Il nome del cielo

--Prologue "Dopo Il Sogno"--

−1−

太陽は、山の合間にも分け隔てなくその恩寵をもたらす。望もうが望むまいが、太陽の恵みはお節介なほど平等に、世界を照らしていく。

魂を焦がすかのように、水分を枯れ尽くすかのように、真夏の陽の光はそれに喘ぐ国崎往人の下にも容赦なく浴びせられている。

蝉だけがその陽気を嬉々として受け入れ、忙しない大斉唱を続けていた。耳を塞いでも割り込んでくる鳴き声を聞いていると気が狂いそうで、往人はアスファルトの道へと伸びた影へと避難する。

くすんだ藍色のアスファルトからは、魚眼レンズにも似て、視界を歪める陽炎が揚々と立ち込めていた。その威勢をしばし眺め、往人は溜息をつく。

また、容赦ない真夏の盛りの日を旅立ちに選んだものだと、往人は自分の浅墓さに蹴りをくれてやりたい気分だった。しかし、その蹴りは自分に返ってくることを理解すると、それは妄想の果てへと消えた。

「ちくしょう、何てあちいんだぁ!」

声を張り上げてみるが、それで熱波が緩まるわけではない。寧ろ、余計に汗が出てきた。これ以上の不快感を催さないよう、額の汗を拭うと水筒に手を伸ばす。往人が数週間ほど世話になったあの町を出る時、遠野美凪に貰ったものだった。

みなぎ――往人にとって特別の意味を持つその名前を心の中で呼ぶ。一見すると感情が希薄に見えるが、それは彼女独特のルールをもって表現されているに過ぎない。最初はそれに戸惑ったが、慣れというか美凪という少女の本当が分かったのか、次第に慣れていった。

それは、カルピスを原液のままで飲むか、希釈して飲むかの違いかもしれない。理解や親愛で、本人の癖のある個性なんて簡単に薄められ、受け入れることができる。また、自分にそんな力がまだ残っていたこともまた、往人には驚きだった。

幼い頃から旅をし、何者にも染まらない生き方を自負してきた往人にとって何かに染まってしまうということ自体が稀だった。それが、相手の生き方や人生にまで突っ込むとなると、もう片手で数えるくらいしかなかった。

その片手で数えるくらいの経験が、他人の領域に勝手に踏み込むことの愚かさを往人に教えてくれたのだが。専門家なら――あの霧島病院の藪医者なら――心的外傷とでも言うのだろうか。今はもう殆ど覚えてないが、その時に味わった悲しみがいくつかの翳を落としていることは確かだ。

あの町は不思議だった。正確に言えば、あの町の住人が不思議なのだろうか? 普通なら寄り付きもしない浮浪者同然の旅人に、こぞって笑顔で優しく話しかけてきた。妙なジュースが好きで、ラーメンセットや何やらを奢ってくれた少女――神尾観鈴と言っただろうか――見かけないが、彼女も元気でやっているだろうか? まあ、あの母親には苦労させられているだろうが、何とかやってはいるだろうと往人はあたりをつける。

或いは左手にバンダナをつけた自称魔法少女、霧島佳乃とインチキ医師――本当は名医らしいがこの呼称で充分だ――聖の姉妹。まあ、あの二人は別に心配することはないと往人は思った。仲睦まじきこと、疑うべくもあらずだ。

そして最後の一人が――美凪だった。黒が主体の夏には不機能そうな制服を纏い、流れるような黒髪と何もかもを全て受け止めてくれるような柔らかさを持った女性。美凪はまるで、妖精のようだった。少なくとも、最初に会った時はそう思った。手を触れたら儚く消えてしまいそうな、淡い存在感。そう、幼い頃に見た夢によく似ていた。

幼い頃につかもうとしてどうしてもつかめなかった母の手。目覚めて初めて、それが全て夢幻の中にのみ存在することを知った。美凪も同じ国の住人なのではと、訝しんだものだ。もっとも、そのイメージは後の会話で一気にぶち壊れてしまったが。

思考と言語が妙に噛み合わない、たどたどしさと不器用さとを内包していた。往人は、真性の変わり者だと断じた。自分より、変わり者だ。

そして、美凪に負けず劣らぬ変わり者がその場にいた。人間核弾頭で、子供っぽいくせに何故か俺より余程大人に見えた。喋りも言動もそこらに転がっているガキと変わらないのに。それがもどかしくて、往人はよくその少女、みちるをからかった。気付くと本気で相手をしていたが、それは多分、父性本能だろうと割り合いをつけておいた。いや――そうしないとプライドが保てないと思っただけだ。

何故、こんな二人に深入りしてしまったかは往人自身も分からない。けど、何かの予感を感じた。綺麗にこの世に存在しているのに、すぐにでも壊れてしまいそうな気がした。いや、綺麗だからこそ壊れ易い。ただ、当時の往人はそんなことを信じてはいなかった。そのうち、認めざるを得なかったが二人といるのが楽しく思えてきたからだ。

往人は美凪とみちるとで、色々なことをした。シャボン玉の飛ばし合いをしたし、学校の屋上で三人、星を眺めていたこともあった。今までに散々眺め、飽きてきたそれらが何故か、美凪やみちるといると新鮮なものと感じられた。夏の悪夢のような暑さも、しばし忘れることができた。

それは、まるで夢を見ているようだった。往人にとって、二十年近くの生活の中で、現実とは既に褪せて何の感動も残さないものだったから。現実の痛みも、喜びも、苦しみも、楽しさも、全てをこうも感じながら、見る夢などないと知っていながら。

しかし、それでいて夢だった。

儚い、終わりの来る、夢だった――。

「夢、か――」

往人はそう水筒に伸ばした手を留め、しばしそんなことを考えていた。それから、喉の渇きに負けて魔法瓶に入った水を口飲みする。が、中にはもう数滴の水しか残っていない。

「あ、くそ――空になってたこと忘れてた」

残された限りない理性を総動員して、水筒のキャップを閉めると往人はアスファルトの地面に倒れ込んだ。微かなコールタールと埃と、咽かえるような夏の匂い。相変わらず、煩い蝉の声。聴覚と嗅覚が往人を陰気の底に誘い、虚ろな瞳はいよいよ地を映す。

ここにも、美凪とみちるとの生活の影響がでているらしい。微温湯の、心地良い暖かさは前進の精神をも往人から奪っているらしかった。或いは、まだ迷っているのだろうか。諦め、あの町に戻ることを自分は切望しているのだろうか?

弱気の虫が往人の中に巣くい出し、それは次第に拡がっていく。美凪と、必ず目的を達してから戻ると約束したのに、負け犬のように戻ってきた自分のことを美凪は優しく迎え入れてくれそうで、それでいて逃避しようとしていることに己への嫌気が刺した。

そんな時だった。黒い塊が、こちらに近付いてくる。何だろうと目を凝らして見ると、それは一羽の烏だった。彼――或いは彼女――は、とことこと道路の上を歩いている。往人は、この烏はどうして飛ばないのだろうと思った。立派な、健康そうな羽根を持っているのに。

何故、飛ばないのだろう――。

何故、飛べないのだろう――。

それは、往人自身が長年抱いていた問いであり、久しぶりにそれを思い返していたことに驚いた。何故飛べないのだろうと、往人は自問する。この長い手が翼なら、あの空を切って、空の少女のいるところまで、果てしない空の向こう側まで、飛んでいくのに。

お前は、と往人は目の前を歩く烏に心の中で問い掛ける。お前がもしも飛べるなら、俺の代わりに空の少女の元まで行ってくれるか? そして、何故そんなに悲しんでいるか、その理由を聞いてきてくれないか。

その思いが届いたのか、烏はゆっくりとこちらに近付いてくる。往人は目を見張りその様子を観察していたが、やがてしきりに持っていた鞄を突付き始めた。最低限の生活用品しか入っていないが、今は美凪の手製の弁当が入っている。もしかして、これが目当てかと言い募るように見やった烏のつぶらな瞳は是と言葉よりも雄弁に語っていた。

「ははっ、まっ、そんなわけないよな」

少しでも愚かなことを考えてしまったことに、往人は自嘲の笑みを浮かべて気恥ずかしさを打ち消す。そして、弁当を取り出した。喉の渇きが癒せないなら、せめて腹だけでも膨らませておこう。まだ昼時ではないので腹は空いてなかったが、死んでからでは遅いのだ。美凪の手作り弁当を食べずに死ぬのだけは、勘弁して欲しかった。

中身はなんとも、美凪らしいものだった。花柄のナプキンを解き、蓋を開けると丸太型のおにぎりが六つ、丁寧に並べられていた。そして、屋外で何度か食べたあのハンバーグと人参のソテーが少々。これはきっと、付け合せだろう。栄養価はともかく、体力だけは付きそうな内容だった。

往人はおにぎりの中の一つを軽く解し、あの烏への食事として道路に放り出す。案の定、烏は米粒を美味そうに突付きだした。往人もそれに負けず劣らぬスピードで、しかし咽ないように少しだけ早い昼食を平らげていった。

そして食事が終えると、烏は何事もなかったように歩いていく。往人の向かう方向とは反対側に向かって。相変わらず、彼は飛ぼうとしない。

「おい、お前」

往人は無意識のうちに、今度は声に出して烏に問いかける。烏は、まるでそっちの言い分を聞いてやろうと言わんばかりに足を止めた。

「お前は、何で、飛ばないんだ」

しかし、烏は質問に答えず。ただ、哀しげに背中を向け、再び進み出す。何か、往人には察しきれないものを求めて。その姿を、往人は見えなくなるまで呆と見つめていた。そして、もう一度、呟く。

「何で、飛ばないんだ――」

しかし、その呟きは夏の喧騒に阻まれ、誰にも、何処にも届かない。

−2−

バス停に、一人の少女が立っている。僅かな木陰に身を置き、その少女――遠野美凪――は梢の囁きに耳を傾けていた。蝉の間断なく鳴き続ける大気の、僅かな隙間にだけ、それは聞こえてくる。

『また、会えますよね』

呟いた唇は強く閉じられ、頂点に差し掛かる太陽にも構わず国崎往人の旅立って行った方をずっと眺めている。往人のはにかむよう笑顔に、美凪もつられるように笑った。そんな時間は、もう戻って来ない。

でも、そんなことないと思っても期待してしまう。往人が、照れた顔を浮かべてやっぱりこっちで暮らすことにしたよと言う、そんな夢のような瞬間を。

だが、もう、夢は醒めた。それは泡のように崩れ去り、私も国崎さんも異なる現実を生きなければならない。だから、この別れは必然なのだと、美凪には分かっている。分かっているのだが、この場所から離れることができない。国崎往人という人は強いから、もう既に目的に向けて歩き始めているはずだ。

夢は、もう、醒めた――。

日常に包まれた夢は終わり、再び日常に塗れた現実が始まっていく。美凪は思う。自分は馬鹿だから、こんな当たり前のことに今まで気付かなかった――。だから、歩こう。精一杯、その足取りは頼りなく覚束ないかもしれないけど、しっかりと前を見据えて。

夢を見るのはもう、やめにしよう。

醒めない、哀しい夢を見るのは――。

美凪は、目を瞑る。開きかけていた夢の扉を、再び閉じるために。そして再び目を開いた時には、自分の住む町に向けて歩き始めていた。何時間も遅れてのスタート。さよならは言わない、思わない。往人とはまた、会える筈だから。そう約束してくれたから。

「国崎さん。私も、前に、進みます」

二人を別つ大気を震わし往人の耳にも届くようにと、美凪は空に向けて言葉を紡いだ。

雲が、静かに流れていく中、美凪もまた日常の中に帰っていく。胸に微かにくすぶる不確定の感情が何か分からないままに。

−3−

昼食がすみ、しばしの休憩が終わると往人は再び歩き出した。行きはバスで来たから、歩いてどれくらいの時間がかかるか全く分からない。二時間経っても民家一つ見えない山道に、往人の不安は募る。このまま、食料のある場所にすら辿り着かなかったら、夕飯にすらありつけない。誰も居なければ、人形芸で金を稼ぐこともできない。自分の職業が客商売であることを、往人は改めて感じた。

往人は時計を持っていないが、差し傾く太陽からおおよそ午後二時くらいだと検討をつける。太陽と星の位置からある程度の方角を推定する方法を、往人は長年の旅生活と僅かばかりの天体知識から編み出していた。あまり役には立たないが、主な客である子供の活動時間を粗方、推定するのには役立つ。良い加減、時計を買い換えれば良いのだが、以前の時計が壊れてより一年、そういうことをする余裕のあった日は一日とてなかった。

ただ、あったとしても時計よりは別のものを買っただろう。自分に限って言えば、時計など優先順位を下から数えた方が良いくらい、意味のないものだからだ。時計になんて縛られない生き方を、往人はしている。以前、それを羨ましいと言った人間がいた。どこにでもいる、二十代か三十代か分からないけど、とにかくサラリーマン。忙しそうに時計を見ながら生きているのがぴったりに思える体躯と雰囲気。

でも、往人にすればそうやって平凡に暮らしている人間の方が余程、羨ましい。幼い頃から旅をして来て、時には食べ物がなく、道端に落ちている食べれる草を食して日々を繋いだ経験がある。ショバ代だと称して、強面の男たちに絡まれたこともあった。稼いだ金を、自分と同じくらいのちゃらちゃらした餓鬼に持って行かれたこともあった。そんな生活に比べれば、時間に縛られても普通の生活の方が良いに決まっている。

結局、贅沢なのだ。時間と引き換えに満ち足りた衣食住、心配してくれる家族や友人、平凡な暮らしを得ていると言うのに。そういうものが如何に得難いものであるか、それが簡単に得られることがどんなに稀有なことか、誰も知らないよう往人には思える。

なら――俺はどうしてそんな生き方をしないのだろう、と往人は再び自問する。今まで、いくつかそんなチャンスはあった筈なのに。空の少女のことなど考えないで、例えばあの町で遠野美凪と暮らすという選択肢もあった。何故、それを選ばなかったのだろう。

その理由を探るうち、往人の脳裏へ母の言葉が断片的に蘇る。お経のように唱えられた、翼を持つ空の少女の哀しい物語を。

あの空の果てには、翼を持った少女がいる。

その魂は、それに相応しい器を求めて―――――。

けど、人間には――――――――――――しまう。

少女の魂を受け継いだものは―――――――――。

まず、最初は空の夢。虚空に哀しくたゆたう夢。

夢はそのうち遡り、少女の記憶へと還っていく。

幾星霜かの苦しみはやがて―――――――――。

そして、その少女の周りにいる人間にもそれは訪れる。

その人間と同じように――――――――――――。

魂を受け継いだ―――――――――――――まう。

正確には思い出せない。何しろ十年以上も前の話だし、母はそんなに沢山は語ってくれなかった。精々数度が良いところで、そして往人が七歳になった頃、母は忽然と消えた。それから、往人の長い旅が始まる――。

それは、母の最後の痕跡なのだろう。或いは遺言の類。往人は何故か小さい頃から、母はもうこの世にいないと思っていた。ただ、母のしていたことを自分もすることで、彼女が何をしていたのか知りたかったのかもしれない。空の少女の話が一体、何を意味するものであるか。そして母の哀しげな表情――そしてどうしてもつかむことのできなかった手――が浮かぶ限り、旅することを留めることはできない。

旅をするということは、生きているということと同じくらい、往人の中では重要なウエイトを占めている。それを留めるような重要さを持つものは、今のところない。ただ、さっきから美凪のことは気になっていた。女々しいくらい、あいつのことばかり思い返される。それは、どういう意味合いを含んでいるのだろうか?

だが、いくら考えても分からず、あんな体験をすれば後ろ髪引かれるのも当然だろうと勝手に結論づけた。それが一番良いと、本能が告げている。他の理由を思いついてしまえば、そこで何かが壊れてしまいそうだから――。

往人は改めて前を目指す。群を成す陽炎は、ますますその勢いを強めていた。気が滅入る。普段、考えごとをあまりしないのに、今日だけで数週間分の思考を使ってしまったかのような気だるさだ。或いは心身を苛む酷暑のせいだろうか? 覇気が全く生まれない。

とぼとぼと歩く往人の背後から、気筒の大きな唸り声が聞こえてきた。この音はバイクだろうなと思い、一層のことヒッチハイクでもしてやろうかと半ば投げ槍に腕をあげる。すると、まるで魔法でもかけたかのようにぴたりとバイクが止まった。

「なんや居候、そんなとこ歩いて――何しとるん?」

聞き覚えのある声だった。ヘルメットを被った女性は、何やらにやにや笑いを浮かべている。往人にはすぐ、それが数日間世話になった神尾晴子であるとすぐ分かった。あそこまでの独自性を持つ美人であるから、嫌でも記憶されているのだ。

「いや、金もある程度貯まったことだし、良い加減町を出ようと思ってな」

本当は金などないに等しいのだが、わざと虚勢を張った。誰にでもそうなのだが、特に晴子には弱みを見せたくない。

「ふーん、それにしてはいけずやんか。何日も天露しのがせて貰うといて、これから旅立つの一言もあらへんし」

往人は言葉に詰まる。確かに、言われてみれば道義に外れることこの上なかった。

「それに相変わらず、嘘吐くの苦手やな。すかんぴんやのに、金持っとるって虚勢張っとるのがばればれやん」

その言葉に、往人は詰まる言葉すら思い浮かばなかった。すると晴子は、バイクの助手席をぽんぽんと叩いて往人を誘う。

「金無いから、隣町まで行くバスにも乗れへんのやろ? あたしがそこまで乗っけてったる。ほれ、貧乏人は遠慮せんで良えから」

何だか凄く屈辱的なことを言われているような気がするが、この猛暑の中をこれ以上歩く気にもなれなかった。晴子の運転テクニックは、神尾家での一件を見る限りでは、信用するのが危険な気もするのだが――。

「じゃあ、晴子の愛情に甘えて」

ガン!往人に振り下ろされた拳は迅速だった。

「阿呆、愛情ちゃうわ。あ・わ・れ・み・や、哀れみ。それに知っとる顔が行き倒れて干からびでもしたら夢見悪いからな。分かったらとっとと乗る」

晴子の容赦ない一撃に脅かされた頭を擦りながら、往人は後ろに乗る。そして遠慮がちに、その腰にしがみつく。案外と細い。

「さっ、行くで。光陰矢の如し、や」

その用法は違う気がしたが、往人は敢えて突っ込まなかった。そして、バイクは急激な加速度と共に走り出す。その荒っぽい運転に、往人はその生命を晴子に一任したことに対する軽い後悔の念を感じた。

風を切る音が、全身を緩く凪いでいく。夏の強く、しかし一種清冽な風の香りは何故かふと、美凪のことを思い出させた。美凪もまた、一陣の風のようにつかみどころのない女性だった。いや、敢えて誰にもつかませないようとしているようだったのだろう。美凪のことを考えながら、素早く移りゆく大気を感じていると、無性に切なくなった。けど、この胸の疼きを具体的に何か説明しろと言われると、できそうもない。往人は、そんな思考を払い落とし、しばらくはバイクの唸り声と震動音に身を任せるつもりだった。

「なあ、居候」

だが、バイクを走らせ出してから数分が経った頃、唐突に晴子が声をかけてくる。その口調は、今までの態度と打って変わり、至極真面目で張りのあるものだった。

「あ、もう居候やなかったな。まあ面倒いわ、居候で良えな?」

晴子は往人の答えを待たず、話を続ける。

「あたしな、今となっては結構、あんたに感謝しとるんや」

「――気色悪いな、晴子の口からそんな誉め言葉が出てくるなんて」

「黙って聞き!」

往人の茶化すような言葉使いを、ぴしゃりと封じた。

「せやな――ああやって仕事と関係なく酒を酌み交わせる言うんも楽しかったし、観鈴と三人で馬鹿みたいに騒ぐんも、案外良えもんやな思うた。そういう楽しみ、久々に教えてくれたわ。今更になって、それに気付いたんや」

晴子は生温い、しかし僅かに心地良い風に任せていた。彼女は、まるで風のようにバイクに乗ると、往人は柄でもなく散文的なことを思う。

「あたしは、観鈴ちんのこと、好きやって。手えかかるし、にははって変な笑い方するし、がおがお言うていつもぽかりと頭を殴っとるけどな、そうなんや。手間かかるし、喉が詰まるようなジュース買うてくるし、ちょっとしたことですぐ泣く、泣き虫やで。

実はな、ちょっと前まで観鈴の実家に行ってたんや。観鈴のこと、実の娘にさせてくれ言うて直談判や。決して下げることない頭、何遍もすりつけてな、必死やった。んで、ようやく勝訴、相手の根負け言うわけや」

晴子は、まるで武勇箪の如く、豪放と自らのことを語った。バックミラー越しに見えるその顔からは、明るさの中に僅かだけ表に出ていた影らしきものが消えていた。嬉しいから笑う、笑うから嬉しいと、そんな心情が滲み出ている。その様子を見て往人は、晴子が本気で観鈴のためになることをしようとしているのだなと信じることができた。

「これからは観鈴と二人、本当の家族なんや。今までしてやれんかった分、何かしてやりたいて思てる。だからもう、夜の仕事はやめる。給金下がっても真っ当な仕事探して、夜はいつも観鈴ちんと一緒。夕飯食べて、一緒に風呂入って、同じ布団で眠るんや。子守唄なんか唄ってやってな、可愛らしい寝顔を眺めながらいつの間にか眠る、そんな幸せな時間のために生きる――想像しただけでも楽しいと思わんか、居候」

往人は晴子の話を咀嚼し、少しして応と肯いた。その光景はまるで眼前に広がっているかのように、頭の中で明敏に思い起こされる。

「ああ、楽しいだろうな」

そう、素直に口に出して、自分はこんなに素直だったかなと首を傾げる。

「ああ、楽しいやろな。でも、こんな楽しいこと、十年以上も気付けへんかった。馬鹿やな、馬鹿馬鹿、大馬鹿や。こんな馬鹿、あんたの他にはおらんわ」

「な、なんで俺が馬鹿なんだ?」

いきなり少し屈辱的なことを宣言された故、往人は僅かな憤懣をたたえて晴子に抗議する。だが、晴子はぴしゃりと言い返した。

「だってなあ、金もないのに居心地の良い住処を離れるなんてあたしには理解できひん。大事な人もおったんやろ? 駅舎の方で何回か見たことあるわ――髪の長おて背の高い、上品そうなお嬢様や。観鈴のクラスメートやし、ちょっとしたことがあったから名前もよう覚えとる。遠野――美凪言うんやったな。良い娘やん、あんたにはちょっと勿体無いわ。そんな娘置いてなんて、あたしなら絶対嫌や。石に齧りついてでも留まったる」

晴子は先程よりも、興奮した調子で往人に問いかける。そして、不意に寂しそうな表情を見せた。普段の明るさからくるコントラストに、思わず体がひきしまった。

「うちだって、また居候と一緒に酒、酌み交わしたい思てた。観鈴だって、往人さんと三人でまた騒ぎたいって言っとったわ。何だかんだ言うて、皆、あんたのこと好きなんやで。そんな人のこと置いてまで、今の旅はあんたにとって大切なんか? もしそうやないんなら、あたしはこのバイク、踵返して元の場所まで引き返す気や――本気やで」

晴子の顔は、真摯で厳しく、その一途な瞳はミラー越しにまっすぐ往人を射抜いていた。それは往人が初めて見た、晴子の本気だった。だからこそ、誤魔化すことも退くことも一切しなかった。それが、心情を吐露してくれた晴子に対して唯一、できることだと思ったから。

「あいつと、遠野と約束したからな。俺も遠野も、それぞれが求めるものを手に入れるために精一杯頑張るって。だから、今は旅を続けるんだ。でも、それはいつか――」

そこで、その続きの言葉の重さに気付きふと口を塞ぐ。このことを保証して本当に良いのだろうか? しかし、すぐに面倒臭くなって往人は大声で言い放った。

「いつか、遠野や皆のいる場所に帰ってくるために、だ。どうもあそこはその、認めたくないが、俺の故郷みたいなもんになってしまったらしいからな」

帰還がいつになるかは保証できない。もしかしたら、旅の目的は一生果たされることがないのかもしれない。でも、そう宣言することで本当にそうなれば良いなと往人は期待する。今までは何かの希望をもって旅をすることがなかった。自分の目的さえ果たせれば、それが国崎往人の終着点なのだと、漠然とだが思ってもいた。

が、今は――そんな曖昧糢糊なものではなく、往人が自らの足と心で選んだ終着点がある。穏やかな心でいられる場所が。

何の気兼ねもなく、ただ居るだけで居られる場所に帰れるという幸せ。晴子に問われるまで明確には気付かなかったことだが、それは往人の心に漂っていた不安を打ち払ってくれた。往人の晴れやかな顔を見て、晴子は重い表情を優しく緩める。

「ほうか――居候は居候なりに真剣なんやな。分かった、じゃあ今回だけはあんたの旅立ちを許したるわ。でも、またあたしや観鈴のおるところに戻ってきて、それでしばらくしてまた旅立ち言うても、今度は絶対に許さへんから、覚悟しときや」

そう言って、晴子は豪放に笑ってみせる。それは彼女なりの見送りのようにも、照れ隠しのようにも見えた。

それから五分と経たぬ内に、バイクは隣町の端まで辿り着いた。が、歩いたなら夕暮れ時までかかっただろう。やはり機動力は重要だなと心の隅で思いながら、今日の糧のことに思いを巡らす。今からなら、人形芸でパン一つ分の金くらいなら稼げるだろうとあてをつけたところで、往人は晴子に向き直る。

「今日はその――ありが、って何だ、それは?」

晴子が鞄から取り出したのは、新渡戸稲造の顔がプリントされた紙幣だった。往人の貧乏がしみついた頭に、それが五千円札であるということを気付かせるにはそれから数秒の時間を要した。と同時に、素っ頓狂な叫び声をあげる。

「晴子、どうしたんだその大金は!」

「大金ってけったいなやっちゃなあ。どうせ金もあらへん思うたから餞別や、餞別」

「餞別ったって、流石にこんな大金、受け取れないぞ」

千円札を見れば尻込みする生活をしていた往人だから、いかにその金が必要だと分かっていても受け取るには相当量の度胸がいった。

「気にせんで良え。これはな、あたしと観鈴の面倒に付き合うてくれた分やて思うてくれたら良えから。受け取っとき」

晴子は往人の手にぎゅっと金を握らせると、小悪魔的な笑みを浮かべて付け加えた。

「但し、や。その金は貸すだけや。出世払いで良えから、いつか必ず返しに来てや」

往人は、その言葉に含まれた真意をすぐに読み取った。要するに晴子は、新たなるしがらみと絆を強引にその首にでも巻き付けようとしているのだ、と。

「もしかしたら、ちょろまかすかもしれないぞ」

そう悪戯っぽく返すと、晴子は軽く溜息をついてそれを軽くいなした。

「せやったら、あたしに人を見る目がなかったいうことや。人災にでも遭ったかと思うて潔く諦めるわ。けどな、こう見えてもあたしは往生際悪いで。そのことは、肝に命じとき」

晴子は胸に一発軽いジャブを見舞うと、颯爽とした態度で振り向き、そしてあっさりとした態度で背を向ける。往人は、彼女はもう何も言わずに去っていくのかと思ったが、ヘルメットに複雑そうな顔を浮かべて最後にこう言い残した。

「じゃあな――さよならは言わんで」

往人はしばらく迷った後、しかしはっきりと肯いた。その様子を見て晴子が何を思ったのかは分からない。が、バイクで走り去る晴子の姿はその名前通り、晴れやかな気持ちに満ち溢れているように見えた。

「さよならは、言わないか――」

往人はその言葉を復唱した後、今になっては誰もいない山道に向ける。俺は、いつか絶対にあの町へ帰るのだと。

往人は惜別の感情を心の奥にのみ残し、決意を込めた一歩を踏み出す。在るは果て無き旅、終わりのない旅。しかし、そこに終わりの兆しの何かを見出し、僅かな希望と大きな願望を抱き、青年は歩いていく。

歩きながら往人は、晴子に受け取った金を大事にしまう。この金は、とても大事なことがあるまで使わない。それが、正しい判断のように思えた。すると、次にすることは日々の糧を手に入れることだ。

結局、こうなるのだなと自嘲しながら、往人は一ヶ月近く前、芸を披露したのと同じ場所に陣取り、人形を取り出した。そのすぐ側を駆けてゆく子供たちに、往人は声をかける。

「さあさ、寄った寄った。楽しい人形劇の時間だぞ」

その言葉に、興味を持った子供たちがまばらと集まってくる。そして、往人の新しい日常が始まった。

−4−

バス停を離れると、美凪は防波堤沿いの道をゆっくり歩いていった。鼻腔を僅かにくすぐる潮の香りが、熱波に溢れた町を心なしか癒しているような気がする。朝方には、日傘を差して寄り合っていた近所の人たちも、今は完全になりを潜めていた。時折、元気そうに通りかかる子供だけが夏の暑さに克っていた。

美凪は、綺麗な海と心地良い緑の覆う山々とがせめぎ合うこの町が好きだった。春になれば山桜を咲かし、夏になると蝉と祭りの囃子で賑わい、秋は紅葉を楽しみにと多くの町民がその変遷を愛でていく。そして冬は、寒きを耐え忍ぶ蕾に新たなる春の到来を待ち望むのだ。

それに比べると、海は夏にしか尊ばれないがその活気は決して劣ってはいない。休日になれば近所の家族連れが、或いは子供たちが楽しく泳ぎ回る。ただ、盆も過ぎ海月の増えた今頃になると、人足は遠のく。案の定、美凪は人の姿一人見ることができなかった。

その様子を何気なく眺めている美凪の目に、ふと一人の女学生の姿が映る。彼女は大空に大きく手を伸ばし、とても明るそうに陽光の恩寵を受けていた。そのたおやかな姿に、美凪は一瞬、見惚れてしまったほどだ。が、すぐに彼女が自分と同じ高校の制服を着ていること、そしてクラスメートの一人であることを思い出した。

美凪は好奇に駆られ、思わず近寄り声をかける。

「――こんばんは、神尾さん」

すると、声をかけられることを予想していなかったのか、その少女――神尾観鈴は立っていた防波堤からバランスを崩して砂浜の方へ落ちそうになった。

「わっ、わわっ――」

しばらく砂浜と防波堤の方を行ったり来たりしていたが、ようやく成すべきことに思いが及んだ美凪によって怪我することなくバランスを取り戻した。観鈴は突然添えられた手に戸惑っていたが、クラスメートのものだと分かって戸惑いの表情を浮かべる。

「あ、あの――あっ、えっと――」

「神尾さん、こんにちは」

美凪は軽く会釈をし、自らも防波堤に登り、観鈴の隣に座った。そして、しばし眺めたことのなかったクラスメートの様子を観察する。ピンクの格子模様のシャツに白の清楚なスカートを穿いているところからすると、今日は学校ではないようだった。腰まで届くしなやかな髪を白のリボンで束ね、猛暑に灼かれた割には白く、またきめ細やかな肌を健康そうに夏の空気へ曝している。

美凪は観鈴の姿に、白鳥に近いイメージを重ねる。見た目は素直で優しそうだが、どこか僅かに人を寄せつけ難い何かを、観鈴は持っていた。そして、美凪はその理由を知っている。それは、美凪の数少ない引け目の一つとして今も心に残っていた。

それから、自らの姿を再確認し、さしずめ私は烏だろうかと心の中で呟く。観鈴は美凪の心情など露知らず、声をかけられたことに戸惑いどう返そうか必死に考えていた。

「あ、うん、こんにちは、遠野さん」

観鈴は少し気の毒に思うくらい慌てており、浅く会釈をしてそれから美凪と同じように腰掛けようもせず、防波堤の上に立ち尽くしていた。

「――神尾さんも、座ったらどうでしょうか?」

我を見失っている観鈴に、美凪はそう声をかける。すると、ようやく堅苦しい関係に気付いたのか、軽やかに腰掛けた。

「久しぶりですね。八月の始めに教室で出会って以来ですから、十日くらいぶりということになるのでしょうか?」

その時期は美凪自身、余りにも動的に変化する環境に戸惑い悩んでいた。が、それを語るにはこの場は適切ではない。それに、観鈴とはもっと気軽な話がしたかった。普通の友達や知り合いがするような、そんな話だ。

「あ、うん、そうだよね。遠野さんはその、しばらく補習に顔を見せなかったけど元気だった? 先生も、遠野さんが休むのは珍しいねって話してたから気になってたんだ。あ、でも遠野さんにはどうでも良いことだよね、私が何を思ってるかなんて」

観鈴は心配する様子を見せ、それから不自然に微笑んだ。

「いいえ、そんなことはありません。人に心配をして貰えるというのは、とても嬉しいことですから。それに、私を心配してくれる方なんて殆どいないです」

「ううん、そんなことないよ。遠野さんが急にしばらく休んだ時なんか、クラスメートの娘たちが話してた。どうしたのかな? 風邪でもひいたのかなって、心配そうに」

「でも、それは――」

美凪はその言葉を遮り、ゆっくりと首を振った。観鈴が自分のことを悪し様に言っているのを見ているのが辛くて、つい自らの心の内を語ってしまう。

「私が、いつも真面目にしているからです。優等生に見えているから、何日も連続で休むと皆が心配しているように見える――そんな、単純なことです」

「それでもっ――」

だが、相手に気遣わせまいとして紡いだ言葉は逆効果だった。観鈴は半ば泣きそうな顔で、美凪に言い募る。

「誰かに心配して貰えるだけ、ましだよ。わたしなんて、学校を休んでも、誰にも何も心配して貰えないんだ。でも、しょうがないんだよね。わたしみたいな変な娘、誰も居なくなって欲しいと思ってるに違いないから。人の好意を踏みにじる、悪い娘なんて――」

観鈴の言葉に、美凪は思わず顔を強張らせた。あの時のことが、まだ彼女に暗い翳を落としているのだろうか? あの日、感じた心の負い目を彼女はより酷い形で被っているのだろうか? そう考えただけで、胸苦しさが肺腑に満ちてくる。

美凪は、癇癪を起こし突然に泣き出した観鈴に――。

自分と同じように、分かっていても制御する術を知らない心の轍に捉われている彼女に何もできず、ただ立ち尽くすのみだったから。

そして、一人寂しく窓の外を眺める観鈴に声をかける、或いは慰める術を知らず、無力なだけであったから。

「あ――ごめん、ね。興奮して、一人で嫌なこと喋っちゃって――」

観鈴は一つも悪くないのに、まるで全ての責任が自分にあるかのように頭を下げ、笑顔を浮かべる。まるで、それが彼女を傷つけないための絶対領域であるかのように。

それは美凪が心を傷つけないため、現実に居ながら微睡みの中に淀んでいた『現実』ととてもよく似ている。どちらも、自らを偽るという点については、同じだった。

観鈴は、心配してくれる人なんて誰もいないと思っていた。それは間違いだと、美凪は知っている。自分は、心の隅でだけど彼女のことをよく心配していた。でも、今の言葉を聞いて改めて思う。心配するだけじゃ、声に出して何も言わないのでは、それは何もしないのと同じなのだ。それは、往人が教えてくれたことで最も大切なものの一つだった。

だから、美凪は精一杯の笑みを浮かべ、思いを声に出した。

「いいえ、私は迷惑だとは思っていません。嫌だとも、思っていません。私は神尾さんが心配だから、困ったことや苦しいことがあったら、全て話して欲しいです。それが――クラスメートであり、仲間ということでは、ないでしょうか?」

観鈴は美凪の一言を身に受け、明らかに戸惑っていた。それから頬を緩ませ、遂には泣き出してしまう。美凪は、彼女を傷つけることを言ってしまったのかと不安になった。そんなつもりではなかったのに。

しかし、観鈴は笑っていた。けど、少しだけ泣いているようでもあった。

「いいの? わたし、馬鹿な娘だから、遠野さんに凄く頼っちゃうよ。困るくらい頼って、それで嬉しくて、癇癪を起こして大泣きして、困らせちゃうよ。わたしと関わって、後悔する日が絶対に来るよ。駄目だよ、そんな嬉しいことを言ったら――わたし、馬鹿だから、その気になって、遠野さんのこと、友達って思っちゃうかもしれない――」

「そんなこと、ありませんよ」

美凪は、切々と俯く観鈴を励ますように言葉を返す。

「私は頼られることは嫌いではありませんし、神尾さんが私のことを友達と思って貰えるのなら、これほど嬉しいことはないんですよ。それにもし、嬉しくて癇癪を起こしてしまうのなら、私がずっと側にいてあげます。泣き止むまで、ずっと、ずっと」

「本当? 本当に、嫌って思わない? 呆れたりしない? わたし――」

「恐いのはこちらの方です。私は凄く変な人間ですから、その内、神尾さんに見捨てられてしまうかもしれません。それに、神尾さんには綺麗なお母さんがいるじゃないですか? 神尾さんのことを愛してくれている、母親が」

「お母さん?」

美凪の指摘は、観鈴にとって存外のことであるらしく、黙って小さく首を傾げた。

「お母さんは、多分、わたしのことを余り好きじゃないと思う。だってお母さん、わたしが家に来て迷惑だって思ってるに違いないから」

家に来て、という言葉がどこか美凪の頭に引っ掛かる。が、今は敢えてそのことを考える余裕はなかった。

「確かに、世の中には子供を好きになれない親というのは沢山います。とても悲しいことですけど――でも、神尾さんのお母さんは違いますよ。好きでもなければ、仕事を投げ出してわざわざ迎えに来たりしません。まして、励ましたり慰めたりしませんよ。

きっと、神尾さんのお母さんは少しだけ愛情を表すのが下手なんだと思います。もっと自分に甘えてくれたら良いのにと、心の中では思っている筈ですよ。だから、遠慮せずにそうしたら良いと思います」

「それ、本当かな? お母さんはわたしのこと、好きだって思ってる?」

「ええ、思ってますよ。だから、神尾さんもそれを信じてあげるべきだと思います」

そして、それは返して自分にも言えることだ。ともすると揺らぎがちになる母親への愛情と母親の愛情と。美凪もこれから、そのどちらも信じなければならないと考えている。それが、往人と道を違えた最も大きな理由の一つだから。

観鈴は、美凪の最後の問いかけには答えを返さぬまま、涙をそっと拭う。

「そうだね。わたし、帰ってみたらお母さんにうんと甘えてみる」

それが楽しい思いつきであったらしく、観鈴は身を緩く浮かし立ち上がる。

「遠野さん、今日はありがとう。わたし、凄く嬉しかった。その――」

何を言ったら良いのか分からない観鈴の前に、ふと思いついて、美凪は封筒を一枚、すっと取り出す。

「これは、友達になれたで賞」

美凪はそう言い、封筒を差し出す。観鈴は、何が起きたのかすぐには分からず、目をパチパチさせていたが、美凪の次の言葉に頬を緩めた。

「今日という大切な記念のために」

何しろ美凪にとって、新しい友達ができた日なのだから。それは観鈴も同じようで、躊躇しながらもそれを受け取ると、満面の笑みを浮かべる。先程までの偽りに隠していない、無垢なる笑顔を。

「うん、分かった。今日から、わたしと遠野さんは友達――で良いんだよね?」

「ええ、是非ともです」

そう答えると、美凪もまた立ち上がる。

「ではまた、会いましょう。神尾さんのお好きな日にでも」

美凪の言葉に、観鈴は少し悩んでからこう答える。「じゃあ、また明日じゃ駄目かな? ううん、遠野さんが嫌なら良いんだ。でも、わたし一度だけ言ってみたかった。また明日って、一度だけでも――」

「構いませんよ。じゃあ、また明日ですね、神尾さん」

観鈴はそれが自分に向けられていることに気付かぬように辺りを何度も見回す。そしてようやく自分しかいないことを確認すると、ようやく頷いた。

「うんっ。遠野さん、また明日だね」

最後に力強く肯き、大きく手を振る。美凪も美凪なりに精一杯手を振り、お互いの姿が見えなくなるまで何度も手を振りあった。

誰もいなくなったところで美凪は胸の動悸を必死に抑える。心が高揚していくのが自分でも分かった。こんなに積極的に他人に干渉できる自分と、新しい友人ができたという喜び。何故か分からないけど、涙が出そうだった。

そして、心が爆発しそうな中で美凪は思う。

今、私がやったようにこれからも生きていけるのなら、

現実の中でも押し潰されないよう、進んでいけるだろうと。

そんな希望を抱きつつ、美凪は早足で家路につく。

ようやく美凪にとっての日常となった、その場所へ――。

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