第二部 死者の涙

--A Tair--

 どうしてあなたに、彼が優しく触れたものがなかったとわかるんです? 彼が愛したひと、彼の愛によって祝福をもたらされたひとがいなかったと? 手に触れるあらゆるものを破壊した――それは嘘だ、いまだかつて生きたいかなる人間にも真実をこめて言われうるものではない。

【死者の代弁者/オースン・S・カード】より引用

6 墓碑の国、あるいは救いきれないもの 【1】

 谷山裕樹の葬儀からはや、半月が過ぎた。

 既にニュースが、彼女の"死"を取り上げることはない。様々なメディアから発信される情報で、完膚なきまでに埋め尽くされてしまった。多分、わたし以外で裕樹に思いを馳せるものはいないだろう。皆、他の死、他のニュース、他のスキャンダルを探すので、必死なのだ。

 それはしょうがないことだし、寧ろ他の人間が彼女のことを考えないのは、わたしにとって有り難い。何故なら、わたしが裕樹を独り占めすることができるからだ。

 もし彼女がわたしの元に帰ってきたら、その時は。

 誰にも邪魔をされず、抱きしめることができる。

 それは望みを持たぬわたしが唯一許される、望みだ。

 他のそれは、私には許されていない。

 

 仕事の方は昨日で一段落したから、今日は久しぶりにのんびりすることができる。母はまだ、隣の部屋で死んだように眠っているから、起こさない方が良いだろう。五十を超えてなお、数徹の仕事をこなせるなんて、情熱的だなと、わたしは思う。同じ作業に従事していても、わたしは一徹するのが精一杯だというのに。もっともあれくらいの情熱が無ければ、売れ筋の翻訳家になんて、なれなかっただろう。

 わたしは今、母を手伝って翻訳の仕事をしている。資料集めやスケジュールの管理から始まり、下訳や下読み、果てには小説を一冊丸ごと訳すこともある。といっても、わたしの名前は一切出てこない。全て、母の名前で発表される。母は自分の名前を出すべきだと頻りに訴えるのだけれど、わたしには功名心というものが全くないし、寧ろ母や関係者に迷惑をかけてしまうだろう。凶悪犯罪が増加しているからといって、かつての凶悪犯罪者がのうのうと、世に名前を出す仕事についているなんて、世間一般が許さないだろうから。

 犯罪者――そう、わたしは犯罪者だ。罪状は殺人未遂、強盗、そして暴行。懲役二十年を言い渡され、模範囚として十二年で出獄することができた。残りの刑期は保護観察期間となり、月に一度保護監察官に合うことを義務付けられている。わたしは職を持っているので、一般の出獄者が感じる、世間に対する生き難さを覚えることは少ない。監察官の方でも、わたしが将来的に犯罪を犯すとは考えていないようで、対話は大抵の場合、短い時間で切り上げるのが常だった。

 

 わたしはかつて、人間は何故、犯罪をするのだろうと、不思議に思っていた。誰かを傷つけるなんて不合理だ。どうしてお互いに分かり合えないんだ、愛することができないんだ。嫌いでも、せめて放っておいておくくらいできるだろうと。生甘いことを真剣に考えていた。

 知らなかった。

 この世に、全てを灼き尽くして余りある、無限の如き憎しみが存在していたなんて。

 どんな人間も、それを持っているなんて。

 知らなかったのだ。

 

 憎しみに灼かれ、わたしはかつて罪を犯した。取り返しの付かない罪だ。

 わたしはただ、愛するものを救いたかった。

 果てのない闇から、引き上げたかっただけなのに。

 気が付くと皆が、その闇の中から抜け出せなくなっていた。

 わたしは捕まり、愛するものは遠くに行ってしまった。わたしが憎しみをぶつけた相手は不能になり、わたしの唯一の肉親はもう少しで、仕事の場を失うところまで追い詰められた。

 誰もが、不幸になった。わたしが行った犯罪のせいで。

 だからわたしは、これからの生を、何かを望んで生きてはいけないと、強く願っている。

 そう、それは願いだ。

 どうかわたしが、全てを捨てて足る何かを見つけませんように。

 憎しみの炎に身を灼かれるほどの激情を生み出す存在と、出会いませんように。

 わたしは毎日、祈り続けている。

 何も望んではいけない。

 わたしは、何も望んではいけない。

 母は、そういった願いのことにも感づいており、ことあるごとに愚痴を零す。

「お前はもうとっくに、お前の人生を生きても良くなっているのに。誰でもない、何でもない日々を送っている。それが私には、歯痒くてしょうがないんだよ、分かるかい?」

 わたしにはよく、分からなかった。

 母はまだ、わたしが何かになれると考えているのだろう。しかし、まことに親不孝ながら、もうわたしはきっと、何者にもなれない。

 今更ながらにして、気が付いた。裕樹を失った今、わたしには半分しかない。かつてわたしたちは分かち難い二の一であり、世界の全てだった。幸せは全て、その中にあると信じていた。

 だから、わたしは半身が――裕樹が失われたとき、半分になった。そして裕樹も恐らく、同じだったろう。お互いの半分にきっと、お互いの情熱を置いてけぼりにしてしまったのだろう。

 だからわたしは、その半身を思うときだけ、情熱することができる。

 わたしの全ては今、過去だけに向いていて。

 過去に許されることによってのみ、今を許される。

 彼女がもう一度微笑みかけてくれたとき、わたしはきっと次のわたしになれる。

 そして、その日はいつか必ず訪れる。

 そんな、確信めいた予感が、日に日に増してくる。

 

 あるいは、わたしはおかしいのだろうか?

 かつての想い人の死に強い衝撃を受け、心に取り返しのつかない傷を負ってしまったのだろうか。

 死んだ人間が蘇るなんて、苦い妄想を抱くようになってしまったのだろうか。

 否。

 棺の中に裕樹はいなかった。

 いなかったんだ。

 そしてわたしは、彼女という存在がそう簡単に失われはしないことを知っている。

 

 不意に、涙が溢れた。

 これは、何の為の涙?

 再会を予感した嬉しさのためのもの?

 墓碑の国に横たわる屍骸の、悲しみを思ってのこと?

 教えてくれ。

 わたしはどうすれば良い?

 どんな感情でいれば良い?

 誰を想えば良い? 何を思えば良い?

 空に問いかけても、返ってくるのは空のみ。

 心の底に、神様なんていない。

 いるのはただ、暗闇と、空漠のみ。

 

 わたしはきっと、

 すくいきれないものだ。

 そしてわたしは、すくわれてはいけない人間なのだろう。

 

 でも……。

 でも、わたしは願ってしまう。

 

 願ってしまうのだ。

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