第六話
〜夜想と過去の挟間(前編)〜

34 共同戦線

舞は不意に目を覚ました。
夜の狩人だった頃の性なのだろうか?
舞は時々夜中に目を覚ますことがある。
こういう時の覚醒は、決まって気分を悲しくさせた。

魔と夜との呪縛から抜け出した今でも、
こうやって天井を見ているだけで涙が込み上げてきそうになる。
そんな時、隣で静かに眠る佐祐理の姿を見ると安心できた。
自分が平穏な時を生きている、幸福な現実。
そのことを強く思い出すことができるからだ。

その時、隣の部屋で布団の衣擦れが聞こえてきた。
祐一がトイレにでも行くのだろう。
そう思い、舞は再び佐祐理に視線を映す。

「…ず…、……えちゃんが……」

佐祐理の唇から漏れる、呟きのような寝言。
針の落ちる音ですら聞こえそうな空間でさえ、
佐祐理の言葉を聞きとることはできなかった。
その顔は、楽しそうな笑顔で満ちていた。
きっと、良い夢を見ているのだろうと舞は羨ましく思う。

舞は滅多に良い夢というものを見たことがない。
夢はいつも、無間に続くかもしれない現実の延長線上にあった。
闇の中をもがき囚われる、そんな恐ろしい夢。
悪夢と剣で戦い続ける、嫌気のさすような夢。
唯一の親友が目の前で無惨に殺される夢。
夢という言葉に、舞は全くと言って良いほどプラスのイメージをもてない。

けど、ここに越してきて三人で暮らすようになりそんな夢を見ることは滅多になくなった。
小さな幸せの夢さえ、見るようになった。
紅葉舞散る公園で、祐一と佐祐理の三人でお弁当を食べる夢。
そして、それは数ヶ月後に実現できる夢なのだ。

夢というのはこんなに良いものだったんだ……、
舞はそう思えることが嬉しかった。

佐祐理はどんな夢を見てるのだろう。
その中に私はいるのだろうか?
それが幸せな姿だったら良いなと舞は思った。

それからしばらく起きていたが、
時計の針が進む音と佐祐理の寝息の他には何の音も聞こえて来ない。
祐一が布団を出てから十分、トイレにしては長過ぎる。
舞は突然不安になった。根拠はないが、第六感的な感情がそれを後押しする。

いても立ってもいられず、舞は布団から出た。
隣の部屋、台所、風呂場、トイレ、全て探したが見つからない。
となると外に出たのだろうか……玄関を調べると、ドアの鍵は開いていた。
舞は靴を履くと急いで外に出たが、すぐに動きを止める。
部屋のすぐ外に祐一はいた。彼は柵越しに風景を眺めているように、舞には思えた。

「おっ、舞か……どうしたんだ?」

祐一がこちらに気付く。
舞は少し元気のない祐一を眺めた。
あの刑事が帰ってから、祐一はずっと元気がなかった。

「……いや、祐一が布団から抜け出してなかなか戻って来ないから」
「悪い、起こしちまったか……ちょっと頭を冷やしたくてな」

祐一はそう言うと、舞の方を向き手摺に腕を絡める。

「ちょっと事件のことを考えていたんだ」

少しの沈黙の後、祐一は頬を掻きながら言った。

「……事件って、あの刑事が話してた?」
「ああ、そうだ。何とか俺の頭で答えが見つけられないかなって」

祐一の言葉を聞いて、舞は悔しい気持ちで一杯になる。
複雑に入り組んだ謎とか感情を解明するのは、舞にとって最も苦手とすることだった。
論理的思考というものが、舞にはいまいちピンと来ない。
順序良く物事を考えるということが得意ではなかった。
高校の時だって、数学で良い点を取れたのは佐祐理が必死で教えてくれたからだ。

「……私はそういうのは苦手。でも、佐祐理なら簡単に分かってしまう」
「そうだな……」

祐一は舞の言うことに賛同の意志を示したが、かといって楽しそうでもない。

「でも、佐祐理さんには余りそういうことは考えて欲しくないんだ」

その理由は、すぐに祐一によって漏らされた。
確かに、人を疑うとかそういう作業を佐祐理は嫌そうにやっていた。
そんなことを思い出しながら、舞は祐一の言葉の続きを待つ。

「佐祐理さんって、普段は人を疑ったりとかそう言うのって嫌いな方だろ。
今回はありもしない責任を感じて積極的に事件に関わってるけど、
それだって楽しそうだとは思えないし。だから、俺が何とか変わりに答えを見つけて、
佐祐理さんを楽にしてあげたい。けど、やっぱり駄目だな」

祐一は自虐的な笑みを浮かべながら、首を横に振る。

「でも駄目だ。頭で考えれば考えるほど、超現象でも起こったとしか考えられない。
もう……全然、取っ掛かりが掴めない。俺の脳は灰色じゃないみたいだ」

祐一がそう言う。
舞も事件の概要を訊いた限りでは、そうとしか考えられなかった。
ドアも窓も開かない、鍵も無い。
そんなところから人間が抜け出すのはまず無理だと舞は考える。
だとすると……本当に怪物が現れたのかもしれないと舞は思った。

「……もしかしたら、本当に化け物が現れたのかも」

舞が言うと、祐一は体を強く震わせた。
それでもありったけの胸を張り、自信を込めて答える。

「その時は、俺が何とか退治してやるさ。舞が何かを考える必要はない」
「……でも、祐一は弱い」

その言葉に、祐一は思わずずっこけた。

「あのなあ、それは真正面から言う科白じゃないと俺は思うのだが」
「……そう?」

強い人間が先頭で戦う、それが最も適切だと舞は考えている。
でも、祐一は違うようだった。

「舞はもう、剣は捨てたんだろ?」
「……でも、祐一や佐祐理を守るためだったら、私はもう一度剣を持って戦う」

舞は本気でそう考えている。
現に、佐祐理が危険に曝された時も舞は毅然と戦うことを選んだ。
剣を捨てたと言っても、戦うことまで否定した覚えはない。

「そう……だな。俺だって舞や佐祐理さんを守るためだったら一緒に戦うさ。
でも、一人で戦う必要もないし背負い込む必要はないと俺は思う。
舞も佐祐理さんも自分のことを一人で片付けようとし過ぎるんだ。
それじゃあ、唯一の男手である面目が立たないからな……」

「……でも、祐一は弱い」
「それでもだ」

祐一は即答する。
こういうところでは驚くほど頑固なことを舞も知っていた。
けど、やっぱり舞には納得いかない。
祐一だって、一人で問題を片付けようとしている。
そんなことを考えて、舞は無性に腹が立ってきた。

思わず、舞は祐一の頭に一撃をくれていた。

「いてっ、さっきのはかなり本気だっただろ」

否定する必要もないので、舞はこくりと頷く。

「……困ってるなら、何故私に相談しない?
……一人で片付けるのが駄目って言ったのは祐一」

舞がそう言うと、祐一は少し気まずそうな顔をした。
それから、舞の手に軽く手をのせる。

「そうだな……悪かった」

謝るのが苦手な祐一にしては上出来だと思う。
だから、舞も素直に許すことにした。

「じゃあものは相談だが、舞には何か良いアイデアはあるのか?」
「……ない」

そう即答すると、祐一は再びずっこけた。

「ないんなら、相談したって意味がないじゃないか」
「……そうかも、あ、ちょっと待って。
難しい問題は簡単な方から考えれば良いと、本で読んだことがある」

祐一は腕組みをしながらはあと息を付いた。

「簡単な方って言ってもなあ。どこから考えたって難しいことだらけだぞ」

それから俯いて、専ら考えに没頭してしまった。
舞もそれに倣って、事件のことについて考えてみる。

もし……犯人が空を自由に飛び、人を切り裂くような魔物だった場合。
舞はまず、そんなことを想像してみる。
空を飛べたら、剣だけでは勝ち目がない筈だ。
飛び道具、弓か何かが必要かもしれない。
弓はどこで手に入るのだろうか……舞は弓道部が大学にあることを思い出した。

「やっぱり簡単な方と言うと……」 祐一が先に喋り出した。
「他殺だってはっきり分かってる十八年前の事件の方かな……。
佐祐理さんも話してたけど、余分な出来事がすくないし……。
となると明日、そこらへんを詳しく訊いてみる必要があるな」

祐一は一人で呟いたあと「舞はどう考えてる?」
と、話を振ってきた。

「……取りあえず明日、弓道部の部員にあって聞いてみる」

舞がそう言うと、祐一は「はあ!?」と素っ頓狂な声をあげた。
それから舞は、重要なことを思い出して付け加える。

「……それから、友人に会いに行く」

「舞、その二つの行動に何の意味があるんだ?」
祐一は首を傾げながら尋ねてきた。

「……殺された女の人が、その友人のお姉さんかもしれない」

その言葉に、祐一は真面目な顔付きを取り戻す。
それから、少し考えて言った。

「そうか、舞の元気がなかったのってそれが原因だったのか……。
分かった……じゃあ、その友人って弓道部なのか?」

「……違う。そっちは魔物対策」

舞の言葉に、祐一は三度ずっこけた。

「取りあえず、今は魔物とかそういうのは抜きにして考えようと思ってる。
現実に起きる可能性を考え尽くして、駄目ならその時にやってくれ」

「……祐一がそう言うのなら」

舞はそう答えながらも、弓道部の場所は調べておこうと密かに考えていた。

 

35 悪夢

また、あの夢を見た……。
最初は佐祐理と一弥が楽しそうに遊ぶ夢。
緑萌ゆる河原を、二人手を取り合って仲良く歩いていた。
しかし、進めば進むほど風景は色褪せて行く。

釣りをしていたおじさんや川縁を駆け回っていた子供の姿は消え、
草木は茶色になり枯れ果て、やがては色すらも失ってしまう。
そして、いつのまにか段差のない白い平面で二人は離れて立っているのだ。

そして、そこにナイフを持った小さな女の子が現れる。
佐祐理は危ないと何度も叫び、駆け寄ろうとするのだけど、
声は決して届くことはないし、壁をどんなに叩いても崩れることはない。
そして……ナイフは一弥の胸に深く突き刺さり……その血だけが生々しい赤だった。

その一部始終に目を奪われている佐祐理の元に、
女の子はゆっくりと近づいてくる。
大切な弟をよくも殺したな……そんな憎しみを抱きながら、じっとその場で待つ。
そして、その姿に愕然とするのだ。

それは、幼い頃の自分だった。
一弥から生きる希望を奪った、恐るべき自分。
消したい過去、消せない過去。

もう一人の自分は佐祐理に向かって、こう話しかけてくる。

『私のことが憎い?』
『勿論です……なんであんなことをしたんですか?』

佐祐理がそう聞くと、もう一人の自分は嫌らしい笑みを浮かべるのだ。

『だって、これは貴方がやったことなのよ』
『嘘!! 佐祐理はそんなことしなかった!!』
『でも、やったことはそれと同じよ。直接手を下すか、それとも間接に手を下すか』
『そんなのは詭弁です』

佐祐理が強い口調で言うと、もう一人の自分は声を立てて笑った。

『そんなことはどうでも良いのよ。貴方は人殺しなんだから』
『黙って、お願いだから……』
『認めたくないのね、自分の罪を……』
『違う!!』

佐祐理は親によって教えられた体面のことを考えず、
ただ感情のままに怒鳴り散らした。そして、ナイフを奪い取る。

『そう、それで私を殺すの?』
『……ええ、貴方は一弥を殺したのだから』

目の前の相手を、ただ憎しみに任せて……。
刺した。
刺した。
刺した。

そうして、後には血に塗れたナイフをもった自分が残る。
死んだのは佐祐理、冷笑を浮かべているのはもう一人の自分……。

そして、目を覚ますのだ。
佐祐理はこの夢を見た後、いつも自分の手が血に塗れていないか確認する。
そして、肌色の両手を確認して安堵を漏らすのだ。

分かっている……今、自分がやっていることは自己満足でしかない。
あの時も、数日前も、佐祐理は差し伸べられた手を掴むことができなかった。
そのことに対する、これは償いのようなものなのだ。
でも、真実が分かったところで結局はどうなるのだろうか。
結局、一弥だって事件の被害者だって助けられなかったことに変わりはない。
弟を自分の腕で殺した感触は、消えてはくれないのだ……。

「……佐祐理、朝食ができた」

舞の呼び掛けに、佐祐理は今までの感情を隠して笑顔で答えた。
この笑顔だって……本当に嬉しいと思っているのか自分には分からない。
思考の糸の中から、一番良いと思われる感情、行動、答えを選び出してるに過ぎない、
佐祐理はよくそんなことを考える。まるでコンピュータのように……。

佐祐理には、その冷静さが時々嫌になる。
特に幾つかの事件に遭遇してしまってから、余計にそのことを考えるようになった。
祐一や舞の死も、自らの客観的思考の一つとして平然と組み込んでしまうという不安。
自分はそうするのが一番良いと思うだけで、涙を流したりするのかもしれない。
そう考えて、佐祐理は震えが体の奥底から浮かび上がってくるのを抑えられなかった。

悪夢から解き放たれない限り……。
多分、この感情は消えないという漠然とした思いを佐祐理は抱いている。
時計を見る。七月十六日午前七時十三分、まだ時間には余裕があった。
佐祐理は頬を叩くと、ダイニングの席につく。
ちょっと形の崩れたベーコンエッグにごはん、味噌汁。
素朴で無骨だけど、舞らしい料理だと佐祐理は思っている。

こうして三人でとる食事は本当に楽しい。
けど、楽しいと思っているのが一番良いからそう感じられるだけなのかもしれない。
あの夢を見ると、佐祐理はいつもそんなことを思う。

 

36 裁かれしものは既になく

佐祐理の元気が昨日よりもますます小さい。
席に座った祐一が最初に考えたのは、そんなことだった。

笑顔で隠してはいるが、いつもと比べると全く快活さが感じられない。
目の下は僅かに赤く腫れているし、すっきりした寝起きにも見えなかった。
祐一は少し迷ったものの、率直に尋ねてみることにする。

「佐祐理さん、なんか疲れてるようだけど昨日は眠れなかったのか?」

「ええ……ちょっと遅くまで事件のことを考えてましたから。それに……」
佐祐理は少し躊躇ってから、か細い声で言った。「怖い夢を見てしまって」

「……本当か?」佐祐理の言葉に、舞が強く反応を見せる。

「どんな夢を見たんだ?」気になって、祐一は続いて質問してみる。

「いえ、それが……ほとんど覚えてないんです。
怖いってイメージだけは、強く残ってるんですけどね……あははーっ」

佐祐理の言葉に、祐一は思わず拍子抜けした。
まあ、自分も夢の内容はほとんど忘れるタイプだからな……。
そう思い、祐一はこれ以上追及しないことにする。

「それより舞、なんで形の崩れた目玉焼きを俺のところに持ってくるんだ?」

祐一の皿に置かれた無惨な姿の黄身は、何故か寂しく見えた。

「……さあ」舞はすっとぼけてみせた。
「……適当に選んだらそうなった」

九割方嘘だと祐一は思った。
真摯な顔を見せながら、視線は僅かに祐一から逸れている。
まあ、食べられないこともないと諦め、祐一は箸で一口分選り取り口に運んだ。
口の中でがりっと固いものを噛むような音がした。どうも殻まで入っているようだ。
しかし、それ以外は美味しかった。

「ごちそうさま」

祐一は手を合わせると、二人の食事を見る。
舞も佐祐理もまだ半分くらい(舞の方が少し早いが)しか食べてない。
こういう時だけトップだなと思うと、祐一は僅かに憂鬱な気分になった。
祐一の方が少し早くここを出るため、自然と朝食のスピードが早くなっている。
水瀬家で名雪につきあわされたことも、それに拍車をかけていると祐一は思っていた。

祐一は一足先に席をたつと、部屋に戻ってテレビを付けた。
ひかれていた布団は既に三つ、並んでベランダに干されている。
舞は早くから料理を作っていたから、佐祐理がやったのだろう。
そう考えると、リモコンでニュースをやっている番組を探した。
とは言っても、この時間は教育テレビ以外ニュースをやってるのだろうが、
祐一が探しているのはS大学で起きた事件についての報道だ。

流石に事件から四日も経つと、前日や前前日ほどの熱っぽさは既に失われている。
それでも、ほぼ全てのニュース番組で事件のことを見ることができた。
しかし、警察は情報を提供していないらしく、マスコミも何も掴んでいないらしく、
怪事件は自殺、他殺、事故のどれかも分からないというのが共通した意見だ。
ワイドショー寄りの番組になると、被害者の家まで押し掛けて情報を得ようと、
レポータが家を取り囲んでいる場面を映していた。

覚醒剤を使用していたことは既に公開されているようで、
レポータはその辺りを重点的に尋ねていた。
そして、コメンテータが極めて裁量的で独断的な意見を述べる。
麻薬や覚醒剤の低年齢層への蔓延だとか、モラルの崩壊だとかそんなことだ。

やがてテレビの時計が七時半を示した時、ダイニングから電話が鳴った。
台所を見ると、舞と佐祐理は食器の後片付けをしていたので祐一がそれに出る。

「もしもし」

祐一は受話器を耳に押し付けた。
向こう側では複数の人間の騒ぐ音が、忙しなく聞こえている。
どうやら何かのオフィスらしいと思っていると、相手が低いがよく通る声をあげた。

「その声は男だから相沢君だね。世田谷だ」

声の主は、昨日ここを訪れた刑事のようだった。
途端、緊張して受話器を当てた耳に強く集中する。

「いや、昨日は何も説明せずに返って悪かったな。
連絡しようと思ったんだが、朝までずっと忙しくて……まあ徹夜だったわけだ」

笑いながらそんなことをまくし立てる世田谷。
どうやら徹夜で躁状態に陥っているなと祐一は思った。
睡眠時間が少ないと無性に陽気になるのは体験したことがあるからよく分かる。

「はあ、大変だったんですね」でも、返す言葉となるとこれくらいしか思い浮かばない。

「まあな。例の血液のことなんかで、会議がかなり揉めたからな……」
「で、結果はどうだったんですか?」

単刀直入かと思ったが、相手も疲れてるだろうと思って余分なことは聞かないことにした。
時間もないし、祐一には他に聞きたいこともある。

「再検査したが、結果は同じだった。上の方は、もう少しランクの高い研究所か何かに持ち込んで、
徹底的に調べて貰うべきだと言ってた。こっちもその意見には賛成だな。
けど、事件についての結論は結局でなかった……次の会議まで、いわゆる先送りって奴だ。
十八年前のことがあるから、これ以上紛糾すれば自殺か事故として片付けられる可能性も
高くなると私は踏んでいる。状況としてはマイナスに向かうことはあってもプラス向きはなしってのが、
偽らざる現状ってとこだな。そちらじゃ何か分かったことはあるかい?」

徹夜明けのハイな頭で散々まくし立てた挙句、世田谷はこちらの意見を求めてくる。
祐一はその内容を充分に反芻してから「いいえ」と一言だけ答えた。

「それで、こちらからも聞きたいことがあるんですが良いですか?」

祐一が言うと、世田谷は「ああ、構わんよ」と二つ返事を返してくれた。

「じゃあ……あれから少し考えたんですけど、やはり様相がはっきりしている十八年前の事件から、
当たった方が良いと思うんです。だから、関係者の素性とか現状を教えて欲しくて」

「……ああ、そういうことか」

祐一は真っ当なことを言ったつもりだが、世田谷の反応は遅かった。

「それは無理だよ。あの時、桐谷家にいた人間はもう皆、この世にはいない」

「……はあ?」

余りに唐突な展開に、祐一は思わず受話器を離しそうになった。
それからようやく体制を立て直し、大声で訊き返す。

「もうこの世にいないって……みんな死んだんですか?」

「ああ」世田谷は即答した。
「もうみんな、十年以上も前に死亡してる。
まあ、こっちは殺人とかそういうもんじゃないってことは明らかだよ……多分な」

多分という含みを持たせる言い方を祐一は訝しんだが、
相手の言葉が続くのでひとまずは黙っておくことにした。

「被害者、桐谷隆司の妻である宗子は半年後に自室で首を括って自殺した」
「首を括って……ですか?」

いきなりな事実だった。
あんな事件があって半年後に自殺……。
それは本当に自殺なのかという考えが、ふと祐一の脳裏を過ぎった。

「まあ、あんなことがあった後なんで自殺と他殺の両面から調べたんだが、
部屋はドアも窓も鍵が掛かっていたし、机には『夫の後を追います』という自筆の遺書があった。
家計簿などの筆跡と照合したんだが、間違いなく宗子のものだという結論が出たので、
警察では自殺と断定した。私もこの件に関しては恐らく自殺だと考えている。
彼女はかなりノイローゼ気味で、気分も参ってたようだからな。

それで次に書生の佐々木勉という男性だが……。
彼は事件のあった二年ほど前に両親が事故で死んで天外孤独の身になったんだ。
それで学業も熱心で優秀だったこともあって、桐谷家に居候することになったらしい。
まあ雑務処理とか資料整理などを行う住み込みの書生みたいなものだった。
話によると、桐谷家との仲は良好で喧嘩なんてことは全然なかったらしい。

彼は事件が起こって三ヶ月後、東京の小さな会社に就職したようだな。
あんなことがあって、学業の継続が難しくなったためらしいが……。
で、その三年後に東欧へ旅行に……まあ研究じゃなくて趣味という範囲でなんだが、
そこで土砂崩れに巻き込まれて運悪く……ということだ。
死体は会社の人間によって確認されたから、本人ということは間違いない。

最後に息子の桐谷宗一郎だが、彼は事件が起こった翌年の八月に結婚したんだ。
相手は同じ町に住む女子高性……つまり学生結婚だったんだな、これが。
で、あんなことがあった家だから相手の家は猛反対。
二人の味方は相手の実の姉くらいだったようだ。
式は挙げずに籍だけいれて、二人は家出同然に小さなアパートに暮らし始めた。

その頃にはやっと厄介な経理や事務処理も一段落ついて、
余裕も出てきたし……二人の間には既に生後六ヶ月になる子供もいた。
まあ楽にとは言えないがそれなりの遺産を両親は宗一郎に残していたし、
彼は高校を出てから町の会社で働き始めた。相手の方は高校を中退して専業主婦になった。
まあ腹が目立つのに高校に出るわけにもいかないし、学校の方で強く押し付けたらしい。
学校なんてのは、嫌なくらい体面を気にするところだからな……。

で、ようやくのことで土地の方にも値がついて……と言っても国に安値で買い叩かれたんだが、
子供も健やかに成長し家も建てようかという本当に幸せ絶頂の時だった……、
癌でぽっくり死んでしまった。若いと癌の転移はかなり早いらしいからな。
そうして事件最後の容疑者も、今から十一年前に死んだというわけだ」

事件の容疑者のその後……。
祐一は須らく起こった不幸に驚きの念を隠し切れなかった。
と同時に、この方面から調べて行くという手が閉ざされたことに、
絶望に近い感覚が浮き上がってくる。

故人を尋ね、質問や疑問を投げかけることはできない。
だとしたらほぼ手詰まり……今までに得た知識から純粋に近い推理で、
真相を探り当てるしかない……が、自分にそれができるかとなると祐一には自信がない。

となるとどうするべきか……。
今現在いる関係者となると……祐一は先程の言葉を思い出してみる。
そうして、ようやく一人の人物に辿り着いた。

「えっと……じゃあ、その宗一郎の妻になった人っていうのももう死んだんですか?」

その女性なら……もしかしたら、生前に何か話を聞いているかもしれない。
いや、事件のことを知った上で結婚したのならその可能性は高いと祐一は思った。

「いや、彼女はまだ存命だよ。名前は……」

とそこまで世田谷が話した時だった。
突然、受話器の向こうが騒がしくなる。

「……というわけだ。こっちは別件だがまた事件が起きたようなんで出るよ。
彼女に話を聞くなら好きにやってくれ。けど、彼女は今回の事件には関係ない。
詳しい話は聞いてないが、事件の起きた時に姪と一緒にいたことは確かだから。
それじゃあ、また後で連絡するよ」

あっ……という間もなく、電話は一方的に切られた。
もう少し聞きたいことがあったのだが……と祐一は残念に思う。
特に桐谷隆司の妻、宗子の自殺について。
世田谷の言葉を信用するならば、あの事件もまた密室だった。
ノイローゼ気味だったとは言え、同じ場所で二件の密室が発生したことは事実なのだ。
そして、その内の一件は確かに自殺……。

そこまで考えて、祐一は一つ気付いた。
何故、世田谷が宗一郎のことを犯人と確信しているかということについてだ。
もし宗子の死が殺人の結果だとしたら、犯人は一緒に住んでいた宗一郎としか考えられない。
となると、宗子という人物の死も他殺なのだろうか?
でも自筆の遺書はあったのだ……祐一は頭がこんがらがりそうだった。

それに……祐一は思わず溜息をつく。
名字だけ出されたって、住所が分からなければ調べようがない。
かなり混線していたが、祐一には”ななせ”と言ったように聞こえた。
クラスに一人そんな名字の人間がいたような気がするが、
そんな偶然はないだろうと祐一は考える。

「あの、どなたから電話だったんですか?」

電話の前で頭を抱えていると、いつのまにか佐祐理が心配そうに祐一の顔を覗き込んでいた。
祐一は慌てて手を振ると、世田谷刑事からの電話の内容を全て説明する。

「そうなんですか……それは困りましたねえ」

佐祐理の言葉は多分、最後のことを指してのものだと祐一は考えた。

「まあ、向こうも忙しそうですし、しばらくは何も考えなくて良いと思うけど……」

祐一は正直な気持ちを口に出した。
どうも向こうから与えられる情報が断片的で、それでいて整合性がない。
それはこちらが事件についてうまくまとめられていないからなのかもしれないが……。

「そうですね、佐祐理もそう思います。ところであの……」

祐一がそんなことを考えていると、佐祐理が遠慮げに口を挟んだ。

「時間の方は大丈夫なんでしょうか?」

そう指摘されて、祐一は思わず時計を見る。
掛け時計の長い針は既に一のところまで来ていた。

「げっ、やべえ遅刻!!」

祐一はすぐさま我に返ると、慌てて鞄を背負った。
急いで出ていこうとするところを、舞の声が呼びとめる。

「……祐一、お弁当」
「あっ、悪い舞、サンキュ」

舞は絶妙のタイミングで、巾着袋に入った弁当箱を祐一に渡す。
それは、佐祐理の誕生日祝いで買ったお揃いの弁当箱だ。
巾着袋には緑の糸でY・Aと縫い込まれている。これは佐祐理が加えたものだ。
祐一はそれを鞄の中に押し入れると、全速力で走り出したのだった。

 

37 北川の悩み、再び

「相沢、どうしたら良いと思う?」

昼食後、太陽の照る真夏の屋上に呼び出した北川の第一声がそれだった。

「主語を端折るんじゃない。それじゃ何をどうして良いか分からんぞ」
「お、それもそうだな……」

北川は祐一の言葉にポンと手を打つ。

「いや、前にお前が押しの一手って話してたじゃないか」

今度は論点が微妙にぼやけていたが、
どうやら授業をふけてまで相談してやったことについて何か質問があるらしいと、
祐一はなんとなくそう察する。

「でも、いざとなったらどう声をかけて良いか分からなくてな」

やはりそうだ、と祐一は心の中で溜息をついた。

「だから、お前が好きだ、お前が欲しい……くらいなことを単刀直入に言えば良いんだよ。
香里ってそういう押し方に結構弱いと思うけどな」

勿論、これは祐一の憶測で本当かどうか分からないが。
お互い、憎からず思ってるのだから男からいけというのが祐一の思いだった。
だが、北川は慌てて強く首を振る。その動きで生まれた風が、僅かに祐一まで伝わる。

「そ、そんなこと、言える訳ないじゃないか」

途端に俯いてしまう北川。
普段は結構ざっくばらんなのに、北川はこういう時優柔不断だった。
祐一は、今度は本当に溜息をつく。

「そうだな……」祐一は少し考えてから、もう少しソフト路線な攻めを考える。
「だったら、共通項だな……」

「共通項?」 祐一の言葉に、北川は首を傾げる。

「お前と香里の共通項……つまり栞のことをまずは話題にするんだ。
それなら香里だって警戒せずにすむだろ。そこから徐々に自分の話に移って……、
そこからどういうかはお前の度胸次第だ」

その度胸が北川にあるかどうかはともかく、北川は顔色を明るくした。

「そっか、その手があったな。じゃあ近い内に……」

「いや、駄目だ。近い内になんて言ったんじゃ、踏ん切りだってつかないだろう。
今日だ。今日の放課後にでも呼び止めて、ここにでも連れて来るんだ」

「えっ、今日か? でも、まだ心の準備が……」

北川の甘い考えに、祐一は首を振った。

「甘いな、香里は俺が言うのも何だがかなりの美人だ。
お前がぼさっとしてたら、他の男子生徒にさらわれかねないぞ。
実際、この前も下級生から告白を受けてたし」

最後の言葉は嘘だったが、北川を促す為にはこのくらいの嘘が必要だと祐一は考えた。
案の定、北川は食って掛かるかの如く、祐一の方に迫って行く。

「ほ、本当か、それ……で、美坂はどう答えたんだ?」
「……勿論、断ったさ」

少しの間を置いて答える。
クイズ番組などで視聴者(解答者よりはそちらを意識している筈だ)を焦らすために、
よく用いられる手法だが、北川は驚くほど簡単に溜息をついてくれた。

「しかし、いつまでもフリーだと思ったら駄目だな。第一、香里が彼氏なしってこと自体、
奇跡に近い……ということを北川、お前は自覚しなければならない」

「うっ……」祐一の言葉に、北川は思わず喉を詰まらせる。
「そうだな、あんなに可愛くて良い娘なんてそうはいないよな……。
分かった、今度こそやってみる。相沢も俺のことを見守っててくれないか?」

「ああ」と祐一が答えると、北川は強くこちらの手を握ってきた。
いちいち気恥ずかしいことをするなと思いながら、
自分も一緒みたいなものだと祐一は考え直した。
そして、三度呼び出されることがないように強く祈る。

もうちょっと屋上にいたいと言うと、北川は軽い足取りで下に降りて行った。
祐一はそれから眩しく輝く太陽を見た。
そう言えば、現在に起きた事件はほぼ真昼に起きている。
吸血鬼は夜行性じゃないのかなと考えてみて、祐一は慌ててそれを頭から追い出した。

となると……祐一はこれからの予定を考える。
十八年前の事件が駄目なら、やはり現在の事件から考えるべきだろうか。
そうなると、一度大学の方も行ってみる必要があるな……。
頭の中で雑多なことをまとめると、祐一も屋上を後にした。

 

38 悲しい時は……

四時限目の授業が終わると、舞は川合恵美子の住むアパートに向かった。
彼女の住所は、以前に貰った住所表があったのですぐに分かった。
それから図書館に置いてある地図で、詳しい場所を調べた。

住所を見ると、集合住宅の類に住んでいることは分かる。
方向感覚は余り良くないので少し迷うと舞は考えていた。
しかし、予想と違ってその場所はすぐにみつかった。
恵美子の住居周辺に、不自然にマスコミ関係者の集まっている所があったからだ。

舞はその三階建てアパートに、住人のふりをして入り込んだ。
いつもやるようにポストの中身を確かめる(実際にはふりだが)と、
その中に川合恵美子の名を発見した。
そして、彼女はやっぱり事件に関係があるんだなと舞は漠然とだが思った。

それから三階に上がり、彼女の部屋である302の部屋のチャイムを押した。
マイクフォンになっているらしく、気だるそうな声が中から聞こえてくる。
その口調に、いつもの恵美子の快活さは微塵も見受けられなかった。

「……誰、ですか?」
「……私、川澄だけど」

舞がそう言うと、その声が僅かに華やいだような気がした。

「川澄さん? えっ、どうしてここにいるの?」
「……ずっと学校を休んでるから心配になった」

その言葉の後、しばらく向こう側の反応がなかった。
が、変わりに玄関で鍵が開く音がした。

「早く入ってね、マスコミの人が見張ってるから」
「……分かった」

舞はドアノブを捻ると、電光石火の勢いで部屋の中に入る。
久しぶりに見る恵美子の顔は、やはり元気がないように舞は思った。
彼女はこちらをしばらく眺めていたが、突然こちらにしがみ付いてきた。
それから、何も言わずに床に崩れ落ちる。

スカートに雫が垂れる……泣いているのだろうか、舞はそう考えて困ってしまった。
こういう時に、どうしたら良いか全く分からないからだ。
舞は少し考えて、恵美子の頭をゆっくりと撫で始めた。
泣きじゃくる子供をあやすのに、親がこうやっていたのを見たことがあるからだ。

何分経っただろうか。
ようやく落ち着いてきた恵美子が、涙で赤く腫れた顔をこちらに向けた。

「ごめんね、急に泣き出したりして。でも、知り合いの顔を見たら懐かしくなっちゃって。
突然、凄く悲しいなって思えて……涙が出てきて……」

そんな彼女に、舞は小さく首を振った。

「……分かる、そういう経験は私もあるから。
無性に悲しくなって、訳もないのに泣きたくなること」

そういう時に、側にいてくれる人がいること。
それが大切だということも、舞は知っていた。

「……河合さんは、一人暮しなの?」

「え、うん……ここから実家までは遠いから。
姉さんも近くにマンションを借りて住んでるの……いや、住んでたっていうのが正しいのかな?
姉さん、死んじゃったの。川澄さんも知ってるでしょ。文学部棟で起きた事件。
あそこで死んだの、私の姉さんなんだ。しかも、すっごく変な死に方をしたって警察の人は言ってた。
ナイフで何箇所も切ったような跡があって……私も見たけど本当に酷かった。

それで、マスコミが来てたでしょう。私の言葉が聞きたくてずっと待ってるの。
実家の方も、それで凄く苦労してるみたい。テレビで見たけど、レポータに囲まれてた。
悪戯電話とかも掛かってくるんだって、こちらにはまだないけど……。
だから、事件が収まるまで大学には行かない方が良いってお父さんが言って。
それでずっと休んでたんだ……川澄さんには心配掛けたみたいでごめんね」

恵美子は涙声で、舞に事情を説明してくれた。
舞はそんな状況を、何となく理不尽だと思う。
何故、何もしてない恵美子がこんなに苦労しなければならないのだろう。
何も悪いことはしてないのに……。

「……大変なんだ」
「うん、でも今日、川澄さんが来てくれて少しすっきりしたよ」

そう言って貰えると、何となくくすぐったい気がする。
舞はそう思いながら、いつから大学に来れるのかを尋ねてみた。

「河合さん、いつから大学に出て来れるの?」
「う、ん……やっぱり、今回のことが解決するまでかな」
「……解決って、犯人が分かって皆が納得するまでってこと?」
「そうだね、多分、そうなると思う」

恵美子は少し考えてからそう答えた。
だとしたら……もしも全てを明らかにすれば良いのなら、
尚更今回の事件について真剣に取り組まなければいけない。
そう決意を強くする。

それから恵美子と三十分ほど他愛のない話をした。
大学であったこと、恵美子の友達が様子を心配していたこと。
好きな俳優やテレビ番組の話……こういう話も楽しいなと舞は思った。
佐祐理や祐一と一緒の時も、こういう話を時々しようと考える。

「今日は本当にありがとうね」

帰る間際、恵美子は舞にはにかみながらそう言った。

「……それなら良かった……河合さん、あの、うまく言えないけど……、
元気を出して欲しい」

「うん、努力はしてみる」

舞はその姿を見て、安堵の息を漏らしながら部屋を後にする。
それから玄関に出ると、群がるレポータたちを強く睨み付けた。

 

39 水瀬家の晩

佐祐理がケーキ屋でのアルバイトを終えて水瀬家についたのは七時半少し過ぎだった。
金曜日は午前中しか講義を入れてないのと、ケーキ屋が一番盛況な日なので、
一週間の中では一番忙しかった。しかし、その分やりがいもあると佐祐理は考えている。

家に入ると、秋子と真琴が佐祐理のことを出迎えてくれた。
二人を見ていると、もうすっかり親子と変わらないと思う。
そう考えることは、佐祐理の心を暖かくさせた。

ダイニングに向かうと、夕食がざるうどんであることが分かった。
今日のように少し暑い日には、とても良いメニューだと思う。
疲れていて少し食欲のない佐祐理には、より嬉しかった。

「あっ、こんばんは、佐祐理さん」

席についていた名雪がこちらに顔を向ける。
舞はその向かい側に座っており、佐祐理は改めて皆に挨拶した。

「あとは祐一だけど……」

真琴が時計をちらりと見る。八時前だから、皆お腹が空いているだろう。
こんな時間まで待たせて申し訳ないと佐祐理は思った。

「あっ、祐一さんならバイトで遅くなるそうです。
今まで働かなかった分を取り戻さなければいけないって。
だから、夕食は先に食べて良いとのことです」

「そうですか……祐一さんも大変ね」

秋子は少し心配げな表情を見せたが、次には皆に笑顔を向けた。

「じゃあ、一足お先に食べましょうか。
祐一さんの分は残してますから、沢山お代わりして下さいね」

それから「いただきまーす」の斉唱があって、各々がうどんを口に運び出した。

「あう、くっついててうまく取れないよ」

真琴が箸で掴んだ大きな塊のうどんを取り出して、泣き出しそうな顔をしている。

「はい、これで良いですよ」

そんな様子を見て、秋子は微笑みながらうどんを選り分けてあげた。
隣を見ると、舞は丁寧な箸捌きでうどんを取り分けていた。
なんとなく、癖でそんな光景を眺めてから佐祐理もうどんを掴んだ。

佐祐理はいつも思うのだが、秋子の料理は出汁などの基本ベースの味の取り方が、
プロ級に上手い。料亭などで食べるものと比べても全く遜色がない。
料理には少し自信があったが、上には上がいるのだなと佐祐理は思った。
だから、休みの日には秋子に料理をよく教わっている。

「うー、もうお腹一杯……」

名雪が本当に満足そうな顔をしながら箸を置いた。
秋子の料理なら、ダイエットを決心した女性だってたちまちお腹一杯食べてしまうだろう。
そんな魅力が彼女の料理にはあると佐祐理は感じていた。
ただ美味しいだけではなく落ち着くような……うまくは説明できないけれど。

料理が片付くと、会うのが五日ぶりということでそれぞれの近況報告になってくる。
今日も例外ではなかった。

「佐祐理さんや舞の方じゃ、何か変わったことがあった?」

真琴が無邪気にそう尋ねてくる。
変わったこと……と言えば、やはりあのことだろうか、
そう考え、佐祐理は刑事が家に訪れて来た時のことを話した。

「へえ、刑事さんが事件を解決してくれってきたんだ……凄いなあ。
なんか、漫画でやってる探偵物みたい。名探偵の血をひくとかって……」

「あははーっ、佐祐理のお爺様は探偵ではありませんでしたけどね」

「警察かあ、わたしなんて警察の人と仲良く話すなんてできないよ。
お前がやったんだろってやってる、怖い顔の人ばかりなんでしょ、刑事って」

名雪がそんなことを言いながら、会話に参加してくる。

「二時間ドラマに出て来る刑事ってそんな感じだよね。
佐祐理さんのところに来た刑事さんもそんな人だったの?」

佐祐理はそう言われて、世田谷刑事の顔を強く思い出してみた。
目は眼光鋭く、しかし全体としては温和な感じだった。
よくドラマででてくる鬼刑事とか、そういうタイプでは決してない。

「……狸に似てる、狸親父みたい」

舞がぽつりと言った。
そう言えば、目に隈があるところや人を化かそうと狙っているようなところが、
何となく狸っぽいイメージを彷彿とさせるなと改めて佐祐理は思う。

「うーん、どっちかって言うと主役をはってる刑事みたいな人?」
「……そんな感じ」

名雪はそれで納得したのか、うんうんと頷いている。
どうやら彼女の中では、それなりのイメージが出来上がっているらしい。

佐祐理はそんなことを考えながら、秋子の方を見た。
楽しそうに会話に加わっている真琴や名雪に比べて、どうも険しい顔をしている。
こういう表情をしていること自体珍しいので、佐祐理は気になって声を掛けてみた。

「あの、どうしたんですか?」

すると秋子は体を小さく震わせた後、不安げな表情で言った。

「いえ、佐祐理さんの話を聞いていると……。
その事件ってテレビでやっていたものですよね。
確か大学生がナイフでずたずたに切り裂かれた事件だって……。
だからその、佐祐理さんや舞さんに危険なことがないかなって思って。
前も別の事件を追いかけていて、危険な目にあったって言ってたし……」

そう言って、ちらりと佐祐理、それから舞の方を見た。
佐祐理はそんな秋子を見て、本当に優しい人なんだなと思った。

「大丈夫です。危険なことには直接的に関わらない事柄ですから。
だから、前のように危険なことはないですよ」

「……そうですか、なら良いんですけど」

佐祐理が説明すると、まだ少し不審げに秋子は答えた。
その様子に少し心がちくりとする。

十時近くになり、皆が風呂に入り終えた辺りでようやく祐一が帰ってきた。

「いや、今日は本当にこきつかわれたよ……」

居間に顔を出した祐一の第一声がそれだった。
急いで帰ってきたのだろう、声が少し上ずっている。

「祐一さん、夕ごはんの方はどうしますか?」
「あっ、お願いします。もうお腹ぺこぺこで……」

そう言いながら、笑ってダイニングに向かう。
テレビにはニュースが流れてきた。
例の事件のことが報道されて、佐祐理は思わず姿勢を前に屈める。
しかし、キャスタの述べることは今朝のニュースと比べて変わり映えするものはない。

微かに嘆息をつく佐祐理。
そんな状況で……不意に奇妙な事実に気がつく。

それは明らかにおかしかった。
今朝得られた知識に間違いないとすれば決定的におかしいこと。
でも……佐祐理には俄かに信じ難いことだった。

(まさか、でも……)
(本当に、あの人が!?)

いくら排除しようとしても、
それはヘリウムを注がれる風船のように急激に膨らんで行く。
いつのまにか、佐祐理は暗い思考の渦に強くはまり込んでいった……。

 

40 恐怖

どうしてこんなことになったんだろうか。
なぜ、あんな事件が起きたのだろうか?
私はそのことを、事件が起きてからずっと考えてきた。

そんなことはない筈なのに……私の胸には恐ろしい光景が浮かんでしまう。
殺人……ナイフを持った……そして、頭を強く振って、そんな考えを追い出す。
その繰り返しだった。

まさか、本当に吸血鬼なんてものが現れたのだろうか?
彼女は吸血鬼に殺されてしまったのだろうか?
それとも……。

どちらにしても、怖い。
何が起こったのか分からないという強い不安。
次は私の元に現れるのではないかという、強迫観念。

どうしたら良いの?
どうしたら……。

そんなことがばかりが、頭の中を駆け巡り迷い尽くした頃だった。
不意に……ドアをノックする小さな音が聞こえた。

誰?
まさか?
本当に?

そんなことを考えながら、私は恐る恐るドアを開けた。
そこに立っていたのは……。


あとがき

二ヶ月近くのご無沙汰です。
吸血鬼の密室、第六話をお送りしました。

今回、洒落にならないほど長いです。
40KB弱というのは、最長記録なのではないでしょうか。

次回からは過去編、十八年前の事件に話が移ります。
そちらの舞台背景を描いて、それから現代に戻っていきます。
ちなみに言っておくと、40での私と他の場面で出て来る『私』は別人です。
この辺りの混同を避けるために、こういう処置を取りました。

これは一応、述べておかないとアンフェアになるので……。
では、第七話でまたお会いしましょう。

[第五話][第七話][BACK]