二月十四日 日曜日
第十五場(観覧車・祐一)
目も眩むような朱色の空には、異分子の入り込む隙間も無い。完膚なきまでの圧倒的な光が、全てを血の色に染め上げる。眼を灼きそうな、凶暴な黄昏の空間。今日の夕焼けは――俺は目を細め、夜の帳迫る東の空に心と体を冷ます場所を求めた――何故、こんなにも眩しく恐ろしく思えるのだろう。
数歩先を歩く香里は、しかしそんな異変にも気付かず、手と真摯な態度でもって俺を招いている。くるりと振り向き、なびく髪と綺麗な表情とを見せる香里。血の色に塗れていなければ、さぞかし素敵だっただろうと思いながら、ゆっくりと歩く。
何かが変だった。ゲームやアトラクションで騒いでいた時には全く感じなかった、狂おしいほどの赤への執着と恐慌にも似た拒絶感。赤、紅、朱と何をかもを満たしゆく世界。頭が痛く、動悸も僅かだが乱れている。しかし、ここで逃げるわけにはいかない。香里のことだから、話を切り出そうと決心するのに気の狂いそうな思考と煩悶とを重ねてきたのだろう。であれば、それを真正面から受け止めるのが俺の役割だと思う。今を逃せば、香里はまた心を内の内へと閉ざしてしまうだろう。この機会に、俺は便乗しなければならなかった。姑息でも良い、強引でも良い、香里の苦しみの幾許かでも知り、それを励まし、慰め、分け合うことができれば……その時こそ香里が曖昧にし、そして俺が曖昧にしてきた想いの決着の時なのだろう。そのためには、観覧車という場所は最も都合の良い場所の筈だ……少なくとも俺以外の人間にとっては。
しかし、高所恐怖症と紅への恐怖が観覧車へと歩む足を自然と鈍いものとしている。高いところへの恐怖というものは昔から持っていた。そのことを忘れるくらい、高い場所とは縁のない生活を送ってきたので……そう思った瞬間、断片的に覗く幼い頃の記憶が脳を締め付ける。もっと幼い頃の自分は、そこまで高所を恐がる人間ではなかった。確かに木登りは……できない……そうだったろうか? それすらも思い出せない。
木登りという単語に辿り着いた途端、急激に視界が眩んだ。夕焼けの光が、更に血の色へと近付いているように見えた。そう言えば、前に同じ症状になった時にも夕焼けがよく映えていたような気がする。俺の高所恐怖症と、紅の幕は同じ端に発しているのだろうか?
疑問を呈じる暇もなく、香里はこちらへと近付き俺の姿を寂しげに捉えていた。夕日を背にし、儚げな視線を這わせ消え入りそうな体を支えながら立ち竦む香里を見て一つの気持ちが急速に湧き上がってきた。綺麗だった……壊れそうなくらい綺麗だった。
抱きしめて、粉々に砕いてしまいたいという思いを辛うじて堪える。現実感の希薄な冬の遊園地で、このまま二人とも夕日に灼かれて拡散し、広遠なる普遍の世界へと浸透していきそうな気がした。香里となら、それも悪くないと思える。思いを通わせあい、深く深く一つに……それが叶うのなら、溶け合い一つになっても良い。
そんな妄想を抱いている自分に気付き、慌てて強く首を振る。声にならない香里の声が、ようやく声となって鼓膜を震わせた。
「相沢君、大丈夫?」その声は、いつもの香里の声だった。抱きしめて壊れるような脆く美しい香里ではなく、強い存在感を持った愛おしい香里。「顔色が凄く悪いわよ。もしかして、風邪? 辛いのなら、今日は無理して付き合わなくても……」
「大丈夫、ちょっと夕日で目が眩んだだけだから」それはある意味本当のことであったし、症状が軽いと思わせるには一番の言い方だと思った。「香里、ようやく決心がついたんだろ? だとしたら、俺はそれが壊れないうちに全てを聞き届けたい」
こめかみの疼きを必至で叱咤しながら、俺は精一杯の笑顔を浮かべた。香里を安心させなければと思うと、自分でも驚くほど穏やかになれた。一瞬でも、壊してしまいたいと思ったことを心の中で強く反省した。
西日と観覧車とが間近になり、改めてその高さと巨大さとに眩暈を覚えた。案内板には日本第三位、高さ一〇二メートルの巨大観覧車と銘打たれており、それが釘を刺したかのような疼痛を俄かに激しくした。観覧車に乗る人の影はまばらで、時折すれ違う家族や恋人たちの優しげに歩く姿に奇妙な嫉妬感を覚える。俺と――ちらりとその儚げな顔を見る――香里は、果たしてこの観覧車を降りたときどのような関係になっているだろうか? 幸せな気持ちで歩むことができるのだろうか? それを確定できない人間だから、既に確定した未来を歩んでいる人間を羨ましく思ったのかもしれない。嫉妬の原因をそう分析してみせたのは、前に踏み出す足がどうしても一歩動かなかったからだ。
「相沢君、本当に大丈夫?」
香里がまた俺を心配してる。情けない、男とか女とか関係なく、前に進むことができない自分が不甲斐なくてしょうがなかった。本当は香里の方が数倍不安なのに、恐怖という感情に縛られ現状を打開できない。
「ごめん……ここまで来て、情けないよな俺って」悔恨の情が、紅を媒介にして強く流れ出す。「目の前に困っている人がいて、いつも立ち竦んで何もできなくて、くそっ」
歯を食いしばり、目を硬く瞑り激しく俯く。香里の顔を直視することすら叶わない、いや恥ずかしくてできない。瞳から弱さを読み取られ、直視されることに到底耐えられそうにない。これなら、動けなくても雄雄しく空を見つめている英雄の像の方が余程ましだ。この身が自由に動いたところで、勇なき魂にどんな意味があるのだろう。大好きな女性が助けを求めているのに、一歩を踏み出すことができないこの体など……。
「相沢君……」香里がまた、俺の名前を呼ぶ。視界を暗く閉ざし、愚かに佇む俺に差し伸べられたのは香里の暖かい手だった。「恐いんだったら……」更にもう片方の手も俺の手に添える。「こうやって手を握っていてあげる。今日はやめるって言っても、納得はしないんでしょ。だったら、せめて少しでも不安を和らげてあげる。ねっ、こうやって手を繋いでると安心できるから」
その手が余りに優しく、そして魅力的に重ねられたので、俺は思わず顔をあげて香里の顔を見ずにはいられなかった。その姿を見て、初めて両手が添えられているという事実を現実のものとして感じることができた。同時に、熱く込み上げてくる感情が胸を掴んで離さない。俺はきっと、彼女に大事なものを奪われてる。奪われても良い、奪われて欲しいものを奪われていると感じた。
不思議なほどに安らいでいくのが分かる。ただ、掌が触れ合っているだけで何もかもが癒されそうな気さえした。香里は片方の手を離し、その代わりもう片方の手を強く握ると一歩を踏み出そうとして、確認の視線を送る。俺は大きく肯くと、並んで進んでいった。笑顔のスタッフに先導され、俺たちは赤く塗装された観覧車の一室へと入った。鍵がかかる音がして、最後の退路が断たれる。小刻みに揺れているゴンドラは、不安定な足場と共に遥かな天上へと俺たちを押し上げようとしている。そう考えただけで足が竦んだ。
四人乗りの観覧車に、俺と香里は並んで座った。目を堅く瞑り、繋がりを求めるように手は強く握りしめたままで。そしてゴンドラは動き出す。暗闇の世界で、しかし香里はなかなか話を切り出そうとしない。ただ不思議な機械音だけが、この小さな世界に存在する全てだった。今、どのくらいの場所にいるのかさえ分からないまま、静かに回る観覧車。その時間は長いようで短い。しかし、一周が二周、二周が三周になったところで大して変わらない。香里が口を開くまで、俺はずっとこのままでいようと思っていた。繋がれた手が、無言のうちに離されるのも何だか悔しい気がするから。
一際強い風がゴンドラを揺らし、薄目を開けようとして即座に思い留まる。繋がれた手に一層、力を込めると香里も同じように握り返してきた。掌が汗ばみ、香里が不快に思ってないかつい心配してしまう。けど、手を離して汗を拭うほどの余裕はない。ウインチの軋む音が、ひっきりなしに響く。もしかしたら、観覧車が止まっているのではないか? という妄想をそれで辛うじて掻き消すことができた。空が近付いていることが、視覚でなく感覚で分かる。微かに体の震えが顕れ、静めようと歯を食いしばる。
その時、完全なる沈黙が訪れた。ウインチの音も、風の音も全てが消失し、絶対的な無だけが二人の場所を覆っている。その無を掻き消すように、香里がようやく口を開いた。
「ごめんね、相沢君……」その声は、弱々しく震えている。何かに怯えているのだが、その正体が何か俺には把握できなかった。「決心はついてた筈なのに、どうしても喋れない。恐いの、誰かに私の心の全てを知られることが。でも、それより恐いのは……貴方に嫌われることなの、軽蔑されて心にも留めて貰えないことなの。それが、それが一番恐くて……相沢君、私は……」
悲痛な叫びの中で、それは思いがけなく俺の心を打った。嫌われるから? 俺に嫌われるのが恐いから話を切り出せないのか? だとしたら、香里にとって俺は……そう、想像している以上に大切に強く思われているのではないだろうか? そう考えると、いてもたってもいられなくなった。俯いて、目を固く縛って震えていることが、今できることではない。彼女の、香里の顔を真摯な眼差しで見届け、受け止めることではないのか。
両の眼をゆっくりと開け広遠に広がる夕焼け空を瞳に映し出したその刹那、眼に灼熱で焼かれたような強烈な痛みが走った。おかしい、夕日の光は人の瞼や眼球を灼ききってしまうほど強力なものだっただろうか。尋常ではない痛みに、俺は思わず両手で目を覆い隠した。しかし、針で刺したような痛みは途切れることをしらない。
「くっ!」耐え切れなかった痛みが思わず声に出る。
「何? どうしたの? 大丈夫なの? ねえ、相沢君!」
香里の声もしかし、今の俺には答える能力をもたない。耳鳴りと頭痛が、まるでスプーンで脳を穿り返しているかのように強く思考を掻き乱す。混沌と灼熱の痛みとに悶え、それでも心の片隅では何故、こんな痛みが発するのか探ろうとしていた。その心理の探求者に向けて、灼かれた瞳は、俺に一つのヴィジョンを、視せた。
紅く染まる雪、白を浸食していく不気味な赤。夕焼けとは程遠い、禍々しき死の顕れの色。その中心に横たわる一人の少女、笑いながら小指を絡めてくる少女。儚く、健気で、明るく、そしてそれ以上の絶望に満ちたヴィジョン。ただ時折吹く疾風の如き風音が、虚しく思い出の全てを切り裂いていた。パズルのように曖昧な映像、呆然と佇み何もできない僕、そして少女。深雪が世界を冬に彩っている、生命の深遠のまたその谷間、中心にいるのは少女。そうだ、一人の少女だ。誰だったか、俺はその名前を呼ばなければいけない。誰だっただろう、ああ、この頭が砕け散っても構いません。気が狂っても良いから、どうか俺にその名前を取り戻す力を与えて下さい。
唐突に、それは唐突に目の前に現れた。あゆ、そう……七年前に俺の眼前から消えた少女の名前。
「あゆ、お願いだから目を覚ましてくれよ」
何で、こんな辛いことが起きてしまうのだろう。悲しいことばかり、起きてしまうのだろう。僕は、布団にくるまってただ泣いていた。こんなに辛いことがあるなんて、今まで知らなかった、知らなかったんだ。
「相沢君、どうしたの? あゆって誰のことなの?」
誰かの声が聞こえる、そう、楽しそうに雪兎を抱えて走ってくる一人の少女。何で笑ってるんだ、人の気も知らないで。僕は、そんな紛い物の雪なんていらないのに……。
全てを否定すれば、楽になれると思った。何もなかったことにすれば、幸せに生きられると思った。だから、これが三つ目の願い。あの街で起こった、全ての辛い思い出を、永遠に思い出しませんように。それが、最後の願い……。
そう、これが失われた記憶の全て……。
忘我の時から目覚めると、俺の頭は温かく柔らかなもので包まれていた。ずっと、俺の名前を呼び続ける悲しげな声がする。首にかかるしなやかな長い糸が香里の髪の毛だと分かったとき、同時に彼女の胸の中に抱かれているのを知った。
「香里……」俺は自らを包む込み、涙を流さんばかりに叫び続ける香里に向けて、低くくぐもった声をあげた。「香里、ちょっと苦しいんだけど。なあ、もう少し緩めてくれると嬉しいんだが」
その言葉に、ようやく自分のことを冷静に見られるようになったのだろう。香里は慌てて腕に込めた力を緩めた。しかし、依然として俺は彼女の手の中にあった。
「びっくりしたのよ」香里は、抱く手は緩やかでも口調は厳しく刺々しかった。「いきなり顔を手で覆ったかと思うと苦しそうにうめき出して、おまけに訳の分からないことを呟き出して。何があったの?」
何があったの、と言われても簡単には答えられそうになかった。夕焼けを見て、七年前の記憶を思い出したなんて……。
「分からない」と答えるしかなかった。でも、なるべく詳しく自らの身に起こったことを説明しようと試みる。「何だか今日は、夕焼けが妙に紅く眩しく思えて……それで観覧車だから諸に光が当たるだろ。まるで目が灼けたみたいに痛くなって、それから夢みたいなのを見た。白昼夢の中では、あゆが血に染まってて……辛いと思った、本当に辛いと思ったんだ。だから、俺は記憶を閉ざしてしまった。そんな過去の記憶を思い出したんだ」
本当は、まだ僅かに霞にかかっている部分がある。けど、大半のことは思い出せた筈だ。香里は俺の支離滅裂な言葉に、しかし一つの疑問を投げかけた。
「よく分からないけど、昔そういう経験があったの? そのあゆって子は、でも元気に走り回ってたんでしょ、だったら無事だったってことじゃない」
確かに……不自然なほどに失念していたが、こんな珍しい名前が二つとあるとは思えない。七年前の少女と、俺が最近まで出会っていたあゆは同一人物ということで間違いないだろう。そう、あゆだって七年前に俺と出会ったと言ってたから間違い筈だ。なのに、それが全くの検討外れのように思えて仕方ない。
と、ふと一つの疑問が浮かぶ。
「そう言えば香里、どうしてあゆのことを知ってるんだ? 俺はあいつのこと、一言も喋ってないけど」
「うん、栞が話してくれたの」香里は、その問いにあっさりと答えてみせた。「羽根の生えたリュックを背負ってとても面白い子だった。あゆさんがいなければ、私は祐一さんとも会うことがなかっただろうって言ってた。それが印象的で、だから覚えてたのね」
栞が……まあ、確かにあゆなら姉妹の格好の話題となったに違いない。きっと、そのとき身の覚えのないくしゃみでもして、不思議がっていることだろう。そう、そうなのだ。七年前に木から落ちたあゆと、商店街を駆け回っていたあゆが同一人物なら、つまりはあれから救いの手が差し伸べられ、元気に回復したということだ。それは何ら矛盾のない考えだ。それなのに、どうしてもちぐはぐだという気持ちが消えない。それは良いことなのに、歓迎すべきことなのに、体の全身を一抹の不安みたいなものが巡り回ってしょうがなかった。もしかしたら、まだ俺の知らない記憶が脳の奥底に眠っているとでも言うのだろうか。いや、それはない。先ほどの、幸せな結末こそが現実だ。そう現実なのだ。
「そっか……」俺は不安を吹き飛ばすため、わざと明るく言ってみせた。「あいつのことだから、今もきっと何処かを走り回ってるんだよな……」
何だか、もう一度あいつに会いたいという気持ちが湧いてくる。と同時に、それとは別の申し訳ない感情が首をもたげてきた。
「でも、大事なことなのに辛いからって言って押し込めてたなんて……昔から同じことやってたんだな、俺は。いや、子供のように駄々をこねることを捨てられず、我侭なまま大きくなっていっただけなんだ」
あゆは俺のこと、覚えていたのに俺は一時の辛さにかまけてそれを全て忘却の彼方へ葬り去っていた。思い出すだけで痛みが走るような、狡賢く醜い番人が守る記憶の掃き溜めへと。額縁に飾るべき、共に歩むべき印象的な記憶を簡単に捨ててしまう。
「それなら、私だって同じよ」悔恨の情に溺れる俺を、香里の言葉は優しく掬い上げようとする。「私も栞のこと、忘れようとしたから。なかったことにすれば、幸せに生きられると思ってた。私でも辛かったんだから、子供の頃の相沢君が忘れてしまいたいと思うのは当然のことだわ」
「でも……俺は栞のことも忘れようとしてた。子供とか大人とかが問題じゃなく、俺が卑怯なんだ。忘れることが、全てを失ってしまうことと同じだって教えて貰わなければ、これからも大切な記憶を捨てるだけ捨てて後悔するだけの人生を歩んでいた」
俺の言葉は、香里と内在する空間とに何らかの余韻を与えたようだった。再び静寂に包まれるゴンドラは、既に出口近くまで迫っている。俺は、突如張り出した自分の記憶のせいで香里が話す機会を奪ってしまったのではないかと無性に心配になった。しかし、香里は俺をかき抱く手を離すと言葉を紡ぐ。
「もう、終わるわね」
しかし、香里の口調に寂しさや悔恨は含まれていない。
「ああ」
と寂しそうに呟く俺が滑稽に思えたくらいに。しかし、それは香里の次の言葉で霧氷の彼方へと消え去った。
「ねえ、相沢君。もし良ければ、恐くなければ、嫌でなければ……もう一周だけ私に付き合ってくれないかしら」
躊躇いがちな香里の態度は、ゴンドラを優しく悲しく満たした。
ゴンドラは、時の歩みを拒むものたちの間にも平等に訪れる。今まで目を灼くように熱かった夕焼けの光も今は痛くない。高所は恐いけど、今は気にならない。もしかしたら先程の現象は、より素直に香里の話を聞くための布石だったのかもしれない。そんなことさえ考えてしまった。
スタッフが、俺たちの降りる意志のないことを確認したのか無言で遠ざかっていく。俺は改めて香里に注目した。しかし、その唇から動かされた最初の言葉は、俺を凍りつかせるのに充分だった。
「私は……栞を殺したかもしれない」