二月四日 木曜日
第十一場 中庭
私も結局、馬鹿なのかもしれない……。
昼食が終わると、相沢君は用事があるからと言って、二階に上がる階段の途中でどこかに行ってしまった。名雪がどんな用事かと聞いても、彼は「ちょっとな……」と口を濁すだけ。名雪は問い詰めようとしたのだが、その時にはもう手の届かない場所にいた。それで結局、私たちは一足先にヒータの効いた教室へと戻ってきた。けど、私は相沢君の奇妙な態度に不審を強く抱いていた。昼食の際、ある場所を横目でちらちら見ていたのも私は知っている。それがアイスクリームの入っているクーラボックスだということも。
何となく気になり、私は思わず席を立った。
「香里、どうしたの?」
「ちょっと……トイレにね」
別に嘘をつく必要はなかった筈なのに、私の口からは思わずそんな言葉が口をついていた。別にトイレに行きたい訳ではない、相沢君の行動に思い当たる節があったからそれを確かめてみたいのだ。私は教室を出ると、一目散に一階へと降りる。それから中庭に通じる鉄製のドアを開けた。
もしかしたら私の考え違いかなとも思っていたのだが、相沢君はそこにいた。木の縁によりかかり、隣には小さなビニル袋が置いてある。彼は青が主体のデザインを帯びたカップアイスを手に取り、それを一人で黙々と食べていた。木のスプーンを口に運ぶ度、相沢君の体が小刻みに震えるのがはっきりと分かる。相当我慢しているのだろうと思った。それでも一心不乱にアイスを頬張る彼に、私は仕方なく近寄る。相沢君はアイスに集中していて、こちらに気付かない様子だったから。
「うー、さぶい」自業自得の癖に、外界とアイスの寒さに誰ともなく文句を言っている。まあ気持ちは分からないでもない。北国生まれ、北国育ちの私だって、真冬に外でアイスを食べるなんてことは御免被りたいと思う。
「寒いんなら、何故こんなところでアイスを食べてるの?」
私がそう尋ねると、ようやく相沢君はこちらに気付いたようだった。不意の登場人物に、彼はすっかり驚いている。
「香里……」彼は右手にスプーン、左手にカップを持ったまま探るような目で訊いてくる。「なんでこんなところにいるんだ?」
「雪が見たかった……って言ったら信じる?」
私は少しからかい気味に話しかける。相沢君は少し考えた後、少し皮肉な調子で首を振った。
「信じないな。香里はそこまでセンチメンタルじゃないから」それから減らない減らず口を掻き集めて言葉を紡ぐ。「お前がここに来た理由を百文字程度で答えよって言ったらどうだ?」
「ええ、良いわよ」そういう問題は、私の得意とするところだ。「昼食の時、相沢君がアイスの入ったクーラボックスを物欲しげに眺めていたのを確認したからよ。それにある少女の証言から、相沢君は中庭でアイスを良く食べるらしい。そこで、私はこれらのことを総合し、貴方がここにいると判断した」それから文字数を数える。「丁度百文字くらいってところよ、これで満足?」
私が余裕ありげに述べると、相沢君はぐうの音も出ないようだった。その隙に、私は彼の隣に腰掛ける。
「参ったな、ちょっとした冗談だったのに……」
「私が冗談の通じない性格だってこと、相沢君だって分かってるんでしょう?」口に出して言ったことはないが、皆そう思っていると私は判断している。「で、私の質問には答えないの?」
「質問?」相沢君は小さく首を傾げた。それから、手に持っている物体へと視線を移す。それから目を細めながら答えた。「ああ、これのことだな……ちょっとした気紛れだよ。何となく、真冬にアイスクリームが食べてみたかったんだ」
「嘘ね」私は押しつけるように言った。「私、栞から聞いてるのよ。中庭で二人こうして、アイスクリームを真冬に食べてたこと」
「何だ、知ってたのか……まっ、そうだよな」
相沢君はそう言うと、アイスで冷えた息を吐いた。真昼とはいえ、雪国の冬は氷点下まで上がらないこともあるくらいだ。余程好きじゃない限り、こんなことをするのは馬鹿だけ。
「でも、さっき言ったのは本当だぞ。こんなところでアイスを食べてるのは、本当に何でもない気紛れだからな。何ていうか、他に言葉が思い浮かばないってのが本当のところなんだが」
言葉は支離滅裂だったが、言いたいことは何となく理解できた。そして、一つ分かったことがある。
「相沢君、貴方馬鹿ね」
「そんなはっきり言うか、普通……」その言葉を聞いた彼は、とても情けない顔をしていた。しかし、少しの間に気勢を取り戻し、今度は自嘲気味に言葉を返す。「まっ、否定はできないよな。実際、辛いと分かってるのにこんなことをしてるんだから」
「全くね」私は全くという言葉に力を込めて言った。「こんな寒いところでアイスクリームを食べるなんて私には理解できないわ」
そして私は相沢君に手を差し出した。
「ん、どうしたんだ? 香里」
その仕草に、彼は呆けた視線をはわせる。
「私にも頂戴。もう一つ買ってあるんでしょう?」そしてもう一度、手を強く差し出す。「私も食べて良いかしら」
私の言葉に、相沢君は眉間に皺を軽く寄せた。それから口を何度か開け閉めし、ようやく声ある言葉を発する。
「香里、言ってることとやってることが矛盾してないか?」
「そうね……」そんなこと、言われなくたって分かってる。「でも、今無性にアイスクリームが食べたくなったの」
相沢君は不思議そうに視線をこちらに向けたが、やがて口元に微かな微笑を浮かべて袋からアイスを取り出した。
「ほら。代金は俺の奢りで良いから」
「そう、ありがとう」私は言葉だけの謝辞を述べると、蓋を開けて木製のスプーンでアイスを掬い取る。そして、強く冷やされた空気と共に口に運んだ。「美味しいけど、寒いわね」
そう感想を述べると、相沢君は皮肉げな表情を浮かべながら尋ねてきた。「そう思うなら、なんでこんなところでアイスクリームを食べてるんだ?」
それは私が彼に尋ねたこととほとんど同じものだった。だから、私も同じ風に答える。
「ちょっとした気紛れよ。何故だか真冬に外でアイスクリームが食べたくなったの」それから面白いことを思い付いて、つい口にしていた。「きっと、私も馬鹿なのね」
それは、私がもう一つ気付いたことだった。
「そうかもな……」相沢君は憎たらしくも、そのことを否定しなかった。「馬鹿じゃなきゃ、こんなことはしないよな」
でも、腹が立つことはなかった。むしろその言葉が心地良い。
「でも……本当に寒いわね」アイスをもう一口食べて、私は吹き寄せる北風に身を屈めながら言った。「風邪、ひかないかしら?」
「大丈夫だろ」相沢君はぶっきらぼうに答える。「俺も香里も馬鹿なんだから。馬鹿は風邪ひかないっていうだろ」
不意に目が合う。それから、どちらともなく大声で笑い出した。相沢君の言葉が可笑しかったのだろうか、それとも意味もなく虚勢をはっていたのが可笑しかったのだろうか……私と相沢君は胸から漏れる感情を剥き出しにしてしばらくの間、笑い続けた。こんなに長い間、何も考えずに笑ったのは久しぶりだ。
「ふふっ、そうね」私は僅かに込み上げる笑いを抑えながら言った。「こんな所でアイス食べて馬鹿笑いして、これで馬鹿と言わなかったら、何を以って馬鹿というのかしら」
「全くだ」相沢君もすぐに同意する。「ちっとも楽しいことなんかないよな……」それからぽつりと漏らした。「でも、栞は心の底から楽しそうにしてたな。アイスだって美味しそうに食ってた」
「そう……」私は呟きながら、その姿を想像してみた。アイスを笑いながら頬張る栞、それは不自然ない映像として脳裏に収まる。「本当に楽しそうだったんでしょうね」そして、それは私の本当の記憶の中には存在しない。だから、思わずこう口にしていた。「私も見てみたかったわ……今更そんなこと言っても遅いんでしょうけど」
「そうかもな……」相沢君は純粋な肯定も、そして否定も返さなかった。ただ、曖昧にそう言っただけ。私だって、彼から明確な答えが聞けるなんて思っていない。寧ろ、そんなものが返って来なかったことにほっとしているくらいだ。
「でも、香里だって栞がアイスを食べてるところなんて見慣れてるだろ。わざわざ、こんな寒い場所で見なくても良いと思うけどな」
「そうかもね……」実際、そういう記憶は香里の中に沢山あった。「けど、やっぱり……私の知らない栞がいるっていうのは何となく癪に触るわね。ええ、何だか悔しいわ」
そう思うならあんなことしなければ良かったのにと、心の中で何度目かの後悔が私を苛んだ。それこそ私の知らない栞がいないくらい、べったりとくっついていれば良かったのに。でも、その時は分からなかったのだ。
――人は自分の中でほんとに重大な時というものを自覚しないものである……そして、間に合わなくなってから気がつく――
アガサ・クリスティの『終わり無き夜に生まれつく』という小説の中でそう書かれていた。その時、私はただ何気なしにその部分を読み過ごした。今更、こんなフレーズが頭の中に浮かんで来ても意味無いのに……。
「ねえ、相沢君」私は思わず彼に言葉をぶつけていた。「世の中って、どうしてこう後悔することが多いのかしらね。そして、どうして大事な時に、これをこうすれば後悔しないって、気付くことができないのかな。私はいつも、大事なことばかりを見逃しているような気がするの。後悔してばっかり……本当、馬鹿なくらい……」
今まで、少しでも自分が賢いと思えていたことが嫌になる。いくら勉強ができたって、そのことが分からなければ何も意味が無い。たかがテストで十点加算されるくらいの方程式を知っていたところで、それは役立てようと思わなければ無駄なのだ。沢山のことを知っているだけでは、結局、人間なんて変わることができない。そのことを私は今、強く痛感していた。
相沢君は困ったように私の顔を見据え、それから泣きだしそうなその姿をしばらく見つめていた。見返すその寂しげな瞳と、噤まれた口元は何故か私の心に小さな針を刺したような痛みを与える。目を逸らしてしまいたい、そう思えた。しかし、実行する前に相沢君の方が先に口を開く。
「それなら俺だって同じだよ。俺だって小さい頃から後悔ばっかりしてる。馬鹿なことをやらかして叱られたり、ふざけて死にそうな目に遭ったり……今だって、大好きな女の子の力に本当になれたのかなんて思ったりもしてる」大好きな女の子というのは……言う必要もないことだ。「結局、何かを完璧にやり遂げるなんてことなんて出来ないんだと思う。俺たちはコンピュータじゃないんだから。少しずれたり、間違ったり、後悔したり……。でも、出来たことだってあるって信じれれば、次こそは後悔しないぞって思えるかもしれないだろ。最後の後悔にしようって……」
最後の後悔、Last Regret……。
「で、相沢君はそう思えてるの?」私はそのことがとても気になって、思わず尋ねてみた。もしそうなら凄いと思う。けど、相沢君は小さく首を振った。
「うーん……偉そうなことを言ったけど、今はまだその答えを探している最中ってとこだな。そう簡単にみつかるものじゃないし、簡単に見つかるようなものなんて答えじゃないと思うから」
相沢君は頬を掻きながらそう言った。私もそう思う。近くに転がっている答えは、安易に逃げ込めるような答えは、私の抱えている問題には相応しくない。それに相応しいものを、考え抜いて探し出さなければならないのだろう。できるだろうか……それが。そう思いながら、私は相沢君を覗き見た。
「ん、どうした?」彼はふうと小さく息をつく。「また妙なことを言う奴だって思ったのか?」
「ううん、その逆」私は自然と浮かぶ笑みと共に首を横に振った。「凄く良い言葉だなって思ったわ」
「え、そ、そんなもんかな……」
私の言葉に、相沢君は慌てながら視線を落とした。それから照れ隠しのためだろう。アイスを先程よりも早いスピードで食べ始めた。その仕草を見て、私のカップにもまだ半分以上アイスが残っていることに気付く。腕時計を見ると、五時間目まであと十五分しかない。このペースで食べていたのでは、到底間に合わないだろう。そう思い、私も再びアイスを食べ始めた。
こんな真冬の中、こんな冷たいものをいそいそと食べる私と相沢君。二人とも、同じ人を思いながら……。やっぱり、現実はドラマみたいにはいかない。現実は……そう、ドラマより滑稽なのだ。あの時といい今といい、物語にしたって余り意味のない瞬間の積み重ね。私たちが生きているのはそんな世界でしかない。そして、たまに何者かの気紛れによって極めて虚構臭い現実が顔をひょっこりと出すのだ。それがこの世界の正体。
私はアイスと相沢君を交互に眺めながら、そんなことをずっと考えていた。そして、二人とも食べ終わったところでチャイムが鳴る。
「うわっ、もうこんな時間か……」まだ五分の猶予があるのだが、チャイムが鳴ると学生は本能的に焦ってしまう。それは私や相沢君と言えど例外ではない。余韻のやけに残るチャイムに引きずられるようにして、私は校舎の中に入った。その温かさに、改めて人間は建物というものに守られているのだと実感する。
教室に戻ると、北川君が最初にこう話しかけてきた。
「なんか、随分長いトイレだったけど……」
私は上履きの踵で、彼の足を思いきり踏んづけてやった。