二月三日 水曜日

第九場 水瀬家

 私がこの家に泊まるのは二度目だった。一度目は夏休みの時で、廊下に佇むだけでも底冷えするような今の陽気が信じられないほどの、緩やかな夏の大気が盛る一日であったことを記憶している。だから間取りなどは大体知っているのだが、何となくきょろきょろと視線を這わせてしまう。自らの予想せぬ境遇と整理されてない状況とがそうさせるのだろうが、それが分かったところでその二点が解消されていないのだからどうしようもない。私は荷物を背負い、階段を上がった。中には制服と下着、筆記具、明日の分の教科書が入っていた。旅には過度に備える私にしては余りに少ない荷物だ。その辺りは頭が回らなかったこともあるし、名雪がシンプルだということも原因の一つだろう。二階には四つの部屋がある。入ってほぼ正面が名雪の部屋で、唯一プレートがかけられていた。その両隣と向かい側にそれぞれ一つ部屋がある。それにしても――私は二階の廊下を眺めながら思った――母子家庭にしては広い家だなと。名雪が案内してくれたのは、彼女の部屋の向かい側だった。

「他の部屋は埋まっているからここしかないけど……」

 名雪は最初に断りをいれる。ドアを開けた私の目に飛び込んで来たのは、本当に何もない閑散とした部屋の様子だった。一人では持て余してしまいそうな、そんな空間。

「スイッチはこれだよ」名雪は脇のスイッチに手を伸ばす。蛍光灯が小さな音を立てて瞬き、部屋を明るく染めた。カーテンが閉まってないため、冷たい闇が窓から入り込んでいる。「何もない部屋だけど……あと布団は一階の押入れの中だから、後から運んでこなくちゃね」

 名雪が確認するように呟く。私は荷物を端の方に置くと、一歩部屋に踏み込む。夜になると私は、ここに一人で眠るのだろうか? 不意にそんな疑問が湧いてきた。一人で眠るのは幼稚園の頃から慣れっこの筈なのに、それが今日に限っては非常に恐く思えた。かといって――私は名雪の顔を覗き見た――こんな年にもなって、一緒に寝てくれなんて言えない。取りあえず、私は闇を遮断するために菜の花が縫い込まれたオレンジ色のカーテンを閉めた。

「夕食まで少し時間があるけど……」名雪は私の方を見ながら遠慮がちに言った。「わたしの部屋で待ってようか? 香里に話したいこと、沢山あるから。香里の方はどうかな?」

 私は少し考えてから「うん……」と答えた。何となく、秋子さんや相沢君と顔を合わせるのが気まずいと思ったから。荷物を置いた部屋のドアを閉めると同時に、名雪が自分の部屋のドアを開ける。目に飛び込んできたのは、夏に来たより少なくとも五つは増えている目覚し時計の群れだった。何と形容したら良いか……何度見ても面食らわせられる光景だ。私なら、これだけの時計が針を鳴らしているだけでも気になって眠れないだろう。況や、ベルが一気に斉唱を始めるとなると……やっぱり考えたくもない。訪れたのが夏休みで本当に良かった。

 それを除けば……普通だと思う。入り込んだ非日常が余りに強すぎるが故に、余程冷めてないとそうは考えられないだろうが。名雪は通学用鞄を探ると、何冊かのノートを取り出した。

「これ、香里が休んでた日の授業のノート。ちょっぴり眠ったりして完全じゃないけど……」

 名雪は申し訳なさそうにノートを差し出す。

「あ、ありがとう……」私は予期してなかった名雪の気遣いに、戸惑いながらもそれを受け取った。その途端、無性に申し訳ない気持ちが湧いてくる。「ごめんね、気を遣わせちゃって」

「ううん、そんなことないよ」名雪は私の言葉をすぐに否定する。「いつも、わたしが香里のノートを見せてもらってるんだから、たまには恩返ししないとね。それに、香里みたいにちゃんとまとまってないし、字も綺麗じゃないから……」

 私はノートを何ページかめくりながら「そんなことないわよ」と答えた。途中で何度か眠ったのだろう、内容が飛び飛びになっていたり、みみずのようにのたくった文字が踊っていたりする場所がいくつかある。涎を零したのだろう、僅かに紙が皺になっている部分もあった。でも内容は分かるし、それよりも名雪の気持ちが嬉しい。

「本当……ありがとう」もう一度、心を込めて言う。

 名雪は照れくさそうな笑顔で「あっ、立ってると辛いだろうから適当に座ってよ」と小さなテーブルを指差した。私は遠慮なく座らせてもらった。実を言うと、まだ身体がかなり重い。

「学校の方はどうだったの」ノートの件もあって、話は自然と学校関係の方に移る。「何か、変わったことはあった?」

「うーん……」名雪はしばし考えた後に首を振った。「別にこれと言って何もなかったよ。あっ、北川君が香里のこと心配してたけど。三日も休んでるから大丈夫だろうか? とか、変な風邪こじらせてるんじゃないか、とか」

「そう……悪いことしてるわね」

 私は冷静に言う。学校というものの非情な営みが、そんな態度を取らせた。行動を共にする友人ならともかく、そうでない人間にとっては『ああ、クラスメートの……そう言えば最近、見かけないけど』くらいの認識でしかなく、学校全体で考えればかすり傷の一つでしかない。例え何人か足りなくても、その内の一人が永久に戻ってこなくても、総合的には機能をし続ける。歯車が一つくらいなくても関係ないのだ。それは社会からすれば当然のことだろう……しかし釈然としないものが胸の中で燻っているのもまた事実だった。理由はないけど気に入らない。

「本当に、何もなかったの?」と私はもう一度名雪に尋ねる。けど名雪は何もなかったと言って首を振るだけだった。私が「そう……」と相槌を打つと、名雪は首を傾げた。何故、そんなことを聞くの? とでも言いたげに。

 喉が詰まる。話したいことはもっと沢山ある筈なのに、それが言葉として形作られない。日常的な会話を交わす雰囲気ではないし、かといって他に何を話題にして良いのか分からなかった。名雪は私とどんなことを話したかったのだろう。そして私は……。

「あの……」と名雪が口に出す。と同時に、私も「あの……」と全く同じ言葉を発していた。異なる声が一つに重なり、言い知れぬ気まずさが部屋を覆う。

「えっと、香里から話していいよ」

 名雪が順番を譲ったので、私はそれに甘えることにする。こういうことは譲り合っていると埒が明かない。それに、譲り合いの押し問答が私は余り好きではなかった。

「私は……どうしたら良いの?」

 着飾ることなく、私は抱いている疑問を素直に口にした。

「昨日は一日中ずっと考えてた……早く死にたいって。でも、今はそれが正しいと考えられなくなってる。名雪が私のこと、強く抱きしめてくれて、必要だって言ってくれて……私が死んだら名雪が悲しむんだなって思ったから。でも、その一方では反発するような感情もあるの。そのことを免罪符にして、楽になろうとしてるんじゃないかって。自分のことを責めなくても良い、そう思うために名雪の心を利用してるんじゃないかって……」

 名雪の言葉に縋って、逃げて……結局はあやふやにしているのではないかという煩雑とした思いが消えない。優しい言葉をかけられて、そちらに逃げてしまっているのではないかという思考が、どうしても脳を解放してくれないのだ。

「別に構わないんじゃないのかな」名雪は悲しげな瞳をたたえて私を直視する。「わたしの言葉で心が楽になるのなら、死ぬのが嫌だって思えるようになるのなら、いくらでも利用したっていいよ。香里は背負い込み過ぎだよ……そこまで苦しむ必要はないのに」そして僅かに視線を下げた。「それに、いつかは言わなくちゃいけないことだったんでしょ?」

「ええ、いつか誰かが言わなくてはならないことだった。多分、私が言わなくても両親のいずれかが打ち明けていたでしょうね……栞の残り時間のことについては。けど、私はあんな言葉を、あんなタイミングで発してしまったの。ショックを受けない筈がない、私を恨まずにいなかった筈がないのよ」

 それなのに……どうして笑顔で……。

「それは……違うと思う」名雪は切なげな口調で私の言葉を否定する。「わたしが見た栞ちゃんは香里を恨んでるようには見えなかったよ。本当に幸せそうな顔だった……ずっと栞ちゃんのことを無視し続けていたんだとしても、嫌いな人にあんな笑顔は見せないよ。苦しいのに、それでも笑って見せたりはしないよ。苦しくても笑顔を見せるのは、その人が本当に好きだから。だから、栞ちゃんは香里のこと、恨んだりしてないと思う。一度しか会ったことのない人間が偉そうに言うけど……信じて欲しいな」

 信じて欲しい……最後の言葉が強く胸を打つ。

「それは、名雪の言葉を信じろってことなの?」

「うん。それもあるけど……」名雪は次に、私を強く見据えた。「それ以上に栞ちゃんのことを……最後まで笑ってた強さを信じてあげられないかな」そして、再びその言葉を口にする。「最後まで笑ってた、強さを……」

 最後まで――何も分からない――笑ってた――それは誰のため――強さ――何のために笑える強さなのだろう――を。何も分からない……それは誰のため、何のために笑える強さなのだろう。それを知ることはもうできない。その疑問を私は一度だけ栞にぶつけようとしたことがあった。でも、その時はできなかった。それを聞くと、何か大事なものが壊れてしまうようで……。その笑顔を信じるということは、何を信じるということなのだろうか。無理してでも笑顔を浮かべてみせることができるくらい、大切に思われてきたのだろうか? それは私にとって盲点に霞んだ考えだった。私が姉で栞が妹……それ故に今まで思いもしなかったこと。

「それってつまり……栞にとって、私は価値のあった人間だってこと? 大事にしたい人間だったってことなの?」

 だとすれば、私は……。

「うん、そうだよ」確信に満ちた名雪の言葉。「栞ちゃんも、香里が後を追うことなんて望んでないと思う。それに死んだら、香里の中にある栞ちゃんの思い出が全部なくなっちゃうよ。それは、忘れてしまうことよりも重たいものだから……」

 栞の思い出を優しく包んで……。

「本当に?」

 押し潰さないように優しく包み込んで……。

「私はそれで良いの?」

 生きて行かなければならないのかもしれない……。

 そう思うだけで、自然に涙が出てくる。それはこれからも生きていけるという嬉しさの余り流れたものだろうか。それとも、まだ生きていかなければならないという悲しみの余り涌き出たものなのだろうか。けど、それ以上に安堵の気持ちが私の胸には強くあった。

「か、香里……どうしたの?」いきなり涙を流し始めたことに驚いたのか、動転した様子で私に尋ねてくる名雪。「わたし、何か悪いこと言ったのかな」

「ううん……」私は首を振るのが精一杯だった。違うのだ……名雪は栞が私のことを大切に思っていたのだということを、教えてくれた。それがきっと、安堵感と涙とに繋がっているのだろう。私は戸惑う感覚の正体に辿り着く。私は嬉しいから泣いてる……そして、苦しいから泣いているのだ。そして、生きていたいから泣いているのだと思う。

 溢れる涙は止まらずに、私は名雪の前で思い切り泣いた。自分がこんなに泣き虫だったなんて、今まで知らなかった。そして、世の中には――私はずっと目を瞑ってきただけなのだ――こんなにも泣きたい時が多いのだということ。でも不思議……涙の波が収まると、今までよりずっとすっきりした気持ちになれた。もしかしたら、涙というのは余計な感情をすっきり洗い流してくれる効果があるのかもしれない。

「ごめん……ひっく……なさい」途中でしゃっくりが出て、声が詰まった。「急に泣き出したりして……驚いたでしょう?」

「うん、ちょっとね」名雪はなおも、心配そうな表情で私の方を見ている。「でも、嫌だとは思わないよ。だから……辛いことや悩むことがあったら、いつでもわたしを頼って欲しいなって思う」

「……ありがとう」私は本当に、この娘には勝てないと思う。とにかく、他に言葉が思い浮かばなかった。

 それから、何か忘れていることがあるな……と考える。しばらくして、名雪も私に話したいことがあったことを思い出す。だが、私が声をかけようとすると、丁度そこに秋子さんが入って来たので聞けずじまいだった。

「あら……」秋子さんは私と名雪の顔を交互に見回す。それから「取りあえず、顔を洗った方が良いわね」と私に向けて言った。「夕食の準備ができましたから。香里ちゃん、洗面所の場所は覚えてる?」

「はい、憶えています」私は記憶力は良い方だ。余程意味のないものでなければ、何度か見ただけで大抵憶えられる。それにしても……、ちゃんづけはやはりかなりの違和感がある。かといって、今更やめろとも言い出せない。言ったとしても、秋子さんのことだから柳に葉で受け流すような気がする。そう結論づけ、私は呼称に関する件は諦めた。そして名雪、秋子さんと一緒に一階へと下りる。

 途中で二人と別れると、私は急いで洗面所へと向かった。蛇口を強く捻ると、噴き出す冷水を何度も顔に叩き付けた。頬の感覚が薄れてきたところで、近くに置いてあったタオルで荒っぽく拭いた。涙の跡が少しでも誤魔化せるようにと。前髪も少し濡れてしまったが、どうせすぐお風呂に入るのだから大丈夫だろう。そう考えて、髪の毛の臭いを嗅いでみた。昨日はお風呂に入ってないから、もしかしたら臭くなっているのではと思ったからだ。けどそんなことはなく、私は安堵の溜息を付いた。カレーの香ばしい匂いに誘われるようにして、私はダイニングへと移動する。

 既に夕食の準備は整っていた。どれも見栄え良く、本当に美味しそうだ。特にカレーの匂いは、一日以上何も口にしていない胃と相俟って、狂おしいほどの食欲を与える。だが、表面上は冷静を装った。

「どうしたんだ香里、道にでも迷ったのか?」スプーンを片手に持ち、食い入るように夕食を眺めていた相沢君の顔が、揶揄と共にこちらへと向けられる。しかし、私の顔を見ると視線を翳へと落とした。「いや……悪かった、からかったりして」

「良いのよ、別に。もうすっきりしたから」それはある意味本当だったし、嘘だとも言えた。だが、精神は比較的安心していると思う。雑多なことに気を配ったり、思いを巡らせたりすることができるようになっていたから。例えば髪の毛やカレーの匂い、私への呼称に対する思い……そして何よりも、それを冷静に分析できる頭脳がそれを如実に証明している。

「でも……」相沢君はしかし、私の言葉にも表情を修復しなかった。つぶさな視線で私を見据えて離そうとしない。それはくすぐったくもあり、また面倒でもある。

「大丈夫ですよ」助け舟を出してくれたのは秋子さんだった。「香里ちゃんが良いって言ってるんですから……信じてあげても良いと思います」

 相沢君はそれでも何かを言おうとしたが、酸欠で苦しむ金魚のように口を開け閉めするだけだった。秋子さんの確信に満ちた表情を見やり、それから僅かに湿った私のポーカーフェイスをじっと見つめる。

「そうか、ならいいけど……」

 相沢君はようやく、表情を緩く崩した。それから少しして、今度は笑顔を浮かべながら尋ねてくる。

「それにしても香里って……」顔の筋肉が僅かに痙攣している。まるで何かを我慢しているように。「秋子さんには香里ちゃんって呼ばれてるんだな」

 相沢君は、私の気にしていることを丹念に抉り出してくれた。実を言うと内心、指摘されるのではないかと恐れていたのだ。

「悪い?」私はつっけんどんに返す。そこには怒りが隠されていたし、それ以上に照れ隠しの意味合いが強かった。「いつのまにかそう呼ばれてたんだから、しょうがないでしょう……」

「いや……」彼は腹を抑えながら、必死に言い繕う。「悪いんじゃないんだ……なんか、香里のイメージにはそぐわなくてな。いや、まあ香里も年頃の女の子なんだから良いんだろうけど……」

 どうも、相沢君は笑いのスイッチが入ってしまってるらしい。何だか無性に不愉快だ。まるで――勿論、相沢君はそう言っているのだ――年頃の女の子ではないみたいじゃない。年下ってことはないから、老けて見えるということなのだ。それこそ……年頃の女の子に言う科白ではない。

「そんなことないですよ」この場もフォローを出してくれたのは秋子さんだった。「だって、可愛いじゃないですか。それに香里ちゃんのイメージにはぴったりですよ」

「そうだよ祐一」名雪もそれに加勢する。「全然変なことないよ、わたしだって可愛いなって思ったもん。香里だってそう思ってるよね……そうでしょ?」

 フォローから一転、最悪な質問を投げかけられた……と思いながら、私はごく普通を装って「え、ええ……」と返した。けど、声は僅かに上ずっていたかもしれない。「可愛いと思うわよ」更に自らで墓穴を掘っているなと思いながらも、逆らえない空気に私は従わざるを得なかった。相沢君は、やはり笑いを堪えている。

「そうか、成程……」何が成程なのか……相沢君はしきりに頷いて見せている。にんまりと顔を綻ばせると、「じゃあこれから、香里ちゃんと呼んでやろう」

 いきなりの一撃……その言葉に、顔の表面温度が一気に上昇するのを強く感じた。きっと――想像したくもないが――私の顔は赤くてしょうがないのであろう。非常にまずい戦い……言ってみれば防戦一辺倒へと陥りつつある。世の中、防戦で守りきることはあっても勝つことはない……私は攻めなくてはならなかった。ディフェンスよりも、オフェンスだ……そう考えながら、私は形勢を立て直す策を練る。

「そうね……」と空白へのポインタを返しながら、私は不意に妙案を思い付いた。「でも、それじゃ不公平よね」私は込み上げる感情を必死に抑えながら言う。「だから、相沢君のことも祐一ちゃんって呼んであげるわ」

「なっ……」流石にその言葉は予想してなかったのか、思わず喉を詰まらせる相沢君。「そ、それは……」

「あっ、それいいなあ」気の毒なほどにどもる彼を尻目に、名雪が同調の声をあげる。「わたしもこれからそう呼ぼうかなあ……祐一ちゃーんって、あ、何かいい感じだね」

 今や、形勢は完全に逆転しつつあった。顔を赤くして必死で次の言葉を思案している相沢君は、完全に敗者だ。

「そ、それはやめてくれ……いくら何でも嫌過ぎる」

「あら、別に遠慮することないのに……祐一ちゃん」

 私は追撃の手を緩めず、皮肉たっぷりの笑顔と言葉を送る。

「分かった、俺が悪かった……」相沢君は、意外にあっさりと降伏の意を示した。「だから頼む、それだけは勘弁してくれ」

「駄目」この一言で、私は相沢君に止めを刺しておく。「と思ったけど、やっぱり男にはきついわよね……まあ、今回は見逃しといてあげる」

 相沢君はふうと溜息を付いた。余程、ちゃん付けの呼称が嫌なのだろう。もしかしたら、嫌な思い出の一つでもあるのかもしれない。安堵の仕方が尋常ではない。

「可愛いのに……」名雪の言葉に、眉毛をぴくりと動かす相沢君。悪気はないのだろうが、これで彼は当分、名雪の顔色を伺って過ごさなければならない。

 それにしても……やはり相沢君といると、自らのペースが不愉快じゃない方向に崩されるのだなと、改めて思った。

「早く食べないと、夕飯が冷めてしまいますよ。お代わりも沢山あるから、みんな食べて下さいね」

 その言葉が合図であるかのように、私たちは一斉にスプーンを持った。ルウとライスを掬うと、ゆっくり口の中に運ぶ。僅かに舌を刺激するが、そこまで際立って辛くはない。どちらかと言えば甘口に近いまろやかな感じだ。様々な材料や隠し味が使われているのだろう、複雑でいて舌に染み入るようだった。一口ごとに食欲が増すような、そんな味がする。とても美味しい……。

 でも多分――不意に一つの想像が過ぎる――栞だったら『人類の敵です』と言ってぷうと頬を膨らませたことだろう。しかし、私はそれを口にはしなかった。栞のことを話題にするのは何となく阻かられたし、口に出したら何かが変わってしまうような気がした。これから辛いものを食べる度に、そういう栞を思うのだろうか……そんなことを考えながら、私はゆっくりとカレーの皿から山を削っていった。思いを胃の奥に押し込むようにして。

 食事が終わると、居間に移って私と相沢君、名雪は居間でテレビを見ることになった。他にすることがないからという単純な理由で。台所では、秋子さんが食器の片付けをしている。私も手伝おうと思ったのだが、客人に働かせる訳にはいけないですからとやんわり却下された。

 水曜日の午後八時台は専らバラエティが主で、惰性と微かな笑いで構成されたプログラムがブラウン管を通して何十万という世帯に届けられている。テレビというアイテムによって、思考と情報は制限され、また拡散されていくのだ。そして明日の話題に花を添えることになる。あのドラマのタレント(才能を持っているかは別として)は格好良かったねとか、あの番組は面白かったねなどという、ありふれた会話の大量生産。そして、私もその一人なのだ。しかし、それは私に何の感慨も与えない。

「うー、苦しいぞ……」それよりも、腹を抑えながら唸り声をあげる相沢君の方が気になっていた。ひっきりなしに苦しいだの、しんどいだのと不平を言うため、番組に集中できない。「針でも刺したら、パンクするんじゃないか?」と、更に怪しげな言葉さえも私と名雪に向けた。まあ、三杯もお代わりすれば当然だろう。

「あんなに食べたら誰だって苦しくなるよ……」マイペースな名雪も、今度ばかりは流石に呆れ気味だ。「辛いんなら、お母さんに頼んで胃薬を持って来て貰う?」

「ああ、頼む……」相沢君はそれだけ言うと、ソファに力なく倒れ込んだ。名雪がダイニングに向かうと、後にはテレビの音のみが残った。「ああ、失敗したなあ」と彼は誰に向かってともなく呟いた。声をかけようとも思ったが、今の状況では明らかに逆効果だろう。私は慎んで相沢君の動向を見守ることにした。

 幸い、名雪はすぐに胃薬を持ってきてくれた。よくCMで見る、顆粒状の薬だ。相沢君はふらつく手でそれを受け取ると、口の中に水を貯めた。そこに粉薬を流し込み、水と一緒に一気に飲み込む。

「こうやると、粉で喉を詰まらせることなく飲めるんだ」相沢君は、そう得意に解説してみせた。成程、口に貯めた水の中に粉薬が拡散するし、水と同時なら喉の通りも良い。少し汚いが、案外理に叶った方法だと思う。相沢君は一寸胸を逸らしていたが「うぷっ……」とかなり危険信号の入ったげっぷを出した。どうやら、少量の水でさえかなり胃に来るらしい。全く以って重傷だ。

 根がそういう人間なのだから仕方ないと割り切り、私はブラウン管に視線を落とした。売り上げ数という陳腐な裁定で下されたランキングが、さも実力であるようにして流されている。歌詞の中では、愛や奇跡が何度も叶えられていた。人間ってそんなに縋りたいのだろうか……奇跡に。そうなのだろう、でなければこのような歌ばかりが上位に並ぶ筈がない。本当はそんなもの存在しないのに。

 番組も半ばに差しかかった頃だろうか、秋子さんが居間まで私たちを呼びに来た。

「お風呂が焚けましたけど、誰が最初に入りますか?」

 真っ先に手を上げたのは名雪だった。

「九時から、見たいテレビがあるんだよ」そう無邪気な声をあげる。相沢君は見たい番組がないらしく、私も同様なので、一番風呂の権利は慎んで名雪に与えられた。

「次はどちらが入りますか?」名雪を風呂に見送った後、秋子さんが尋ねてくる。「香里ちゃんはタオルを持ってきていますか? あと石鹸やシャンプーはここのものを使って良いですから。それとも、自分の物がありますか」

「あ、いえ……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」私はやんわりと礼を述べた。「で、どうするの?」そして、相沢君に話題を投げる。

「香里が先に入ったら良いんじゃないか?」相沢君はぶっきらぼうに言った。「俺の方は別に急いでないし、特にみたい番組もないからな」

「そう……」私も急いでいるわけではないが、辛いものを食べた後で汗を掻いていたし、昨日風呂に入っていなかったせいもあって、早くさっぱりと汗を流してしまいたかった。「じゃあ、先に入らせてもらうわ」それから咄嗟に思い付いて付け加えておく。「変なことはしないでね」

「するかっ!」相沢君は抗議の声を張り上げた。「人を盛りのついた動物みたいに言うんじゃない」

「それじゃあ、タオルの用意してきますね」

 秋子さんは私たちのやり取りを柳のように受け流して、楽しそうに部屋を後にする。どうも、名雪のマイペースさは母親から受け継いだもののようだ。小波立っていた感情も、微妙に落ち着いてしまう。

「やっぱり親子ね」意味もなくそう呟くと、相沢君もうんうんと頷いて同意する。この件に関しては、同意見のようだ。

「ああいう時にはふと実感するよ。いつもはまるでタイプが違って見えるのに。やっぱり子供って、無意識に親の影響を受けてるんだな」

 それは自分も含めて、という意味だろう。彼は照れ臭そうに笑いながら言った。では、私もそうなのだろうか……いくら考えても、そんな節は思い浮かばない。

「それにしても……」相沢君はこちらを覗き込むと、顔を綻ばせた。「香里も少しは元気が出たみたいで良かったよ。香里の調子を見るのにからかってみせたら、きっちし反撃食らわして来たからな。あれは俺も参った」

 成程、相沢君も彼なりに私のことを気遣ってくれていたということね……方法は最悪だけど。

「ふーん、祐一ちゃんにしては気が回るのね」

 相沢君はテーブルに頭をぶつけた。いつも思うのだが、動作がオーバ・リアクションだ。

「そういう反撃の仕方は頼むからやめてくれ。秋子さんなんか、本気でそう言ってきそうで恐い……すまん、悪かった、謝る」

 彼は平に頭を下げた。その姿が面白くて、私はついシニカルな笑みを浮かべてしまう。

「あら、私は良いんですよ」急に背後から声がした。振り向くと、いつの間にか秋子さんが立っている。気配が全く感じられなかったのが気になるが、それは考えない方が良いのだろう。「より親近感を持った交流ができると思いませんか」

「思いません思いません」相沢君は大袈裟に手を振りながら否定した。「実の母親でさえ呼ばないのに……」

「冗談ですよ」秋子さんは忍び笑いを漏らすと、カステラとお茶の乗ったお盆をテーブルに置いた。「これ、この前貰った奴です。良ければ二人とも食べて下さいね」

 そう言うと、秋子さんもソファの一つに腰掛けた。私と相沢君が黙っているのを見て「どうぞ」とカステラの皿を指した。別にダイエットをしてるわけでもなし、甘い物は好きなのでありがたく頂くことにした。カレーの後だったので、いつもより甘く感じられる。食べながら私は相沢君の方を見たが、彼は小さく首を振った。

「甘い物は余り好きじゃないんだ……」

「そう、残念ね」何が残念かは分からないが、取りあえずそう言っておくことにする。「秋子さんは食べないんですか?」

「私も頂きますよ」そう言いながら、お皿に手を延ばす。隣では、相沢君がお茶を啜っていた。

 九時前になると、名雪が湯気をこもらせながら居間にやって来た。頭にはバスタオルを巻き、ピンク色のパジャマを着て、猫柄の半纏を上から羽織っている。名雪の趣味が良くでているファッションだ。居間の様子を見た名雪は、早足でこちらに近付いてきた。風呂上りの清廉な香りがふわりと舞い、思わず胸が淡く高まる。

「あっ、カステラだ、いいなあ……」名雪はまたたびを嗅いだ猫のように喉を鳴らすと、カステラの皿に手を延ばす。「お母さん、わたしの分もあるの?」

「ええ、勿論ですよ」

 秋子さんがそう言うと、名雪はフォークを使って器用にカステラを口に運び始めた。こういう時の名雪が機敏なのは、Aランチに付いている苺のムースを食べる様子からも窺い知ることができる。

「うー、おいしいよー」小さな口を栗鼠のように頬張らせて、幸せの余韻に浸る名雪……見ているこちらがあてられそうなほどの喜びぶりだった。「これ祐一の分? 食べないなら貰っても良い?」

「ああ、どうぞどうぞ」相沢君は名雪の言葉に、苦笑を浮かべる。年頃の少女が目を輝かせながら積極的に言う言葉ではないと思ったのだろう。

 名雪が二皿目のカステラを軽く平らげるのを見届けてから、私はゆっくりと立ち上がった。「えっと、じゃあお風呂に入っても良いですか?」

「ええ、どうぞ」秋子さんはお皿を片付ける手を止める。「タオルは洗濯機の上に置いてありますから」

 「分かりました」そう頷くと、二階に上がりパジャマと下着を取り出した。シルク製のライトブルーのパジャマ……と言っても、洗濯できる新素材でできているのだが。最初は肌を滑る感覚に違和感を感じたのだが、今ではすっかり慣れた。

 居間を通ると、名雪がリモコンでチャンネルを合わせていた。名雪が映したのは、水曜日の九時から始まるドラマだ。

「名雪が見たいって言ってたの、このドラマ?」

「うん。凄く面白いんだよ……今日は主人公の女の子が、空手部の先輩だった女性と戦うんだから」

 どんな内容なのだろうか、と私は思わず訝しんだ。名雪の説明だけでは新手の格闘物の粗筋にしか聞こえない。

「そ、そう……」私はそう空返事だけして、風呂に向かうことにした。どんな内容か微妙に気になったが、それだと後陣がつかえると――私の肌には合わないような気もしたし――思ったから。

 風呂場の外、洗面所の床は僅かに濡れており、湯気で鏡が少し曇っていた。水蒸気と石鹸の蒸せかえる匂いに、頭が少しくらくらする。私は服を脱ぐと、風呂場に足を踏み入れた。下着は……用心のため、洋服の間に閉じておいた。遅いなと様子を見に来たのが相沢君だったら、もしかして変なことをするかもしれない。そんなことを考えた自分に、もう一人の私が皮肉な言葉を返す。それは自意識過剰というのよ、と。

 私は無意識に苦笑を浮かべながら、シャワーのコックを捻る。ここのシャワーは、どうやら一度おきの調節ができるようになっているらしい。現状設定は四十度になっていた。私はもっと高温の方が好みなので、温度を上げる方向にコックを捻る。四十一、四十二、四十三、そこで手を止めた。湯船にはなみなみと湯が張られていたが、落ち着いて腰掛けたことは最近なかった。何故ならぬるすぎるから……我が家では湯の温度も栞に合わせてある。だから私は、うんと熱いシャワーを何分もずっと浴び続けるのが癖になっていた。天から注がれる湯が、髪を素早く湿らせる。水滴は肌を伝い、何れは地上へと辿り着いていく。この時間と眠る時だけ、私は考えることを忘れられた。

 二日分の垢を落とすと、風呂から上がった。タオルで体を拭きパジャマに着替えると、もう一枚のタオルで頭を丁寧に拭く。それからドライヤを丹念にかけた。私は癖っ毛だから、きちんと乾かしておかないと翌朝とんでもないことになる。こういう時は、名雪の絹のように細やかな髪質が羨ましく思えた。ストレートパーマをかければ上手く整うのだろうが、そこまで手をかける気はない。

 髪の毛が完全に乾いたのを確認してから、濡れた床を始末して洗面所を出た。居間のテレビの中では、体操着を身に纏った十代後半の少女と、精悍な顔付きをした同年代くらいの少女がファイティングポーズを取り対峙している。二人とも結構、有名所の俳優だった。名前は知らないが、顔には見覚えがある。

「上がったわよ」と声をかけると、相沢君はこちらを振り向いた。名雪はブラウン管内の雄姿に集中しているためか、反応しなかった。相沢君は何故かぽかんと口を半開きにし、こちらを眺めている。

「あ、ああ、分かった」その言葉と共に我に返ると、微妙にこちらから視線を逸らした。「じゃあ、俺はこれから入ってくるから。香里はこれからどうするんだ?」

「さあ……特に何も決めてないけど」風呂にも入ったし、後は眠るくらいしか必須項目は残されていない。「しばらくは名雪と一緒にここにいると思うわ」

「そっか……」相沢君はそれだけ言うと、大きな足音を立てて二階へと上がって行った。そして、同じようなスピードで下に降りてくる。

「言っとくけど、覗くなよ」

「馬鹿なこと言わないの」

 私がぴしゃりと返すと、相沢君は寂しそうに風呂場へと消えて行った。名雪は先程のやり取り相関せずといった様子で、テレビを見続けている。二人の拳が交錯しようとするところでコマーシャルが入ると、ようやくこちらの世界に戻ってきた。

「あ、あれ……」名雪はきょろきょろと辺りを見回し始める。「祐一が香里になってる?」

「私はもう上がったの。相沢君はお風呂」どこかが決定的にずれている科白に適切な修正をいれる。みると、目が既にとろんとしていた。もう、かなり眠いのだろう。「名雪がテレビに集中している間に、入れ替わったの」

「そっかあ……びっくりした」到底びっくりしたとは思えない口調。それから名雪は大きく一つ欠伸をする。「わたし、祐一が香里に変身したと思ったよ」

 なんと言って良いのだろうか……私も経験があるのだが、眠気が押し寄せてきた時の名雪にはエキセントリックな行動や言葉が見られる。私は小さく溜息を付いた。

「眠いんなら寝たら?」

 しかし、名雪は大きく首を振った。

「駄目だよ、このあと因縁の対決なんだから」

 どうやら、最後まで見届けるつもりらしい。備え付けの時計を見ると九時三十九分……あと一サイクルで終了のようだ。しかし、名雪の眠気はもはや限界を向かえているように思われた。

「うにゅう……ふぁいとだおー」

 言動にも、それは強く現れている。というか、目が既に半開きだった。もう一本コマーシャルがあれば、多分名雪は轟沈していただろう。そこは名雪の行いが良いのか、ブラウン管は素直にドラマの続きを映し出した。

 拳を何度も打ち据え続ける二人。だが体格の差か実力の差か、次第に小柄な少女の方が押されていく。

「あ、危ない!」

 名雪が叫ぶ間もなく、小柄な少女の方が打撃の直撃を受けて地面に這いつくばった。名雪が応援しているところを見ると、そちらの方が主人公なのだろう。満身創痍の主人公、そこに恋人らしい男性から声援のエールが飛んだ。その瞬間、天地が引っ繰り返るような逆転劇が目の前で展開された。一撃で倒された空手使いの少女、その光景に主人公自身が信じられないといった顔をしている。しかし、徐々に勝利の余韻が滲んでいく主人公……決定的だったのは、恋人らしき男性の一言だった。途端、勝利を喜び合う二人。しばらくして、背後で倒された空手少女がゆっくりと起き上がった。参ったわ、私の完敗よと皮肉な笑みを浮かべる相手に、次もこんな勝負ができたら良いですねと握手を求める主人公。こうして二人の手ががっちりと組み合わされ、一つの勝負が終わった。しかし、その勝負を影で見守る謎の人物の影がクローズアップされ……続くの文字が最後に映し出されてドラマはひとまず幕をおろす。

「あー、面白かった」

 名雪は満足そうな顔で、終劇の余韻に浸っていた。

「意外ね、名雪って格闘物なんか好きだったんだ」

 平和的な性格からは到底結び付かない。

「うん、まあそれもあるけどね。主人公と唯一の部員である男の子との掛け合いとか、素直に気持ちを伝えられないところとか、わたしはそういうのが良いなって思ってるんだ」

 どこかで聞いたことのあるような筋立てだが……私はテーブルの隅に置かれてあった新聞のテレビ欄に目を通した。この時間帯でこのチャンネルだから……どうやら今、格闘好きの間で流行りのエクストリームという総合格闘技を題材にしたドラマであるらしかった。

 そう言えば、栞にも楽しみにしていたドラマがあった。こちらは純粋な恋愛物で、複雑に絡まる男女関係の機微を描いたトレンディ・ドラマだった。明日の午後十時から放映しているドラマで、早く眠らなければいけない筈の栞がどうしても見たいと強弁した唯一のドラマ。第一話を見た栞は、ぽつりとこう漏らしていた。『男女関係って、ままならないものなんだね』と。私にしてみれば、単なる男女の離散集合劇としか思えなかったから、対して興味にもとめてなかったけれど……今度、一回見てみようかなと密かに思った。

 次回予告が終わったところで、名雪は大きく伸びをした。どうやら、本格的に眠気が襲ってきたらしい。

「ふあ、眠い……」目をこすりながら辛そうに呟く名雪。見ているこちらまで眠くなりそうだ。「じゃあわたし、もう寝るけど香里はどうする? まだ起きてう?」

 もう呂律すら満足に回っていない。私は少し考えたが、特に話したいこともなかったので早めに寝ることにした。それに名雪を見ていると、本当に眠たくなってきた。

「私ももう寝るわ……正直言うと疲れてるしね」

 そう言うと、名雪はふらふらと二階に上がり始めた。その足取りがあまりに覚束ないので、思わず支えずにはいられなかった。けど、いつもこの調子なのだから別に必要なかったかもしれない。

 階段の前で、二階から降りてくる秋子さんと鉢合わせした。

「香里ちゃんのお布団は敷いておきましたから。じゃあ二人とも、お休みなさい」

「おやすみ〜」名雪が寝惚けた声を出す。

「お休みなさい」私はしっかりした言葉で応えた。と、不意にある嫌な思い出が脳裏に過ぎる。オレンジ色の恐怖……そこで、こう付け加えておくことにした。「明日の朝食は和食にして貰えませんか?」

「ええ、良いですよ」秋子さんはすぐにそう答えた。

 階段を登ると、「おやすみ〜」と覇気の全くない挨拶をする名雪。彼女を横目に、私も向かい側の部屋のドアを開ける。中央に布団が引いてあるだけで、空虚な部屋なのは変わらない。むしろ、濃密な闇が強く充満しているようにさえ思えた。闇なんて平気な筈だった……黒で塗り潰したような純粋な世界に憧れていた筈だったのに……、一人でいたって寂しくないのに……。

「どうしたお?」ドアのノブを掴んだままで、名雪が首を傾げる。「あっ、そうだ……」そして、唐突に私の腕をがっしりと掴んだ。「折角来たんだし、今日は一緒に寝ようよ」

 いきなりの申し出だった。もしかしたら、これも寝惚けての言葉なのかもしれない。でも、今の私にはそれが嬉しかった。あの闇に対する恐怖の正体が分からない今の状況では。

「ふう、仕方ないわね」

 表面だけ取り繕って、私は名雪の部屋に入った。豆電球だけ付いた部屋を一直線にベッドへと向かう名雪と、それに引きずられていく私。ベッドは思ったより狭かった……二人で寝るとぎゅうぎゅうだ。結果、布団の中で半ば抱き合うようにして眠ることになった。

 何となく照れ臭く思っていると、名雪がにへらと笑いながら「香里、良い匂いがするよ〜」と人が聞いたら誤解しそうなことを言ってきた。もしかしてその気があるんじゃないかと訝しんだが、暗闇に覗くその顔に恍惚の表情は見受けられない。私は強く胸を撫で下ろした。

 私が手持ち無沙汰に身を屈めているのも知らずに、名雪は強く私にしがみ付いてくる。何だか……やっぱりくすぐったい。

「名雪、まだ起きてる?」気恥ずかしさが勝ってか、私は思わず声をかける。「少し尋ねたいことがあるんだけど」

「うにゅ……なんだお?」

「夕食の前……」香里は少し迷ってから言った。「名雪も私に訊きたいことがあるみたいだったけど、どういうことだったの?」

 そう尋ねると、名雪の細められた目が僅かに開く。

「……まだ死にたいって思ってる? って訊こうと考えてた」名雪の眠たげな雰囲気とは異質な響きだった。「この世界は香里にとって、もう意味がないものなの……って訊こうと思ってた」

「そんなこと……ないわよ」私はそう言ったし、本心でもそう思っていた。「少なくとも、今はもうそんなこと思ってないわ」

「そう、良かった……」名雪は安堵の笑みを浮かべる。それから、私を抱く腕を緩めた。「じゃあ、明日になったらいなくなってたなんてことないんだよね……」

 名雪、そんなことを考えてたのね……。

「大丈夫よ」私は子供をあやすように、柔らかな名雪の髪を何度も撫でる。何故だか無性にそうしたかった。「私はどこにも行かないから安心して」

 少なくとも今日は……という言葉は、しかし胸の中に強く押し込んでおいた。名雪は僅かに声を立てて笑うと、話題を変えてくる。

「でも、こうやって誰かの胸の中で眠るのって久しぶり。小さい頃はいつもお母さんがこうやってくれてたけど、大きくなってからは恥ずかしいからって一人で眠るようになってたから……でも、たまにはこういうのも良いよね」

 同意を求めてくる名雪。けど、私には母に抱かれて眠った記憶がない。だからだろうか、名雪よりも素直に気持ちを受け入れられなかった。どこかでくすぐったさを感じてしまう。でも、こんな感覚は嫌いじゃない。私は素早く名雪の背に手を回す。それから、背中を小刻みにぽんぽんと叩いてあげる。

 名雪は最初、少し驚いたようだったが、微笑みながら目を瞑った。それから何分かそうしていただろうか、私は「名雪……」と小さく声をかける。しかし彼女は小さな寝息を立てて既に眠っていた。

「お休み、名雪」私はそう言うと、ゆっくり目を閉じる。頭の中はとても安らかだった。もう、今すぐにでも眠れてしまいそうなくらいに。温かく心地良い温度、柔らかな布団、瞼の裏の闇も怖くない……欠伸が出る……今日が終わる……。

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