2000年08月20日(日)
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子守唄の、聞こえてきたような記憶がある。優しく心魂を打つ音色が、部屋の中に響いていたような……寝ぼけ眼を擦り部屋の中を見渡すと、カーテンの隙間より臨める光景よりも先に、神尾晴子の姿が神尾観鈴の視界へと入り込んできた。
いつ帰ったきたのだろう……尋ねようとしたのだが、ベッドの端に顔を伏せ、安らかに眠る姿を見ていると、とても起こす気にならない。と同時に、三日も家を空けて何をしていたのか、尋ねる気にもならなかった。色々なことがあったのかもしれないし、或いは晴子のだらしなさなのかもしれない。一つだけ言えるのは、親としてとても不適格な人物であるということだ。時には優しい言葉をかけるし、母親らしいことをすることもある。しかし、観鈴は彼女から母性を感じなかった。どちらかといえば、歳の離れた姉という印象。晴子もそう思われることを喜んでいるようで、一度口に出して言った時の、それから数日の食事のランクが二つほど上がったことがある。
年齢の気に仕方に関する限り、晴子は非常に単純だった。しかし、それ以外の幾つかでは非常に厳しい複雑さを見せていたと、思う。自分への接し方などが、正にそうだ。親しくされることに発作を持つという複雑な体質を持っているのに、一度も興奮させることなく彼女は態してきた。かといって、嫌われているわけでも、不快に思われているというわけでもない。また、観鈴も晴子を心底から拒絶したことはない。
一体、晴子がどれだけのことを考え、そして悩みながら自分に接してきたのだろう。それを思うだけで、観鈴は少し切なくなる。だから――。
三日くらいの不在、大目に見てあげるべきなのだろう。少しの間だけでも、自分から解放される時間が、晴子には必要に違いない。でも……このような顔の晴子を見ると時々、望みたくなる。彼女にはやはり、母でいて欲しいと。
それにしても、こうまで深くベッドに顔を伏せられると、起こしてしまいそうで身動きが取れそうになかった。どうにも落ち着かず、観鈴は気を紛らわせるためにゆっくり部屋を見回す。机には整然と並んだ勉強道具と、ちぐはぐな印象を与えるかもしれない、怪獣の人形が数体。
昨日の自分はきちんと勉強したらしい。らしい――とはどうも、記憶が少しばかり曖昧だからだ。夕方以降の領域が散々で、捉え所がない。意識しなければ、引っ張ることさえできなかった。これは少しおかしいなと、観鈴は記憶の回収を試みる。昨日の自分を、どうやら見つめ直す必要があると思った。だから、観鈴はそうした。目を瞑り、彼女はいまや記憶の中だけにある昨日へと、思考を進めていく。
視界全体が、夕焼けの色で覆われている。それは空を紅く染め、霞のようにかかる微かな雲は薄いオレンジへとその色を変えていた。お約束のように山間へと消えていく烏、木々に散会する雀、家に帰る人たち。
「どうしたのですか?」
ぼんやりと居間から外を眺めていた観鈴に、柔らかく落ち着いた声が気遣わしげにかかる。声には匂いなんて無いのに、微かな柑橘系を思い出させるそれを聞くのが、観鈴は好きだった。一七〇センチに迫る身長、絹のように流れる長髪、羨むようなスタイルと、美貌と、頭脳。おおよそ持たざるものなどなさそうな少女と親しく、しかも自分の家で勉強しているなんて、それだけでもまるで夢のようだった。
それにしても、自分の勉学に対する理解のなさはほとほと愛想が尽きそうなくらいだった。記憶するだけで良い教科はまだ良いのだが、演繹や応用の必要なものには悉く、躓いている始末だ。思考を推し進めるのは何となく苦手だ……いや、時を経るごとに苦手になっていったと表するのが正しいかもしれない。結果として聖峰高校付属中学に入るだけの学力を持ちながら、今では赤字続きのおちこぼれ学生でしかない。
観鈴は吐きたい溜息をぐっと堪え、ぱたぱたと手を振った。
「ううん、何でもないよ。少し、ぼうっとしてただけ」
「……成程」美凪は、観鈴の何気ない言葉がまるで重要時であるかのように肯き、それから同士を見るような顔で微笑みかける。「確かに、意味もなくぼうっとしたい時ってありますよね。私も空を眺めていて、気付いたら三時間くらい経っているということ、あったりしたりして」
語尾が微妙に変なのは彼女の癖なのか、それともわざとなのか観鈴には判じかねた。今こうして向き合っているとはいえ、彼女と近しくなってからまだ数日しか経っていないのだから。それでも、少しは……近づけたのだろうか?
「では、この辺で終わりにしましょう。方向性は理解できたと思いますし」
確かに。学力というよりは寧ろ、問題に対する方向性が鍛えられた気がする。学校の先生は問題を解くことしか教えないが、美凪は問題にどういう方向性を持って取り組むかを、かなりの時間と親切懇意をもって説明してくれた。彼女のレクチャは、高校のどんな教師よりも分かり易く、そして優しいものだった。
「うん、じゃあ麦茶を入れてくるね。お菓子もあるけど、いる?」
「お菓子はいりませんが、お茶は欲しいです、神尾さん」
それが気を遣ってのことか、本当に欲しくないのか、或いは単にダイエットのためなのか、それは分からない。一つだけ言えるのは、自分が美凪のことを実は殆ど何も理解していないということだけだ。そう考えると何故か無性に寂しくなり、心が落ち着かなくなる。
冷蔵庫から麦茶を、冷凍庫から氷を取り出しながら、観鈴は思案する。どうして美凪は今になって、自分と仲良くしてくれるのだろうか。クラスメイトでもあり、唯一時々だけど暖かい視線を寄越してくれた彼女、頭もスタイルも良く憂うことなど何もなさそうな彼女、何故という言葉が言語野を侵蝕し、過剰気味になるがそれでも満たさざるを得ない。
どうして、わたしなのだろう……誰でもない、わたしなのだろう?
冷蔵庫から麦茶を取り出し、軽く濯いでから拭いたコップに二人分の麦茶を注ぐ。冷凍庫から鷲掴みで幾つかの氷を取り出し、均等に割り振っていく。外気との差に、冷たい水の粒が盛んと付着する。一つ一つの所作を精緻に思い出せるのはきっと、何故ということから言葉を逸らしたかったからに違いない。嫌なことは、何か別のものに注目することで逸らす……それが観鈴の覚えた忌避法であった。大切なものに焦点を当てない、曖昧にすることで辛いことはいつも紛らわせた。いつしか、そうやって生きるのが自然になって来たのだ。
でも……どうして、辛いと思うのだろうか? 美凪が家にいてくれることは辛くも何ともない……寧ろ嬉しいというのに。それが苦しみとなってしまうのは何故だろう?
観鈴はグラスを握る、冷やされいく手の冷たさに気を逸らし、居間に運ぶ。美凪は蛍光灯の方に、じっと目を凝らしている。何をしているのだろうか……観鈴は興味を持ち、グラスを机に置くと肩を並べて問いかけた。
「何を見ているの?」
観鈴の見たところでは、そこには何もないように思えた。しかし、美凪は天井に何かを見ている。不思議だが、彼女の行動ともなると何故か自然に映るから更に不思議だ。
「あの染み、人の顔に見えますよね」
「え、えと……」そして、突拍子もない解答が出てくるのもまた、常だった。観鈴は余り真に受けず凝視したのだが、思わずのけぞる。怨念めいた表情がすると、浮かび上がってきたからだ。「う、とてもいけないもののように見える」
「……ですよね」
美凪は傍証を得られた科学者のように瞳を輝かせ、微笑んでいるのだが、観鈴には笑い事ではなかった。そもそも、怖いものが余り得意ではないのだ。幼い頃、晴子に散々鑑賞させられたホラー映画の影響なのかもしれないし、稲川某の怪談話を朗読された影響かもしれない。どちらにしても心霊現象が嫌いなことに変わりはなく、観鈴は思わず美凪の右腕に縋っていた。
対する美凪は一瞬、驚きに歪んだが、直ぐに合点言ったようで微かに頭を下げた。
「もしかして、恐怖ネタは宜しくない?」
まだ夜ではないし、ネタ自体は大したものでもない……と思うのだけれど。少し体が震えるし、正直言うと怖いのかもしれない。
「それは、悪いことをしました」
別に悪いことじゃないのだ、悪いことじゃない。大丈夫だし、気分を害したなんてことない。いや、でも怖いのかも……分からない、思考がまとまらない、混乱する……。
「……神尾さん?」
息がしたい、のにできない。
「大丈夫ですか?」
怖い……体が震える、抑えがきかない、どんどん混乱していく、元に戻らない。
「だ、だいじょぉ……」
大丈夫と言おうとしたのに、歯の根が浮ついて……違う、こんなの嫌だ。これまで出なかったのに、何で今になって、嫌だ嫌だ嫌だ、何が嫌なの? 美凪は嫌じゃないのに、とても嫌と感じる。観鈴は咄嗟に手を離し、蹲る。でも間に合わなくて、嫌で、嫌で……。
「いやぁっ!」 体が強張る、自由が利かない。思考も完全に解き放たれ、ただ激しい嫌悪とそこから避けたいという願望だけが観鈴を支配した。
「いやだ……嫌っ! お願い……」
お願い、近寄らないで、側に来ないで、いらないいらないいらない……嫌悪と憎悪が観鈴を侵していく。でも、同じ頭でこうも強く願っていた。側に来て、こちらに来て、わたしには遠野さんが必要なの、お願いお願いお願い……。
相反する願いのどちらが勝ったのかは、分からない。でも、その後観鈴の中に残っているのは、誰かを強く引っ掻いたり噛み付いたりと、酷いことばかりしている自分だった。でも、それでも……。
美凪は笑っていた。
そんな光景を、見た気がする……。
過去を再生し、追跡することで思い出したことの胸苦しさに耐え切れず、観鈴は何度も何度も夢中で呼吸をした。思い出しただけで体が気だるく、自己嫌悪が身に満ちていく。もう少しで涎が垂れそうになるのを辛うじて拭い、そのまま人差し指を噛む。痛みが走るまで、血が出る限界一歩ぎりぎりのところまで。それでいて昨日、口内を満たした力にはついぞ及ばない。明らかに肉を噛み切り、血を流させたのだ。
観鈴は混乱した。何をしたら良いのだろう、そもそも、どうやって立ち上がったら良いのか、それすらも一時的に忘れるほどに、知を乱していたのだ。
「どうしよう……」何もできないことを心が殊更強調しているようで、溜息が自然と出る。「どうすれば良いんだろう……」
こういうとき……観鈴は未だに眠り続ける晴子へと視線を向ける。布団の中で少しばかり動いたにも関わらず、全く意に介していないようだった。昼夜逆転の仕事をしているため、基本的に晴子の眠りは浅い。にも関わらず眠り続けられるというのは余程、くたびれているのだろう。それは数日間の不在に関係あるのかもしれないし、遅くまで様子を見てくれたからかもしれない。しかし、今の晴子を頼り、無理に起こしてしまうのは少し偲びない気がした。それに……人に頼ること自体が怖いのだ。
数分後、ようやく立ち上がり方を思い出した観鈴は晴子の睡眠を遮らぬようそっと抜け出し、美凪の家に電話をかけた。クラスメイトなら連絡表を調べることで、電話番号は直ぐに分かる。後はほんの少しの感情――この時は可哀想なくらいの狼狽――が後押しするだけで良かった。
しかし、電話は繋がらなかった。二十回鳴らしても、三十回鳴らしても、出る様子がない。観鈴は諦めて受話器を置き、台所に向かう。喉が無性に渇いてしょうがなかった。麦茶を飲み、振り向きざまに時間を確認する。既に十時を過ぎており慌てたが、続けて目に入ったカレンダを見てほっと息を吐いた。今日は日曜日、よく考えれば昨日が土曜日だったのだから、全くの自明というやつだった。
落ち着くと、少しだけ広い視野が観鈴にやるべきことを否応にも映し出す。窓の外を見ると、威勢良い黒雲が容赦なく雨を降らせているのが分かる。観鈴の心に何故か、いいようのない不安が過ぎった。その理由が何かと言えば分からないが、しかし目の前の光景の中に、何かしら観鈴を落ち着かなくさせる何かが含まれている、そう思えてならなかった。
虫の報せか、はたまた単に精神的な不安定から生まれた単なる錯覚か。
かつ、と大気を切り裂き雷が落ち、すぐさま雨脚が強まっていく。最早、ざあざあと呼ぶのも相応しくない程の強い降りだ。風が窓やトタンをかたかたと揺らし始める。台風という話は聞いてないのだが、夏の天気は気紛れだ。心安き人間に、平気で苦難を及ぼす。その逆も然り。だからこそ、観鈴は夏が好きだし、またどこかで怖れてもいるのだ。何かを平気で変え、また奪い去っても行く季節。
それでも、観鈴は夏に何か期待している。良く変わることを、そして良く変えること何かがあるんじゃないかって。彼女はずっと、思ってきたのだ。
そして、それは正に今なのかもしれない。
観鈴は自分に理由を付けず、傘を指して進みだした。心がより一層、不安を奏でる。耳苦しい音をたて、その場に留めるかのような不協をしかし、観鈴はかなぐり捨てた。
いつもの道を行き、彼女がいつも空を見ていた場所。
そこに、美凪は立っていた。いつからか、何故なのかは、分からない。しかし、そんなことはどうでも良い。今、そこに美凪がいて、立ち尽くしているというのが何よりも問題だった。
黒を基調としたいつもの普段着が、まるで体の一部であるかのよう、肌に張り付いているのが遠目からでも分かる。流れるようにしなやかな髪も今や雨の一部でしかない。観鈴は多少濡れることなど気にせず、傘を差しながら全力で走った。それから防波堤によじ登り、美凪に向けて意識を前に強く押し出そうと……した瞬間だった。
昨日、観鈴を襲ったのと同じ恐慌が再び現われた。
心を前に押し出せない。強く関わりあうことができないと、観鈴は直観した。彼女に、心を伸ばすことができないのだ。これ以上やろうとすると、また発作が起きてしまう。必要以上の接触を受けると相手を拒んでしまう。心の壁が自分の中に……。
いや、と観鈴は直ぐに否定する。今は誰にも優しくされていないし、構われてもいない。観鈴に良い影響を与えようとするものは、何もいないのだ。では、何故?
かつ、と閃光が山に落ち、イオンの匂いすらも感じられるほどの轟音が町を揺るがしている。更に強くなる雨脚、観鈴は疑問で身動きが取れなくなっていた。
全てを濡らしていく高圧的な雨の隙間を縫うようにして、美凪の声が響く。か細いというのにそれはまるで、心に直接響くかのようだった。
「雨よ降れ、もっと降れ、もっともっと……」観鈴は思わず耳を疑った。美凪はこれ以上の雨を、天に求めているのだ。それに答えるかの如きタイミングで雷は龍のようにして山の一角を貫き、水のヴェイルが世界すら覆い隠していく。「そして、この世界を私に感じさせて。ここは夢じゃない、この世界は夢じゃない……私は歩いている。現実の世界を歩いている……」
まるで熱病に浮かされたかのような言動に、観鈴は美凪の正気を疑った。最初から、彼女の全ては狂っているのではないかと、疑ってしまったのだ。
しかし、次の言葉は観鈴を認知していることをはっきりと示した。
「大丈夫ですよ、神尾さん。少なくとも私は狂ってなんかいませんから」先ほどの底冷えするような声の質は既になく、いつもの透明な穏やかさを取り戻していた。「そして、夢を見てもいません。私は、現実の中を確かに歩いている……」
夢? 現実? 観鈴にはその言葉の意味がよく、分からなかったが。何かとても重い理由で、苦しんでいるのだということだけは分かった。そうでなければどうして、傘も持たず豪雨の中、立ち尽くしているなんてことができるだろうか?
思った時には既に、傘を閉じていた。凶暴な水の細かな一撃一撃を、観鈴は美凪と全く同じ立場で受け止めていた。彼女と同じ立場で、同じ位置で、いたかったのだ。そして、これほどの厳しさを受けなければ認識できない自分を意識する。それだけで、涙が出そうだった……いや、雨に混じって分かり難いだけで、観鈴はぼろぼろと涙を流していた。
「……泣いて、いるのですか?」雨のせいで分かるはずなどないのに、それでも美凪は観鈴の今を何らかの手段で知ったのだ。「泣いてくれているの、ですか?」
「分からないよ」本当に、観鈴は美凪のことを何も知らなかった。そして、美凪もきっと自分のことなど何も知らないのだろう。だから、この気持ちを正確に伝えるのは無理だ。それでも、言うべきことはあった。「分からないけど……こうしてこんな厳しい天気の中で立ち尽くして、そうまでしないと自分を確認できないのかって、そう考えたら怖くなって、悲しくなって、遠野さんがこういう気持ちでいたのかと思うと、嫌で……わたしは……」
もう、堪え切れなかった。泣くので精一杯で、嗚咽をもらすので精一杯で。何もできない自分が情けなくて、ただ興奮して泣きじゃくっていた。ただ、昨日はただの発作でしかなかったのに比べ、今日の涙は感情のために流れている……それだけが救いだった。
それでも美凪に心を傾けることは苦しい。下手すると、気が変になってしまいそうだった。発作の時みたいに、心が捻じ曲げられそうになる。
そして、観鈴は理解した。これまで気付くことのできなかった、自分の奥底の一つを、美凪という存在を通して知ったのだ。
「わたしは、他人に優しくされるのが怖いと思ってた」そう、観鈴はずっとそう思っていた。「皆、わたしに優しくしてくれたし、そういう人に対してわたしは発作を起こしてた。だから、そう勘違いしてた。お母さんも、そう思ってたんだ。でも、今わたしは怖い。遠野さんに強く心を向けることが、とても怖いと思った。うん、とっても怖い」
今までと全く逆のことを、真実だと考えてきたのだ、自分は。
「わたしが本当に怖いと思ってたのは、優しくされることじゃない。誰かに心を傾けること、誰かに強く触れようとすること……それが、怖かったんだ」
でも、分かったところで何もできやしない。
「だから今、わたしは遠野さんに何もできない。わたし、少しだけど覚えてる。暴れるわたしを遠野さんはずっと、抱きしめてくれたよね。髪の毛を撫でてくれたよね。なのに、わたしは何もできない。ただ、隣にいることしかできない。遠野さんのこと……」
観鈴はぐっと息を飲み込んだ。これを言えば自分はまた、取り乱してしまうだろう。苦しみ、のた打ち回ることだろう。それでも、言わずにはいられなかった。心を美凪に強く、押し出さずにはいられなかった。
「遠野さんが好きなのっ、大切なお友達だと思ってるんだよぉっ!」
観鈴は膝を抱え込み、自分の中から飛び出してくる恐怖に対して必死で抗っていた。強烈な反作用が、容赦なく心の中を駆け巡っていく。心からごっそり、大切な何かが抉り取られていくような、とにもかくにも強大なもの。観鈴の中で暴れているのは、彼女のあるべきでない心の全てだった。
全てが嫌になっていく。壁が築かれ、自分だけになっていこうとしている。苦しかった。でも、何も頼れるものなんて……。
そう、断じてしまおうとした時だった。美凪が昨日、散々傷つけられたというのにそれでも、必死に支えようとしてくれた。抱きしめてくれた。頭をそっと優しく撫でてくれた。耳元で大丈夫だと言ってくれた。
まるで傷ついた鳥同士が、お互いの羽根を重ねあうような。世界の法則から見ればそれは、何よりも無意味なのかもしれない。
しかし、お互いに慰めあった鳥がやがて空へと飛び立つように。
このことも決して、無意味でないはず。
好きだよって。
他の人ならきっと、簡単に言えちゃうのだろう。しかし、観鈴にとっては全ての精神力を使わなければならぬほどの覚悟を秘めた言葉だった。
相手を好きになるということ。
心を押し出すということ。
絶対的な孤独に心を奪われそうになりながら。たった一つの好きが、それ以外の嘘から身を守ってくれているのが、おぼろげだけど分かった。
傷が癒されなくても。
ただ傷を重ねてくれるだけで。
観鈴は今までにないものを、心に満たしていけた。
そして。
どれだけの時間が経ったろうか。
我に帰ったとき、雨は既にやんでおり、しかし美凪は黙って自分を包んでくれていた。雨がこんなにも体を冷やしたというのに、美凪はとても暖かかった。
「もう、大丈夫みたいですね」
そして自分を気遣ってくれている。観鈴は恐縮でたまらなく、咄嗟に頭を深く下げていた。
「ごめんね、また迷惑かけちゃって……あと、ありがとう。遠野さんは昨日も今日もずっと、わたしの側にいてくれた。傷つけても、苦しめても、それでもわたしを大事に思ってくれたのが嬉しかった」
美凪はただ、ゆっくりと首を振った。そして、観鈴にとって想像だにしなかった言葉を、そっと紡いだのだ。
「お礼をいうのは、私の方です」
「どうして? わたしは何もしてないのに」
彼女が苦しんでいる後から勝手に来て勝手に苦しんで。せいぜい、自分のやったことなどそれくらいのものだ。しかし、美凪にとっては別の価値を持っているらしい。
「この世界が夢か現実か分からなくなったとき……神尾さんが来てくれた。だから、この世界は現実なんです。私にとって、とてもとても、現実なんです。それに……好きって言ってくれました。大好きって、言ってくれたじゃないですか。私にはその言葉が、何よりもの救いだったんです」
救い……そう言われてもまだ、観鈴には何だか分からない。そのことを察してか美凪は、まだ雨に濡れたコンクリートにビニルシートを敷いて、素早く腰をかけた。そして、隣を手で示す。何故、シートを持っているのだろうとか、どこから取り出したのだろうとか、疑問はいくつも浮かんでくる。しかし、今は美凪に合わせるべきだと思った。多分、彼女が何かの覚悟をしてくれているから。自分に向けて心を押し出そうとしているから。
観鈴が座ってから数分間は、ただ静寂だけの時間だった。お互い雨に濡れて、親がいたら風邪引くから直ぐにでも着替えなさいって言われそうだけど。今は夏だからきっと大丈夫、観鈴は根拠もなくそう思った。それから、美凪の顔をじっと見つめる。彼女は空を見ながら、視線は空でなく別の場所にあった。それが過去なのか思い出なのかは分からない。しかし、恐らくはこれから語られる話なのだろう。
不意に、美凪は少し不安げな表情で、観鈴に尋ねた。
「……聞いてくれますか?」
観鈴は迷わずにうんと肯く。
そして……。
遠野美凪の物語が、訥々と、語られ始めた。