2000年08月18日(金)

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 目覚めた途端、何かが失われたような知覚を受け、遠野優美は目を開いた。寝相がそんなに良くないのか、タオルケットはベッドの下で無残な姿を晒している。薄いピンク色の花をあしらったシーツは皺だらけで、優美の髪の毛はあらゆる方向に跳ね上がっていた。彼女は咄嗟に上半身を起こし、手を伸ばす。そうすれば今ならまだ何かが掴めそうで、しかしその五指は虚空を漂うのみ。かく乱された空気が粒子の最後の一塊を散らしてしまったかのように、それも復元不可能になる。彼女はがっくりと上半身を膝の方向へと倒し、そのまま軽く膝に額をぶつけた。血圧の低さに加え、御しがたい偏頭痛が優美の頭を容赦なく掻き乱し始めたからだ。

 そのまま少し眠ってしまいたかったが、雀や蝉の元気な鳴き声が無常にも朝の訪れを明確に告げていた。優美はベッド脇のナイトスタンドに手を伸ばし、目元が最低限覆われるくらいの鋭角でレンズの薄い眼鏡を探り当てると、素早く身に着けた。霞のかかっているかのように不鮮明な視界が明瞭化し、時計の針も見えるようになった。アンティクの目覚まし時計は六時三十分を差している。きっと娘も起きてくる頃だ、朝食の準備をしなければ、あの娘は朝から米飯をよく食べるから――他愛もないことを考えつつ、優美は散らかった部屋のものを素早く整え始めた。タオルケットを畳みシーツの皺を伸ばすと、彼女はカーテンを素早く開け放った。真夏の日差しは早朝であるというのに凶暴で、思わず目を細めてしまうが習慣には逆らわない。フローリングの八畳間は自然の優しい光に満たされ、目を凝らせば妖精すら舞い始めるのが見えそうだと感じた。そして思わず目を見張る。優美は空想的な考えへと及んだことに心底驚いた。それこそが彼女の求めていたものだった。

 十五年の間、些かもわき出すことのなかったアイデアという名の源泉が次々にわきだすのを、優美は全身で、特に後頭部と心臓の速き脈動とで感じ取っていた。既に諦めていた、物語に対する要求と欲求――何故、今までこの感覚を忘れていたのだろう。彼女は今まで溢れていた日常を押し留め、机に向かった。しかし、書きつける何ものもない。彼女は焦り、机の引き出しを片っ端から開けていき、古ぼけた四百字詰め原稿用紙をようやく取り出すことができた。詩想が逃げていかなかったかと危惧したが、アイデアは生まれた時と同じ遷移状態を保っていた。

 最初の原稿には、書きかけのアイデアが綴ってあった。取り留めのないそれらはいつも、優美に優れた童話や冒険小説を授けていた。一枚の書き付けが、彼女の記憶を呼び起こす。そう、自分は久しく才を失っていたものの、かつては童話作家として名を知られていた――回顧心が彼女に一冊の本を取らせ、そして記憶をしばし過去へと重ねる。

 遠野優美が初めてこの町にやって来たのは、今から十八年前――まだ十八の頃だ。遡ること一年前、優美は十七にして有名な童話コンクールにて大賞の栄誉を受け、鮮烈なデビューを果たした。その独特の画風と、繊細にして子供から大人にまで親しめる話の本として、何より十七歳という若さの称号もあいまり、処女作である『猫のワルツ』は三十万部を超えるベストセラーとなった。優美はまるで我が子のように、上品な老淑女とその膝に乗る老猫が描かれた表紙を優しく撫でていく。

 細く骨張った、しかし長く繊細に動く指でショパンの猫のワルツを聞かせてくれる老淑女。戯れにシュレティンガーという名前を付けられた猫。そしてわたし。物語に出てくるわたしは、老淑女を通して色々なことを学んでいく。青空と雲が成す色バランスがどれだけ絶妙で美しいのか、冬に澄んだ大気の元、更に上空を占める夜の星がどれほど綺麗なのか、その季節にあった暮らし方と習慣がどれだけ素朴で平穏なものなのか――そういう想いが広く受け入れられたのかもしれないと、優美は思っている。勿論、近しい人ならば音楽家だった祖母と物理学者だった祖父をモチーフにして描かれたものだと気付くだろう。彼女にとって、猫のワルツは亡き祖父母の思い出を形にしたものに他ならない。

 デビューから半年後、第二作目のアイデアを求めてこの町へやって来た優美はその三日後、伴侶となる遠野(さとし)という新人の駅員と出会った。彼女は記憶が深い闇の底からわきだしてくるのを感じていた。それは厚い雲間から差し込んだ光のように激しく、優美の心を掻き乱しながら一心不乱を続ける。

 優美と聡は駅の改札前で毎日話すうち、少しずつお互いがお互いを意識するようになっていた。齢にして四年の差も、恋という人間の中で最も凄まじい熱病の中では無きも当然だった。況や冷たい理性をや? 初めてのキスは深夜の駅の前だった。初めての行為は駅員室の中だった。そして物語が完成した直後、二人は優美のお腹に新しい命が宿っているのを知った。そう、あれこそが幸せの絶頂だった――優美は海の遠方を臨むが如き悲哀の視線を、遠野家の古ぼけた天井に向ける。第二作目には『蒼の天球―Blue Sphere―』という題名をつけた。この物語が処女作と違い恋愛小説の趣が強いのは、いかに自分の感受性が強いかの証拠であるような気がして、少し恥ずかしかった。しかし、それも今では思い出の中で柔らかい光を放つのみだ。

 優美と聡の関係は最初、戸惑いをもって迎えられたものの最終的には容認された。彼女のお腹に赤子のいることが知れたからだ。慎ましやかな結婚式を挙げた二人は、蒼の天球による印税収入と聡の蓄えを足してささやかな平屋の一戸建てを購入した。そして五ヵ月後、一人の女の子がこの世に生を受けた。

「そう」優美は娘の生まれた時のことを思い出し、思わず恍惚の中で呟いていた。「私の可愛い、たった『一人』の大事な娘――」

 その後の数年間は、育児と執筆を両立しなければならなかったが、苦痛は感じなかった。どちらも創造的で充足をおぼえる行為であり、夫も手伝ってくれたからだ。優美は暖かいミルクのような匂いと、ゼリーのように柔らかく張りのある頬が好きだった。触っているだけで、優しい物語が無限にわいてくるような、そんな錯覚さえ感じた。事実一年間に発表した五冊もの物語は皆、老若男女の隔たりなく強い支持を受け、作家としての自信が徐々にではあるが芽生えつつあった。全てが満ち足りていた頃、しかし、それは無残にも崩れていく。

 優美は己の記憶から過去のものと思しきものを取り出した。取り出すことができた。思い出すのも辛く厭わしい出来事だが、今の自分と切り離すことのできないそれを彼女は思い浮かべ、開いたばかりの原稿用紙に書き付けていく。脳の中に留めているだけでは、我慢できなかった。出力しなければ、壊れてしまう。書きながら何故か、涙が止まらなかった。十五年も取り組んできた事実だというのに、酷くのっぺりとして余りに身近で、それでいて途方もない嘘のような。

 十分ほどかけてそれを書き記し終えた時には、折角溢れてきたアイデアを別の媒体に残す気力が全て消えうせていた。優美は乱雑にまとめた原稿を再び机にしまい、目尻を拭って部屋を出る。泣き顔を娘に見られてはいけないという親らしい意地を固め、優美は洗面所に着くと何度も顔を洗った。涙の後が消え、日常を問題なくこなすため、彼女は冷たい水を容赦なく被る。前髪が少し濡れるほど熱心に、ある意味で自罰的に。

 タオルで顔を拭き、ドライヤで髪を乾かすと、優美は台所に向かった。古ぼけた冷蔵庫に電子レンジ、清潔に畳まれた布巾に整えられた調味料は、彼女が主婦として高い能力を有していることを示している。保温にかけていた米飯が芳しい湯気を放っていることを確認すると、優美は味噌汁を作り始めた。いりこと昆布で出汁を取り、合わせ味噌をゆっくりと溶き、香りと味を付けていく。その端で豆腐を切り分け、なめこや乾燥わかめと一緒に鍋に入れた。沸騰する直前で火を止め、二人分の椀に注ぐと刻み葱を加える。味噌だけでは決して出ない風味の奥深さが、辺りに広がっていく。

 お新香を小皿に分け、昨夜炊いておいたひじきの煮物を小鉢に盛ると、最後に甘くふんわりとした玉子焼きを作り、薄紅色の薔薇が写された皿に添えた。朝食の匂いを嗅ぎつけたのか偶然か、料理が終わるとほぼ同時に、ロング・ヘアの少女が朝の倦怠の匂いをひきつれ台所にやってきた。

「――おはようございます」

 少し間延びした声は、台所に眠気を呼び込むような錯覚すら与えるが、優美には慣れっこだった。何においても一人娘の声なのだから。彼女はどこにも焦点を定めぬ、それでいて寂しそうな視線を流す娘に向けて、一言声をかけた。

「おはよう美凪、いま朝食ができたばかりだから、少し待ってね」

 それは、今までも交わされてきた他愛ない挨拶の筈だった。しかし、美凪はまるで重大事件を目撃して言を失った子供の如く呆けた瞳を優美の方に向けた。何か変なことを言っただろうか、首を傾げる優美に美凪はそっと微笑み返す。既に虚脱状態からは抜け、心なしかいつもより元気そうに見える美凪の姿に、優美は少し寝ぼけていたんだなと断を下した。

 いつも通りに向かい合って座り、無言ではあるが温かみのある朝食の時が過ぎていく。そう、これこそが日常なのだ。更には常に脳内を刺激するイマジネイションと心の安寧とが、全身を包み込んでいた。美凪は今日もマイペースの咀嚼でゆっくりと食事を平らげている。

「美凪、ご飯のお代わり欲しい?」

 優美が何気なく言葉をかけるだけで、美凪は隠しようのない嬉しさを身や表情に滲ませる。何が嬉しいのかは分からないが、優美は何も尋ねなかった。もしかしたら新しい友達か恋人でもできたのかもしれない。かつて夫との恋愛に興じていた時には同様の心理を抱いていたことを思い出し、優美は軽い笑みをもらした。

 かくして朝は平坦な速度で過ぎていく。もし端から見るものがいれば、至って平和な朝の光景だと信じただろう。それでいて今、この場所は救いがたいほどに歪んでいた。

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