしれない。でも、永遠なんて有り得ないんだ。私たちはいつか道を違え、離れてしまう。そしてお互いが別のものを見つけてしまう……馬鹿だよね、私も橘もきっと、今の私と橘以上のものを異性との営みで得られるはずなんてないのに。ここにいて、感触を分かち合っている私たちこそ、全てなのに」

 谷山は長口上の隙をつき、僕の腕からするりと抜ける。逃げられるかと思ったが、彼女はぎらぎらした、睨むような鋭い目を投げかけてきた。そして、しなやかで細い指を再び、僕の首に絡めてきた。

「それが無くなると分かっているならば、今無くなっちゃえば良い、終わってしまえば良い。そうすれば少なくとも、他の女性が私の変わりを勤めて橘を満たすなんてこともなくなるから。貴方は私だけの貴方になる、望むのなら私も貴方にとってだけの私になる。君のいない世界を脱出することには、些かの逡巡も覚えないから。どんな手段だって取るよ、橘のいないという絶望が、きっと私に死ぬ力を与えてくれるから」

 喉仏が強く押し込まれ、僕は思わず何度か咳き込んだ。微かに赤みを帯びた谷山の唇が形良く笑顔のように歪み、僕をねめつけてくる。

「痛いよね、でも私も痛いんだよ。貴方を想い過ぎて、心が痛くて堪らない。ねえ、私は橘のこと、とても大好きだよ。だから、応えて欲しいんだ。橘はどこまで、私を愛してくれるのかな」

 喉にかかっていた手は何時の間にか僕の頬に添えられ、両の瞳から発せられる引力はますます強くなる。僕は谷山の中に、何かの狂気が眠っていないかじっと探りを入れてみたけれど、そこにあるのは純粋過ぎて刺々しさに満ちた一つの想いだけだった。

 普通の女性として見て欲しいと言いながら、次の瞬間には全てを覆して特別なものを押し付けてくる。全てが一瞬の間に変わり過ぎて、どれが本当の谷山なのか分からない。いや、違う。彼女には操作することのできる幾つもの感情があって、しかしそのどれもが紛うことなき彼女なのだ。僕は彼女と過ごしてきた時間に思いを及ばす。

 平常時には他者を惑わすだけの性格だった。しかし一度平衡を失ったため、てんでばらばらに現れて谷山自身にも制御できなくなっているのかもしれない。つまり、混乱は収まってないどころかますます増しているのだ。分かり易く涙を流したり、喚いたりはしてないけれど……それだけに、思考が取り戻せてしまっただけに、乖離も激しいのではないだろうか。根拠はないけれど、そんな気がする。

 だからといって、解決の方法が浮かぶわけでもない。僕は谷山のために、何をするべきなのだろうか。その問題は未だ、空白のまま一行も埋められていない。

「何を、考えてるの? もしかして、迷ってる?」考え事のための沈黙が、谷山を更なる詰問へと押し進める。僕は内心で失敗したと考えながら、必死で耳を傾けた。「もしかして、もう止めてしまいたい? そうだよね、仕方ないよね。だって橘のこと、凄く傷つけたし、こんな頭のおかしい女、一秒だって同じ場所にいたくないよね」

 また一つ、谷山の気持ちが隙間から抜け落ちていく。多分、これまでにも沢山失われてしまった筈だし、今も着々と失われ続けている。気持ちばかりが焦り、刻々と注がれる視線は僕に逃げることを許さない。しかも谷山は僕を追い詰めるよう、巧みに詰り言葉で打ち伏せてきた。

「でも、可笑しいよね。橘は私のこと、全部受け入れてくれるって言ったのに。頭が変だからって簡単に放り出すの? それって私に嘘を吐いたってことだよね?」

 違う、と言おうとしたが、谷山の視線は僕の反論など一切、受け入れる余地がないかのように定まり、威圧し続ける。喉を鳴らし、辛うじて首を横に振るも、勿論通じる筈がない。

「分かんない、分かんないよ。橘は私のことをどうしたいのさ。理解したいのに、さっきからてんでばらばらで全く違うことを短い間にころころと、全部が真実みたいに私に聞かせて。もうどうしたら良いの? 何とか言ってよ、何とかしてよ、ねえ、助けてよ。この胸の痛みを何とかして。君のせいで私はこんなに痛いんだよ。ねえ、助けて、助けてよぅ。痛いんだよ、私、痛いのは嫌なのに、痛いのは本当は大嫌いなのに」

 谷山の言葉はいよいよ支離滅裂になっている。僕は乖離した全ての彼女が、悲鳴のような恐怖を一斉に顕しているのを見て、呆然とする以上の方策を取ることができなかった。少しでも、谷山に手を差し伸べるべきなのに、全身が竦んでしまって動かない。そんな僕に、彼女は一方的にしがみついて、遂には子供のようにわんわんと泣き始めた。

 まるで生まれてこの方、声をあげて泣くのが初めてだと言わんばかりに、嗚咽はぎこちなく、頻りに咽び、苦しそうに体を震わせ続けている。洟を啜り、喉を鳴らし、甲高く叫び続ける谷山の姿は余りにも惨めで小さい。僕はようやく動き始めた両手を背に乗せ、ゆっくりと、ゆっくりと、不安や恐怖、慟哭といった感情が谷山の元から過ぎ去ってしまうよう、祈りを込めながらさすり続けた。時には頭をそっと撫でて、或いは涙に濡れた頬に触れて、少しでも安らぎが与えられることを期待した。しかし、谷山は落ち着く素振りすら見せない。

 そしてふと、少しだけ谷山の心の内が理解できたような気がした。

 全てが、現れたのかもしれない――そんな気がする。谷山は沢山の谷山を持っていて、いつもはきっとどれかが何とかしてくれる。僕はそれをよく知っている。優しさや不敵さ、社交的な態度や怒りっぽい様子、甘えた仕草に情熱的な瞳――そのどれもが僕を散々に魅了してきた。でも今は、そのどれもが今の谷山を助けるには足りなくて、届かなくて。

 最後には、泣くしかなかったのだ。

 そしてきっと、原因の半分――いや、殆ど全部は僕にある。選んであげられなかったから、差し伸べられなかったから、谷山は最終的に、悲しみに閉じこもるしかなかったに違いない。

 足りなかったのは谷山じゃなくて、僕の方だ。

 届かなかったのは谷山じゃなくて、僕の方だ。

 彼女は泣き声の中に時折、切なる声を混ぜることがあった。

 助けて、助けて、誰か助けて……。

 僕は今すぐにでも、谷山に応えてあげたかった。ここには僕がいて、何があってもいつも側にいるんだって。首を絞めて殺されたって、酷い罵声を浴びせられたって、それでも変わらず谷山のことを愛していられる、僕がいるんだって。壊れているのは谷山だけじゃなくて、僕も一緒に壊れているんだって、教えたかった。

 でも、谷山はまだ深い深い場所にいて。どんな声も心も体も届かない。僕は、谷山がそれらを求めるようになるまで、信じてくれるようになるまで。ひたすら抱きしめて、存在を示すしかないのだ。何時間かかっても、もしかしたら何日かかってでも。

 揺らぎない流れの中で、微かな揺らぎが生まれ、僕は心の中に問いかける。

 誰かを心から好きになって、相手も僕のことを心から好きになって。そうすれば、困難なんて殆どないと思っていた。それなのに、実際はといえばこの通りだ。

 僕たちだけが特別、苦しんでいるのだろうか。それとも、幸せそうに見えるカップルも実は表面を繕っているだけで、内面に苦しい葛藤を含んでいる者たちが沢山いるのだろうか。二人であるがため、お互いの苦しみに苦しみ、それに呑まれぬよう必死に抗っているのだろうか。実はそれが、愛するってことなんだろうか。

 どれほどの時間が経ったのだろうか。谷山は未だに、喉をしゃくりあげながら、掠れた声で助けてと訴え続けていた。助けて……。

 僕の方こそ、そう叫びたかった。どうかお願いです、誰か助けてください。僕たちをこの苦しみから解放してください、永遠の安寧と愛情の溢れる場所に連れて行ってください、と。

 でも、それは谷山本人から逃げるということだ。それだけは決してできなかった。僕はこの不可解な現実の中で、何とかして相手に近づこうと努力しなければいけない。

 早く手の届く場所に、心の届く場所にと。

 今はただ、祈り続けることしかできなかった。

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