Capitolo Uno
--Parte Una "Salto Di Quantum"--
2000年08月23日(水)
−1−
外界の気候と太陽から途絶された診療所の中で、
ただ、そのこと自体は霧島聖という医師の評判をさげるものではない。町内の小中高校で集団検診、予防接種などといった健康福祉雑務と言えば、専ら聖の役目だったからだ。人手が足りない時には稀に、隣町の医師も駆り出されるのだが、向こうは向こうで忙しい。それに、こうした医療行為を一段下に見ている感じがして、聖は余り『町の医者達』が好きではなかった。勿論、子供達はそれを分かっている。少し怖い時もあるが優しい先生というのが、彼女の確固たるイメージだった。大人達も先代譲りの弁と確かな医療知識、地盤を以って聖を支持している。町の青年団など、若い男には特に人気が高いのだが、聖はそれらを歯牙にもかけない。皮肉なことだが、男性に対するそのような禁欲さが、彼女の人気を決定的なものにしていた。
絹のように細くしなやかな黒髪にあつらえたかのような面長で鼻筋の通った顔立ちは、やや鋭く人を射抜くような目ときつく紡がれた口元とに彩られ、良い意味での日本的な美を保っている。スタイルの方もあと二年で三十歳ということを考えれば奇跡的なプロポーションを維持していた。故に年齢的な要因も重なり、見合いや結婚の話題を持ちかけられることが多い。聖にはまだ結婚する気などないので、そのことは
院内の少し古めかしい壁時計を見ると、もう直ぐ午後五時。診療時刻は五時半までだったが、午前一番に薬を貰いに来る老人の一団を除けば客足は五指をも数えない。疾病人が少ないということだからそれはそれで目出度いことなのかもしれないが、やはり医師である聖にとってこの閑古鳥は余り歓迎できないものだった。国からの扶助は出るのだが、不景気や医師全体に対するイメージの低下もあいまり、半永久的なそれを期待するのは難しい情勢だ。更に不幸なことには、聖の父は余り金銭の貯蓄ということに気を遣っていなかった。良く言えば良心的な医者、悪く言えば商売の下手な医者だった。腕が悪い訳ではない、医者の稼ぎはその腕と緩やかに比例し、その良心と速やかに反比例する。腕がたち、良心的な医者というのは須らく大して稼いではいない。聖はそのことを誇りに思っているが、やはり将来的な不安は拭えなかった。
一人であれば、最終手段としてこの診療所を畳んでもっと仕事のある病院へ職を求め赴くという手段も取れたかもしれない。しかし、聖にはこの場所を動けない三つの理由がある。一つはこの町への愛着、二つ目が町の患者を放棄することに対する負い目、そして三つ目が妹――
聖は論文要約を破りゴミ箱に押し込むと、机に両手を突いた。派手な音を立てたが、誰の耳にも聞こえない。一つには論文が期待外れなこと、もう一つは医学という現代科学の申し子のような存在にして藁にも縋らなければ迫ることのできない症状のあることに対する憤りだった。このような所作を、聖は既に数年、続けてきていた。研修医、遡れば医学生であった頃からだ。目的は一つ、佳乃の身体に及ぶ原因不明の人格乖離現象に対する解答を求めるが為。故に聖は精神医学の本を読み耽ってきたし、その手の権威にそれとなく接触したこともある。しかしそれでいて、欠片ほどの手がかりもつかめていなかった。精神という段階は人間が踏み込むにはまだ余りにも曖昧で、そして分からないことが多過ぎる。それが聖の出した、屈せざるを得ない結論だった。
霧島佳乃が何らかの解離性障害を起こしていることは明白だった。幸いにして症状の発生は殆どの場合が夜に限定されている為、町の住人は夜の散歩をしているくらいにしか思っていない。もし、昼間も同じようなことをやっていれば、とても気心を許せる友人など持ち得なかっただろう。幸いなことであるが、聖にはとても安堵などできなかった。天真爛漫な態度と明るく前向きな性格、まるで太陽のような笑顔を浮かべ、皆を幸せに包み込んでいくかのような仕草と話し上手なさまなどは、聖にとって比喩すべくことなき自慢の種だった。
だからこそ、余計に佳乃を救ってやりたかった。友との語らいを、地域とのふれあいをなに気兼ねすることなく、明るいままの霧島佳乃でずっといることができたらどんなに幸せか。しかし、その為の手段を一つでも講じることはできなかった。聖にできたことと言えば、あの黄色いバンダナを与え、同時に嘘を吹き込んだことくらいだ。彼女にとって殊更辛いのは、佳乃が自分の嘘を心から信じているということだった。そのことを悔やみ、己の選択が正しかったかどうかを考えない日は殆どない。しかし、他に方法もなかったように思える。なにしろ、あのバンダナがなければ佳乃は――。
「たっだいまー」正面扉を開ける音と同時に、明るく抜けるような声が響く。聖は思わず身体を震わせ、しかし一瞬後には声の主を迎えるべき精神状態に戻っていた。「おねえちゃん、今帰ったよ。どう、今日は仕事忙しかった? 何か手伝うことないかな」
診察室に入ってきた佳乃は、額から少し汗を流していた。この町に限らず、茹だるような陽気では汗の一つでもかかずにはいられないのだろう。ほぼ毎日どこかを駆けずり回っている割に、肌はそこまで黒くない。焼けてはいるが、健康的と留められるくらいだ。きっと、メラニンが少ないのだろう。他にも健康を害しているようなところはない。脈や呼吸も正常そうだし、咳やくしゃみをしているということもなかった。セサミ・ストリィトのクッキィ・モンスタがプリンタされたシャツにショートパンツと、普段より少し活発なスタイルをしている。肩には少し届かないくらいの髪、小さいながらも僅かにふっくらとした顔の形、ぱっちりした目や口元は聖と違う――美人というよりは可愛らしいという印象を強く与えた。
「いや、どうもこの町の人間は昔から頑丈にできてるらしくてな。秋も深まれば患者も増えて来るんだが、今は打ち止めらしい。ところで佳乃は今日、何処に行ってきたんだ?」
余りプライヴェートに鑑賞するのは良くないと常々思っているのだが、やはり心配してしまう。もっとも、佳乃は全く気にしていないようだが。
「うーんとぉ――今日は新しい友達ができちゃったりしたのでした、えへへ」
鼻を擦り、自慢げに語る佳乃の姿は年頃の女子学生というより悪戯好きの少年めいて見えたが、その仕草は微笑ましいものだ。聖としても、新たな友好関係というのは関心事の一つだった。それが男だった場合、佳乃に気付かれぬ程度の手心を加える必要もあったからだ。何れは恋人の一人や二人もできるだろうが、今はまだ早すぎる。古めかしい美徳と妹可愛さ、どちらも悪いものではないのだが、些か度が過ぎることを聖は自覚していない。勿論、佳乃も気付いていなかった。気付いていれば、穏やかであるにしろ喧嘩になっただろう。佳乃がほんの短い期間持てた男友達の中には、佳乃の注目を引く者もいた。しかし、それも遠い昔のことだ。
それよりも、佳乃の新しい友達のことだ。聖はこほんと軽く咳払いし、佳乃に椅子を宛がった。そして足早に席を立ち、コップに冷たい麦茶を注ぐと氷を一つまみ。琥珀色の液体をくるくると回る氷は、佳乃のように元気一杯動き回っていた。
「ほれ佳乃、冷え冷え麦茶だ。お菓子も欲しいなら買い込んであるから、遠慮なく言うんだぞ。チョコレイト、クッキィ、アイスクリームに
聖は豪気ではないにしろ酒飲みなので、余り甘いものは嗜まない。対して佳乃は、甘いものが結構好きだ。しかし、虫歯の数は聖の方が四本多い。聖が自分のことに対して無頓着なこと、加えて佳乃が姉の言いつけを守り小さい頃から歯磨きを欠かさない為だった。医者の不養生と言うものもいるが、十八よりのち虫歯で苦しんだことはないのでその言葉は適当でない。
「お姉ちゃん、ありがと。でも、今日は甘いものはもういいよ」
珍しく辞退する佳乃に訝しむ聖だったが、友人と何か食べたのだろうと思い当たり、何も言わなかった。隣で佳乃は麦茶を半分ほど飲み干し、頭にきたのかこめかみをぎゅっと押さえている。聖は思わず苦笑し、声を零した。
「あまり急いで飲むと胃にも良くないぞ。ゆっくり飲んだって麦茶は逃げないし、お代わりもたーんとあるから心配するな」
「うーん、そんなこと言われても――」いつもなら元気良く肯く筈の佳乃が、その時だけは少し拗ねるようにそっぽを向いた。「気にはなってたんだけど、あれほど強烈なものだとは思わなかった――武田商店恐るべし」
武田商店というのは、聖や佳乃の住む町にある小さな雑貨店のことだ。あの店がいつからあるのかは、聖も知らない。ただ、彼女たちが小さい頃には既に存在したし、亡き父の話によるとその幼い頃から店を構えていたという。品揃えも似たり寄ったりで、駄菓子や文房具が所狭しと並んでいたという。忘れ物に対して特に厳しい大人の何人かは小さい頃、用意し忘れた文房具を翌朝早く、こっそり買いに行ったりもしたらしい。店主もそこは心得ているようで、朝の七時半には店を開けていた。町の皆がそれなりの愛着を持つ店だが、跡取りは都会に出たきり戻ってくる節がないらしい。物腰の上品そうな、しかし案外口の悪い老婦人が亡くなれば、店は無くなるだろう。
以前ほど深刻でないにしろ、町は過疎によって少しずつ衰えを見せ始めている。高校があるお陰で需要は満ちているのだが、鉄道の廃線という痛恨事には抗えなかった。地元の子供の数もここ最近はめっきりと減り、老人が目立つようになった。学生の往来は盛んだが、かといって骨を埋めたくなるような催しも賑やかさもない。商店街の活気は辛うじて残っていたが、十年後にはどうなることだろう。聖は俯く佳乃の隣に座り、過去を掘り返しながらも佳乃の現在を尋ねることに対する情熱を失ってはいない。焦らすことなきよう、さりげなく促した。
「ほう、佳乃を怖れさせるものか。それは一体、どんなものなんだ?」
「甘いジュース」佳乃は間髪入れず答える。「あそこの自販機で売ってるんだけど、濃縮三倍還元果汁をそのままパックに詰めた甘たるいジュースでね、本当に焦っちゃった。あたしも甘いもの好きだけど、上には上もいるんだねえ。神尾さんや遠野さんは平気そうな顔して飲んでたから」
「ふむ、それは難儀だったな。三倍濃縮果汁そのまま――」
聖は思わず身震いした。甘いものが得意でない上に凶暴なまでの甘味、想像しただけで口の中に甘みが広がり、思わず茶を飲んで味を打ち消す。落ち着くと、その次に聖はある種の引っかかりを感じた。顎に手を当て思考すること一瞬、原因は直ぐに知れた。名前に聞き覚えがあったのだ。神尾に遠野、それはここ数日に渡って起き、聖が多少なりとも巻き込まれることとなった事象に関係する名前だ。事件、というには大袈裟かもしれない。それに、もう終わったこと。そう、何かは起こり、しかし既に終焉を告げた。万事上手くとは言えないが、それなりに収まるところには収まった彼女たちは平穏な時を過ごしている。しかし、妙な偶然もあるものだ――神尾も遠野もこの辺りでは珍しい苗字なので違えることはないので確信できるのだが、どうやら佳乃は
「成程、それも面白いな」
「笑い事じゃないよぉ」聖の言った面白いは運命的な意味を込めてのものだったが、佳乃は甘い飲み物で苦しんでいることをからかわれたかと思ったらしい。
「いやいや、そういう意味じゃなくてだな」慌てて手を振るも、既に佳乃の機嫌を損ねていた聖は後悔の溜息を吐いた。「つまり、説明することが難しいんだ。それに面白い話じゃないし、医師の義務にも関わることだからな。そう言えば、お前は納得してくれるだろう?」
医師の義務は常に患者と共にあるものだ。佳乃もまがりなりに医師の娘であり、聖の生き様を見てきたからそれくらいのことは分かるだろう。しかし、変なジュースを飲んだことがどうして義務という難しい事柄に関係してくるのかは分からないはずだ。佳乃はいかにも腑に落ちないといった表情でありながら、しかし折り合いをつける為に無理矢理微笑んでいるようだった。
多少なりとも心は痛むがいた仕方ない。神尾観鈴や遠野美凪のことを出せば、佳乃は好奇心を抑えられなくなる。それは目に見えていたし、語ろうとすれば医療上の秘密が余りにも曝け出されてしまうだけに、誤魔化すしかない。口は災いの元とはよく言う――心の中で呟きながら、その大きく冷たい手は佳乃の頭を軽く撫でていた。
「すまんな。その代わりといってはなんだが、今日は佳乃の食べたいものをばっちり作ってみせようではないか。流し素麺だろうと、バーベキュ・パーティだろうが何でもござれだ」
本当に頼まれたら些か困るのだが、できないことはないのだから言っておくが吉だろう。聖は腕組みをして要求に備えたのだが、佳乃は黙って首を横に振った。
「そんな、食べ物でつるようなことしなくても良いよぉ。あたしだってもう子供じゃないんだから、お仕事の理由で駄々をこねたりしないの」
佳乃の大人びた口調に、聖は感極まるものを感じた。他人に対する思いやりの強い、自制の利いた女性に成長しつつあるのを見て取ったからだ。本当は抱きしめ誉めてやりたかったが、子供扱いすることを怒るかもしれないし、佳乃自身が何かを話したそうだったので、黙って耳を傾けるだけにした。
「あ、それより凄いんだよ、遠野さんって。学年トップばかり取ってるくらい頭が良いので有名な先輩だったから、どれくらいなのかなってちょっと興味持ってたんだけど、星座の名前を全部覚えてるんだって。本当かどうか分からないけど、百個くらいすらすら答えてたから、沢山覚えてるんだよ、きっと」
確かにそれは凄いことだろう。聖は佳乃の恍惚具合に調子を合わせていたが、美凪にとってそれは何でもないことを誰よりも理解している。彼女の頭の出来は凡庸の百人を足したよりもなお、優れているかもしれない。円周率を十万桁覚えていても不思議ではないし、どの類の事象に関しても精度がまるきり違う。有効桁数が常人より百桁ほど違うのではないか。
しかし、それを除けば美凪という人間は少し頭が鈍いだけの女子に見える。佳乃ともうまがあったらしく、とても上機嫌だ。確かに佳乃には俗っぽさが少し足りない部分がある。その点、遠野美凪も神尾観鈴も俗っぽさがないという点では折り紙つきだ。遊ぶ分にはさぞかし波長が合うことは、聖にも容易に想像できたし、雄弁に語る佳乃の姿からも明らかだった。
それにしても、観鈴――神尾観鈴。聖の中には別の疑問が浮かんできていた。
「そうか、まあ彼女は天文部だからな。ところで神尾観鈴さんの方はどうだった? その、性格的に変わってるとか、妙なことを口走るとか」
「別に――というかお姉ちゃん、それじゃ神尾さんが危ない人だって。確かに少しおっちょこちょいなところはあるかもしれないけど、優しい人だったよ。それに可愛いしスタイルも良いし。そう言えば遠野さんもそうだったなあ、一年の差はこうも肉体に出てきてしまうのか、むむむむ」
言いながら、佳乃は全身をくるくると見回し始めた。聖からすれば、佳乃も十分に均整の取れたプロポーションをしているのだが、どちらかと言えば全体的にタイトな印象を受ける。魅力の方向性が違うのだが、しかし今の佳乃に話しても理解されない気がしたので、一言で済ませておいた。
「佳乃も一年経てば成長するから大丈夫だ、問題ない」
「うーん、そっかなあ」佳乃はなおもじろじろと自分、そして聖を見渡しようやく納得したようだった。「そうだよね、よく考えればあたしはお姉ちゃんと同じ遺伝子を継いでるんだから、将来はプロポーション抜群になること決定だよね。うんうん、良きかな良きかな」
何となく引っかかる言い方だが、追求する前に佳乃が別の質問を聖に投げかけてきた。
「あれ、でも何でお姉ちゃん、神尾さんの下の名前まで知ってるの? あたし話したっけ?」何気ない、しかし的を得た指摘に聖は少し怯んだが、佳乃は直ぐ自己完結したようだった。「あ、そっか――お姉ちゃんはこの町のお医者さんだから知ってて当たり前だよね」
「まあな」
色々な意味で町の人間の半分は、うちの常連のようなものだった。かなりの数を記憶しているのは確かだが、しかし常連でない患者など半分くらいしか記憶していないのが現状だ。聖は腕前的に父と並ぶほどの力を待っていたが、情報の蓄積という点ではまだ及ばなかった。
神尾観鈴は聖の中で常連ではないが、今でも極めて強い印象を残す患者だった。精神病理学において分類するとすれば、恐怖性不安障害に最も近いと思われるが、治療には至っていない。佳乃の解離性障害と同じで、発現することは分かっているのに治せないのだ。友人や教師といった、親切にしてくれる存在とある程度の時間、接することで重度の不安や恐怖心を抱き取り乱してしまうのだ。赤面、震え、突発的なパニック発作、嘔気などの症状を併発する、重度の患者だった。
以前、晴子に聞いたところによると、神尾観鈴は神尾家などの家を統括する本家筋である橘の家系に連なりながら、その爪弾きものだったようだ。彼女が憤慨して語ること曰く『橘本家の奴らに温血動物は一人もおらん』らしい。それなりの力を持つ事業家の一族で、金を手に入れた人間が次に固執する名誉や家柄に捉われている典型的パターンのようだ。晴子の色眼鏡が多少入っていることは疑っていたが、その頃の出来事が観鈴には非常に良くなかった。晴子自身の不器用さも拍車をかけたのだろう。
ただ、そうであっても普通は数ヶ月のカウンセリングと精神安定剤を併用すれば、症状を極めて軽減できる。幼少時の心的障害治療は繊細な心遣いが必要だが、聖は問題なくこなしていた。だが三ヵ月後、観鈴は最初に診た時と同じ状態で運ばれてきた。つまり、薬もカウンセリングも何ら効果を成さなかったのだ。佳乃の例に続いて、自分に届かない領域があることを聖は当時、絶望に感じた。晴子には治療の継続を頼んだが、続けて半年間に二度もの発作が起き、症状軽減の兆候は全く見えなかった。聖はそれでも諦めたくなかったが、晴子は例によって諦観の表情を示し、以後は観鈴を病院に連れてこなくなった。聖の中にある忌々しい過去の一つだ。
しかし、佳乃の話を聞く限りでは観鈴にパニック発作の兆候は見られない。自然に他者と交わり、活動的でいる。釈然としないものを感じるが、しかし医師としては祝福しなければいけないのだろう。今度また晴子に話でも聞いてみようと思いながら、聖は一度黙殺した不安がもたげてくるのを止めることができなかった。遠野美凪、神尾観鈴、霧島佳乃――彼女たちは一様にして制御不可能な心の悩みを抱えている。ここに果たして何かの導きが存在しないだろうか? 聖は宗教的必然を信じていないが、何かの理由があるかもしれないことを初めて疑った。
日常の瑣末事を疑ってしまえばキリがない。それは聖にも分かっている。世界は非決定性の総意に基づく空間の中で必死にもがいている蟻のようなものだ。原理的に人が壁をすり抜ける可能性は零でない。確率百パーセントの絶対は存在せず、ただ可能性事象という確率に支配された決定しかない。世界にはどんな奇跡が起こっても不思議ではないと、偉い科学者がきちんと認定しているのだ。ましてや田舎町で三人の少女が巡り合う偶然など、有り得るで簡単に片付けられる。
しかし、一度疑ってしまったものは消しようがなかった。その疑いがゆえ、聖はそれから佳乃の話に身を入れることができなかった。診療時間終了寸前に腹痛で飛び込んできた患者を診ている時も、夕食の時も、風呂に入っている時も、眠る前でさえ、聖は『偶然』が三人を合わせしめたことの意義を考えていた。疑うことなき偶然なのか、何かの意志が働いているのか、聖には幾ら考えても分からなかった。限りなく零に近いものを零にできる存在――。
「馬鹿馬鹿しい、そんなものは――」
聖はベッドの中で思わず、蚊にでも聞かせるような声で呟き、首を振った。
「いるはずがない」
ピンクのブランケットを顔に羽織り、聖は蒸し暑い夜の大気の中、眠りという唯一の安寧を求め目を瞑る。しかし、それでも思考は鉛の鎖に繋がれ解放されそうにない。仕方なく聖はもう一度ことの始まりに遡り、全てを見通そうと幾つかの出来事を並列に思い浮かべた。
発端が何かを求めるのは非常に難しいことだったが、それでも聖は一つを選ぶことができた。そう、あれは先週の土曜日――遠野美凪の母親がこの診療所に訪ねてきたことが発端だったかもしれない。思うよりも先に、聖はその日の記憶を正確に引き出していた。