2000年08月23日(水)
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飼育部の活動が終わり、いつものよう正門を抜け帰路に着こうとしていた霧島佳乃の目に、それは余りにも鮮やかに飛び込んできた。自分と同じ制服を身に纏い、しかしまるで異質の存在である女性たち。二人は片方が後ろ手一つで縛った髪を、片方がリボンで束ねた髪を潮風のままになびかせていた。両手を広げ、手を繋ぎ、空の全てを受け止めようとしている。細々と続けていた歩みを止め、佳乃は完全に立ち止まった。そして、全てを受け止めるかのような勢いを持つ二人に心奪われた。
海が近いからだろう、潮の微かに寄せては引く穏やかな音が聞こえてくる。夏の生温くも心地良い風が大気と調和し、静かな音楽のように佳乃を包んでいく。佳乃はその音楽の奏で手が二人であると信じて疑わなかった。静かに、ただ静かにたゆたうそれを全身で感じながら、佳乃は強い欲求を感じる。背だけでは物足りない、どうにかしてこの音楽を邪魔せずに二人の顔を見てやろう。佳乃は好奇心と瞬発力のある女性だったから、直ぐ行動に移した。堤防の左斜め下まで移動すると、自分とほぼ同じくらいの高さの堤防をよじ登り、それから様子を見るため顔を二人の女性の方に向ける。
右側の女性の顔は残念ながら見えなかったが、左側の女性の横顔は辛うじて見えた。凛々しくも微笑み、楽しそうに大気を受ける女性に、佳乃は思わずどきりとする。同姓であるにも関わらず、彼女は魅力的だった。ここまでの美しい女性を、佳乃は姉の聖以外に知らない。佳乃はただ惚けて見つめ、半ば本気で時よ止まれと祈っていた……それがいけなかった。
バランスの悪い体勢を取っていた所に、一陣の強い風が吹いた。それは二人のスカートと髪を強くはためかせるだけだったが、佳乃の身体はもろにあおられてバランスを崩した。
「わっ、わっ、わーーーーーっ!!」
思わず大声を出して口を塞いでしまったのが運の尽き、佳乃は柔らかい砂浜の上に頭から着地して三十センチほどめり込んだ。直ぐに脱け出せたが、しかし口の中は塩っぽい砂で満たされてしまい、非常に気持ち悪い。ぺっぺっ、と何度か吐き出してようやく、佳乃は心地良い静寂を自分が破ったことに気付いた。左右を見回し堤防を見上げると、その頭上で二人が心配そうな顔をして覗き込んでいる。佳乃は急に気恥ずかしくなり、砂を払うと顔を伏せた。
「あのーー、大丈夫ですかーー」
ポニィテイルの女性が労りに満ちた声で語りかけてくる。意を決してもう一度堤防を見上げ、瞳に映ったものに一瞬だけ赤面すると、更に上の方へと視線を動かした。自然とポニィテイルの女性の隣に立つ女性の顔が明らかになる。
こうして観察すると、同じ学校だけあって二人とも見知った顔であることに、佳乃は気付く。確か……神尾観鈴と遠野美凪。双方共に聖峰高校では有名人であった。だが、有名であることの意味合いは全く異なる。
遠野美凪については、凄絶と言われるまでの頭脳がその原因であった。何しろ、これまでに同学年トップの座を一度も譲ったことがないというのだから、半ばドラマかアニメに近い。カンニング疑惑もあったそうだが、厳重なる監視の元の試験でいつもと同じ成績を叩き出し、全ての悪評を封殺したとか。多分にエキセントリックな態度も相俟って、マサチューセッツ工科大学の博士号を十五歳で取得してから高校に編入したとか、知能指数が二八〇とか噂されている……ということを姉に話すと「ベルク・カッツェではあるまいに」と佳乃に意味の分からないことを言った。とにかく、とても頭の良い近寄り難い女性という印象が、佳乃の中にはあった。
対する神尾観鈴については逆に、あまり良い噂を耳にしていなかった。一学期の終わり頃だろうか……廊下を歩いていた男子が清聴に耐えぬことを口にしていたのを聞いたことがある。あんな気違いが何でうちの高校にいるんだと。思い返してみると他にも、頭が弱いとか凶暴な女とか、その他諸々の悪評を一身に受けていたし、教師の受けも悪かった。だから佳乃は、無意識のうちに神尾観鈴という名前を少し名の通った不良として認識していたのだ。
二人についての評判があったから、初めこそ佳乃は厳しい顔をして身構えた。しかし、心配そうな顔でこちらを覗きこみ手を差し伸べる仕草を見て、直ぐに偏見や風聞による補正を打ち消した。他の生徒がどのように話しているのかは分からない。だが佳乃の目に、美凪と観鈴はどこにでもいる親切な人間として映った。澄んだ瞳と心配を顔に浮かべ、愚かにも転げ落ちた佳乃を笑うことなくただ、救い上げようとしてくれている。
佳乃がそれぞれの手を掴むと、二人は渾身の力で佳乃を引っ張りあげた。後になって考えれば十数メートル先にある海岸へと出るための階段を使えば良かったのだが、混乱はいつも最善の方策を覆うものだ。それに、助けあげられた方が劇的で格好良いという心理も働いたのかもしれない。どちらにしても、堤防の端に捕まりじたばたしながらようやくその上に到達した佳乃に、己を統括する余裕など残っていなかった。残っていたとしても、それは目の前の二人……美凪と観鈴を理解するために使われたのだろう。佳乃は何度か息を吐くと、気恥ずかしさで逃げ出したくなるのを必死で堪えながら、謝辞を述べた。
「ありがとうございます。その……恥ずかしいところ、見せちゃって」
何しろ砂浜とはいえ、頭から思い切り落下して転げたのだ。格好良いはずがなかった。しかも、二人の醸す雰囲気を佳乃は思い切りぶち壊している。もしかして、気を悪くしてないかなと心配で仕方がなかった。しかし、美凪は暖かく微笑みかけてくれた。
「そんなに畏まらなくて良いです。困った人を助けるのは当然のことですから」
「それより大丈夫かな……頭から落っこちたみたいだけど、怪我はない?」
観鈴はひょこひょことした動きで佳乃の様子を伺っていた。怪我や異常の箇所を調べているのだろう、だから佳乃は快活に答えた。
「うん、大丈夫。下が砂でしたから怪我はないし、乾いていたから汚れも払えば簡単に取れるみたいです」実際、服を何度か叩くだけで木目細かな砂浜の砂はぱらぱらと零れ落ちていった。「打ち身もないし、骨や肉にも異常なし。でも……」
塩分の含まれた土を口にしたためか、喉が無性に渇いてしようがなかった。
「砂が少し口の中に入って……しょっぱいかも」
「……それは難儀なことですね」あまり難儀に思っていないような口調だったが、瞳は心配を物語っている。やや緩慢な所作といい、これが彼女のペースなのかなと思いながら、佳乃は言葉を続けようとする美凪に注目した。「近くの自動販売機で、ジュースでも買うのが吉……だったりしますか?」
どうやら自分に訊いているらしい。肯こうとして構えると、観鈴が目を輝かせて乱入してきた。何やら妙案があるのだろうか……佳乃も美凪も、観鈴をじっと見据えた。
「だったら、美味しいジュースを売ってる自動販売機を知ってる」余程の自信があるらしく、観鈴は大声で主張する。燦然と輝く太陽にも負けぬほどに、瞳は煌いていた。「神尾観鈴の絶対お薦め商品、これがなかなかにいける、にはは」
独特なイントネイションの笑い声をあげながら、観鈴が指差した先には辛うじて古びた小さな商店が見えた。武田商店と呼ばれる、創業五十年以上という雑貨屋だ。故人である父が子供の頃に存在したというから、その歴史も推して知るべし……とは、姉である聖の言だった。かくいう佳乃も、筆記用具やノートなどを用意し忘れてこっそりと買い揃えた過去がある。最近は余り寄らないが、幼き頃の思い出の一つだった。
観鈴はその入り口に置かれた、一台の自販機に駆け寄った。紙パック飲料を販売しているもので、一律百円の札が並んでいる。徐にポケットから財布を取り出すと、観鈴は百円を取り出しどれにしようかなと、嬉しそうに悩んでいた。佳乃は少し戸惑い気味にその様子を眺めていたが、不意に聖の忠告を思い出して、いつもはぱっちりと見開かれている目をすっと細めた。
『佳乃、武田商店の自販機には近付かない方が良い』
聖はいつになく真剣な面持ちで語っていた。しかも二度、念を押した。つまり、それだけのものが潜んでいるということだ。しかし、観鈴のはしゃぎようを見ているととても、魔が潜んでいるとは思えない。それに自販機自体も、聞いたことのない会社名であることを覗けば至って普通の構造をしていた。
どちらの言葉を信じるべきか……割と真剣に天秤を揺らしていると、観鈴が同じ商品であろうパックを二つ抱えて佳乃の元にやって来た。
「はい、飲んでみて。これがなかなか美味しい」
手渡された紙パックには『どろり濃厚ピーチ味』と書かれてあり、桃の色を基調とした暖色系のパッケージからも何ら危険なものは感じられない。だが、それでも姉の言葉は気になる。他の人にはどうか分からないが、少なくとも聖は佳乃に真面目な顔で嘘は吐かない。どちらを信じるべきか……暫く迷ったが、最後は観鈴の邪心一つない瞳、そして彼女に同じ飲み物を手渡された美凪の陶酔したような表情を信じてしまった。佳乃がもう少し美凪のことを知っていれば、飲食の嗜好に対して彼女を基準にしてはならないことを知り得ただろうが後の祭り。
ストローを指し、微かに粘度はあるが甘い水に似た食感を求めていた佳乃は、その味の濃さとしつこさに思わず咽た。
「けほっ、ごほっ、ごほっ……」
一瞬、頭の中が真っ白になった。鼻の近くにまで甘さが広がり、それでも息苦しさは除かれない。咄嗟に取り出したハンカチを口元に当て、被害の拡散を防いだが、暫くは呼吸と咳を交互に繰り返し、収まるには一分近くかかった。
「けほん、けほん」
最後に軽く咳をしたところでようやく、観鈴が背中を擦ってくれていたことに気付いた。
「うわ、だ、大丈夫? えっと、そう言えば名前聞いてなかったけどどこかで見たことあるような、えっと……」観鈴はそこで一度、背を擦る手を止めた。途端に喉が、いがらっぽさで満ち、咳が出そうになる。見て取った観鈴は手の動きを再開すると、直ぐに弾んだ声で言葉を続けた。「あっ、思い出した。霧島先生の妹さんだよね」
こくこく。二度肯き、小さく分けて息を吸うと、ようやく落ち着いてきた。佳乃は三度、咽ないように深呼吸すると、ハンカチについた液体を眺めた。微かにピンク色をした、白い粘液状の物体はとてもジュースとは思えない。寧ろ、カルピスの原液に近かった。口の周りも粘々するから、同じものが付着しているのだろう。と、妙に怪しげな視線を感じ、佳乃はその方向に注目した。すると何故か、美凪が顔を赤らめながら目を輝かせ、微妙なしなを作りながら、両手を組んでいる。まるで何かに祈るような仕草。しかし、自分の何にそのような反応をしているのか分からず、佳乃はきょとんとして首を傾げた。
美凪はポケットからハンカチを取り出し、佳乃の口を丁寧に拭った。成程、彼女は綺麗好きなのだなと思いながら、佳乃は手に持ったジュースの成分にざっと目を通す。そこには見るだけで目も眩みそうな項目が並んでいる。そして一番下の方にごくごく小さく『濃縮果汁五百パーセント、カルピスを原液で飲むような真の甘いもの好きな方へ』とプリントされてあった。
聖の言葉は一字一句違うことなく、正しかった。なんというものを置いているのだろう、この武田商店という店は。十六年と数ヶ月生きてきたこの町にまだ、ここまで未知のものがあることを、佳乃は思い知らされた。思い知らされたと同時に、それを平然と飲み下していた美凪の姿に、思わず問わざるを得ない。
「あの、遠野さん……」
「……あ」
どうしてそのジュースを容易く苦もなく飲めるのですか? そう尋ねる心の声と被さるようにして、美凪の小さくしかしよく通る声が耳に響く。佳乃は思わず口を噤み、美凪の次の言葉を待った。
「そう言えば、挨拶がまだでしたね」先程までの雰囲気をまるで省みぬマイペースさで、美凪は深々と頭を下げた。「こんにちは、今日は良い天気ですね」
「あ、えっと……こ、こんにちは」
言って、同じようにぺこりと挨拶。すると観鈴も「あ、わたしも挨拶忘れてた。こんにちは、霧島さんっ!」
もう一度同じように挨拶すると、そこにはもう微かな混乱さえ残らなかった。或るのは茹だるような熱気と微かに匂う潮の香り、そして短い命を精一杯に主張して止まぬ蝉の声、そして口の中にしつこく残る濃縮果汁の甘みと九割ほど残ったパックの中身だけだ。どうしよう……佳乃は窮地に立たされたことに初めて気付く。どう考えても相性の良くない飲み物、そして薦めた観鈴の曇り一点無き心は、佳乃の進路を断ったかに見えた。
しかし、天はまだ佳乃を見捨ててはいなかった。
「わ、わたしの分のジュース買うお金がない……」
自販機の前に立ち尽くし、頭を垂れる観鈴を見て、佳乃は素早く彼女の元に寄り、ジュースを差し出した。
「だったらこれ、どうぞ。美味しいけど、少しあたしの口には合わないみたいだから。好きなんでしょ? このジュース。うん、名案名案……ということでどうぞ、飲んで下さいっ。あたしは別のジュース、買ってきます」
半ば強引に押し付けると、佳乃は商店の中で冷ややかに所狭しと並ぶりんごジュースの缶を一本手に取り、百二十円を払って外に出た。
「ごめんね、気を遣わせて……」出てくるなり、観鈴はパック入りの飲料を潰さぬようそっと頭を下げた。「お金がないなんて、かなり抜けてるよね。観鈴ちん、あわてんぼう」
こつと自分を叩く仕草はどこか幼げで、これが彼女の地なのかなあと思うと、二重の意味で溜息がもれた。一つは観鈴という女性の掛け値なしな人の良さに、もう一つはあの濃縮果汁そのままな飲料を二度と口につけずに済むという安堵から来ていた。
「あ、それは良いんです。年下なのに奢ってもらうのもなんですし」
「うーん、それは遠慮しなくても良いんだけど……」
言いながら、先程の濃縮果汁をさも美味しそうに飲む観鈴の姿を見て無性に喉が渇き、佳乃もプルトップを開けて一気に三分の一ほど飲み干す。口内から喉へ、そして胃の奥にきゅーっと染みる清冽な感覚がようやく、佳乃を心身ともに満たしてくれた。
「うん、美味しい」
にこにこ笑いながら飲む……というより嚥下という表現が正しげな喉の動きをさせる観鈴。その視界の隅で、美凪がパックを丁寧にたたんでゴミ箱の中に捨てているのが見えた。礼儀正しいなと思うも刹那、あの中身が全て彼女の胃の中に収まったことを何より証明していることを知り、眩暈がした。どうして二人とも、あんなジュースを咽ずに美味しそうに飲めるのだろう。しかし、改めて尋ねる気力は既に、佳乃から根こそぎ奪われていた。
数分後、余り思考の大勢を占めたくないなとは思いつつも、観鈴の手に持つ空になったパックに目を向けずにいられない佳乃は、自身のジュースを紛らわすように飲み干し、まるで大切な思い出の一つを捨てるかのように、缶をゴミ箱に捨てた。世の中には、敢えて考えない方が良いこともある……これも姉である聖の言葉だが、佳乃は改めてその正しさを認識する。これでまた、一歩自分は大人に近づけたのだろう。
大人……その一語が佳乃に、ある物体を意識させる。少し色のくすんだ、黄色いバンダナ。他愛のないものに込められた、しかし彼女にとってはとても大きな希望が、佳乃に一つの想像をさせ、思わず笑みが浮かぶ。
きっと、彼女たちはどろりとしたジュースを容易く飲めるようになる魔法を使っているのだ。わ、ここに二人も魔法使い発見。佳乃は心の中で呟くと、美凪と観鈴を視界に入れ、改めて向き直った。理由は分からない。しかし何故か佳乃は、二人に自分に近しいものを感じていた。
考え過ぎだろうか……自分の世界に没入していたので、佳乃は最初、声をかけられていることに気付かなかった。
「あの、霧島さん……で、良いんだよね」
「はい、その、何ですか?」
「えっと、これから、わたしの家で遊ぼうってことになったんだけど、霧島さんも来ない? あ、その……嫌だったら別に良いけど……」
観鈴は笑顔を浮かべながら、どこかぎこちなく自信がなさそうに見えた。表面上は明るいが、誘い馴れしていないことが目に見えて分かる仕草。しかし、佳乃にはその姿が心地良く、可愛いなと思った。こうなると持ち前の社交性も相俟って、佳乃は満開の向日葵のような笑顔を浮かべ、大仰に肯いた。
「勿論、おっけーだよ。誘ってくれてありがとうっ。それと、あたしのことは佳乃で良いよ。霧島さんじゃお姉ちゃんと一緒で紛らわしいよね」
「そう……? うん、分かった。だったらわたしも、観鈴って呼んで良いよ」
まだぎこちなさが残るものの、観鈴もまた女の佳乃が惚れるような笑顔で答えてくれる。さあ、後は遠野さんだなと二人して振り向くと、何故か彼女は胸を反らして威張るような仕草で言った。
「……美凪と呼ぶが良い」
まるでえっへんという擬音が聞こえてくるような……二人して半歩退いたところに、美凪がぐっと親指を立てる。
「……おっけー?」
反射的に観鈴も佳乃も「おっけー」と答え、美凪は満足そうに何度も肯いて見せた。
ここまで何を考えているか分からない人間は初めてだ……佳乃は微苦笑を浮かべながら、非の打ち所のない美貌とスタイルの内に秘めるエキセントリックな性格に己を見失っていた。口をぱくぱくさせているところを見ると、観鈴も自分と変わらぬ心理状態なのだろう。
暫く噛み砕く時間が佳乃には欲しかった。しかし美凪が一人でゆっくりと歩き始めたのでそうもいかず、佳乃は困惑を胸に秘めたままその後に続いた。
ともあれこうして、佳乃は神尾家へと向かうことになったのである。