第九話
〜過去と死者の挟間〜

49 亀裂

少なくとも祐一は、この日が平穏な流れの中に含まれていると疑っていなかった。
カーテンから微かに漏れる光と、反比例した間延びした従兄妹の声は、
祐一は気だるくも清々しい覚醒感を湧き起こさせる。

反射的に大きな伸びをすると、祐一は制服に着替えてダイニングに向かった。
そこでは秋子が一人、朝食の準備に取りかかっていた。
いつもなら水瀬家にいる時は、佐祐理が脇について秋子をサポートしてるのだが、
今日は姿が見えない。寝坊したのかなと思いながら、祐一は席に着く。

「あら、祐一さん、おはようございます」
「おはようございます」

と同時に、秋子も祐一の方に気が付き朝の挨拶をする。
祐一も挨拶を返すと、流れ込んでくる朝食の匂いを楽しんでいた。
時間は七時十五分、まだ十分に余裕はある。

しかし、祐一が朝食を食べ終えてもダイニングには誰もやって来なかった。

「名雪はともかく、佐祐理さんと舞は遅いですね……」

祐一が声をかけると秋子は「ええ……」とそれだけ返した。
大学は完全週休二日制なので別に良いのだが、少しだけ気になる。

「きっと、少し疲れてるのよ。色々と考え事もあるでしょうし」
「あ、そうかもしれませんね」

例えば、今も例の不可思議な事件について考えを巡らせているだろう。
気が滅入ることもあるかもしれないと祐一は思った。
しかし、取りあえずは名雪を可及的速やかに起こすのが先決だった。

「じゃあ俺、名雪を起こして来ます」

そう言うと、祐一は席を立ち、一目散に名雪の部屋へと向かった。
そろそろ目覚し時計が一斉に鳴り出す時間……。
と祐一が考えた途端、大音量の斉唱が二階を席巻した。

祐一は目覚ましを止め、半睡眠状態の名雪を叩き起こすという朝一番の荒業をこなす。
最近、凶悪化の一途を辿り続けてると思いながら、
祐一はパジャマ姿の名雪をひきずるようにして下へと引っ張って行った。

すると、ダイニングに舞と佐祐理の姿が見えた。
どうやらすれ違いになったようだと思いながら、祐一は椅子に座る。

「……おはよう、祐一」

舞が珈琲に注がれた視線をこちらに向けて朝の挨拶をする。
舞は少し珈琲を啜ると、僅かに顔を顰めてそれをテーブルに置いた。
舌がお子様なのか、舞はクリームに砂糖を二杯入れないと珈琲が飲めない。
それなら紅茶やジュースでも良いだろうと祐一は言うのだが、舞は頑として聞かない。
どうやら、祐一や佐祐理が平気で飲んでるから自分もと言うことらしいのだ。

そんな強情さも舞らしいと思いながら、次に祐一は佐祐理の様子を見る。
すると昨日は元気であった筈の彼女の顔に、隠し切れないほどの憂いの表情があった。

「佐祐理さん、元気がないようだけど大丈夫?」

祐一が心配して声をかけると、佐祐理は「ええ、大丈夫ですよ」と言いながら、
無理のある笑いを浮かべてみせた。けど、その試みは失敗していた。
笑顔は微かに強張り、かなりの動揺を見せている。祐一は不審に思った。

「本当なのか? 風邪とかひいたりしてないのか?」

祐一が再び尋ねると、佐祐理は今まで見せたことのない口調でこう言い放ったのだった。

「大丈夫ですから……心配しないで下さい」

そして、祐一の視線を避けるように朝食へと視線を向けてしまったのだ。
舞も珍しく機嫌の悪い佐祐理の様子に面食らっているようだったし、
秋子はその姿を心から心配げに眺めていた。

それらの視線に気付いたためだろうか、棘の含まれた雰囲気を無理矢理覆い隠して、

「あ……ごめんなさい、祐一さんは佐祐理のことを心配してくださったのに、
あんな言葉を返してしまって……すいません」

まるで教師に叱られた生徒のようにしゅんとなってしまう。
祐一にはどうして良いか分からず、思わず狼狽してしまった。
舞は佐祐理に一瞬手を伸ばしかけたが、それは空中で固まってしまう。

何かがおかしいと祐一は思った。
しかし、その原因が分からず妙にもどかしかった。

「本当に……大丈夫ですから。この通り、元気一杯ですよ」

佐祐理はこの重苦しい空気を払うため、笑いながら力拳を作ってみせた。
しかし、この場にはわざとらしく不恰好であるだけだった。
祐一も舞も秋子も、決して笑い返すことができなかったのだ。

しかし、その様子を見て佐祐理はこの場を取り繕うような真似はしなかった。
それで、ダイニングの場はますます重くなってしまう。
その雰囲気を感じ取ったのだろう、今まで眠っていた名雪の目もパッチリ覚めているようだった。
しかし、前後の会話が分からないためかその様子を戸惑いながら見回すだけだった。

「えっ、みんなどうかしたの?」

名雪が尋ねるが、すぐには誰も答えない。
辛うじて年の甲だろうか、秋子が言い訳がましい説明をしてみせた。

「えっとね、佐祐理さんが少し調子が悪いらしいの」
「そうなんだ……あの、大丈夫なんですか?」

名雪が佐祐理におずおず話しかけると、佐祐理は先程よりもペースを取り戻したらしく、
弾んだ声と見せかけのだるさを内包したような様子を演じてみせた。

「はい、でも少し休めば大丈夫ですから」
「そっか……なら良いけど」

名雪はしばらく佐祐理の方を心配そうに眺めていたが、一応納得したようだった。
変わって、今度は秋子が口を開いた。

「それで三人とも、今日と明日は何か用事がありますか?」

祐一には特に用事はなかったので、それを言おうとしたのだが、
その前に舞が珍しく一番手で声を発した。

「……私は、今日は大学に行く予定がある。けど、明日なら大丈夫」
「えっと、大学って週末は休みなんですよね。何か用事があるんですか?」

名雪が尋ねると、舞は決意のこもった目でゆっくりと答えた。

「……確かめたいことと、調べたいことがある」

祐一にはその言葉で何となく検討がついた。
舞は事件のことを、現場に訪れてもう一度調べるつもりなのだ。
祐一も大学には入学式以来、一度も訪れていなかった。
それに、確かに現場を調べることは何かの手助けになるかもしれない。

「俺も学校が終わったら、舞と合流するよ。
だから、舞と一緒で明日なら予定はないと思う」

それから、祐一は舞に目配せした。
舞がそのことを悟ったかは分からないが、無言で頷いてみせた。

「佐祐理も……明日なら大丈夫だと思います」

佐祐理は少し考えた後、そう答えた。
それから秋子と少し視線を通わせた後、徐に席を立つ。

「じゃあ、すいません……少ししんどいので部屋で休みます」

そう言うと、こちらを省みずにダイニングを後にする佐祐理。
その様子を見るためだろうか、秋子も佐祐理の後を追った。
そして、ダイニングには困惑に放り込まれた祐一、舞、名雪が残った。

「……大丈夫かな?」

名雪が奥の方に消えた佐祐理と秋子を指して、ぽつりと呟いた。
けど、少なくとも祐一と舞は佐祐理が病気ではないことを知っている。
彼女は明らかに、ばれると分かっていてあんな嘘をついたのだ。
こんなことは、祐一が佐祐理と出会ってからですら初めてだった。
彼女が意味もなく、嘘なんてついたりしないことは彼と舞が良く知っている。

祐一は舞と視線を通わせるが、舞は静かに首を振るだけだった。
どうやら舞にも、その原因はさっぱり分からないらしい。
祐一は耐え難い沈黙に、思わず時計を見た。
七時五十分……この時間にくつろいでいること自体、かなり珍しいことだ。
しかし、今の祐一にはその余韻に浸っている間など全くなかった。

やがて名雪が自らのパジャマ姿に気付いたのだろう。

「あ、じゃあわたし、ちょっと着替えてくるね」

そう言って、一足先に二階へと上がって行った。
二人きりになると、舞は悲しげな目で祐一を見る。

「……佐祐理、どうしたんだろう」
「……さあ、俺にも分からない」

舞は奥の部屋に通じるドアを不安げに眺めている。
祐一も同じ行動を取っていたのだが、秋子が戻って来たことで視線はそちらに移った。

「あの、佐祐理さんは大丈夫なんですか?」

祐一が尋ねると、秋子は少し迷った後に笑顔で少しだけ頷いてみせた。

「ええ、少し横になっていれば元気になると思いますよ」

それなら良いけど……秋子がそう言い切ってくれたので、祐一は何とかそう思うことにした。

「……そうか、佐祐理は大丈夫なんだな」
「……ええ」

舞が祐一と同じく、それよりも真摯に秋子へ問いかける。
彼女はもう一度、はいと答えた。それでようやく、舞も安心したようだった。

「……それなら良いけど」

そう言った後で、僅かにふうと息を吐いた。
秋子は病人用の水差しに麦茶を注ぐと、再び佐祐理の元へと戻っていく。
その姿を見届けたあと、祐一は口を開いた。

「で、例の件はどうするんだ?」
「……剣なら、押入れの奥に眠ってる」

祐一は派手にテーブルで頭をぶつけた。

「けんの意味が違うって。今日、舞が通っている大学に行くんだろ。
何か調べたいことがあるって話してたし」

「……そう。事件のあった場所と、もう一箇所。
少し経って、佐祐理の調子を確認したら行こうと思ってる」

「そっか……俺は午前中に授業があるからな。
午後からしか協力できないけど……どこか合流場所を決めないとな」

舞は少し考えたが、やがてぽつりと一言。

「……正門で良い」

確かに、それが一番分かり易いと祐一も思った。

「分かった、じゃあ昼の一時過ぎに大学の正門前だな」

舞はコクリと頷いた。それからまた心配になったのか、再び奥のドアに目を注いでいた。
祐一もそのことは気になる。彼女は絶対、何かを隠している。
しかも、親友の祐一や舞にさえ留めておくような重大な秘密だ。
祐一は煩悶とした思いを抱きその理由を必死に考えてみたが、思い当たるところはなかった。

 

50 舞の単独捜査(前編)

「……しまった」

舞は文学部A棟の前に立ち、そう呟く。今日は週末であるため、
基本的に大学の校舎は封鎖されるのを舞はすっかり失念していた。
ドアを何度も前後させたが、ガラス張りのドアはうんともしない。

時間は十時前。祐一に言った通り、佐祐理の様子を確認してから舞は家を出た。
その佐祐理の様子は、やはり少し余所余所しかった。
何かを隠しているのは間違いないのだが、佐祐理は話してくれない。

「ううん、何でもないから心配しないで」

ただ、そう言っただけだ。だから、舞は余計に心配だった。
佐祐理が何かを抱え込んでいるのは分かっている。
しかも、非常に重大な何かを。舞は、佐祐理がそれを話してくれないことが悲しかった。
辛いことは一緒に分け合いたい、祐一が以前にも言っていたことだが、
その言葉を今ほど痛感したことはなかった。

できれば、佐祐理の側にずっといたかったが、やらなければならないことがあるのも事実だ。
後ろ髪ひかれたが、秋子が佐祐理のことをずっと見ていてくれると言ったので、
舞もようやくここまで出かけて来たのだ。しかし、最初から躓いてしまった。

ドアの横にはパスコードと、キィを指し込む小さなスロットのようなものが見える。
どうやら、この二つを知らなければ中には入れないようだ。
裏口や横口も探索してみたが、どれも鍵が掛かっていた。

いよいよもっての八方塞に、舞は不意にガラスを壊して入ろうかと考えてしまう。
しかし、それだとみんなに迷惑がかかるだろうと思い直して別の方法を考えた。
誰かに事情を説明して中に入れてもらうか、鍵を持っている人を探すか……。

「あれ、こんなところで出会うなんて奇遇だね」

階段に腰掛けて考えをおよばしていると、不意に一人の男性が声をかける。
見上げると、半袖シャツ一枚に薄茶のジーパンを履いた男が立っていた。
奇遇だと言われたが、舞には全然思い当たる節がない。

「……誰?」

と素直に疑問を投げかけると、男性ははあと溜息を付いた。

「まっ、引越しのトラックの運転手なんて誰も覚えてないか……」

そんなことを呟く男性。そう言われて、何となく舞は男のことを思い出した。
確か、舞が住んでいる場所に引っ越す時に、トラックを運転していた男だ。

「……思い出した」
「本当? 嘘言ってない?」
「……多分、で名前はなんて言うんだった」

男は再びいたたまれぬ表情をしたが、やがてポンと手を打った。

「あ、そういや名前を名乗らなかったよな、ははは……」

そして空笑いをすると、コホンと咳払いをして一言。

「俺はここの大学の四年生で藁苗龍巳って言うんだけど……」

その先の言葉は、舞には入って来なかった。
ただ、この名前はどこかで聞いたことがあると思っただけだ。

やがて、相手の弁舌が止まった頃だろうか、ようやく舞は彼の名前を思い出す。
マンションにやって来た刑事が話していた中に、彼の名前があったのだ。

「……で、暇だったら今度友人と一緒に飲みにでも行けたらなんて」
「……断る、それより少し聞きたいことがある」

余りに突然だったのだろう。或いは舞の剣幕が凄かったのかもしれない。
藁苗は自らの野望が潰えたとも知らずに、背筋をぴんと伸ばしていた。

「……お前は、月曜日に事件があった日、現場にいた人間か?」

舞の言葉に、相手は何を問われているのか最初は分からないようだった。
だが、すぐに思い至ったらしく、大きく顔を歪める。

「ああ、あれか……。そうか、テレビか何かで見たんだな、俺の名前を」
「……違う、刑事さんに聞いた」

刑事という言葉に、藁苗はますます混乱した。
何故、刑事から事件のことなど聞けるのだろうか……と。

「刑事さんって、けいじって名前の人じゃないよな」
「……違う、警察からやって来た人」

藁苗は舞の科白に、怪訝な視線を向けた。
そして一言。

「お前、何者だ?」

そう言われても、舞には咄嗟にどう答えて良いか分からなかった。
何か自分を表す良い言葉はないだろうかと考えてみる。
そして、ようやくある科白が舞の頭の中に浮かんで来た。

「……華も恥らう大学一年生」

 

51 舞の単独捜査(中編)

「あはははは、普通あれは言わないよなあ」

藁苗は未だに時々笑い出しながら、同じようなことを言ってくる。
やっぱりあれはよくなかったのだろうか……、
そんなことを考えながら、舞は藁苗の勧めた椅子に座る。
他人の席だろうと舞が言うと、この人は夕方にならないと現れないと言い切った。
昼は働いているのかなと舞は思ったが、口にはしなかった。

それから、部屋の中をぐるりと見渡す。
所狭しと並んだ机には、書類やゴミが散らかっているものが多い。
綺麗な女性のポスタや怪獣のソフトビニル人形、500mlペットボトル、
スチル缶、アルミ缶、漫画、小説など様々なものが置かれていた。
全体的に汚い部屋だなと言うのが、舞の率直な意見だった。

「いや、まあ事情は分かったから良いとして……」

藁苗は何度も頷きながら言った。あれから舞は詳しく事情を説明……、
と言っても上手く説明できたか分からないが、相手の方は納得してくれたようだ。

「それにしても、あの時の連中がそんな難解な事件を解決したなんて知らなかったよ。
知ってたら詳しく話を聞いてたのに……結構、推理物とか好きだからさ。
あのロッジの事件って、一時凄い騒がれただろ? 雪の密室殺人だって。
あれを警察が解決できたなんてさ、おかしいと思ったんだよ。
じゃあさ、全員を集めて犯人は貴方だってやったのか?」

「……そんなところ、実際にそれをやったのは佐祐理だけど。
ところで、ここであったことについて訊きたい」

「ああ、何でも話すよ。素人探偵に尋問されるなんてチャンス、
一生に一度あるかないかだもんな……」

藁苗は興奮気味にそう言う。
舞はその様子を見て、まず一番に訊いた。

「……お前は犯人か?」

藁苗は机に頭をぶつけた。

「無茶苦茶、単刀直入に訊いてくるな……」
「……だって、何でも話すと言った」

舞がそう言うと、藁苗は額を押さえながら笑いを堪えて答えた。

「NOだ、俺はやってないよ。大体、犯人は……いたらの話だが、
あいつは俺とここの先輩の二人の目の前、正確にはドア越しだが、
あんな酷いことをやって、忽然と部屋から消えたんだからな」

藁苗はその時の情景を思い出したのだろう、体を小さく震わせた。

「……成程。じゃあ、犯人は人間だと思うか?」
「えっと……それって、真面目な質問、それとも君の捜査スタイル?」
「……こんなところでふざけたことは訊かない」

藁苗は舞の質問の意図を探っていたようだが、やがて真面目な顔をして答える。

「多分、人間だろう。怪物ならナイフは使わないだろうからな」
「……それもそうかも」

舞がずっと戦いを繰り広げて来た魔物は、皆が素手で襲いかかって来た。
そんな特殊な力があるのなら、武器など使わなくて良いのだ。
そう納得すると、舞は次の質問にうつった。

「……では、あの時のことを話して欲しい」

舞は以前、テレビで見たサスペンスの刑事の真似をしてみせた。
こう尋ねたら、相手は何でも答えてくれたことを思い出したのだ。

「なんか、今度は急に態度が……まあ良いか」

藁苗は頭を掻きながら、月曜日にこの場所であった出来事を話した。
丁度二限目の終わり、十一時五十分頃に隣の部屋で叫び声が聞こえ、
事切れる寸前の死体を発見するまでのことを。

「もう、あの時は心臓がバクバク言ってたよ。身近にあんな死に方した奴を見るのは、
しかもそれが見知った顔だったんだからな。最初はどうして良いか分からなかったよ」

「……ふむふむ、それは分かった。それでは続きを話して欲しい」

「続きってなあ……他には何もなかったよ。あの後、教授と先輩で……、
雲場って名前の人なんだけど、二人が彼女の様子を確かめてから揃って部屋を出た。
それから救急車を呼んで、俺らの話を聞いたら警察の方も呼んでたんだ。
それが本当なら、刑事事件の可能性があるってね。それだけだよ。

いや、そっからが大変だったな。とにかく刑事には質問責めにあうし、
何度も警察に呼び出されては同じ話を何回もさせられて、それは本当ですかと詳しく聞かれるし。
もう少ししつこかったら、そうではないと言っちゃうとこだったよ。
いや、あれを見てると冤罪事件ってあるんだなって背筋が寒くなったよ。

えっと事件のことだったよな、それでおしまいさ。
で、夏休みを一日でも取り戻すため、休日に事件の起きた場所で、
一人寂しく勉学に取り組んでるって訳だよ」

よく動く口だなと感心しながら、舞はずっと話を聞いていた。
しかし、刑事に聞いたものと内容は余り変わらなかったし、
結局のところ他に事件のヒントとなるような場所は見つけられなかった。

舞は考えをまとめると、かねてからの計画の一つを発動させた。

「……分かった、じゃあ最後に現場を見ても良いか?」

あくまで刑事っぽく、フレンドリィに。舞はそれを心掛けながら言った。
祐一がよく、舞は無愛想だからこういう時は損をしていると話してたからだ。

「ああ、いいけど。でも、秘密の隠し通路なんてないけどね」

藁苗はそう言いながら、事件現場へと舞を招いた。
実際に事件の起こった場所に来たら何か分かるかもしれないし、
僅かな魔物の残り香を嗅ぎ取れるかもしれないからだ。
魔物には隠し切れない独特の臭いというか、気配が存在する。
少なくとも、舞の対峙した魔物にはそれがあった。

しかし、そこにそのような臭いは微塵も感じられなかった。
閑散といらないものが置かれてある、普通の物置といった感じだ。
見通しは良いし、パッと見では隠れられるようなところは見当たらない。
床や壁には事件の痕跡であろう、血の痕跡がまだ部屋中に残っていた。
こういうものは、なかなか拭き取れるものではない。
戦いの場に身をおいていた舞は、そのことをよく知っている。

しばらく部屋をきょろきょろと見回していたが、
やがてようやく人が隠れられそうな場所を一つだけみつけた。
それは本棚の一番下の段だった。ここだけ中から外が見えない。

舞は近寄って開けてみたが、途端に失望することになる。
そこは色褪せた過去の論文や資料、がらくたなどが適当に放り込まれていたからだ。
これでは人間が隠れることなどできないだろう。残念に思いながら、舞は棚の扉を閉めた。

「そこは、ここに来た刑事が一番最初に調べていったよ。
けど、そんな所は小動物でもなければ隠れられないと思う。
犯人がそんなものに化けて、ずっと潜んでいたなら話は別だけどね。
見たら分かるけど、ここには他に出口はないし本当に密室なんだよ」

藁苗はそう言いながら、壁をコンコンと叩いて見せる。

「こうやって抜け穴が発見されたらどんなに良いか……」

舞もそれに倣って全ての壁を叩いてみたが、やはり抜け道なんて見つからなかった。
床が剥がれないか調べたが、リノリウムの床は思ったより頑丈だった。
そのことを確かめるに至って、舞はようやく捜査の手を緩めた。
ここを探しても何も分からないと思ったからだ。

「……駄目だ、さっぱり分からない」

舞が素直にそう述べると、藁苗は軽く溜息をついた。

「名探偵でも、この密室の謎は解けずか……となると本当に化け物でも現れたかなあ」

すると本格的に武器を用意するべきだろうか。
舞はそんなことを考えたが、ふと一つ大事なことを尋ねていないことに気がつく。

「……もう一つだけ訊きたい。川合優子さんはどんな感じだった?」

そのことが分かれば、せめてあんなことをやった人間は分かるのではないか、
舞はそう思ったのだ。だが、それは無駄だった。

「さあ、俺はほとんどここに来てないからなあ。合わせても二十日分くらいしか会ってないし。
ただ、ちょっと神経質って感じはしたよ。まあ、薬物中毒の人間って、
多かれ少なかれそういう症状を示すって学校で習ったけど……。
あの日、一緒にいた雲場さんは彼女の恋人だったらしいけど、親しくないから。
結局、あの人がどんな人間かはよく分からないんだ。
他の同僚の人間に訊けば少しは分かるだろうけど……」

そう言って、藁苗は大袈裟に首を振ってみせた。

「……そうか」舞はぼそりと呟くと、いよいよ訊くことが何もなくなって困ってしまった。
となると藁苗の言う通り、他の同僚の人が来るまで待つべきだろうか。

そう考えていた時だった。
丁度、舞の待ち望んでいた同僚が姿を現わしたのだった。

 

52 舞の単独捜査(後編)

ドアが不意に開き、舞は思わずその方向を見た。
そこには舞より一回り年上らしい、痩せ気味の男が立っていた。
顔色はかなり悪く、何かに脅えているように舞には思えた。
無地のYシャツとブルージーンズを着ている。

その男性は舞を見ると、見咎めるように目を細めた。

「藁苗君、この人は誰かな?」
「あ、雲場さん。えっと、この人は……」

状況を察してか、藁苗が雲場と呼ばれた男性に説明をする。
ともあれ……舞は二人を交互に見比べた。
これであの時、現場にいた人間のうち二人が揃ったことになる。
舞にとっては非常に都合の良いことだった。

事情を説明し終わったのだろう。
雲場は先程よりも遥かに好意的な目を舞に向けた。

「そうか、君も優子の事件のことを調べてるんだね。
で、どうなんだ。犯人は人間か、それとも化け物なのか?」

「……今のところは分からない」

雲場の慌てた口調に、舞は冷静に答える。
すると、相手は俄かに落胆したようだった。

「そうか……まあ、警察があれだけ調べてもさっぱり分からないんじゃあ仕方がないか」

割と冷静にそう言うと席につく。

「で、どのようなことが聞きたいのかい?」

雲場は無気力げにそんなことを尋ねて来た。

「……川合優子さんのことについて」

舞がそう言うと、雲場は全身を強張らせた。
しばらく俯いたまま黙っていたが、やがて一言だけ言った。

「僕と優子が恋人同士だってのは知ってるよね」

舞がこくりと頷くと、雲場は話を続ける。

「とは言っても、世間一般で言うような関係じゃなくて……、
まあ親密なパートナーというか尊敬し合う仲と言うか……、
優子はそういうところがさばさばとしてたし、仕事至上主義みたいなところがあったから。
で、休みの日には彼女の憂さ晴らしに付き合ってたよ。
優子とは趣味が一緒で、付き合うようになったのはそれが原因なんだけどね。

だから、優子の私生活については余り知らなかったんだ。
確かに最近、少し感情の起伏が激しかった気もするけど、
彼女は何かに没頭するとそうなるから余り気にしてなかった。
実際、優子はずっと忙しかったから。僕もそれに付き添っていた。

まさか、覚醒剤なんてやってるとは知らなかった……。
そういうものに依存してたなんてね、それは凄くショックだった。
優子は本当に強い人間だと思ってたから……余計にショックだったよ」

同じ言葉を二度使ったことに、雲場の苦悩が滲んでいるようだった。
少なくとも、舞は大切な人を失って悲しんでいるのだと思った。
それはとても悲しいことだと、知っているから。

「あいつ、話してたんだ。自分は吸血鬼に殺されるかもしれないって。
昔、ここに屋敷が建っていてそこの主人がそうだったって。
あの時、もう少し真面目に聞いていれば、優子は死ななかったかもしれない……」

それは、雲場という男性の心からの後悔の声だった。
それからもう一度、彼は舞に問いかけた。

「優子を殺したのは……吸血鬼なのか?」

しかし、舞には首を振って答えることしかできなかった。

「……今は分からない。でも、何とかなる」

自分には分からなくても、佐祐理や祐一なら何とかしてくれる筈だ。
そんな確信が舞にはあった。そして、舞は藁苗と雲場の二人に頭を下げた。

「……だから、今はありがとう」

舞はそう言った。

「……悲しいことを話してくれて、ありがとう」

そして、舞は部屋を後にした。

 

53 不当なる迫害

「ふーん、成程……」

一時十分過ぎ。
合流した舞から話を聞いた祐一は、現場にいた二人の証言を反芻していた。

「で、それからはどうしたんだ?」
「……残念ながら、弓道部の道場は閉まっていた」

祐一は真面目に語る舞の姿に、思わず脱力した。

「それは……まあ、良いか」

舞は舞なりに精一杯、動いてくれているのだから。
祐一は普段、どことなく脱世的な雰囲気を持つ舞のしっかりとした部分が見られて、
こいつも少しずつ強くなってるんだなあとしみじみ感じた。

「でも、結局は密室の謎も分からずしまいだよなあ。
抜け道はなかったし、その本棚にも隠れる場所はないんだろう?」

「……念入りに調べたけど、なかった」

舞が調べたのなら、間違いないだろう。
こういうことに関しては、ひたすら熱心にやるタイプだからだ。

「となると、いつ犯人は部屋に入り、そして出たのか……。
くそっ、俺も犯人怪物説に乗り換えるかな」

祐一は頭を掻くと、余裕そうに見える舞に話しかけた。

「それで、舞は何か分かったことがあるのか?」
「……頭脳労働は祐一や佐祐理の方が得意」
「俺を頭脳労働担当にするなよなあ……」

人間、生まれた時は脳も平等だというが、それは絶対に違うと祐一は信じている。
勉強なんてやればできると吹聴してきた教師や親は、そのことを知らないのだ。
だと言って、自らの不充分を嘆く訳にはいかない。今はとにかく行動あるのみだ。

そう決意した時、隣から腹の鳴る音が聞こえて来た。

「……お腹空いた」

相変わらずマイペースなやつだと思いながら、祐一は足を止めた。

「じゃあ、何か昼飯でも食うか? でも、俺はこの辺りをよく知らないし……」
「……私に心当たりがある」

舞の方がこの辺りには詳しいと思い、祐一はその言葉に従うことにした。

しばらく歩き、辿り着いたのは大学内にある学食だった。
COOP、生活協同組合の経営している学食のようだ。
そんなことを考えながら、祐一はメニューに目を通した。

「……おばちゃん、牛丼二つ、一つはおつゆたっぷりで」

しかし、舞は祐一に選択権を与えてはくれなかった。

「はいよ、おつゆたっぷりだね」

学食のおばちゃんが復唱すると、舞は目を輝かせて頷いた。
まるで腹を空かせた子犬のようだと祐一は思った。

レジで代金を払うと、祐一と舞は窓際の席に座った。
休日の筈だが、学生や教師らしい一団が多く見られる。

舞はそんなことには目をくれず、牛丼を頬張っていた。

「余り頬張ると喉に詰まるぞ」
「……大丈夫、おつゆたっぷりだから」

舞の大丈夫にどのような根拠があるか、祐一には分からない。
そんなことを考えながら、窓の外の風景に目を移した。
すると、そこには奇妙な光景があった。

その中心にあるのは一匹の犬だった。
そして、鉄パイプなどを持った学生らしき人間がそれを追い駆けまわしているのだ。
何か盗んだのかなとも思ったが、それにしては追い回し方が殺気じみている。
魔物相手に同じことをしていた祐一には、その気配が何となく読めたのだ。

「舞、あれは何してるんだ」

疑問に思い、祐一は舞の洋服を強く引っ張る。

「……なに祐一、食事の邪魔は」

しかし、窓の外の光景を見た途端に舞の表情が険しくなった。

「……あれはラインバッハだ」
「ラインバッハ?」
「……この大学に住んでる犬さん、でも何で追いかけられてるの?」
「さあ、俺には……って舞!?」

舞は大好物の筈の牛丼を置いて、外へと駈け出していった。
祐一も慌ててそれを追うが、運動神経の差かついていくのが精一杯だった。

祐一と舞が到着した時には、ラインバッハと呼ばれた犬は何人もの男性に取り囲まれていた。

「よし、追い詰めたぞ」
「早く殺さないと……」

途切れ途切れに聞こえて来たその声には強い危うさが含まれていた。
舞は辺りを見回すと、しっかりした木の枝を折り剣のようにして構える。
そして、その中の一人の胴をいともあっさりと薙いでみせた。
ただ、祐一にも剣の筋が見えたので手加減はしたのだろうが。

「……何をしている!」

舞は普段の様子とは比べ物にならない、裂帛の気合を男たちに向かって放出する。
先程の攻撃も相俟って、全ての気が舞の方に集中した。

「何だお前は!!」
「邪魔するなよ!!」

男たちは口々にそう怒声を発した。
その隙間を縫って、先程まで追われていたラインバッハが舞の方に近寄る。
舞がその頭を撫でてやると、ラインバッハは弱々しい鳴き声をたてた。

「……こんな可愛い犬さんに、なんでこんなひどいことをする」

舞はラインバッハの頭を撫でながら、強い視線を男たちに浴びせた。
流石にこのような光景を見たら攻撃はできないのだろう……、
一人の男性が弁解めいた口調で言った。

「けど、彼が……」そう言って、彼の後ろに立つ人物を指差す。
「こいつは危険な犬だから、この大学から追い出した方が良いって……」

「そうだ、俺は見たんだよ。こいつが血塗れの鼠の死骸を口に加えてたのを。
何だかやけに興奮しててよ、まともじゃないって思ったんだ」

指差された男は、必死にそう言い繕った。
しかし、舞に撫でられて喉を鳴らすラインバッハからは、
そんな危険なイメージなど微塵も感じられない。

だが、そのことが気になり祐一は思わず尋ねていた。

「それっていつのことだったんですか?」

「えっと……そうだ、例の事件のあった日だから月曜日だった。
正午を少し過ぎた頃かな? 三限の授業がなかったんでぶらぶらしてたら、
鼠の死骸を加えて歩くこいつの姿をみかけたんだよ、生協の建物の近くで。
ズタズタに裂かれていて、鼠かどうか分からないくらいだった」

ズタズタになった鼠。
確かにそんなものを加えていれば、恐ろしいと思うだろう。

「けど、野良犬なら野良鼠を捕食して食べてるんじゃないか?」

祐一が言うと、舞がそれをすぐに否定した。

「……それはない。この子は色んな人から御飯を貰ってる。
だから、そんなものを食べるほど食べ物には困ってなかった。
それに気性の良い子だから、生き物で遊んだりはしない」

「それなら良いんだけど」

舞が祐一を睨むものだから、慌てて腕を振って弁解する。
しかし、相手の方も納得していないようだ。
片方を立てれば片方が立たず、その逆も真なりだ。
或いは、どちらの陣営をも納得させる説がない。

(いや、待てよ……)

もしかしたらというものでしかなかったが……。
祐一の頭に例の事件についての考えが浮かんで来たのだ。
ひょっとすると今のいざこざは、大涯研究室で起きた事件における、
重要なコマの一つではないか……或いは過去の事件にも適用できるかもしれない。

しかし、取りあえずは場を収めるために思い付いた推理を話すのが先決だと祐一は思った。


あとがき

今回はほぼ舞が出ずっぱりで出ています。
一応、事件に対する追及も舞らしくしようと思ったのですが、
上手くいってるでしょうか……ちょと自信がありません。

ようやく問題編も佳境に入ってきました。
ここまでで事件の真相に至るための伏線は全て貼り終えた筈です。
ともあれ問題編もあと一話、ここは短いので十一月中にUPできるでしょう。

それでは、また近い内に……。

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