二月四日 木曜日

第十場 教室

 それは四日ぶりの学校だった。

「美坂、それに相沢も……久しぶりだな」

 時間制限ぎりぎりに教室に入った俺たちに声をかけて来たのは北川だった。

「忌引きだって石橋が話してたけど……」北川は、まだ席についていない香里にまず話しかける。「三日になっても出てこないから風邪でも引いたんじゃないかって心配してたんだぜ」

「まあ……そんなところね」香里は曖昧な物言いで、北川の質問に答える。「でも、もう大丈夫よ」

「そっか……」北川は心から安堵の溜息を漏らした。「相沢はどうしたんだ? 風邪か? 馬鹿はひかないって聞くけどな」

「まあ……そんなところだ」俺は曖昧な物言いで、北川に言葉を返す。まあ風邪と言ってもあながち外れじゃない。「これで俺も馬鹿じゃないということが証明されたと言うわけだ。北川、この中でお前が一番馬鹿だということもな」

 北川は派手な音を立てて机に突っ伏した。俺が言うのもなんだが、言動が大袈裟なやつだと思う。たっぷりと衝撃に打ちのめされた後、北川は何かを言い返そうとしたのだが、それはチャイムの音に遮られてしまった。慌てて席に着くと、間も置かずに担任の教師である石橋がやってくる。この真面目そうな教師の顔を見るのも三日ぶりだが、特に懐かしさは浮かんで来ない。強いて言えば、ようやく日常に戻ってきたという感覚が若干増しただけだった。日を置いたからと言って、ホームルームや授業の内容が劇的に変わる訳ではないのだ。チャイムと規律によって統制を受けた空間は、俺という存在が欠けたくらいではびくともしない。

「美坂、もう大丈夫なのか?」という石橋の問い掛けに、

「はい、大丈夫です」と返す香里の声が響き、

「相沢、もう体調は良いのか?」と尋ねる石橋の言葉に、

「ええ、もう大丈夫です」と俺が答える。

 それ以外は、いつもの朝と変わりなかった。しばらくして、俺が学校を休んだ理由は体調不良になっていることに気付いた。きっと秋子さんが適当な病名をでっち上げてくれたのだろう。北川の俺に対する言動にも、それらの意味が含まれていたことが思い出される。

「で、先程の続きだがな」ホームルームが終わると、後ろから早速北川が話しかけてくる。「俺は高校生になってから、二度も風邪をひいてるぞ」

「そうか、そりゃ難儀だったな」俺は北川の言葉を軽く受け流した。「ところで名雪、授業はどこまで進んだんだ?」

「あっ、えっとね……」

「頼む、俺の話を聞いてくれ」

 北川が肩を掴み、涙を流さんばかりに懇願する。俺は仕方なく相手をすることにした。

「言っとくが、夏風邪は馬鹿の方がひくんだぞ」

「数学は複素数平面の……って、祐一、話聞いてる?」

「うっ……」北川が喉を詰まらせる。どうやら、二回とも風邪をひいたのは夏場らしい。

「くそっ、じゃあ次のテストで勝負ってのはどうだ? それで、どちらが馬鹿か確かめてやる」

 北川が俺の方を指差しながら、そんな勝負をふっかけてくる。

「望むところだ。負けた奴は一週間学食奢りってのでどうだ?」

 俺は対抗して、咄嗟に思い付いた罰則を申し入れた。

「ふむ、受けて立とうじゃないか」

 それをあっさりと受け入れる北川。俺との間に、鋭い火花が交錯……したような気がする。

「わたしの話はどうなったの?」

「ということで名雪、授業はどこまで進んでる? 北川に勝つには、充分な備えを練らなければならないからな」

「だから、さっきから言おうとしてるのに……」

 俺の意気込みに反して、名雪は何故か拗ねたような口調と表情を向けてくる。

「……相変わらず、微妙にずれた会話ね」先程まで黙って様子を見ていた香里が、目を細めながらこちらを見やる。「こっちは会話の流れに付いていくのがやっとだったわよ」

「そんなもんか?」

「そんなもんよ」

 相変わらず香里のツッコミは早い。名雪とは二、三テンポ違う感じだ。もしかして、俺と香里が組んだら日本を揺るがす漫才コンビが生まれるかもしれない。俺はそんな未来を想像してみた。

――こんにちはー、美坂香里です。

――違うでしょ! あんたは相沢、私が美坂。

 早速、狙い済ましたようにスリッパで頭を叩く香里。素晴らしいコンビネーションに、客は一斉に笑い出し……。

「相沢君、ボーっとして何考えてるの?」

「いや、香里のツッコミは切れ味抜群だと思ってな」

「はあ?」香里がコンコンと頭を人差し指で叩く。そして、頭の上で手を広げて見せた。「頭、大丈夫?」

「まあ、頑丈なだけが取り柄だが」

 俺の言葉に、香里はわざとらしく溜息をつく。

「まあ、大方妙なことを夢想していたんでしょうけど、登場人物の中に私を加えないで欲しいわ。その内、火でも吐きそうで恐いもの」

「あっ、それ面白い……」と言った瞬間、香里に内在する殺気の全てが俺の方へと注がれた。「じょ、冗談だって。そんな、恐い顔で睨まなくたって。ははっ……全く……」

 俺は必死に弁解する。それだけ香里の静かなる怒りが恐ろしかったのだ。

「全く……当然よ」香里はまだ怒り気味の表情で俺を見据えながら、声質を抑えて言った。「朝っぱらから頭が痛くなりそう……」

 そして、その原因が全て俺にあるが如く、鋭い一瞥をくれる。いや、まあ俺が元凶ってのは間違いないのだが。

「何だか、二人とも楽しそうだね」

 俺と香里の会話を傍観していた名雪がそう感想を述べる。

「名雪……本気でそう思ってる?」

 香里が呆れ顔を名雪に向ける。

「うん。何だか他人が入り込めない空気があったよ」

「そう、まるで洗練された漫才コンビのようだった」

 続けて、北川がそう意見を述べた。今はライバルと言え流石は心の友、ツボは心得たものだ。

「ふう、そんな風に見られてたなんて実に心外ね」

 対して香里は、それがまるで的外れであるかのような反論をした。残念だが香里は間違っている……そう言おうとした瞬間にゴング、もとい一時間目開始のチャイムが鳴る。

「えっと、一時間目は数学だったな……えっと名雪、どこまで進んでたっけ」

俺の言葉に、名雪は大袈裟に息を吐いてみせる。

「さっきも言ったよ。複素数平面の……」

 そう言えば、同じことを聞いた気がした。

 しかし……。

「6+4iから百二十度回転すると座標は……」

 一時間目からこんな授業じゃ、気も滅入るというものだ。第一、複素数なんて実在しない数なんだろう? 何故、いちいちそんなことを勉強しなければならないのか、俺にはさっぱり分からない。だが、隣の名雪を見ると一生懸命ノートに板書の内容を書き込んでいる。首を少し曲げて香里の方を見たが、やっぱり集中してノートを取っていた。僅かに中身が見えたが、びっちり綺麗に書き込まれた数式や図は、流石優等生だなと思わざるを得ない。北川との勝負も、香里にノートを見せて貰えば楽勝だと思った。そう考えると、元々少なかったやる気は急速に萎んでいく。俺は机に頬杖をつくと、今朝のことを思い出していた。

 久しぶりにあの大音量目覚ましの鳴らない朝……というのが第一印象だった。例の目覚ましを七時に仕掛けておいたのだが、いつもより目覚めが悪かった。目覚ましを止めて三十分も布団の中でぐずり、ようやく体を起こせたくらいだ。そんなことを考えながら制服に着替え、寝癖を軽く整えた。それから日課となりつつある朝の最大難関に挑むべく、俺は名雪の部屋のドアを開けたのだが……その目に飛び込んで来たのは狭いベッドで妙に睦まじく寄り添う名雪と香里の姿だった……。

 この時の俺の狼狽と言ったら、きっと誰に話しても分かってはくれないだろう。まず最初に脳裏をかすめたのは、何故名雪と香里が一緒に寝ているのかということだった。そこで思考がしばし止まった後、次に訪れたのは、もしかして二人はそういう関係なのだろうかそれにしては二人ともパジャマ着てるよなでもなんだか異常に艶かしく見えるのは俺の気のせいだろうかこれから俺は一体どうしたら良いのだろうか……そんな思考の無秩序な連続。おおよそ一分ほど固まっていただろうか、ようやく時間が迫っているから起こさねばという理性的な考えが生み出される。俺はいつものようにベッドへ歩み寄ったが、どちらに声をかけようか迷ってしまった。

 そこに、香里がぱっちり目を覚ました。

 不自然に目が合い、そして不気味な沈黙の後……。

「きゃあああああああ!」

 香里はまるで家全体を揺るがすような大声をあげた。

「な、な、なんで相沢君がここにいるのよ」香里は素早く身を起こすと、布団をディフェンスに使う。「ここ名雪の部屋でしょう? なんで女の子の部屋に勝手に入ってくるの」

「ちょっと待て、落ち着け。お前は多分、大きな誤解を……」そんな言葉と被せるように、枕が顔に直撃した。「ぐあっ」と思わず声をあげて、バランスを崩しながら後ずさる。

「早く出てってよ」香里の言葉には、部屋一杯の嫌悪感が満ちていた。「じゃないとまた物を投げるわよ」

 そう言われ、更に一歩退がった。しかし、名雪を起こすためには何とかベッドまで近寄らなければならない。この進退極まったこの状況で、不意に一人の救世主が現れた。

「何だか物凄い声が聞こえましたが……」

 秋子さんが心配げに部屋を覗き込む。しかし、その様子を見定めるとたちまちいつもの温和な表情に戻った。

「あ、秋子さん、相沢君が……」

「心配いりませんよ」動転する香里に、秋子さんは諭すように言った。「祐一さんには、いつも名雪を起こしてもらってるんです。別に変なことをしようとしていた訳じゃありませんから」

 微妙に嫌なフォローだったが、この騒ぎの中でも平気で眠っている名雪を見て香里はどうやら納得したようだった。

「そうね、ドアを叩いたくらいじゃ起きそうにないし。それにその目覚まし……」香里はくるりと部屋を見回した。「考えてみれば、早く止めないと大変よね」

「そうだ、決して如何がわしい目的で入ってきた訳じゃない」別に弁解する必要はないのだが、思わず口をついていた。「ところで香里、こちらからも訊きたいことがあるんだが」

「ん、なに?」

 眠たい目を擦りながら、香里がこちらを見る。着ているパジャマと乱れた髪形のせいで、いつもより幼く見えた。

「なんで、香里と名雪が一緒に寝てたんだ?」

「それは……名雪が私と一緒に寝たいって言うから」

 成程、有り得ることかもしれない。

「じゃあもう一つだけ訊くぞ」俺は自らの知的好奇心を満たすため、と自己弁護をしてそのことを尋ねる。「香里、お前昨日、名雪と変なことはしなかっただろうな」

 香里は最初、その質問の意図を計りかねていたようだが、やがて拳を強く握り締め、全身を強く震わせた。

「相沢君……今度は目覚し時計をぶつけられたい?」抑揚こそないが、芯に響く恐怖を揺り動かす声。「それとも……」

「すまん、俺が悪かった香里……」それともの先を聞くことなく、俺は慌てて手を振った。「そんな訳ないよな、あはは……」

「当たり前よ……」俺の空笑いに、未だ硬直を崩さない香里。「そんなことあるわけないじゃない」

 きっぱりとした口調で言い切ったので、香里の言葉に嘘はないと俺は判断した。

「それでは丸く収まったところで……」一頻り言い争いの終わった俺と香里に、秋子さんが頬に手を添えながら一言。「じゃあ、二人で名雪を起こしてくれませんか」

 こうして俺と香里はまるまる十五分、名雪を起こすのに費やしたのだった。

 香里と名雪が制服に着替えて部屋から出てきたのは丁度八時だった。しかし、名雪の方はまだ半分夢の中だが。俺はああいうことがあった手前もあって、部屋の外で二人が出て来るのを待っていた。

「お待たせ」部屋から出てきた香里が言う。「名雪は相変わらずだけど大丈夫なの?」

「ああ、いつものことだ」俺は横目で名雪の方を見た。糸のように細められた目から、覚醒という言葉は微塵も浮かんで来ない。ふらふらと揺れる名雪を心配そうに見守りながら進む香里を他所に、俺は素早く階下へと足を運ぶ。台所からは、いつものパンや珈琲の匂いと異なり、味噌やごはんの和食然とした香りが漏れ出していた。いつもとは勝手の異なるそれに、胃袋が思わず反応する。

「秋子さん、今日は和食なんですか?」

「ええ。香里ちゃんから、和食の方が良いとリクエストを受けましたから。たまには和食も良いでしょう」

「あ、ええ……」まあ、秋子さんは和洋中華問わず味の方は完全に保証できる。俺としてはパンがごはんと味噌汁に変わったところで何の問題もない。しかし、香里が和食好きとは意外だった。制服の効果もあるが、西洋風のお嬢様っぽい物腰もあって、てっきり洋食派だろうと思い込んでいたのだが……。

 ごはんと味噌汁、それに生卵とキャベツの朝漬けが食卓に置かれる。出汁がよく出ているのだろう、薄味の味噌汁はしかし複雑な旨みを醸し出していた。具はわかめ、豆腐、油揚げとシンプルだが、俺はこちらの方が好みだ。朝漬けも適度に塩辛く、いくらでもごはんが進みそうな具だった。しかし、お代わりしている暇は無い。時計は既に八時七分を指している、これ以上遅れるとまたいつもの全力疾走コースだ。香里もそのことを察してか、早めに朝食を切り上げる。残る強敵は勿論名雪だ。

「なまたまごー、まぜまぜー」名雪はまだ、卵ごはんを作成にかかっていた。粘り気のある白身の部分を、先程からずっと掻き混ぜている。念入りに三分掻き混ぜた後、ようやくごはんを口に運び始めた。「はむはむ、美味しいよー」

 落ち着いている時なら微笑ましい光景なのだろうが、こうも逼迫していると苛立ちしか生まれない。

「名雪、早く食べないと遅刻だぞ」

「大丈夫、まだ七分あるから」半開きの目のまま、自信満々に答える名雪。ちなみに七分とは、思いきり走って間に合うというデッドラインのことを指す。正確には八時十七分。ちなみに今から出ても、歩いていたら間に合わないだろう。

「名雪、とっとと食べなさいっ」

 香里も堪りかねたのだろう。焦りを浮かべて名雪を急かし始めた。

「でも、朝ごはんは一日の活力の元だし……」

「だからって、走ったら台無しになるわよ。もうそれだけ食べたんなら良いでしょう……さっ、行くわよ」

 香里は食べかけの朝食を残したまま、名雪の手を強引に握り締めた。引きずるように歩を進める香里に、名雪は僅かに抵抗を見せる。

「うー、まだお腹一杯じゃないよ」

「人間、腹八分目が良いの」

 名雪の主張を軽く押しこめて、香里は歩き始めた。名雪も最初は躊躇ったが、流石に時間がおしていると思ったのだろう。黙ってそれに従った。

「じゃあ、ごちそうさまでした」

 その次には、俺は二人の後を追っていた。鞄を取りに部屋へと戻り、急いで玄関に向かう。丁度靴を履き終わったところに、香里と名雪が降りてきた。

「時間は?」俺が訊くと、二人は同時に時計を見た。

「八時……十五分」香里が口に出す。どうやら全力疾走コース確定のようだ。

「かなりのデッドラインね」香里は冷静に分析するも、やれやれといった表情を隠せない様子だ。

「そうだな。あっ、でも何で香里がデッドラインを知ってるんだ?」

 ふと疑問に思い、俺は靴を履く香里に尋ねてみた。

「遅刻ギリギリで教室に駆け込んでくる時、よく家を出た時間を聞くから。統計的にまずい時間だと思ったの」

 成程、理に叶った推察だ……そんなことを考える間もなく、俺たちは雪道を全力疾走することになったのだった。

他愛無い、それでいて少し異質な朝の出来事。どこでどういう道程を歩いて来たら、こんな状況は生み出されるのだろうか。俺と、名雪と、香里が並んで全力疾走をする滑稽な光景が。まあ、素直に分岐路を進んできたのであれば、絶対に有り得なかっただろう。少なくとも、そこに香里の姿はなかった。俺はもう一度香里の方を見たが、やはりノートを真面目に取っている。それから窓越しに外を眺める。ここからは中庭がよく見渡せる。白い雪の絨毯にはいくつもの足跡が残されており、純粋さは失われていた。そこに一瞬、何かの影が過ぎったような気がして、俺は中庭を見渡した。しかし、いくら凝視してみても、人っ子一人見つけることはできない。それは単なる目の錯覚か、或いは気の迷いか、それとも白の魔術師が起こした魔術か蜃気楼か……。

 いや、答えは分かっている。わざわざ有り得ない可能性を引き出して複雑にすることなどない、単純明快な答え。俺は栞との思い出の痕跡を視たのだ。そうしてふと、一つの強い感情に駆られる。即時実行に移したいと思うような計画が浮かんできたのだ。だが、それを実行するには四時間の授業を突破しなければならない。俺は暇潰しに、数学の授業へと耳を傾けてみた。けど、やっぱり面白くない。ヒータで温められた教室のせいもあってか、俄かに眠気が込み上げてきた。

 寝よう。そう決めると、後は早かった。ノートが皺にならぬよう畳むと、両手を枕にしてうつ伏せる。眠りが俺を包むのに、それほど長い時間はかからなかった。

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