二月十四日 日曜日

第十四場 遊園地

 役に立たない平衡感覚と、覚束ない足元が世界を惑わしている。固定しない視界は、世界と反対に回り続ける私の頭脳を現しているかのようだった。目を瞑ると、アメーバのような光点と黒点が這うようにして闇の世界を覆い尽くしていた。余計に気分が悪くなり、私は煉瓦敷きの大地へと目を降ろす。ベンチに腰掛けた体は糖蜜のように粘っこく、胃は溶けた鉛を流し込んだかのように重苦しい。

 嘔吐感が全身を駆け巡るが、乗り物酔いの苦しみに対して吐瀉という方法で心身を楽にさせることは何故かできなかった。冷たい風と微温に満ちた太陽とに支えられ、子供たちのはしゃぐ声を虚ろに聞きながら、私はじっと耐えていた。

 遠くからジェットコースタに乗る人々の叫び声がこだまし、記憶は否が応でも先程の醜態を心に灼きつける。もっとも、声が枯れるかと思うほどに叫び続け、視界は完全に遮られていたので放心と強烈な乗り物酔い以外に覚えているものは、相沢君の私にも劣らぬ、耳を劈くような叫び声だけだった。

 定着した記憶に、白く深い幕が唐突に覆いをかけてくる。寸断された眠気が、強烈な白と共に襲いかかってきた。灰色の煙が辺りに充満しているかの如く、行き交う人々やアトラクションや街路樹がぼやけて見える。大きな欠伸をして何とか持ち堪えたが、あと幾許かも耐えられそうになかった。

 恐慌と倦怠感も勿論あるのだろうが、一番の原因は寝不足だと思う。昨日は、電話であんなことを言ったもののどうやってそれを相沢君に伝えて良いのか分からないのだ。単刀直入に言い切って、さっさと帰ってしまおうとも考えたが、それだと味気ない気もしたし遊園地にも僅かだけど興味はあった。何より、相沢君が私を誘ってくれる予定だったという事実が心を強く揺り動かしていた。何のわだかまりもなく、一緒に笑って歩き回れたらどんなに楽しいだろうとしばしの夢想に走り、慌てて打ち消してしまっては湧きゆく失望感。自分のことを棚にあげて、そんな甘えた考えに耽るなんて何という弱さだろう。理性が私を嘲笑ってみても、イベント前夜に心を泳がす不可思議な興奮を抑えることは耐え難かったし、本当の目的に逃避し頭を悩ませては優柔不断な自分に慟哭する。全く眠ってないのかもしれないし、或いは多重に分割された無意識な睡眠をとったのかもしれない。曖昧なままに夜は更け、朝日すらその身を見せぬ時間から私は家を出て、目的の遊園地へと向かった。部屋の中にいても答えは全く出ようとしないし、冷たい風が私の浮ついた心理状態を一蹴してくれると思ったからだ。

 両親を起こさぬよう、書置きを残して家を出た。早朝の町並みは人の気配すら感じさせず、たまに行き交う人もしかし心に留めることなく進んでいく。世界の存在自体が希薄に思えるのは、果たしてただの錯覚だろうか。でも、世界には存在の薄い時間と濃い時間とが存在するのだと思える瞬間は確かにある。私という存在が世界に対して妙に浮き出て感じられ、孤独に怯えて震えたくなる時がたまにあるから。

 今はそんな思いを心の深い場所に閉じ込め、ゆっくりと辺りを見回しながら歩いていた。特に意味はない、ただ暇潰しのためだけに法則性もなく街の光景を映し出していた。活動の息吹もなく、退屈な時間。ただ、コンビニエンス・ストアだけは眩しすぎるほどの光を称えて闇を切り裂き、強引なまでの存在感を醸し出していた。何か胃に入るものが欲しいと思い、メロンパンとフレンチトースト、グレープジュースを買って再び駅へと向かう。

 駅前の時計は六時半を示していた。私はベンチに腰掛け、意識してゆっくりと咀嚼した。パン二つとジュースに三十分の時間をかけ、ゴミを捨ててから駅に入る。プラットフォームには、まだ早過ぎるのか行楽へと赴く家族の一つも見当たらない。しかし、客が多くても少なくても電車はいつも定刻にやってくる。気兼ねなく電車の座席に座り、ただぼんやりと外を見ていた。面白いことなんて、ただの一つもない。小さい頃は、もっと車窓から見える光景に楽しみを感じていた筈だが、今ではそれも思い出せない。電車に揺られて少し気分が悪くなったため、残りの時間は俯いたまま目的地に着くことをただ祈っていた。

 待ち合わせ場所には、二時間前に着いた。それまでは、とめどもないことに心を飛ばして肝心の思考を阻止していたが、既にその手を執行することは不可能だ。となると、考えることはやはり相沢君のこと。そして自分の罪のこと。

 今日、私は自分がいかに畢竟で愚かで醜い人間だということを彼に全て告白するつもりだ。あの雪の日の夜、自分が栞に仕出かして来たことを告白したように……。でも、あの時とは決定的に違うことがある。私は……相沢君のことが好きだ、そして彼に嫌われてしまうことが恐い。もしかしたら、心を損なわれず伝える方法があるのではないかと意地汚い模索をしてしまう。そんな方法、あるわけないのに。

 第一……私はちらと見られ出した家族連れや友人、恋人たちの楽しそうな笑顔と裏腹にこんなことを考えてしまう……相沢君は本当にここへ来るのだろうか。よく考えれば、約束なんてしてない、ただ私が一方的にまくしたてただけ。あんな気まずいことを言ったのだから、来ない可能性も充分にある。何故、今まで考えなかったのだろう。自惚れてたから? 私のこと、好きだと言ってくれた相沢君だからなんて思ってたのだろうか。いや、そうじゃない。例え、そのことがなくても相沢君はきっとここに来てただろうという予感があった。何だかんだ言っても、人が困っているところを見捨てられない、優しい人だから。それに縋ろうとしているみっともない人間すら、好きだといってくれた人だから……。

 相沢君……過去と現在がごちゃごちゃに頭の中を狂わす。今が雪の中、一人待ちぼうけしているのかそれとも遊園地の中にいるかすら覚束ない。ただ一つ、分かっているのは相沢君がこの場所にいないということ。

「……相沢君」求めるように、私は彼の名前を呼んだ。目が眩み、全身を掻き絞るような気色悪さが肌を這う羽虫のようにくすぐったい。何かが麻痺してる証拠だった。「相沢君……」その名前を呼んでいないと、寂しくて堪らない。「私、ずっと貴方のこと待ってるのよ」

「ごめん香里、売店の方、少し並んでて手間取って……」あ、遠くから、凄く遠くから声が聞こえる。ねえ、もっと近くに来て。「っておい、香里、大丈夫か? 顔が真っ青だぞ」

 遠くから聞こえる声と共に、肩が強く揺さぶられる。どうやら相沢君は、私のすぐ側にいるらしい。重い顔をあげ、その姿を確かめると彼は両手にジュースを持っていた。ああそうだ、気持ち悪い時は冷たいものを飲めば落ち着くと言って買いに出てくれたんだった。その認識にひきずられるようにして、私の意識は現実へとその重きを傾け始める。

「気分、悪いのか?」曖昧に像を結ぶ相沢君の姿が、網膜に映し出される。ああ良かった……相沢君、側にいるのね。「ごめんな、俺が強引に誘ったせいで」

「ううん、良いの。相沢君は、私が楽しんで貰えたらと思って誘ってくれたんでしょ」返事をするのも億劫なのに、何故か今は相手を気遣うことができた。何もなくて良い、今は相沢君がいてくれるだけで満足だった。「ちょっと休めば、治ると思うから」

「そうか……じゃあ取りあえずベンチに横になった方が良いかな? それとも、別の場所に移るか?」

「ここで良いわ」正直言うと、今は動く気力すらなかった。公共の施設を占有するのは少し心苦しかったけど、今くらいなら許して貰えるだろう。そう思い、私は体をゆっくり横たえた……つもりだったが、実際はごんと音がするくらいのスピードだったみたいだ。

「凄い音がしたけど大丈夫か?」相沢君が心配そうに覗き込んでくる。「それで、ジュースの方はどうする? 飲むか?」

 私は小さく首を横に振った。折角買ってきて貰って悪いけど、今は何も胃に入れる気がしない。ただ、こうして横たわっているだけが一番良い。

 相沢君は端の方に遠慮げに腰掛け、私の顔を心配そうに覗き込んでいる。時折、ジュースを啜る音以外はまるで沈黙の帳が降りたかのように何も聞こえない。そのことが不安で、私は相沢君に声をかけた。

「ねえ、そんな端の方で窮屈じゃない?」肩身狭そうに体を縮める彼を見て、まずそんなことが口に出た。「もう少しなら寄れるけど」

「馬鹿、病人が気を遣うもんじゃないって」相沢君は柔く私を睨み付けたが、少し悪戯っぽい表情を向けて付け足した。「でも、そうだな……じゃあ、俺の膝に頭を乗せるか? だったら、俺だって窮屈じゃなくなる」

 そう言って、ぽんぽんと太腿を二度叩く。やや色の褪せたジーンズから完全には窺い知ることはできないけど、それなりに男性らしく引き締まって見える。枕にするにはちょっと硬そうだ。でも、安らかな眠りにはそれくらいが丁度良い。そのわだかまりの一つもない――いや、見せないと言った方が正しいのだろうか――態度が、私の甘さを助長してる。それは、心にピンと張られた筋であり、また相沢君のことを好きだという意味でもある。私は、それに身を委ねた。首を持ち上げ、何か言う前に自分で頭を相沢君の頭に乗せた。衣服を通して感じる感触は、とても暖かく新鮮だった。

「かお、り?」

最初は魔法使いに幻惑をかけられたかのような虚ろな目をしていたが、やがてそれは揺るぎない優しさに変わる。ウエイブのかかった髪を愛おしげに何度も撫でてくれる相沢君の態度は、絶対的な安心感と、それを自らで壊さなければならないという失望感の両天秤を誘発する。でも、やっぱり罪という存在は消し得ないし、それを忘れて、誤魔化してのうのうと生きるなんてできない。また、相沢君との関係に隠し事というものを持ちたくはなかった。でも、事情を知らない彼の向ける愛情と優しさとが私を躊躇わせる。

 私が意地汚く、愚かで、醜い存在だと知っても、相沢君は私のこと、好きでいてくれるだろうか? でも、今はそれを考えることも億劫で、ただ眠ってしまいたかった。眠ることで心身を回復させ、正しい選択を選ぶ力を取り戻さねばならない。

 睡魔に身を任せる瞬前に、相沢君の低く穏やかな声が響いた。

「お休み、香里」と。

 分断された意識が再連結され、音を伴い現実の世界へと舞い戻る。目が覚めた時、相沢君は眠る前と変わらず優しい視線を向け続けていた。だから、眠っていたのが瞬間だったという錯覚すら覚えてしまった。でも、頭上の近くに存在する太陽は最低でも二時間の経過を示している。肩には、厚手の布のようなものがかかっていた。不明瞭な視界でそれを見やると、すぐにそれが相沢君の着ていたコートだということに気付く。私を思いやって、かけてくれたのだろうか……そこまで考えて、私はようやく相沢君を不当に辛い立場へと置いていたことを認識した。

 体をはね起こし、眩む光景すらも歯牙にかけず、私は開口一番頭を下げた。

「ごめんなさい、相沢君。寒くなかった?」

「ん、ああ、太陽が暖かくて丁度良いくらいだ」

跳ね上げて地面に落ちたコートを拾いながら、相沢君は笑ってみせた。けど、本当は寒くたって同じようにしてみせるんだろう。そう、栞みたいに。瞬間、激情にも似た思いが声として紡がれた。

「うそ、本当は寒かったんでしょ」詰め寄るように相沢君へ近付くと、襟首を掴みたい衝動を必至に堪えた。「辛かったら、そう言ってくれれば良いのに。無理に我慢されて、後で倒れられるようなことがあったら、それがどれだけ辛いかということも考えてよ」

 きっと、それは過分な感情だった。相沢君の態度に、明らかに私はかつての栞を重ねて見てた。どんなことをされても、恨み言一つ言わずにいた最愛の妹のことを。

「大丈夫だって、俺は結構我侭な人間だから苦しい時はちゃんとそう言うさ」相沢君は私の言葉を、軽い調子で否定する。「それに、目の前にもっと苦しんでる奴がいるのに、自分が辛いなんて言ったらそれこそ我侭だからな」

 そうなの? 本当にそうなの? 栞は、私の方がより苦しんでると思ったから、自分は苦しいって言わなかったの? 私はそんなに被害者面をしてたのだろうか。どんなことがあろうと、一番辛いのは栞であった筈なのに。我侭、その言葉が強く胸に刺さる。誰が何と言おうと、どのように弁明しようと、私のしてきたことは我侭だ……。喉元から湧き出そうになる叫びを、私は必至で耐える。それを、この場で感情に任せてぶつけては以前と何も変わらない。人を傷つけるだけの言葉を発する愚と、それに追随する後悔を私は味わいたくないのだ。

 私は故意に感情を隠すと、小さく頭を垂れた。心情を吐き出す場は、ここではない。もう少し、その機会を得るに最適な時点というものが存在するはずだ。それまでは、流れに身を委ねてみようと思う。勿論、流され切ってしまわぬよう細心の準備を払ってだが。

「ありがとう、相沢君」だから、今は謝罪より感謝の言葉を述べた。「お蔭で、体の調子も良くなったみたい」

 それは本当だった。やはり寝不足で過激な行動をすると身に祟るのだろうか。今は、霧が晴れたかのように頭の働きもすっきりとしており、体も軽さを取り戻していた。

「そっか、なら良いけど。で、これからどうする? 疲れたんなら、もう帰っても良いけど。時間もまあ、こんなもんだし」

 差し出した腕時計の表示を私は覗き見る。一時五十一分二十秒、ということは三時間以上も眠っていたことになる。

「私、こんなに寝てたの?」いつもなら、大体自分の眠った時間というのは数十分の誤差があるにせよ大体分かるのだが、一時間単位で読み違えたことは久しぶりだった。余程、疲れていたということだろうか。「でも相沢君、本当に辛くなかった?」

「うん、まあ待たされるのには慣れてるから」乾いた笑みを漏らし、私に同意を求めてくる。それはきっとこの町に来た最初の日、名雪に二時間もの待ちぼうけを食わされたことを言ってるのだろう。「それに、眠ってる香里を見てるだけで飽きなかったし」

 私は赤面してしまうのを、鉄の自制心で抑えなければならなかった。さらりとこういう科白を言ってのけるのが、相沢君のの良いところでもあり、また悪いところでもあると思う。

「まあ、それは冗談として、だ」誤魔化すには間の空き過ぎた沈黙の後、相沢君は頬を掻きながら続きを促してくる。「取りあえず、飯でも食わないか。香里も、気分が良くなったから腹減ってるだろ」

 説得力のない言葉だったが、ここは笑って応えるのが筋だと感じた。

「ええ、少し」サンドイッチのセットくらいなら平らげることができると思う。「今ならそんなにお客もいないでしょうし、丁度良いのかもね」

「じゃあ、まず昼飯を食べてそれから……もう、あんまり激しいのは乗らない方が良いな。じゃあ、乗り物じゃないアトラクションでも回ってみるか?」

「ええ」と答えて数分後、私たちは喫茶店で注文の品を待っていた。相沢君のお腹が鳴り、弁解の余地がなくなってしまったからだ。私はトーストセットに珈琲、相沢君は焼き肉定食にソーダを頼んだ。匂いに誘発され、辺りを無言で見回すこと数度、ようやく遅めの昼食が届いた。分量からすれば倍くらいの差があったが、無言で頬張る勢いのある食事にそれはあっさりと埋められてしまった。結局、食べ終えたのはほぼ同時だった。

 ジュースを買いに行く前に手渡した財布から、相沢君は二人分の料金を取り出そうとする。

「相沢君、男が見栄張るのって時代遅れよ」

そう機先を制すると、先程から計算していた自分の分の食事代を素早く手渡した。僅かに苦い顔をする相沢君だったけど、私の性格を鑑みたのかすぐに首肯して財布に伸ばした手を留めた。生意気かもしれないけど、こういう場所では誰とでも対等にいたいのだ。

 喫茶店を後にすると、地図を頼りにその乗り物でないアトラクションの集合している場所へと足を向ける。その途中、前時代的なメリーゴーランドが子供たちを歓声の渦へと巻き込んでいた。白馬や滑車、魔法使いの南瓜の馬車たちが単調なリズムと音楽とを伴い、一つの世界を作り上げていた。足を留めてその光景を眺めていると、不意に相沢君が訪ねて来る。

「乗るか、あれに」

「あ、うん……でも……」こんな大きい人間が、メリーゴーランドになんて乗ったら恥ずかしいという理性が強く働いてしまう。「子供の乗るものじゃないと思うし」

「いいよ。別に誰も見てないし、遊園地って誰もが子供になって良い場所だぞ。高校生だからメリーゴーランドに乗っちゃいけないって誰が決めた? 楽しめれば、それが一番だろ」

 そう言って、相沢君は私の手を強引に掴んで進み出した。私はそれに引きずられる形で、途中からは自らの意志で付いていった。従業員の人に少しだけ奇異な目で見られたけど、もう気にならない。古めかしい滑車に二人して乗り込むと、幾分かの興奮を含んだままにメリーゴーランドは回り出す。魔法の世界に迷い込んだといったら遜色があるけど、でも充分魅力的で楽しかった。

 次に目に止まったのは戦隊物の野外アトラクションで、足を留めたのは相沢君だった。

「どうしたの、相沢君」興味ありげに目を止めた彼に、私は先程の返礼とばかりに問い掛ける。「もしかして、見て行きたいの?」

「ん、いや、興味ないけど……いや、幼い頃はああいうのにはまったなって思ったから。テレビに張り付いて、離れて見なさいって母さんに叱られたくらいさ」

 成程、そういう光景は割と強くイメージできる。

「今はああいうの、余り理解できなくなって……たまに見ても、何で派手な爆発が巻き起こるのかとか、多対一でちょっと卑怯じゃないのかってそんなことばかり考えてしまうから」そして、少し相好を崩すと、ステージのアナウンスの女性を指差す。「逆に、ああいうのは分かるんだけどな」

 何故か露出度の高い服を身に着けた女性を、いやらしそうに眺めてる相沢君を見てると無性に腹が立った。だから、思い切り足を踏んづけてやる。

「いてっ……香里、何するんだよ」

「ごめん、足が滑ったの」すぐ分かる嘘だけど、相沢君には反論できない筈だ。「さっ、早く行きましょ」

 早足で歩き始めると、相沢君は慌てて後を追ってきた。納得いかないという風にぶつぶつ呟いてるけど、自業自得だ。

 とは言え、屋内アトラクションのスペースに辿り着くとたちまち別の意味で顔を緩めた。こういう無邪気なところは、やっぱり男の子なんだなと素直に思う。

「香里、このゲーム一緒にやろうぜ」

 相沢君が誘ってきたのは、いかつい顔のキャラクタがプリントされているパンチングマシンの筐体だった。

「あのね、相沢君……」途端、溜息が出る。「まがりなりにもこういう場所なんだから、もうちょっとムードのあるものに誘おうって気は起きないの?」

「いや、香里……何だかさっきから鬱屈とした感じに見えたからさ」相沢君は、そんなことを言ってくる。「だから、何でも良いからぶん殴ってすかーっとすれば良いんじゃないかって。まっ、確かに香里のような乙女には向いてないかもな」

 乙女という言葉に妙なひっかかりを感じるが、それよりも私は鬱屈とした感じと評されたことが少しショックだった。色々考えてはいるけれど、基本的には楽しいと思ってるのに。だからだろうか、急に戦闘気分が高揚してきた。

「分かったわ、じゃあやってやろうじゃない」確かに鬱屈してるものはある。何かにぶつけてやりたいという気持ちもある。「でも、やるからには全力を出すから」

「望むところだ」

 相沢君が私の言葉に答え、ファイティング・ポーズを取る。コインを二枚投入すると、私はモニタを凝視した。いくらかのモノローグと説明があった後、いかにも悪人面してるアニメのキャラクタが飛び出してくる。私は夢中でそれを殴り……本当に、色々な思いを込めて殴りつけた。息が強く漏れ出ても、一向に気にならない。くたばれと声をはりあげてしまいたいくらいだ。ただ、出てくる敵をひたすらに殴打した。

 どのくらい、それを続けていたのだろうか? 目の前には明らかに今までの雑魚と違う眼光の鋭い男キャラが立ち阻んでいる。必至で応戦したが、このゲームが始めての私にはとてもじゃないが、捌き切れる難度ではなかった。ゲーム・オーバの文字が画面に踊り、画面は鮮血とひび割れで満たされた。相沢君の方を見ると、どうも同じ結果だったらしく、悔しそうにボクサ形グローブを外していた。

「ああくそっ、もう少しだったのに」

「ええ、もう少しだったわ」

 すっかり汗だくだくとなったお互いの顔を見合わせる。楽しかった。公共の場でなければ、二人して大笑いしていたことだろう。

 それから、相沢君に誘われるまま色々なゲームをやった。格闘ゲーム、ダンスゲーム、UFOキャッチャにプリントシールも二人で取った。相沢君がペンで私の目を塗り潰すものだから、無言で鳩尾に膝蹴りを食らわしてやった。

「いてっ、手はともかく足は反則だろ!」

「人を犯罪者Aにしておいて、よく言うわよ」

 憎まれ口を叩きあってる瞬間ですら、楽しくてしょうがなかった。例えこれが仮初めのものであっても、私は至福の時を相沢君と過ごせることに喜びを感じていた。時間ばかりが気になり、このままずっと二人して笑い合えたら良いななんて思ったりもした。

 でも、魔法はいつか解けてしまう。特に、楽しい魔法は。既に五時を少し過ぎ、帰ろうかという隣の人間の言葉を聞くことによって、私は現実に立ち帰された。

「おっ、もうそんな時間か……」相沢君も、身につけたデジタルウォッチを盗み見る。「どうする香里、俺たちももう帰るか?」

 その言葉が決定的だった。ああ、魔法は解けたと思った。これからは現実の時間、そして……私が待っていた流れの行き着いた先だった。今まで故意に忘れて、或いは誤魔化そうとしていた思いが強い意志となって形作られていく。その時が今、来ている。

「相沢君」私はアトラクションの音量に負けぬよう、決意を満ちた声をあげた。「もう一つだけ、お願いできない?」

「ん、なんだ?」

「ここだと煩いから、外に出ましょう」

 相沢君の問いを一時保留すると、喧騒満ちた建物を出る。外は思いの他の冷気と、いつも以上の紅い夕焼けで満たされていた。帰る客の姿が目立ち、寂寥感が徐々に遊園地を満たし始めていた。

「で、香里のお願いって?」

 一歩身を乗り出して尋ねてくる相沢君に、私は一つの乗り物を指さした。ゴンドラが連環を成し、完全に近い閉鎖空間を与えてくれる場所。ドラマを意識したわけじゃないけど、あの場所なら私は字思いを全て告白することができると思う。

「最後に、あれに乗りたいの」

「そっか、えっと、でも……」

俺は高所恐怖症だと言いたいのだろう。私は微笑を浮かべて首を振ると、自らの旨を述べた。

「大丈夫よ、相沢君は目を瞑って私の話を聞いてくれれば良いから」

 一瞬ばかり意味が分からず首を傾げたが、すぐに合点が言ったらしく、強い肯きをもって私の意を汲んでくれた。

 もう、魔術の時間は終わり。後はきっと、自分にとって悲しいだけの結末しか残ってないと思う。それでも、観覧車を選んだのはまだ私が拘っているからだろうか。ドラマのような結末に……相沢君が私を受け入れてくれることを。

 稜線に身を投じようとする夕焼けは、しかし何も答えてくれない。

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