2000年08月19日(土)

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 夜空はいつも混沌に満ち、圧倒的な闇の中で思う存分の煌きを示している。無数の疎な関係による天体はしかし、過去から現在までに至る様々な有為の存在によって線付けられ、その関連一つ一つがいつしか星座と呼ばれるようになった。ある時は願望の象徴として、ある時は想いの象徴として、ある時は単なる星遊びの一環として無数に生み出され、今はいかなる数かも知れぬ群像がどれほど彼女の心を占めているかを知れば、その者はただ星の重さのみによって、伏し倒れてしまうかもしれない。

 それほど、美凪の星座に対する憧憬は強く激しいものだった。幾人かの友人や大切な人を除けば、唯一とも言えるほどの渇望は、また父との記憶でもある。父――遠野聡は、星座を町の誰よりも知っていた。幼い美凪に向かい、まだ理解できないことを前提にして、次々と星を指差していく。先ず、夏の大三角形……父が指差す動きが光年ほども違う星々を繋ぎ、線から面へ。形の作られていく様を、美凪は興奮の面持ちで眺めていた。そして、その名前を一字一句もらすことなく刻み付けていった。

 美凪は何一つ忘れていない。誰にも名されぬ綺羅星を指し、美凪と名づけてくれたことも。そしてその隣に、代わらぬほどの強さで輝く星には満凪(みちる)と名づけたことも。

 美しく、満ちる凪を。やがて人生という大海へ出ずる、そこが穏やかな、そして幸せな海であるように。父はそんな願望を二人に込めた。しかし、二つの星のうちの一つは流れ、既に輝きを見せることはない。満凪はこの世に生まれてくる前に、世を去った。

 誰が原因でもない。幾つもの要因が徐々に積み重なり起きた不幸に過ぎなかったのだ。直接的な原因は、階段から転げ落ちたことだろう。妊娠七ヶ月だというのに、重い荷物を両手に抱えていたのも遠因かもしれない。しかし、その理由は聡が鍋を所望したからであり、荷物は全て食材だった。美凪はその時、三歳だったが小さな荷物一つくらいなら持てただろう。それがバランスを崩して転倒することを、もしかしたら防いだかもしれない。考えれば、キリがなかった。

 ただ一つ言えたのは。愛だけに成る家庭を壊すには十分すぎる力を秘めている、それは出来事だということだ。流産を知った母の優美は茫然自失とし、取り乱した。遂にはその重圧に耐え切れず、記憶を転化した。満凪がいないという矛盾を解決するために、母は作家的想像力の全てを駆使したのだ。そして、全ての創造性と引き換えに残酷な事実を改竄し、それがさも真実であるよう振舞い出すようになった。

 それは、満凪の肯定だった。

 そして、美凪の否定だった。

 美凪は何度も『私は美凪』だと訴えたが、母はぞっとするような屈託のない笑みを浮かべ、諭すのみだった。

『何を言ってるの? 貴女はみちる、美凪なんて名前じゃないのよ?』

 そして美凪はいつしか、美凪として生きることを諦めていた。記憶が確かならば、絶望的な気持ちを以ってそのことを決意したのは、四歳の時だった。父が母の変容に耐え切れず、半狂人のようにして町から出て行った、その次の日に……。

 美凪の記憶が更に一晩だけ、過去に舞い戻る。

 その晩、父は庭先に立ち、見えぬ月の半分だけを虚空にも似た目で見据えていた。まるで狂気を一身に浴びるかのような行為は、幼心にも美凪の心を震わせた。それでも近づいていったのは、父が余りにも弱々しく、消えてしまいそう思えたたからだ。彼女は慣れない媚びの声で、父を励ました。

「おとーさん、元気出して」

 しかし、返す父の声はにべもなく、そしてただ冷たかった。一歩後ずさり、目尻に涙を溜める美凪に、父は言い放った。

「五月蝿いっ、お前に何が分かるんだっ! 餓鬼の……くせにっ!」父は投槍に、そんな言葉を投げ捨て、そして美凪の頬を平手で打った。「お前が美凪だろうが、満凪だろうが……どうだって良い。疲れた、疲れたんだよ……あんな頭のおかしい女の相手をするのも、美凪だか満凪だか分からない娘に付き合うのもうんざりだ」

 頭を抱え、地面に崩れ落ちる父。酷いことを言われたのは分かっていた。美凪はその頃にもう、大人の罵詈雑言さえ理解する頭脳を有していたから。それが幸運なのか不幸なのかと問われれば、美凪は今も不幸と答える。その辛さが理解できてしまったから。子供には理解する必要もないものなのに、理解してしまったから……。

「悪い、こんなことをするつもりじゃなかった。美凪は、美凪は何も悪いわけじゃないのに……」

 父の苦しそうな声が聞こえる。

 美凪はただ、父の頭を撫でた。いつか彼がそうしたよう、そして母がするように、美凪は父を慰め、全てを許した。

「……泣かないで、良いよ」

 当時の美凪はただ、父を慰めたかっただけだった。大好きな両親に、辛い思いをして欲しくなかった。ただ、それだけだったのに……。

「……苦しまなくて、良いんだよ」

 許しは結局、父の逃避の決定的な心理的要因となった。或いはただ、きっかけだったのかもしれない。もしかしたら、四歳児に慰められたことに屈辱感を覚えたのかもしれない。どちらにしろ、父は親権を放棄し、然るべき手続きも用意せず、失踪した。

 驚いた美凪は、母に父の失踪のことを説明した。しかし、彼女はその言葉を真実だと受け取ろうとしなかった。いや、数日はそれが現実として作用しただろう。落ち込み、苦しみ、煩悶し、机に伏して涙を流していたから。しかし、それも長くは続かなかった。母は父の失踪が真実であることを拒み、そして新たな『現実』を創り上げてしまった。母は父を想像上で殺したのだ。そして、遠野家に存在する者は二人だけになった。

 遠野優美と遠野みちる、二人だけの空間。

 それは美凪にとって、決して打ち破ることのできないものだった。

 幾ら頭が働くとしても、世界が相手ではどうしようもなかった。九九の暗誦が出来た時も、分数の足し算が出来た時も、鶴亀算を解いた時でさえ、母の言葉はいつも同じだった。

 初めてカレーを作った時も、初めてオムレツを作った時も、初めてハンバーグを作った時も、母の言葉はいつも同じだった。

『よくできたわね、みちる』

 母の世界は頑なで、どのような努力や魅力の介在をも許さなかった。それでも四年……信望強く四年もだ。美凪は頑張ってきたのだ。ただ、美凪を取り戻したくて。彼女は強大な一つの世界と戦ってきた。

 それでも、母の言葉はいつも同じだった――よくできたわね、み

 最後まで聞かずに、美凪は椅子を蹴っ飛ばして外に飛び出した。涙はもう出なかった、とうに涸れ果てていたから。彼女は週に一度通っていた教会へ駆け込んだ。人生を積み重ね、それでも優しく微笑むことの出来るシスターという存在なら、自分を救ってくれるかもしれないから。

 彼女は渋い顔を作りながらも、美凪のために答えてくれた。

『主の御業を否定することはどのような概念であれ不可能に違いない。しかし、同時に主がその御業を発揮されるためにはその構成されたるものが真に構成者としての役目を果たさなければならない。それが成されないのならば、恩寵は決して彼らに降り注がない』

 だから、美凪は捨てた。

 神と奇跡を自分の世界から、放り出したのだ。

 

「……ただいま、もどりました」

 既に時刻は十時近い。さぞかし母に心配をかけただろうと思いながら靴を脱ぎ、丁寧に揃え、美凪は物腰良く家に入った。返事がないということは、もう眠っているか、うたたねしているかもしれないと思ったからだ。

 案の定、母は涎の零れたノートを枕にだらしなく眠っていた。齢にして三十五ながら、その仕草には二十代、下手すると十代にも似た幼さを見せることがある。それはもしかしたら、彼女が正しく歳を重ねなかったからなのかもしれない。

 しかし、それでも美凪にとって母は――遠野優美という存在は母だった。美凪を美凪と認識しなくても、それでも美凪は美凪でしかない。どんなに頑張っても、別の人間にはなれないのだ。幾つもの世界を創り、嘘が真実になってすら、真実は嘘になり、世界は終わる。

 同じようにして、一人の人間は何処まで行っても一人の人間でしかない。

 美凪は一人の男性との出会い、そのことを思い出した。それは一つの世界の終わりと、そして悲しい別れを伴うものだったが、彼女はゆっくりと、優しく受け止めることができた。やがて、その男性とも道を違えることとなったが、美凪は笑顔で彼を送り出すことができた。

 それぞれにやるべきことを、知っているから。

 道を違えることは、本当の想いを交わしたもの同士にとって如何なる障壁にも成りえない。美凪は微かに浮かぶ寂しさを押し、彼にそう言った。ただ大気のみが、距離を隔てる。だから、平気な筈なのだし、実際に美凪にとっては平気だった。幾つかの希望が、側にあったから。

 事実、母は自分の行いに呼応するかの如く、自分を思い出してくれた。遠野美凪という自分を、受け入れてくれたのだ。それだけでも一歩、前に進んでいると感じる。

 美凪は健やかに眠る母の隣に座り、心の奥へと自分を押し出してみる。今まで、意識して自制してきた行為を、この時彼女は自然と成していた。黒く霞む視界という名の壁の向こうまで、白く淀む思考という名の壁の向こうまで。今までいた世界を飛び出し、もっと大きな世界に飛び出すことを想起してみる。

 淀みの向こうには更なる白い幕がある。分かたれた太陽の光が、間隙を縫い空を青く染めていた。下にはただ、全てを覆い尽くすかのような雲しかない。上にはただ、眩むような光しかない。四方はただ、蒼の虚空と呼ぶだけに相応しい、均等な密度の空間。それはもしかしたら、空とよく似ているのかもしれない。しかし、決して空ではない。朝ごと夜ごと憧憬を抱き見やる深みと包容力のあるものではなかった。

 無限に続く筈なのにそこは、酷く閉塞している。出口とはただ入り口で、入り口が出口に繋がっているような。空間的な孤立感を感じるのだ。美凪はクラインの壷の挿話を思い出す。ここは、その壷と同じだ。広く見えるが、果てしなく狭い。このようなところに長年閉じこめられるとしたら、それは万死に値する恐怖だろう。ましてや、そこに絶望しかないのなら。

 この世界はどれほど酷く、醜く、歪んでいるのだろうか。

 美凪はただ大気のようにして、虚空を覗いていた。そこには何もない。完璧なる牢獄の中に、しかしまだ人はいないらしい。美凪はそのことに、心からの安堵を覚えた。

 その時、空気が僅かに歪んだ。

 白が、世界から離れていく。

 拠り糸のように微かな雲が、下面と接触して空間がぶれる。一瞬の不可視を縫い、欠けらほどの雲が世界を飛び出していく。単純に見える光景がしかし、どれだけの法則を超えたのか。

 それはまるで羽根のように舞い、世界を飛び出した。世界とはすなわち……私のこと。羽根は自分の世界から飛び出したのだ。そして、何かを探しにいく。

 同時に、何者かの存在が焦点を帯び始める。それはとても抽象的で、美凪の目には白しか見えない。しかし、上面を覆う白とも下面を覆う白とも違う。力を持つ存在だ。しかも、生半可なものではない。正しく、この牢獄でしか封じ得ないような何か。

 それは……。

 鍵が……。

 お願い……。

 あけないで……っ。

 

 

 

 目が覚める……いや、意識が戻るというべきだろうか。それにしてはまるで、深い眠りから舞い戻ってきたかのような気だるさと意識の断絶感が、なかなか美凪の中に正しい思考を生まなかった。いや、生もうとしたが根本的な何かがそれを拒んだ……というべきかもしれない。心の奥を、無意識を使うことが何故か、躊躇われたのだ。

 額につうと汗が滲む。何かがおかしい……と、美凪は心拍呼吸を落ち着けながら、考える。己の心の見通しをほんの少しだけ覗こうとしただけなのに、こうも苦痛になるのは何故だろう。本当に今、覗き込んだのは自分の心なのだろうか。まるで別の人格を通して俯瞰しているような……そう、世界を一つに分けてそれでも自分が一つなのではなく。世界は一つなのに、自分が一つではないのだ。これは美凪にとって初めての感覚だった。

 これが、何の目印もなく先に進むということの、本当の恐怖なのだろうか?

 いや、それではない。生きるということに対する恐怖ではない。それとは根源的に違う……死ですらない。それよりも酷いもののように、美凪には思えて仕方がなかった。上手く言葉が思い浮かばない。あれを、あの感じを……日本語ではどういうのだろう。諦める……何を? 全てを諦めるということ。それは……そう。

 あの世界を一言で言い表すなら。

 それは、終わりだ。

 先に続くもののない恐怖が、あそこには満ちていた。

 そして、それは自分なのだ。

 ならば、自分は既に終わってしまったのだろうか?

 今、終わったのだろうか?

 それでも羽根は終わりの世界の向こう側に、旅立ったのだろうか?

 よく分からなかった。所詮は単なるイメージでしかないのに、心を妙にざわめき立たせる。

 終わり。

 それだけは嫌だ。自分は先日、ようやく進みだせると思えたばかりなのに、もう終わりなどと。

 恐ろしい。

 思わず、美凪は向かい側に伏せて眠る母に懇願の視線を向ける。

 彼女の心を見たかった。

 自分と同じところを超えた母がどう在るのか、少しでも早く確かめたかったのだ。

 その想いが通じたかのように母は目を開き、そして困惑する美凪に最初は笑顔、そして次には不安の表情で相対した。

「どうしたの?」母が聞くと、美凪は素直に答えた。

「怖い」

「そう……怖い夢でも見たの?」彼女は立ち上がり、美凪の隣に立つ。「分かるわ。時々、夢って意味もなく不条理で……」そして、その手で頬を撫でる。「そして、怖いものだから」

「でも、時々幸せ……」美凪はその心地良さに酔いながら、安堵を言葉と顔を表す。「に、思えます」

「そうね。今日は怖いほうを見たんでしょう?」

 正確にいうと、夢とは違うのだが、今はそんなことどうでも良かった。ただ、自分を美凪と認識して言葉を交わしてくれるだけで、感謝の念が喉元まで競りあがってしようがなかった。

「……ありがとう」

 目を細め、感情を身にしようと、心をそっと押し出す。美凪は母に接続しようとする。

 母は美凪の髪の毛をそっと撫で、そして包み込むようにして微笑む。

 美凪は安らぎを感じる。

「別に、謝ることはないのよ。だって私は母親だから」

 彼女はただ、無邪気で……。

 だからこそ微塵も表情を変えず、母は平然とその言葉を紡いだ。

 美凪を終わりと突き動かす、最初の一歩となる一言を。

 空っぽの心を、残酷に、押し出したのだ。

 仮初めの安らぎはここまでだった。

「それに、美凪は私がお腹と心を痛めた、唯一の存在なのよ」

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