Capitolo Uno

--Parte Due "Eccitato Dichiari"--

2000年08月21日(月)

−7−

 週も変わった日の朝、公園のベンチを占拠していた往人は予期せぬ肌寒さに目を覚ました。久方ぶりの野宿でブランクを取り戻せず、少し――いや、かなり体が痛い。しばらくは身体を起こすのも億劫で、目を擦り鼻を擦りと無意識に動いていたが、やがて眼前の視界がいつまで経ってもクリアにならないことを知覚する。密度の高い水蒸気の匂いと、まるで乳白色のように遮る微細な幕に覆われ、ようやく辺りに霧が張っていることに気付いた。

 全身に被せていた新聞紙もまるで洗濯したてのシャツのように湿り、霧そのものと共に執拗と肌に纏わりつく。往人はそれらを丸めてゴミ箱に捨てると、急いで立ち上がり公園を去った。

 淀む視界を抜け、往人は目覚めたばかりの街を歩く。往人が三週間ほど逗留していたあの港町に比べると、この街はその影響下を廃したかのように広く、そして活気が強い。往人には寧ろ、今までいた町こそ他から乖離していたのではないかとさえ感じる。

 あまり芳しくない天候の中、それでも習慣なのか茶色の中型犬を連れて初老の男性が一人、ジャージ姿で老獪さを見せながらこちらに向かってくる。おそらく、公園で一休みするのだろう。老人は、犬の散歩の様子を眺めていた往人に軽く頭を下げ挨拶をした。

「おはようございます」

 とても顔が皺だらけの男性の声とは思えない。やはり、毎日走ってるから腹筋も鍛えられているらしい。往人は若者らしい張り合いで、老人に負けぬくらい大きな声で挨拶する。

「……ちっす」

 どうも、美凪の口調が伝染したらしい。体育会系の挨拶と受け取り、満足そうに駆けていった老人を他所に、往人の表情は暗かった。勿論、美凪の怪しさを自分が引き継いだかもしれないという恐怖のためだった。

「俺は……変な奴と思われなかったよな?」

 と言い聞かせては見るものの、一抹の不安は残る。しかし先程の老人を呼び止め、さっきの挨拶が変だったかと聞くのも馬鹿馬鹿しかった。

 往人は気を取り直して公道を壁伝いに歩き始める。時折、ジョギングをしている中年のサラリーマンや朝練に出かける自転車乗りの高校生たちと交差した。往人にとっては辟易させられる霧も、しかしこの街の住人にとっては些細なことらしい。

 その違いに、往人は自分が余所者であるということを強く受ける。それも、美凪やみちるたちのいたあの町とは違った。 そういえば、あの町では余所者であるという感覚を抱いたことが殆どなかった。

 旅立ったのは数日前なのにもう郷愁か? 往人は自分を叱咤するように苦笑し、それから腹を抑え抑え歩き出す。パン一個では、飽食に慣れた胃には明らかに弱い。まあ良い、そのうち段々と慣れてくるだろう。

 公園から五分ほど歩くと、昨日も夕食を購入したコンビニが見えてくる。温度調整が完璧に近く、来る者を拒まぬ真四角の建物は往人の期待を裏切らなかった。コンビニの中は少なくとも不快感を払拭できるほどには居心地良く、また時間を浪費できるくらいには娯楽物が存在する。

 せめてこの霧が少し晴れるまでは、ここに留まろうと腹を決める。やや長居をしてしまうが、最後に何か買って笑顔の一つでも返せば向こうも見逃してくれるだろうと、存外の期待を抱いて。

 レジを見ると、二十歳程の――恐らくは大学生だろうが――女性が暇そうに辺りを見やっている。髪を金に近い茶に染め、時折丹念にマニキュアを塗った手を眺めていた。しばらくすると、点在する客たちの様子を眺めて溜息を吐き、最後に軽い欠伸をする。どうやらあまり真面目なバイト要員じゃないなと思い、往人は胸を撫で下ろした。

 雑誌のコーナに向かうと、分厚い底の眼鏡をかけた苦学生風の男性が何やら熱心に本を読み耽っていた。まだ霧と肌寒さとが混在する前に入店したのか、それとも自分と同じで寒さと湿気から逃れてきたのだろうか。時折、不潔げに髪をかきながら、男は集中の度を崩さない。

 一体、どのような本かと横目でちらりと見ると、やや二枚目の青年がまだ胸も腰もロクに成長しきっていない女子高生の衣服を剥ぎ、恥辱に塗れさせているシーンが覗く。往人は成人向漫画を持った男性から二歩分きっちりと離れた。同類と思われたくなかったからだ。

 往人は少年漫画誌の中で、一番分厚く時間の潰せそうなものを選んだ。出来れば一話完結のものが多い方が良かったが、そこまで贅沢も言っていられない。往人は六百ページ以上あるその本を一時間ほどで読み切った。内容は続き物が殆どだったが、その雰囲気で何となく楽しめた。目が肥えるほど漫画を読んでもいないので、どれが面白いか理解できていないだけかもしれなかったが。

 それからペットボトルや酒類の並んだ棚を素通りする。水分については必要な量を必要な分だけ美凪のくれた水筒に補給すれば良かったから値の張る飲料水の類はいらなかった。おまけに日本という国は、水がただに等しい。公園の蛇口でさえ、飲める水が出る。往人は今まで考えなかったが、それは明らかに日本で旅をする時の利点だった。

 しかも、腹が減ればコンビニで二十四時間食料が調達できる。どうしても金がなければ、廃棄食料から失敬する手もある。餓死する可能性など、プライドをかなぐり捨てることを拒まなければ無いに等しい。勿論、往人にもそれが底辺の苦しい生活であることは重々承知していたが、そういう人間に対する無慈悲な慈悲があることもまた事実だった。日本というのは実に不思議な国だと、実感せざるを得ない。

 ただ往人にもはっきり分かるのは、おそらくずっと旅を続けてきた母や、更にその先人たちに比べれば確実に楽な旅路を歩んでいるということだ。もしかしたら、自分の力が人形一つ動かすものでしかないということも、苦労し研鑚することを知らなかったからではとさえ思う。母の言葉として残る微かな記憶でしかないが、先人たちは正しく『魔法』としか言い表せないような能力を法術と呼称していた。

 人形を動かすことなど法術の中のたった一つ、児戯であるに等しいと母は哀しげに話していた。始祖や先人たちに等しい力があれば、きっと、もっと簡単に――。

 簡単に――何をしたかったのかという肝心なところだけ往人は覚えていなかった。ただ、その時に母が抱いていた感情が哀しみだったということだけ覚えている。

 そして、その三日後、母は忽然と消えた――。

 もし、空の少女と出会うことがあったなら――と往人は思いを巡らせる。その力のなさに苦悩し、何らかの決断を迫られることがあるのだろうか?

「お客さん、どうかしましたかぁ」

 突如、声をかけられ往人は我に返る。振り向くと、先程の店員が何やら心配げな表情でこちらを眺めていた。

「もしかして、気分が悪いんですか? 顔が少し蒼いですけど」

 女性店員の言葉に、往人はすぐ近くにあった鏡を覗き込む。言われた通り、確かに少し顔色が悪かった。考え事をしていたせいだろうか――。

「いや、大丈夫だ。元から、これくらいの顔色なんだ。それより良いのか? 客がレジで待ってるようだが」

 言い訳のように往人は正面のレジカウンタを指差す。そこには成人向雑誌を読んでいた男性が、散々読み込んだ筈のその本を持って立っていた。店員は息を吐く。

「じゃあ、大丈夫のようだから、私戻るねー」

 たどたどしく伸ばし気味になる語尾に、往人は正に現代娘の姿を感じ取った。それから案外ときびきびした様子で、客に応対する。どうやら、不真面目そうに見えたのは一時の気の迷いだったようだ。

 その姿を見届けてから、往人はしばらくパン売り場で調達する食料について全力を傾けた。そして結論を実行に移すべく、手近にあったカレーパンを一つ手にし、追ってレジへと向かった。喉が乾くということを除けば、カレーは滋養があるし栄養素もわりかし豊富に取れる。とはいえ、本当はこれくらいじゃ全然足りないのだが、現在所持金では贅沢も言っていられない。往人はポケットをまさぐり全財産を取り出す。勿論、晴子に貰ったお金は除いて。

「百――二十三円、か」

 寂寥感に満ちた溜息が、往人の口から漏れる。昨日の芸の稼ぎから夕食費を引いた残りがこれだった。もっとも、あの町では芸で一円たりとも稼げなかったのだから、進展と考えるべきなのかもしれない。しかし、まだ衣食住満ち足りていた頃の影響が抜けきらないのか、全身を覆うのは気だるさにも似た感情だった。

 往人はしばらくなけなしの財産を見つめ、それからカレーパンとお金とを等価交換しようとする。すると店員の女性はパンとお金を交互に見て、容赦のない一言を浴びせかけてきた。苦笑にも似た、不安そうな表情を浮かべて。

「あのぅ、もしかしてお金、殆ど持ってないんですか?」

 その指摘に、往人は思わず身体を震わす。慟哭と怒りが、洗い立ての食器についた水滴くらいに滲んでくる。確かに金はない、身なりも良くない、しがない一個の旅芸人でしかないかもしれない。だが、貧乏だからといって他人を嘲る権利はない筈だ。それにどのような状況であれ往人は客で、目の前の女性は店員だった。

「――別に心配してくれなくて良い。金くらい無くたって生きていく術くらい身につけているつもりだ。それより、これを売ってくれるのか? そうじゃないのか?」

 自分でも棘のある言い方だと分かっていた。でも、このくらいしないと立場の基本的に弱い人間は対等に世と渡りきっていけない。往人が身につけた一種、憮然とした応対は彼の身を守る針つきの外蓑だった。

 が、女性は往人の一撃を気にしてはいないようだった。

「あ、気を悪くしたならごめんね。でも貴方、ふと私と同じなのかなって気がしたから。同族って、目を見ただけで何となく分かるんだよね。若者の特権って奴?」

 先程より僅かに真剣な様子で、往人の少しばかり吊り上がった目線の奥を覗き込む女店員に、咄嗟と目を逸らす。そんな風に心を見透かそうとするのは止めて欲しかった。が、それと同時に好奇心も感じる。同類という、その言葉に対して。

 もしかして彼女は、俺と同じで不思議な力が使えたりするのだろうか? 見たところ旅芸人ではなさそうなので、往人はそう断じた。が、目の前の女性は全く予想しないことを口にした。

「ずばり、貴方って家出少年でしょ。あっ、少年って感じじゃないから……家出青年?」

「い、家出……」

 往人は、自らの積み重ねてきたちっぽけなプライドが瓦解する音を聞いたような気がした。

「そんな訳ないだろう。俺のどこをどうみたら家出してきた貧弱な青年と見えるんだ?」

「全部? ってか、雰囲気がそう」

 相手に罪は何もないのだろうが、世の中には絶対に指摘してはならないことがあり、往人の尊厳はもう終焉を向かいかけていた。

「分かった。もう何も言わん、パンも買わん。ここじゃなくとも、日本にはコンビニくらいごまんとあるんだからな」

 往人は青年らしくなく拗ねて、パンをレジに残したまま立ち去ろうとする。が、相手は往人を定め見るような笑みを浮かべながら意向を尋ねてきた。

「良いの? 本当に」

「良いって、何が?」

「同族のよしみってことで、朝ご飯の一つでも奢ってあげようかなって気になってたんだけどな、私。もうすぐ深夜番も明けだから、それまで待ってくれればの話だけど」

 その言葉に、往人の目の色が顕著に変わる。それは一瞬、瞳に黄金色の輝きすら醸し出したかのような、鬼気迫る貪欲さだった。プライドには結構拘る往人であったが、根本的な部分でのプライドは零に等しい。当人がそれに気付いていないだけだった。

「応。待つ、いくらでも待とうではないか。じゃあ、このパンも奢ってくれるのか?」

 往人のある意味、女性を口説くような身の乗り出し方に、しかし案外と大人の笑みで返した。

「一点で合計、105円でございます」

 

「ったく――あんなこと言うなら金なんて取るなよな」

 往人はそう腐りながら、例の女性店員が指示した通りにコンビニの入り口で待っていた。クリームのような濃い霧は、朝陽に照らされてゆっくりと、しかし確実に和らいでいる。往人の視界には、通りを行き交う人、通勤に忙しなく進む自動車やバイク等の動きがはっきりと見て取れた。今も学生らしき数人組の男子が腹減ったなと言い合いながらコンビニに入っていった。きっと、家で朝食を食べる暇もなく飛び出して来たのだろう。それは往人には縁のない光景だった。

「ふーん、何を眩しそうに見てるの?」

 すると突如、先程の女性の声が背後から響いた。往人は驚いて振り返った。女性はファンシィな鞄を両手で抱えながら、往人の見つめていたものを一緒に見つめている。

「餓鬼の癖にお金を一杯持ってそうだなとか思ってた?」

「違うわっ!」

 往人は思わず怒鳴り返す。それではまるで、かっぱらいと恐喝で生きている駄目人間の如くだ。自分はもう少し真っ当に生きてきた――とは信じていた。

「なあんだ、つまらない」

 少しぶすけて言う彼女は適度な俗で塗り固められており、あの町で出会った少女たちとは全然違う印象がある。あちらの方が規格外なのは分かっているのだが、やはり戸惑いを隠せない。朝食奢りますといきなり持ちかけてくる年頃の女性もかなり珍しい部類に入るのだが、往人の適度な空腹具合が良い感じに非常識を頭から追い払っていた。

「俺は旅芸人なんだ。きちんとした芸で金を稼ぐ、ナイスガイなのだ。分かったかね」

「信用できないなあ……ていうか、本当に家出青年じゃないの? けど、それを私のような美人の前で言ってしまうと立つ瀬がない。だから、嘘を吐いてしまったと。ああ、こういうのを何ていうのかしら……嘘吐きはかっぱらいの始まり?」

 身も蓋もない言い方に、往人は拳を握りしめた。

「だから、かっぱらいではないと言っているだろう。男、国崎往人、20歳くらい」

「くらいって……何でそこが曖昧になるの?」

「……カレンダーを毎日見て暮らす生活じゃないから、詳しい年齢など覚えてないんだ。とにかく、法に触れるやり方で銭を稼いだことなど一度もないっ」

「本当? 本当に、言い切れる?」

 そこまではっきり尋ねられると、往人としては口を噤まざるを得ない。しかしそれを言うなら、法を破らず生きている人間など世の中に本当、数えるくらいしかいないはずだ。自分の生き様もその許容範囲内だと信じ、往人は再び胸をしっかと張った。

「ああ、勿論だとも。清廉潔白、という言葉が俺ほど似合わぬ男もいないだろう。それはそうとしてだ。朝食を奢ってくれるというのは、本当なんだろうな?」

 彼女はこれ以上ないほどの疑わしい瞳をしばらく往人に向け続けた。そして大きく息を吐き、何とか辛うじて作っている――くらいの笑顔を作り、言葉を返した。

「ええ、まあ……ちょっとした交換条件ってことで。こちらは一食奢るから、代わりに私の頼まれごとを一つだけ聞いて貰えないかなと」

 唐突な申し出は成程、親切じゃないわけか……これもまたあの町の影響だなと思いつつ、往人は少しだけ心を冷やし、名も知らぬ少女に尋ねた。

「で、何を頼みたい。事によってはまあ、聞いてやらんでもない」

 完全に投槍調子だったのだがしかし、彼女の次の言葉で往人は、異次元に放り込まれるかのような衝撃を受けた。

 彼女はいけしゃあしゃあとこう、言ってのけたのだ。

「簡単なことよ。私の婚約者になってくれれば良いだけだから」

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