二月五日 金曜日
第十二場 香里の部屋
嘘つき……その言葉に俺は何も返すことができなかった。
香里が風邪をひいたので学校を休むと、水瀬家に電話があったのは朝食の真っ最中だ。秋子さんは台所仕事で忙しく、名雪は半睡眠状態で戦力にはならない。結局、俺が出ることになったのだが、その声が香里の母親だと分かった時は少し驚いた。
「朝、忙しい時にすいません」お互いの所在を確認すると、香里の母親はまずそう言った。しかし、まだ時間的な余裕は充分にある。もっとも、ここから名雪に割く時間が結局、早朝マラソンの道へと俺を走らせることになるのだが。
「いえ、それは構いませんが……何の用ですか?」一番最初に頭に過ぎったのは、香里に関する話題ではということだった。というより、母親がこちらに電話してくる理由はそれしか考えられない。
「ええ、実は香里、風邪をひきまして」その口調は少し心配げで、しかし全体としては淡々としていた。だから、本当は何か重大なことが起きたとかそういうことはないだろう……そう俺は判断した。
「昨晩から軽く咳込んでたようなので、早く寝かしたんですが、今日になって熱が九度近く出たんです。それで今日と明日は学校を休ませようかと思って……」それから少し間をおくと、僅かに声のトーンを落とした。「で、香里が学校に来てないと相沢さんと水瀬さんが心配するだろうと思いまして、そちらに連絡したんです」
「それは……ありがとうございます」確かに……学校に着いてみて、香里が風邪で休んだと教師に伝えられても、俺は額面通り信じることはできなかったと思う。香里の母親も同じことを考えたのだろう、だからこちらに電話をかけてきたのだ。俺は感謝の言葉を述べながら、遠くに存在する香里の母親に向けて小さく礼をした。
「で、香里の容態はどうなんですか?」大事ではないにしろ、九度の熱というのはかなりの風邪だ。俺は心配になって、いつもより二割ましで受話器に声を飛ばした。
「熱のせいでかなり辛そうでした。解熱剤を飲ませたので少しは落ち着くと思いますが。それと咳も酷いですね。後は少し下痢気味で……何か悪いものでも食べたのかと思って尋ねてみると、あんなに寒いのに外に出てアイスを食べたって話して……それだけ体とお腹を冷やしたら風邪もひきますよねって相沢さん、どうしましたか? 変な音が聞こえましたが……」
「あ、いえ……何でもありません」説明を聞いているうちにかなり思い当たる節があり、俺は思わず受話器に頭をぶつけてしまった。いや、俺の方は健康体そのものなんですが……と心の中で呟きながら、俺はこれが秀才と馬鹿の差かなとつまらないことを考える。ともあれ、香里の風邪の遠因の一つに俺の存在があることを知って、申し訳無い気分が胸を満たした。
「普通の風邪なのでゆっくり養生すればすぐ良くなると思いますが……。では、私は香里のことが気になるので……それと水瀬さんにも宜しく伝えておいて下さい」
「あ、はい分かりました。こちらからもお大事にということを香里に伝えておいて下さい、お願いします」
「あ、はい、伝えておきます」
そう言うと電話は切られた。俺はツーツーと発するのを聞いてから受話器を置いた。
「電話、どなたからですか?」台所の方から秋子さんが声をかけてきた。「相沢さんに用だったんですか?」
「ええ、香里が風邪をひいて休むからって」
秋子さんは頬に手を当て、眉を少しへの字に寄せた。「あら、それは大変ね。今年の風邪はしつこいって言いますから、こじらせなければ良いのだけれど……」
「えっ、香里が風邪ひいたの?」夢現に身をおいていた名雪が、その言葉に思わず身を乗り出す。瞳の方も光をたたえており、すっかり覚醒していることが見て取れた。「大丈夫かな、祐一」
「ああ、結構酷いらしいけどゆっくり休めば治るだろうって。だから、今週中は学校を休むらしい」
「そっか……」名雪は不安げな表情を満面に浮かべている。「そう言えば昨日、ここに荷物を取りに来た時、少ししんどそうな顔をしてたみたいだったけど……」
「そうなのか?」俺は少し意外な思いで名雪に尋ねた。「俺が見たところじゃ、いつもと変わりないようだったが」
「うーん、どうかな? わたしにはそう思えたけど」
まあ、実際問題として香里は風邪をひいたのだ。名雪の言い分の方が正しいということだろう。この辺りは付き合いの長さや機微というものだろうか。俺にはさっぱり分からなかった。
香里の部屋に入って彼女に浴びせられた最初の言葉が「嘘つき……」の一言だった。熱のせいで火照った頬と潤んだ瞳とに、俺は思わず釘付けになる。しかし、当の香里はいつもの笑みを浮かべながら「冗談よ……」と静かに答えた。
出鼻を挫かれながら、俺は香里の様子を見る。額にはまっさらな湿ったタオルが乗せられており、側には氷のはられた洗面器が置いてあった。水差しには麦茶が半分ほど入っている。俺がいるせいか香里はなるべく平静を保って見せているが、隙間からけだるそうな表情が浮かび出ていた。呼吸もいつもに比べて荒く、頬と耳たぶには朱がさしている。
「でも、昨日のあれが元で風邪ひいたんだろ。だったら俺にも原因があるってことになるんじゃ……」
「違うわよ」俺の言葉に、香里は弱々しく首を振って見せた。「風邪ってね、潜伏期間があるのよ。普通のものなら二、三日くらい、インフルエンザなら一週間ほどね。だから、昨日何かをやらかしたからってそれは風邪の原因にはならないの」
香里はまるで、聞かん坊の子供を諭すような口調で言った。
「まっ、少しは風邪を酷くする方向には働いたかもね」それから補足するように、今度は悪戯な微笑を浮かべる。
「うっ……じゃあ、やっぱり俺にも一縷の罪はあるってことか?」
香里の目まぐるしく動く言葉と表情に、俺は完全に幻惑されていた。しかし、今日は比較的感情が弱く動いているように思えた。何となく香里に隙が見える……これは珍しいことだ。
「当たらぬも八卦ってところかしらね」
「それって占いとかの言葉じゃないのか?」
「気のせいよ、ところで……」不毛な会話が続くと思ったのだろう、香里は会話を別方向に逸らした。「今日は相沢君、一人できたの? 名雪や北川君は?」
「名雪は今日、部長会があるからもう少し遅くなるってよ。北川は……忘れてたな」病気とは聞いていたのだが、不安が全て拭えた訳ではなかった。だから、ホームルームが終わると急いでここに駆け付けたのだ。そう言えば記憶の端に、北川の叫び声も残っているような気もするが定かではない。「まあ、北川は香里の家の場所知ってるんだろ? もう少ししたら来るだろう」
「知らないわよ」しかし、香里はきっぱりと俺の希望的観測を打ち砕いた。「北川君、私の家に来たことないもの。場所を教えたこともないし、電話番号も知らないと思うわ。もっとも二年の最初に住所録が配られたけど、それを記憶あるいはメモしている可能性は極めて薄いでしょうね」
俺は思わず声を詰まらせた。香里の親切懇意な説明によって、北川が今日ここにやってくる可能性が少ないと分かったからだ。次の日、いくつかの恨みごとを言われるだろうということも。
「まっ、そんなことどうでも良いけどね……」しかし、俺の心を俄かに鬱にさせるような出来事にも香里はどうでも良いとあっさり言い切ってしまう。「取りあえず、お見舞いに来てくれたんでしょう。この時間だから、授業終わって一目散に」
「あ、ああ……」香里の鋭い洞察にうろたえながらも横目で時計を見た。確かにそんな時間だ。俺はそれを聞いて、もう少しゆとりをもってくれば良かったと考えた。しかし、次の香里の言葉がそれを優しく打ち砕いてくれた。
「ありがとう……ね」香里の口から漏れる、素直な感謝の言葉。柔らかな瞳が、じっとこちらを眺めている。「あんなことがあったばかりで休んじゃったりしたから、余計な心配かけたでしょう?」
「まあ、な……」俺は微妙に視線を逸らしながら答えた。「けど、それを抜きにしたって風邪をひいたって聞いたら心配するぞ。流石に急いで駆け付けたりはしなかったろうけどな」
「……そう」香里はそれだけ呟くように言うと、口を噤んでしまった。会話が途切れそうな雰囲気だったので、俺の方が話題を振る。
「で、体調の方はどうなんだ?」俺は肝心なことを尋ねた。「まだ辛いのか? 熱は下がったのか?」
「ええ。朝ほどはだるくないし、熱も薬のお蔭で七度台まで下がってるわ。食欲は全く湧いてこないけどね。今日はお粥を一杯と、お茶を少し飲んだだけ。咳は少し収まってるみたい……」
状況を的確に説明する香里。その様子を見ていると、峠は既に超えているのだなと俺は胸を撫で下ろした。そうすると、弱り気味の香里が嗜虐心を刺激したのか、思わずこんな質問をしてしまう。
「下痢の方は止まったのか?」
俺が尋ねると、香里は案の定、慌てふためいた。
「な、何で相沢君がそんなこと知ってるのよ……あっ、お母さんが話したのね。全く、どうしてそんなことまで男性の相沢君に話しちゃうのかしら」香里はこれ以上ないくらいの溜息で以って、その狼狽と感歎の深さを示した。「私だって年頃の女性なのに、そんなことまで詳しく話さなくても良いじゃないの、もう……」
俺の姿すら目に入らぬ様子で、一人ぶつぶつと呟き続ける香里。これも普段からは想像できない姿だった。風邪をひいて苦しんでいる香里には悪いが、その様子を眺めているだけで面白い。
笑いそうになるのを必死に堪えていると、香里がそれを咎めるように厳しい顔をしてみせた。
「そこっ、笑わないの!」厳しい剣幕の声が飛ぶ。と同時に、喉に痞えたのだろうか……二、三度ごほごほと咳をした。「ったく、相沢君がいると熱が上がりそうだわ」そしてもう一度咳をする。
ようやく少しふざけ過ぎたなと思い、俺は心持ち香里の眠るベッドの方に近寄った。額に乗せられたタオルは香里の熱を吸収し、既にかなり温くなっていた。それを除けると、俺は手を無防備な額に乗せる。それからもう片方の手を、俺の額に当てた。
「うーん、やっぱり少し熱があるみたいだな……」寒空を歩いてきたことを差っ引いても、香里の額は俺の平熱よりもかなり高いことが分かる。「今日はしっかり休んだ方が良いな」
そう言って手を離そうとすると、香里は一言「あ……」と声を漏らした。「えっ、どうした、香里」何か変なことをしたのかなと思い、思わず問いかける。
「えっと、相沢君の手がひんやりしてて気持ち良かったから……」それから言葉にならない言葉を、二言三言口元に留める。「ただ、それだけよ……」
途端にしおらしい調子で、上目遣いに俺を見上げた。それを見て、俺は仕方ないなという感じを強調してもう一度額に手を乗せる。手袋を付けていなかったから、程よく冷えていた。病人には、それこそ冷えたタオルと同じくらい気持ち良かったのだろう。香里は目を見開いてこちらを見たが、やがて緩く顔を崩すと視線を微妙に逸らすだけで何も文句を言わなかった。
どのくらいの間、そうしていただろうか。俺の手と香里の額の温度が同じになるまで二人はずっと黙っていた。俺は香里の髪の毛を何度か撫でると、タオルを氷水で冷やして乗せてやった。
「……ありがと」香里はぶっきらぼうにそう言うと、再び口を閉ざしてしまった。俺としても、状態は分かったのだし、こういう状況が余りに長く続くと流石にどうして良いのか分からなくなる。
時計の針の音に抗しきれなくなり、俺は黙って立ち上がった。
「じゃあ、香里の様子も分かったし、そろそろ帰るから」
その言葉に、香里は僅かに息を漏らす。「そう……じゃあ、風邪には気を付けてね。もしかしたら、伝染ったかもしれないから」そして、いつものシニカルな笑みを浮かべてみせた。
「大丈夫だって、俺は本当の馬鹿だから」
そう切り返すと、「じゃあな」と声をかけて俺は部屋を出た。
そして一階へ下りようとしたが、ふと足を止める。栞の部屋……そう言えば、色々あって栞の部屋を一度も見たことがないのに改めて気付いた。栞の私的な思い出が詰まった場所、そんなことが頭を過ぎり咄嗟にドアのノブを掴んでいた。だが、寸前のところで躊躇する。人のプライバシーを覗き見しても良いのだろうか……そんな理性が俺を押し留めた。だが、結局は悪魔の方が勝ったようで、俺はドアを開ける。少しだけと思い入った部屋……そこは正しく栞らしい部屋だった。全体的に少女趣味で統一された内装と無作為に散らばった部屋は、今もそこに生活があるかのようだ。勿論、そこに主人が存在しないことは重々承知している。それを差し引いても、その生活感の強さは俺の胸を抑えつけずにはいられない。きっと香里も両親も、部屋を片付けてしまうことができないのだろう。同じ立場なら、俺だってきっとそうした筈だ。そんなことを考えながら見渡すものの中に、見慣れた一冊のスケッチブックを見つけた。
俺は思わず近寄ると、今度は躊躇することなくそれを開く。中は栞の書いた絵で埋まっていた。
一枚目の絵……茶色と緑の塊は、連続的な色の描写から芝生と木であること辛うじてが分かる。どうやらあの公園を描いたらしい。絵の裏には小さくタイトルが書かれていた……『春の公園』
二枚目の絵は髪の毛がまるで若布のように波打っている、デッサンが崩れた女性の絵だった。制服やかろうじて保たれた人間の形から、何とかそれが香里であると推測できる。詳しい状況は分からないが、笑顔であることだけははっきりしていた。やはり裏側にはタイトルがある……『お姉ちゃん』
三枚目の絵はぬいぐるみ……らしきものだった。猫か犬かは分からないが、何となくぬいぐるみのような気がした。タイトルは……『ぬいぐるみたちの動物園』
それからも何枚かめくってみたが、どうやら風景画が多いらしい。そしてスケッチブックも後半になった頃だ……見覚えのある絵が不意に覗いた。それは俺がモデルになった絵だ。相変わらずデッサンが狂っていて、正直俺とは似ても似つかない。それでも以前より良い絵と思えるのは……やはり思い出の美化は起こるのかもしれない。その裏に書かれたタイトルは……『私の大好きな人』
そんなことを考えながら、俺は次のページをめくる。そこに現れたのは、再び香里だった。最初のものと比べると、僅かだが輪郭もはっきりしていたし、特徴も上手く掴めている。次のページにもう絵はなく、最後の絵の裏にはこうタイトルが付けられていた……『私の大好きなお姉ちゃん』
スケッチブックを閉じる。これ以上眺めていると、涙が出てきそうだった。栞は一枚一枚の絵に、それこそ様々な思いを込めていたのだ。下手なりに沢山の感情を、愛情を……。そして、スケッチブックが埋められることはもうない、もうないのだ……。
俺はその時になって、ふと一つのことを思い出した。栞にあげたプレゼント……そのことをすっかり忘れていたのだ。俺は美坂家を後にすると、冬の大気に打たれながら公園に向かう。あのプレゼントはどうなっただろうか、もう誰かに捨てられただろうか、或いは拾われていっただろうか……そんなことを考えながら。
噴水は変わることなく、水の結晶を綺麗な曲線として描き出している。しかし、夜の妖精が舞うような幻燈は見られない。だから、少しは冷静にその姿を見ることができた。俺は公園をぐるりと見回す。するとベンチの一つに見慣れたラッピングが見えた。ベンチの真下、きっと誰かが雪に曝されないようそうしてくれたのだろう……そのプレゼントと俺は四日ぶりの再会を果たした。
包みを開け、中を覗き見る。四日分の雪を吸い、中身は湿って使いものにはならない。だが、俺は再びこれらと出会えたことが無性に嬉しかった。強い気持ちが込み上げてきて、俺は顔を思いきり雪に埋めた。肌を直接的な冷気が打ち、皮膚と心を強く引き締めてくれる。しばらくして、俺は顔をあげた。冷えた頬をぴしゃりと両手で打ち、プレゼントを抱えると俺は公園を後にする。
雪は涙形に溶けていた。