第四話 白い悪夢、再び(後編)

「密室殺人だと?」

奥にいた秀一郎が、そんな怒鳴り声を上げる。

「けど、ドアにも窓にも鍵は掛かっていて、鍵は部屋の中にあったんです。どう考えたって、これは密室でしょう?」

興奮した口調の上田だったが、秀一郎は一笑に伏した。

「ふん、密室殺人だと? 馬鹿馬鹿しい。そんなのは、小説かゲームの中にして欲しいな。第一、まだ殺人か完全に決まった訳じゃない。血の痕だって、峰子が自殺に失敗して、もがいてバスタブに向かったとか、そんなものに決まっている」

秀一郎はややヒステリックな声でまくしたてると、軽く肩を上下させる。顔も紅潮しており、かなり興奮しているのが分かる。

ただ、確かに彼の言うことも一理あると祐一は思った。

密室なんて余りにも非現実的だし、そんな手間をかけて人を殺すような奴がいることも、祐一には俄かに信じられなかった。

そんなことを考えていると、ふと、祐一は先程拾った紙のことを思い出した。祐一には意味が分からないが、他の人に見せたら何かがわかると思ったからだ。

「すいません、そのことなんですが……」

祐一はそう言うと、秀一郎に紙切れを差し出した。

「こんな紙が、ユニットバスの床に落ちてたんです」

「ふん、なんだね、全く……」

最初は馬鹿にしていた秀一郎だが、その文面を見た途端、先程までの興奮と紅潮が嘘のように、顔を強張らせる。

彼は紙切れを掴んだまま、わなわなと震えていたが、皆が注目していることに気付くと、祐一にそれを押し返した。

「さあ……私には、覚えが無いな」

言った秀一郎の目は、僅かに祐一から逸れていた。

「ちょっと、俺にも見せてくれ」

横から割り込んだ上田が、紙をひったくる。

「どれどれ……17年前の悪夢を私は絶対に忘れはしない。白い悪夢が、再び始まる……成程、これもよくあるタイプの脅迫メッセージって奴だな。となると、夫人はやはり誰かに殺された……」

上田の言葉に、今度は誰も反論しなかった。

「とにかく、人が死んでいるんです。警察に電話しなくては……」

光の言葉に、祐一はあっと声を飲む。今までいきなりの死体で動転していて、警察ということが頭からすっかり抜けていたのだ。

「そう、だな……」

秀一郎は力なく言うと、玄関の側にある電話機に向かってふらふらと歩き出した。その後に続く、祐一の側で、上田がこう呟く。

「まさか、電話線まで切られてるってベタな展開じゃないだろうな?」

「だったら、携帯で連絡すればいい。ここは圏内なんだろ」

高宮がそう言い、上田がぽかんと口を開ける。

「確かに……ここにいた時、御厨の携帯に電話が入ってたよな。そうか、今時携帯は全国をカバーしてるし、意味は無いよな」

廊下でそんな話をする三人を他所に、秀一郎が受話器に向かって張り上げているであろう声が、ここまで届いて来た。

「まあ、俺たちがでしゃばったりすることはないわけか……」

上田は少し残念そうに言う。声がやむと秀一郎は、

「三十分ほどで警察も到着するそうだ。吹雪で大分視界が悪いそうで、ここまで来るにも時間が掛かるらしいな」

「それで、これからどうしますか?」 上田が尋ねる。

「そうだな……取りあえず、食堂に残っているものたちにも一応伝えておこう。別に、警察が来れば分かることだし、早めに伝えておいても良いだろう」

秀一郎が自分の判断を話す。反論がないことを確認すると、秀一郎は食堂へと向かう。残る五人、祐一、上田、高宮、権田、光の五人も、後に続いた。

 

秀一郎が一通り事件の概要を話すと、食堂はしんと静まり返った。

「そんな……じゃあ、このロッジで殺人が起こったって言うんですか?」 御厨が大声を上げる。

「大きな声を出さなくたって、そうだよ。しかも、密室殺人っていう大きなおまけ付きだ」

上田が彼に負けないくらいの大声で言う。

「密室……それは本当なのかね、上田くん」 半田が尋ねる。

「ええ、間違いないと思います」

上田の答えに、半田は思わず顔を顰める。

「でも、殺人だなんて……」 成海が呟く。

舞と佐祐理は、不安そうに祐一の方を見ている。だから祐一も、顔に不安気な様子は出さないように努めた。尤も、隠しきれた自身はなかったが……。

「とにかく、もう少ししたら警察が来る。それまでは、誰もここから出ないようにして欲しい」

秀一郎が念を押した。

「でも、誰がやったんだろうな?」

しばらくの沈黙の後、上田がぼそりと言った。

「そりゃあ、どこかの……」

「おっと御厨。どこかの変質者って言うのは無しだぞ。変質者なら、密室なんて手の込んだ殺し方はしないからな。或いは、近所に住んでいる誰かの仕業って可能性もあるが……」

上田はそこで、重々しく言葉を切る。

「……ここには、そんな建物は他に無い筈だ」

半田が、上田の言葉を補って言った。確かに……祐一も車の中で彼がそう言っているのを聞いた。『この辺りには他に建物はないからね。もしそうじゃなかったとしたら、恐いと思うよ』という台詞……。

誰もが、上田の投げかけた言葉の意味を反芻する。祐一には、彼の言いたいことがすぐに分かったし、佐祐理も同じなのか、心持ち顔を蒼くしていた。

他にも気付いた人はいるだろうが、それでも誰も口にするものはいなかった。

それを口にしたら、何かが壊れてしまう……皆がそう考えているからだろう。

しかし、秀一郎は違った。

「つまり、ここにいるものの中に、峰子を殺した奴がいるということか?」

その遠慮無い言葉に、誰もが秀一郎の方を見た。

そして再び、前よりも更に重い沈黙が、食堂に暗い翳を落とす。不安そうに俯くもの、まだ信じ兼ねているもの、既に疑心暗鬼な視線で、一人一人の顔を覗き込んでいるもの……。

その静寂を破ったのは、成海だった。

「ちょっと、どういうことよ上田さん。いきなり、そんなことを言って……」

彼女は、厳しい視線で上田を見た。

「そうだな……分かっていても、言うべきことではなかった」

半田も、そう言葉を重ねる。

「だけど、事実だろう? 現に人が一人……」

その時、玄関にある電話が、けたたましい音を響かせ始めた。そのため、上田の言葉は中断される。

「私が出る」 と秀一郎。

彼は食堂を出る前に、テーブルを囲んで座るもの全てに威嚇的な一瞥をくれると、激しく音を立ててドアを閉めた。そして、すぐに彼の剣幕高い声がここまで響いて来た。

「何だって? 雪崩で道が塞がれて? 明朝にならないと、復旧のめどがたたんだと? こっちは殺人鬼と一緒に、ロッジの中に缶詰なんだ。急いで来てくれ……もういい、お前らじゃ話にならん」

受話器を叩き付ける音。

秀一郎が興奮状態にあるのは、廊下に響く足音で、祐一にもはっきりと分かった。

そして、事態は更に深刻になりつつあるということも……。

「なんてことだ……ここに来る道の途中で雪崩が起きて、明朝にならんと警察が来れんらしい。全く、税金泥棒め、一体何をやらかしてるんだ……」

秀一郎はどっかり椅子に腰掛けると、人を不愉快にさせるような汚い言葉を口にした。

「本当ですか? それは」 半田が不安気に尋ねる。

「ああ、こっちとしても全力で作業に当たっている……とのことだ」

秀一郎が、たっぷりの皮肉を込めて言う。

「やっぱり……そう簡単には脱出できないか」

「……君は、こういうことになると分かっていたような口振りだな」

上田の呟きに、秀一郎は厳しい目線を彼に向けた。

「まさか、お前が峰子を……」

「いえ、違いますよ。ただ、これで終わりじゃないってことは、あの奇妙な文章を見た時から分かっていました」

誤解を招いたと思ったのか、上田は慌てて弁解する。

「この紙を見て下さい」 上田は祐一からひったくった例の紙を、テーブルに広げた。

「ここです……『白い悪夢が再び始まる』、これは殺人が一件で解決しているのだとしたら、おかしな言い回しだと思いませんか?」

言われてみれば確かに……祐一は文面を改めて読み返し、そう感じた。

「もし、殺人が夫人の殺害だけだとしたら、恨みは晴らされたとか、そういう書き方をする筈だから」

「でも、それは単に言葉の言い回しの問題だと思うんだが?」

半田は広げられた紙を見て、冷静に答えた。

「第一、人工的に雪崩なんて起こせるんですか?」 御厨が言う。

「外国では、爆薬を使って人工的に雪崩を起こして、突発的な雪崩を抑えるようなことをやっている。だから、不可能ではないと思う」

高宮が、突然に口を開く。その様子に、皆が注目を向けた。

「但し、爆弾が手に入ればの話だが……」

「つまり、何処かで爆薬を手に入れられれば、人為的に雪崩を起こすことも可能だということだな」

高宮の言葉に後押しされるように、上田の口調が強くなる。自分の推理を補うような証言が得られたことが嬉しいのだろう。

「そう言えば……」 爆弾と言う言葉を聞いて、佐祐理が初めて口を開いた。

「佐祐理たちがこのロッジに入る時、何か爆発するような奇妙な音を聞いたような気がします。そうですよね、祐一さん」

「えっと……あ、そうだ、確かに奇妙な音がしてました。俺と、あと半田さんも聞きましたよね」

祐一が半田に話題を振ると、彼は僅かに身を震わせた。少し俯いていたから、彼なりに何かを考えていたのかもしれない。

「えっ、ああ……確かに聞いた。まあ、あれが人工的に起こされた雪崩の音かは、私にも判別つきかねるが……」

「そうですね……佐祐理にもそれはよく分かりませんでした」

「俺にもよく分かりません」

祐一が言うと、上田は軽く溜息を付いた。

「結局、雪崩が人為的か否か、殺人がこれ一件で終わるか否か……分かっているのは、今回の事件が殺人だということくらいですね」

「そんなことはどうでもいい」

上田の言葉を遮るようにして、秀一郎が大声でがなる。

「要は、どいつがやったかということだ。わしは小説の中の人物のように間抜けじゃないからな。外から来た、わけのわからん殺人鬼なんてことは言わん。峰子が死んだのがどうやら自殺じゃない以上、この中にいる誰かがやったに違いない」

秀一郎はきっぱりとそう言い切った。その言葉使いに、祐一は妙な違和感を感じた。最初は殺人ということを頑強に否定していた筈の彼が、今では完全に殺人だと信じきっている。

それに彼は、ぴりぴりとした空気を周囲に滲ませていた。何か、そう、何かが秀一郎の考えを180度変えたのだ、そしてそれは……祐一が考えていると、半田が皆に向かって言った。

「私はこの中に殺人者がいるとは信じたくない。しかし、もしこの中に人殺しがいるなら、正直に名乗り出て欲しい。お願いだ」

半田は、まるで姿の見えない殺人者に頼むような口調と姿勢とで言った。食堂に、しばしの沈黙が訪れる。しかし、進んで罪を告白しようとするものは、この中には一人もいなかった。犯人も、そうでない人も。

「そうか……」 全員の反応に、上田は少し寂しそうに呟くのみだった。

「とにかく、これからどうするんですか? 明朝にならないと助けは来ないんでしょう?」

御厨が、少し顔を蒼めて言う。

「やっぱり、なるべくみんなで固まっているというのがベストだな。流石に、寝る時だけはそうもいかないだろうが、鍵を掛けておけば大丈夫だろう」

「いや、それはまずいですよ」

半田の意見に、上田が首を振った。

「どんなトリックを使ったにしろ、犯人は密室殺人なんて芸当をやらかしてる。もしかしたら犯人は、合鍵を持っているのかもしれない。だとしたら、鍵を掛けたって無駄ですよ」

「だったら、ドアの前にクロゼットでも立てかけておけばいいよ。ドアは内開きだから、それがつっかえになる。そうすれば、鍵を持っていても入ってはこれないだろう」

「あっ、成程……」 上田がぽんと手を打った。

「とにかく、睡眠時間までは皆で一緒にいて、後はそうやってガードしておけば、犯人だって次の犯行は起こせない筈だ。専ら防衛という感じはあるが、私もここにいる人たちも捜査の専門家ではないから、それが最善の策であると、私は考えている」

「そうね……私もそれに賛成だわ」

半田の意見に、成海が賛同の意を唱える。祐一にしてもその方が良いと思ったし、佐祐理も舞も同じ意見のようだった。

しかし、秀一郎はその意見を突っぱねた。

「わしは反対だ。この中に殺人者がいると言うのに、一緒にいるのはまっぴら御免だ。それに、焦れた犯人が捨て身で襲い掛かって来るとも限らんだろう」

「しかし、ばらばらで行動するのはもっと危険ですよ」

「それなら、わし以外の全員がここにいれば良い。そうすれば、殺人だって起きないだろう」

秀一郎が、例の如く顔を赤くして主張する。どうやら彼は、この場には一分でもいたくない様子だった。

「それは、ないとは言えませんが……しかし、外部犯の可能性だって完全に消えたわけじゃありませんし、やはり一人になるのは危険かと」

半田が、伺いを立てるような口調で秀一郎に言う。

「それよりも、もっと良い方法がありますよ」

半田と秀一郎の視線が交錯する正にその時、上田が口を開いた。

「良い方法だと?」 秀一郎が眉をひそめたような顔色で上田を見た。

「要するに、犯人が分かればいいんでしょう? 誰がやったか、フーダニット……こいつしか犯人だと言えないようなものが出て来れば、物事は万事収まる」

「上田くん、君はまさか自分で犯人を突き止める気かね?」

半田が不謹慎だという風に、顔を顰めた。

「ええ半田さん、そのまさかですよ。いや、別に探偵気取りってわけじゃありません」

「何言ってるのよ、完全に探偵気取りじゃない!!」

上田の弁解に、成海が声を荒げて言った。祐一にしても、上田の性格を知っているから、彼は探偵がしたくてあんなことを言ってるとしか思えなかった。

「いや、まあ落ち着いて聞いてくれ。半田さんは専ら防衛に徹する方が良いと言ったが、俺は少し考えが違うんだ。ここにはしばらく警察が来れない。その間に、俺たちが知っていること、知っているであろうことがどんどんと抜けていってしまう。

だからその前に、皆の行動や事件の起きた現場などを調べておいた方が良いと思うんだ。犯人が分かれば万万歳、分からなくても、警察が犯人を捕まえるための指針くらいにはなると思うし」

「だが、現場を荒らすのは止した方がいいと私は思うね。第一、死体に詳しい人間だって、いないだろう。まあ……倉木さんは看護婦だが、医療の専門家というわけじゃない、そうだろう」

上田の尤らしい意見に、半田はしかし乗り気ではない様子だった。彼は一頻り述べると、先程から俯き加減に様子を伺っていた光の方を向き、そう言った。

彼女はますます顔を俯かせると、それでも小さな声で答えた。

「はい、勿論医療の基礎的なことは学んでいますが、検死とかそういうのには詳しくないので……」

「医療の専門家なら、ここにいるぞ」

半田の意見を、秀一郎はあっさりと打ち砕いてしまった。

「えっ、誰ですか?」

「彼だよ」 秀一郎が指差したのは、権田だった。

「彼はわしの運転手だが、同時に付き添いの医師でもある。長い間現場で働いていたから、そういう知識にも詳しいと思うが」

「本当ですか、権田さん」

今まで尤も影の薄かったのが、急に注目を浴びて、権田は少し慌てた様子だった。

「あ、ええ。ずっと昔のことですが、嘱託医なんかもやってましたよ」

そう言えば……祐一は死体のあった峰子の部屋での彼の行動を思い返していた。床にある血痕を最初に見付けた時といい、血溜まりを調べる時の手際の良さといい、今思えば確かに素人では出来ないようなことをやっていたようにも思える。

「実を言えば、わしも半田くんの意見よりは上田くんの意見の方に賛成だ」

秀一郎はきっぱりとそう言い切った。

「別に探偵を気取ろうなんてことは毛頭無いが、それでもディフェンスよりはオフェンスの方がわしの好みだ。もしかしたら、犯人だってわかるかもしれんしな」

秀一郎のその意見に、半田は少し憮然とした表情を見せた。逆に上田は、自分の意見が認められたのが嬉しいのか、明るげな様子だ。

「でも、オフェンス……つまり捜査をすると言っても、どういう風にやったら良いんですか?」

成海が感情を押し殺したような声で言った。どうやら彼女は、この決定には些か不服らしい。

「まず、現場の調査かな。専門家がいるなら、死亡推定時刻とかも詳しく調べられる筈だしな。それに密室トリックの痕跡とかも残ってるかもしれない。それから、その情報を元に一人一人に聞いて回る……取りあえずは、そんな所じゃないのか?」

「つまり、事情聴取って訳か。余り気持ちの良いものじゃないな」 と半田。

「まあ、それはそうですけど……」

それは上田も同じなのか、少し口篭もったように言った。

「いや、上田くんを責めてる訳じゃないんだ。それに警察が着いたら、結局そういう尋問は行われるんだしな……」

「とにかく、まずは現場の方を調べて見たいから……まず俺と、それから死体を見て欲しいので、権田さんにも来てもらえませんか?」

「ああ、構わないよ。しかし、この歳になって仏さんと向き合うことになるとは思わんかったのう」

権田は手を擦り合わせると、ぼつりとそう言った。それから机に手を当て、ゆっくりと立ち上がる。この歳というのが幾つなのかは知らないが、やはり七十は言ってると祐一は思う。

「それから、あと一人か二人……出来れば事件と関係無く中立で……そうだ、相沢くん、君が丁度いい」

いきなり指名されて、祐一は心臓の形が浮き上がるのではと思うくらいびっくりした。

「あの、俺が……ですか?」

「ああ、君はたまたまこのロッジにやって来た、完全な部外者だから」

「でも、俺……」

祐一はそこで口篭ってしまう。実を言うと、祐一はあの部屋に二度と近付きたいとは思わなかった。普通の人なら誰だって、死体がある部屋になんて近付きたくないだろう……いや、例外はいるが。

「別に死体を調べろっていうわけじゃない。君にはつまり……俺と権田さんの監視みたいなことをやって欲しいんだよ」

「監視?」

「そう、不審なことは何一つやってなかったって、損得感情無しで証言してくれる人がいて欲しい。幾ら捜査に積極的だからって、犯人でないとは言い切れないからね。あっ、勿論、俺は犯人ではないが……と言っても、信じてくれない人がいるし、それは当たり前だ」

上田が、講釈を行う教師のような口調で言った。

「というわけで、出来れば協力して欲しい。まあ、成り行きでこんな所に連れて来られて、人殺しが起こって、しかも捜査を手伝えなんて酷なことかもしれないが……」

そう言われて、祐一は少し考え込んでしまった。上田の言いたいことも、分からないでもない。しかし、幾らなんでも死体のある部屋にいけというのは躊躇いがある。

だが……事件とは全く関係ない部外者と言われれば、佐祐理と舞もそうだ。特に佐祐理などは、代わりに志願しかねない性格だ。

あんな惨状を、免疫のない女性に見せるのは祐一としては絶対に避けたい。

そう思うと、決心は割とあっさり付いた。

「分かりました。じゃあ、俺も行きます」

「そうか、そう言ってくれると有り難い。じゃあ……権田さん、相沢くん、行きますか」

上田の促しに、祐一は小さく頷いた。

「大丈夫ですか、祐一さん」

「あ、うん。まあ、危険はないから大丈夫だと思う」

祐一は心配をかけまいと、佐祐理と舞に笑顔を浮かべてそう言った。

「……祐一、気を付けて」

「ああ、大丈夫だって、舞」

舞も舞なりに心配しているのだろう。そう思うと、祐一は少し嬉しかった。

「余り、現場を荒らさないようにな」

「分かってますって、半田さん。じゃあ、行ってきます」

しかし、いってらっしゃいと言葉を返すものは誰もいず、祐一、上田、権田の三人は無言に見送られて食堂を出た。

それから惑うことなく、再び平瀬峰子の部屋へとやって来た。その入口は、ドアの蝶番が変な方向に回り、半開きであることを除けば、普通の部屋の入口と変わりはない。

しかし、中に一人の女性の死体があるというだけで、何か黒いオーラというか、圧迫するような雰囲気を醸し出しているような、そんな気が祐一にはした。

「よし、じゃあ、行くぞ」

上田が決心を固めるように、小声で呟いた。その体は、少し震えている。どうやらあんなことを言った割には、少し緊張しているようだ。

殿に仕える権田が、一番平然としている。それはやはり、場慣れしているからだろうか。それとも年の功だろうか。彼は背筋もしっかりと、ドアを見つめている。

三人はまず、死体のあるユニットバスへと向かった。中はやはり、血の臭いと微かに混ざる不愉快な異臭とが入り混じっており、死体は以前としてそこにあった。

尤も、動き出したり、ここから消えていたりしたら、それはそれで恐いが……。

平瀬峰子の死体は、胸からナイフを生やし、目は虚ろに天井を向いており、無惨な姿でそこにいた。尤も、恐かったので余り詳しくは見なかったのだが……。

権田は平然と死体に近寄ると、死体の四肢や筋肉を色々と動かしてみたりした。これがきっと、死後硬直を調べるとか、そういう奴だろう。

祐一はなるべく死体をみないようにして、権田が死体を調べる様子を見ていた。しかし、そうすると死体にどうしても目がいってしまう。しかし、一応監視という役目である以上、目を逸らすわけにもいかなかった。

拷問のような数分間が過ぎ、権田がようやくこちらを振り返った。

「権田さん、何か分かりましたか?」

「ふむ……解剖してみればもっと詳しく分かるかもしれんが、今は大雑把な所しか分からんな。まあ、ほぼ死後硬直が全身に及びかけているところからして、死後七〜九時間は経っているな」

「七〜九時間……今が七時三十四分だから」

上田は腕時計を見ると、そう呟く。祐一もそれに倣って時計を見たが、同じ時刻だった。

「死亡推定時刻は、午前十時半から十二時半過ぎって所か……相沢くん、その時刻は何をしていた? いや、これは一応の確認なんだが」

「えっと、十時半から十二時半ですか? その時間は……ここについて、俺と佐祐理さんの二人で舞にスキーを教えてました。それから舞が一人で練習するって言うんで俺は初級コースに、佐祐理さんは上級コースに行きました。再び合流したのは、十分後くらいです。

それからは、午後四時過ぎまで昼飯も食わずに、三人でずっと滑ってました。俺は午後二時頃、少し下の方で休んでましたが……」

「そうなると、相沢くんに倉田さん、それに川澄さんの三人のアリバイは完璧だというわけだ」

「その頃は、上田さんたちは何をしてたんですか?」

祐一は、逆に上田に尋ね返した。

「俺たちは十時過ぎにここに着いて……ここを出たのは十二時半少し前だったな。まだ分からないが、俺たちのほとんどが犯行可能じゃないかと思うね」

「ふむ、そうじゃの……無茶すれば私にだってやれない犯行じゃない」

権田がそう付け加えて、にやりと笑った。

「そうだな、医者なら人体の急所にも通じているからな。案外適役かもしれないな」

「ほう、はっきりと言うな」 権田が片眉を吊り上げる。

「いや、そう言って欲しいように聞こえたから」 上田が言い返す。

「まっ、冗談は抜きにして、犯人は少しは医学に通じたものかもしれん。これがもし他殺……これはほぼ間違いないと思うが……だとしたらな」

「それは、どういうことですか?」

「ほれ、死体に刺さってる胸のナイフを見てみろ」

祐一と上田は言われて、胸のナイフを見てみた。ナイフは意外と刃渡りの太いもので、それが胸の半分以上までめり込んでいる。多分心臓か、それに近い所を貫いているのだろう。

全体的に赤茶色く変色しているが、僅かに見せるメタリックシルバの刃が、ユニットバスの照明を僅かに反射している。

刃物と言うものは、人を貫いただけでこんなにも不気味なものに変わってしまうのかと、今更ながらに祐一は感じた。

「さあ、至って普通のナイフだろ。後は……胸に刺さっている刃が横向きだな」

「そう……横向きにすることで、ナイフは肋骨と垂直になる。つまり、人を刺したとき肋骨に引っ掛かりにくく、深く刺しやすいというわけだ。これはある程度、人体構造を知ってなければ出来ない殺し方だ」

権田の言葉に、祐一は実際に胸の辺りを触ってみた。言われてみれば確かに、肋骨は胸をある程度覆っている。縦向きだと、肋骨に引っ掛かってしまうだろう。

「そのことなんだが……別に医療知識のない奴でも、ここに来ているメンバなら思い付きそうな殺し方なんだよ、実は」

上田の言葉に、権田は眉を顰める。

「それは、どういう意味かの?」

「実はちょっと前に、うちの会社で推理物のゲームを出したんだ。胸を刺す時に刃を横にすると上手くいきやすいって知識、実はその話の中で出てるんだよ」

「……つまり、ここに来ている人は皆、そのことを知っている、と」

「ああ、俺も含めてな。まさか、その推理物の知識を、現実の殺しに使われるとは、流石に思いは寄らなかった……なんてことだ」

上田は苦々しく声を吐き出した。それで祐一は、上田が何故外部犯について余り考えを巡らせないかが分かったような気がした。そういう殺し方をしているからこそ、むしろ内部の人間が犯人だという思いが強いのだ。勿論、彼が犯人でないと考えればだが……。

「実際に殺した現場は、奥の方にある血溜まりが出来ていた辺りだと思うよ。ナイフで栓をされた状態になってるから、血は余り飛び散らなかったと思うね。勿論、全く飛び散らなかったわけじゃない。着替えをしたか、血を身に受けない工夫はしていたか……。

その後で、死体をユニットバスの奥にあるバスタブに押し入れた……何故、そんなことをしたのかは分からんがの」

「あと、蛇口の水を出しっぱなしにした件もあるな」

権田の解説に、上田がそう付け加えた。

「それと、ユニットバスに落ちていたという脅迫状の類。どうも俺は、社長が何かを知っているような気がするんだよ。あの人、脅迫状を見てから途端に態度を変えてたし。自殺と言い張ってたのが、今では犯人を探すのに躍起になってる」

祐一も、それは考えていた。あの脅迫状『17年前の惨劇を、私は決して忘れない。白い悪夢が再び始まる』……十七年前と言えば、祐一が丁度産まれた年だ。だから、何があったのかは分からない。

「多分、何か後ろくらいところがあるんだろうけど、会社の親分じゃ詰問するわけにもいかないし……って、権田さん、どうしたんですか?」

権田は顎に手を当て、何かを考えこんでいる様子だった。

「いや……これは思い過ごしかもしれんが、『白い悪夢』という単語、何処かで聞いたことがあるような気がするんじゃ」

「本当ですか?」

「わしも年だから、もしかしたら勘違いかもしれんが……」

「そうですか……まあ、今はそれよりもさっさと調べてしまった方が良いな。俺がここに見たかったのは、密室の痕跡があるかどうか確かめたかったからなんだけど……」

「密室……ですか?」

祐一が尋ねる。密室といえば、少し前に祐一の通う学校で密室の事件が起こったことがあった。その時は死人もなく、しかも正確に言えば密室でも何でもなかったのだが……。

「一番良くあるのが、ドアか窓の隙間から鍵を部屋の中に押し込む方法だな。もし鍵を隙間から押し込んだんなら、その痕跡くらい残ってる筈だが……」

上田はそう言うと、半壊したドアの下の隙間の方を調べ始める。廊下に腹ばいになり、ドアの隙間を必死に凝視していたが、しばらくして立ち上がった。

「こっちには、そんなものないな……じゃあ、次は上の方だな」

そう言うと、今度はドアの上の部分を持って、懸垂のように上部を覗き込んだ。

「ビンゴだ、ドアに何かが擦ったような跡がある」

「それって、ドアを壊した時に付いた傷じゃないんですか?」

「いや、それにしてはもっと細い、無理矢理何かを捻じ込んだような傷跡だ。ドアを壊したときの傷じゃない。となると……」

上田はそう言うと、ドアから手を離した。

「でも、ここから鍵を押し込んでも、ベッドまでは届きませんよ。第一、ここからベッドは死角ですよ」

祐一の言葉に、上田は指を何度か振ってみせた。

「甘いね、相沢くん。こんなのは、糸と針でもあればどうとでもなる。仕掛けは簡単さ。まず、針を糸に通し、ベッドの布の任意の場所に糸を通して、そこを終着点とする。そこから入口まで糸を延ばし、糸をドアの隙間から部屋の外に出す。後は、キーホルダ用の穴に糸を通し、部屋の中に押し入れる。

そうすれば、ロープウェイのように、鍵はするするとベッドに向かってランディングするというわけだ。それから糸を切って手繰り寄せれば、痕跡も完璧に消えるというわけさ」

「へえ、そんな手があるんですね」

祐一は素直に感心した。

「密室トリックとしては極めて初歩的だよ。こんなのは本格推理でなくても、ちょっとトリックの聞いた推理小説なんかでは常套的に用いられるものだからね。今時、本格推理でこんなちゃちな密室トリックを軸にしているようじゃ、読者の叱責を買うことは間違いなし。それくらい有名なトリックだよ」

「確か、横溝正史の迷路荘事件で同じようなトリックが出て来たがの」

権田がそう補足した。

「ともあれ、名探偵のお蔭で密室殺人のトリックは判明したというわけじゃな。上田くんだったか、君は探偵の素質があるぞ」

「いや、これくらいは推理小説を読んでたらすぐに思い付きますよ」

言いながらも、上田はまんざらでもない様子だった。顔を少し赤くして、鼻の頭を掻いている。

「けど……」 祐一はふと思い付いて、口に出した。

「トリックは分かったとしても、何でこんな面倒なことをやったんでしょうね、犯人は」

その言葉に、上田の鼻を掻く仕草がぴたりと止まる。

「そう、そこなんだ、問題は。今回の事件だが、わざわざ密室にした理由が分からない」

「密室殺人を行う理由か……確か大局的に分けて四つの場合が考えられるの」

権田はそう言うと、密室を作る理由について講釈を始めた。

「まず、他殺を自殺に偽装する場合。但し、今回の場合にはそれは当てはまらない、それはさっきも確認した通りじゃな。

次に、鍵を持っているであろう人物に罪を着せるため……この場合、普段から鍵を管理している人物じゃが……」

「えっと、鍵を管理しているのは秀一郎さんですよね」

祐一が口を挟んだ。確か半田が、そんなことを話していたのを思い出したからだ。

「そうじゃな、詳しいことは分からんが……。つまりこの場合だと、犯人は秀一郎氏に罪を擦り付けようと考えていることになるな。まあ、これは仮定だが。

そして第三は、密室を行うことによって犯罪の立証を防ぐ場合。

最後に第四番目だが、犯人がトリック狂の殺人者ということじゃが……」

「その場合、密室の意味から犯人に迫るのは不可能だな」

上田が言葉を繋ぐ。

「後は、密室自身が何らかのトリックの一端を担っている場合というのも考えられるな。この場合は、密室以外の要素も含めて、総合的に犯罪を見なければならない……」

「ふむ、上出来じゃな」 権田が満足そうに頷く。

それにしても……この権田という老人、結構推理小説を通読しているようだ。少なくとも、祐一よりは余程知識が深いと祐一は思った。

それに、思ったよりきさくな性格なようでもある。食堂にいる時は押し黙っていたので、そういうイメージは湧かなかったが……。

「とにかく、相沢くんも確認してくれないか、ドアの上側、中央付近だが……」

「確認……ああ、そういうことですね」

つまり上田は、実際に傷のあることを祐一にも確かめろというのだ。嘘を付いていないという証のために。

祐一はドアのへりに捕まり、上体をぐっと起こす。そしてドアの上層部に顔を近づける。そこには確かに、上田の言った通りの傷が残っていた。

その時、ベキッという嫌な音がした。瞬間、バランスを崩した祐一は、

「うわあああああああああっ」

そう情けない声をあげながら、廊下に叩き付けられていた。

「あいてててて……」

背中と頭を諸に打ち付けてしまい、祐一は無様にも廊下の上でのたうち回った。

「おい、大丈夫か、相沢くん。凄い音がしたぞ」

上田が大声をあげる。

「何があったんだ?」

「祐一さん、大丈夫ですか?」

「……何事か?」

その音を聞き付けたのか、食堂からひどく慌てた様子で、佐祐理、舞、半田の三人が飛び出して来た。

「ちょっと、何よさっきの音」

少し遅れて、成海の鋭い声。四人は床を転げ回っている祐一の姿を見て、何があったのかと不安そうな表情を向けている……のが微かに見えた。

「いや、ちょっとドアの方を調査していたら、上手い具合に壊れてさ。それでバランスを崩して、転んだってわけだ」

ようやく痛みとショックが収まってきて、祐一は何とか立ち上がった。そこに、佐祐理と舞の二人が近付いて来る。

「本当に大丈夫ですか? 祐一さん」

「ああ、概ねオッケーって所かな」

実を言うと、まだ少し頭が痛かったりするが……。

「……祐一、大丈夫か?」

舞も、心配そうな(尤も、普通の人が見たら真顔と殆ど変わらないが)顔を見せている。

「全く、驚かせないで欲しいよ」

「全くだわ……私、てっきりまた事件が起きたのかって……もう、心臓に悪いったらありゃしない」

半田と成海が、非難めいた言葉を浴びせる。あんな騒ぎを起こしたのだから、当然といえば当然なのかもしれないが……祐一はそう思いながら、背筋を伸ばした。

背中に僅かに痛みが走ったが、我慢できる範囲だと思い、何も言わなかった。

「ところで、もう捜査は終わったのかい?」

半田が話を変えて、上田に声をかける。

「まあ、粗方は……あ、後は荷物を調べるくらい」

「女の人の荷物を漁るのって問題無い?」

成海がジト目で上田の方を見る。

「まあ、一応さ。それに案外、こういう所から事件が解決することだってある」

「そんなもんかな……」

「そんなもんだよ……で、相沢くん、怪我したばかりですまないが、もう一仕事だ」

「もう、こうなったら何処へだって付いて行きますよ」

祐一は半ばやけくそで言った。

「じゃあ、私たちは部屋に戻ってるよ。それとくれぐれも言うが、余り現場を荒らさないように」

「分かってますよ、半田さん」

そう言うと、上田、祐一、権田の三人は、再び峰子の部屋へと歩を進めた。

峰子の荷物らしきバッグは、ナイトスタンドと時計の置いてある小さなテーブルの側に置かれていた。丁度ベッドに隣接するような格好だ。

「ルイ・ヴィトン……社長夫人となると、これくらいは持っていて当たり前か」

そう独り言を言いながら、上田は鞄を開けた。

「洋服、下着、洗面用具、ドライヤ、財布……」

「財布の中身はどうですか?」

「分かってるって……クレジットカード、会員証、現金、抜き取られてるようなものは何もないな。やっぱり、金目のもの目当てじゃないらしい。後は……やけに薬の類が多いな」

上田が言った通り、峰子の鞄の中には市販薬をメインに結構な種類の薬が入っていた。正露丸やバファリンといった有名所は勿論のこと、胃薬、整腸剤、便秘用の薬、目薬、風邪薬と、大半のものは揃っている。あとは、薬局で調合されたらしき数種類の薬があった。

「ふーん、容易周到というか、何というか……ところで権田さん、こっちの薬はなんだか分かりますか?」

「ちょっと貸してみなさい……ふむ、これはどうやら睡眠薬の類のようじゃな」

「睡眠薬……ふーん、夫人は睡眠薬も飲んでたってことか。権田さん、夫人はいつもこんなに薬を持ち歩いてるんですか?」

「さあ……わしにはよくわからんな。わしが担当しとるのは秀一郎氏で、彼女とは余り面識がないんじゃ。住みこみで働いとるというわけでもないしの。会うのは週に一度か、そのくらいだな。上田くんだったかな、君は夫人とあったことは?」

「えっと、会社に二、三度来てたのを見たことがあるな。なんか、独特のキンキン声で、傍目で見てただけだけど、結構印象に残ってたな」

「確かに、あれは特徴的じゃな。では、上田くんも夫人のことはよく知らないというわけじゃな」

「無いね」 上田は首を振りながら答えた。

「特に不審なものはないな……部屋の中もざっと見たけど怪しい所は無しか。結局、犯人の見当が付きそうな痕跡は皆無って訳だ」

「まあ、密室の謎が解けただけでもよしとしよう。急いてはことを仕損じるという諺もある」

「そうだな……とにかく食堂に戻ろう。いい加減待ちくたびれてるだろうし、余り待たせるとみんなが心配するだろうしな」

「そうですね」 その意見については、祐一も同意見だった。

「次は尋問会か……うまく犯人がボロを出してくれれば良いけど……」

上田が言う。祐一、上田、権田の三人は、死の臭いが微かに残る峰子の部屋を後にした。

もう、再び訪れることのないことを祈りつつ……。


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