二月十四日 日曜日

最終場(観覧車・香里)

 人間が最も犯してはならない罪とは何だろうか? と聞かれれば、まず十に八は殺人と答えるだろう。最近は何故、人を殺してはいけないのかと公然と言い放つものもいるが、そういう人間は想像力が決定的に欠如しているのだ。少しでも考えてみれば、例えば包丁でうっかりと指を切った時のことでも思い出せば良い。神経と血管とを穿った痛みが、正常な思考と行動を数分ではあれ奪ってしまうだろう。傷が深ければ、数日は苦しむかもしれない。死とは、どんな苦痛をも数十倍する苦しみをもって人を苛むのだ。一瞬で死んだら苦しみはないかもしれないが、そのような死を享受できるものは極稀である。死とは大抵緩慢に、そして宙ぶらりとされた時間の中で杭を撃ち込むように静かに深く突き刺さっていく。それ故に、死とは恐ろしく悲しい。人が忌諱し、遠ざけようとする。

或いは、人は自分の生を肯定し死に臨むために毎日生きているのかもしれない。私はよく、死というものの本質について頭を巡らせてきた。それは、妹を通してそれが身近に感じられたからだ。苦しみ、徐々に弱りゆく栞の姿を胸に針を突き刺すような思いで見続けてきたからだ。夜になると、無性に震えることがあった。自分は死というものを現実的には感じ得なかったが、他人の死は恐かった。具体的に言うと、栞が世界からいなくなってしまうのが恐かったのだ。一時期は、栞がいなくなったら自分は狂ってしまうのではと思ったことすらあった。

けど、私は今でも多量の正気と少量の異常を抱いたままここにいる。幾多もの後悔と絶望を胸に押し込めたまま、それでも前に進むことを模索してもがいている。妹の好きな人を好きになるなんて、すぐには肯定し難い事実すら厳然として存在している。けど、全てを包含し嗜め操るものは別にある。罪の意識、罰の受容、そして希望の否定だった。死に至る病は絶望とよく言う。元はキルケゴールという哲学者の著書の題名だったと思う。その言葉が、あまりにも目の前にあった現実と合致する言葉で身震いさえしたことが何度もあった。それでも、栞は精一杯前向きに生きてきたのだ。苦しい筈なのに、笑顔を浮かべて家族の中心であり続けた。少しばかり我侭なところはあったけど、太陽のような魅力とそれを打ち消す優しさと天真爛漫さはそれを打ち消してあまりあるものだった。希望の一欠けらが、確かにそこには存在していた。そこに絶望を、虚無へと通じる絶望を与えたのは私なのだ。

 直接、手を下していなくても教唆すればそれは立派な殺人に等しい。生きるという道を全て塞いでしまうということは、それだけで立派な……いや愚に満ちた罪なのだ。確か、シェークスピアの小説に同じようなものがあった。自分の手は汚さず、ただ教唆と先導によって結果的に殺人を成してしまう……恐るべき悪意を伴った物語だった。そう、あの時の私にも悪意があった。健全な魂を覆い尽くし、憎しみに変えてしまう程の悪意を確かに自覚していた。

 いつ、ばれてしまうかと思うと心配だった。その後ろめたさもあり、何よりもう苦しむのは嫌だという身勝手な理由で誰にもそのことを告白することができなかった。言ったとしたらきっと激しく非難され、私の砕け易い魂を完全に破砕してしまうに違いない。いや、今までばれなかったのが悪運であったのみ。方々から滲み出る不自然さが強まれば、私とその間をとりまく世界に接触する機会が多いほどその可能性は増えていく。私がここで今更告白しなくても、何れことは明らかになっていただろう。

敢えて自分の手でそれを語り、全てに終止符を打とうとしているのは、残された選択肢の中で最善の方法だからでしかない。罵倒され、全てを壊され希望の一欠けらも残らないとしても相沢君なら良い。彼になら全てを壊されても良いし、何よりそうする権利が第一にあると思ったから。それに、誰に壊されるより相沢君に壊して欲しかった。倒錯した感情だろうか? 結局、私は狂ったままなのかもしれない。そう、例え殺されるとしても私は粛然として受け止めるだろう。首筋に手をかけてきたのなら、微笑を浮かべ相手の全てを肯定してこう言うつもりだった。私を殺してって。

 燃えるような夕焼けが、ゴンドラを照らしている。全ての感覚が研ぎ澄まされ、幾つもの音が騒音のように耳を駆け巡っていく。光に眩んだ目が、虹色の焼失点を生み出す。喉が無性に渇き、唾を何度か飲み込んだ。その代わり、今まで私の中にあった優しさが休息に減衰していくのが分かる。相沢君をこの手に抱いた温もりも、急速に冷たさへと転化していった。

 緊張に傾した空気が強いことが、肌から強く感じられる。体験したことはないのだが、裁判官から判決を言い渡される一瞬というのはもしかしたら、このような空気になるのかもしれない。ただ裁判と違うのは、ここに判事も弁護士も傍聴人も存在しないということだった。だから、相沢君が私にどんなことを告げようとも咎めるものはいない。私も、ただ粛々とそれを受け止めるのみだ。

 相沢君は顔を歪め、複雑な思いがあることを表情に出した。それから、睨みつけるようにして私の方を見る。

「それってどういう意味なんだ?」

 言葉通りよと返そうとしたが、そんな茶化した物言いはこの場所では避けるべきだと思い直す。私はただ無言だった。すると、痺れを切らしたのか激しい口調で言葉を繋いでくる。

「そう言えば、今までにも何回か話してたよな。もしかして、まだ以前に話したことを根に持ってるのか? だったら前にも言ったじゃないか、それを香里が気に病む必要は……」

「違うのよ」彼の言葉を、私は否定をもって遮った。首を強く横に振ると、言葉を続ける。「そうじゃないの、私がやったことはもっと酷いことなの。絶望の病を私は栞に植え付けてしまった……思い出すだけで怒りと涙が浮かんできそうな、誰から責められてもおかしくないことをしたのよ」

 何か言いたげな相沢君の視線を無視して、私は自分のペースをゆるめなかった。そして、議題の本質へと足を踏み込んだ。

「ねえ、相沢君は病院についてどんなことを知ってる? まあ、いつも健康そうだからそんなにしょっちゅう用事があるとは思えないけど」少し軽めの口調。冷静にことを話すには、この方法くらいしか思い浮かばなかった。「私はね、色々なことを知ってるわ。例えば、患者に死の宣告を行うとき。あと何ヶ月とか、何年とか。これは医者にもよるんだけど、殆どの医者は残り時間をあまり厳密には定義しないらしいの。あと半年くらい? とか」

 私の話していることから、相沢君はどんな意味があるのか必至で読み取ろうとしていた。が、そこまで語ったところで不意に顔色が青く滲んできた。気付いただろうか? と心の中で考えつつもおくびに出さず先へと進める。

「それは、例え寿命が定まってそうな老人であっても。人間の生命力とか寿命って、死病に罹ったからといって正確に定まってるわけじゃないの。半年しか持たないと言われて、数年経っても元気な人もいる。特に、子供は体の構造や体内サイクルが大人に比べて曖昧なところもあるし、過剰なところもある。一意には、定めにくいところがあるわ。それに、未来への希望だってある。いかに患者がそう思っていても、医師でその未来を摘み取るような言葉は使わないのよ。大人とは違う経過を呈することもままあるし、不安定なものだという認識があるから断定的な口調は伴えないという部分も本音にはあるでしょうけど。

 だからね、医師は子供の患者に対しては滅多にこんな言葉を使わないの。あと半年で死ぬとか、誕生日まで生きられないとか……言ってる意味、分かる?」

 分かっただろう、と私は思う。これで何も読み取れなければ、余程鈍いか或いはとぼけているかのどちらかだ。目を何度も瞬かせ、虚空と私を交互に見渡し激しく狼狽しているその様子からするにそのどちらでもないことは簡単に見て取れた。私の喋ったことの内容と意味を理解し、そして次に来るであろう言葉をも推測している。そして、それは決して的外れのものではないだろう。

「こんなことを言っても、弁明になんてならないのは分かってる。いくら苦しんでたと言ったって、栞の苦しみと比べれば全然比較にならないことも理解してる。私の身勝手で、卑怯な思いが沢山のものを壊してしまったことは事実なの。覆しようのない、事実なのよ。あの日、いやもっと前から考えてたかもしれない。栞がいなくなれば、いなくなればと日に日に強く思い始めてた。それが、クリスマスの日に爆発したんだと思う。それまではずっと、耐えられると少なからず自信を持ってた。その時の私には一人で泣ける場所があったから、悲しみをそこで洗い流してしまえばどんなことにだって耐えられると信じてた。でも、感情というのは蓄積するものだって知らなかった。その時は涙と共に無理矢理押し込めても、鬱屈として燻る暗い感情を奪う何の役割も果たさないことを理解してなかった。一人で泣いていれば……耐えていれば良いのだという考えが過ちであることを知ろうとしないでいたの。

 何がきっかけかは分からない。以前、ドラマで同じような科白を聞いたことがあるからかもしれない。ただはっきりしてるのは、それを悪意をもって言ったってことよ。とても、とても残酷な嘘をついたの。死に至る病を絶望と変え、そして死期を定めてしまう……そんな嘘を。栞は次の誕生日まで生きられないっていう、嘘を」

 言ってしまった。誰にも告白したことのない最大の罪を、相沢君の前で。その意識が、急速に私から力と精神とを奪っていく。冴え切っていた頭が鈍く停滞し、姿勢を正して席に座ることすら困難なくらいだった。相沢君の顔を見ることが恐くて、微妙に視線をずらす。しかし、視界の端から覗く彼の顔に怒りの色は全く感じられなかった。怒りの感情が湧かないほど、衝撃を受けているのだろうか?

 沈黙が辛かった。これならまだ、激しい口調で詰め寄られる方がどれほど幸せだったろうか。例え大切な思いを永久に失うこととなろうとも、罪を裁定してくれる人物こそ必要だった。相沢君に嫌われ、蔑まれるのはきっと最高の罪だ。愚かしい感情を完膚なまでに叩きのめし、受ける絶望は死の次に苦しい筈だ。死ぬということが、周りの迷惑になるが故に許されないのなら、私の取るべき道の終着点はきっとここにしかなかったのだと思う。

 ゴンドラが頂上に来ても、相沢君はまだ何かを考え込んでいた。長過ぎる停滞に耐え切れず、私は再び声をあげる。

「何度も栞には話そうと思った。嘘だから、貴方はもっと生きられるんだって。でも、その言葉すら欺瞞で……。それに、もう妹なんていないんだって言い聞かせてたから、是正する気も起きなかった。そして、栞が相沢君に一週間だけ普通の女の子として扱って下さいと言ってたと聞いた時、もう私の言葉は完全に手遅れだったって知ったの。あの娘は一週間で全てを終わりにするつもりだって悟った。もう、あれは嘘だったと言っても栞には決して信じて貰えないと分かったの。だから……」

 そこまで口にして、それは本当なのだろうかという疑問が湧いてくる。言っても無駄だから、言わなかった? そんな単純な割り切り方をしていたのだろうか、当時の私は。

 違う、と思った。もっと根本的なことであって……。

「いえ、そんなんじゃなかった……」再び首を横に振ると、自分の中ですら眠らせていた本音を口にする。「きっと、私は栞に嫌われるのが恐かった。嘘なんだから、真実になるとも思ってなかったからその一点で先延ばしにしてた。私のために向けられていた栞の笑顔を失いたくなかった。折角、再び姉として生きられている世界を壊したくなかった。あんなことをしておいて、酷い嘘をついておいてこんなこと言うなんて偽善かもしれない。でも、私は本当に栞のことが好きだったのよ……本当に好きだったの。

 まさか、嘘が現実になるなんて思わなかった。悪意が救い難い呪いへと変わってしまうことがあるなんて、想像もできなかった。言葉は容易に人を殺しうるんだって初めて分かった。だから、私はその罰を誰かに決めて貰わなくてはいけないの。裁判で裁かれなくとも、私の罪は救い難いから……自分のことを決して許せないから。だから、幸せになるなと言うのなら一生そうして生きてく。死ねというのなら努力してみる。殺したいと思うほど私のことを憎いと思ったんなら、殺したって……そう、殺したって良いの」

 そして、無表情な真摯を相沢君に向けて言った。

「相沢君は私のこと、どうしたいって思ってる?」

 一方的に語り、そしてその裁量を相手に委ねること自体、結局は卑怯なことなのだろう。しかし、私は自分を測るのにこの方法しか思い浮かばない。私は弱いから、自分のことを良く評価してしまう。何の根拠もないのに、幸せで生きて良いのかという思いに縋り、そして好きという気持ちを抑えることすらできない。

 一陣の風が、僅かにゴンドラを揺らす。その直後、初めて相沢君は言葉を発した。それはただ、穏やかなものだったので私は狼狽してしまった。

「そうか……だから香里はずっと苦しんできたんだな」それから目を細める。私にはそれが、何かの記憶を引き出そうとしているように見えた。「そういえば、前に少しだけ疑問に思ったことがあるんだ。葬式の時、何だか香里の両親の悲しみ方が弱いなって。確かに苦しんでいることは、凄く伝わってきた。でも、誕生日まで生きられないってことを医師に告げられていた人間の悲しみ方とは違うように感じた。予告通りに死んだんだから、そのことをもっと口に出す筈だしな。けど、その辺りは淡々としていたし、新しい技術が外国で確立しても大丈夫なようにって話してた。数年も先の不確定なことなんだろうけど、もうリミットが殆どないと宣言されてなおも言えるようなことじゃないことだったし。もっとも、その時は自分の悲しみにかまけてて周りを見渡す余裕はなかったけど……」

 相沢君はその時の様子を思い出すよう、丁寧に話していった。事実そこは、私が一番恐れていた部分でもあった。火葬場へと向かう道の途中、私は自分の仕出かした真実がばれてしまうのではないかと内心、凄く怯えていた。何しろ、栞の残り時間のことについて少しでも明言されたらそこで私の嘘は明らかになっていたから。ヒントは幾つもあった。後は、それを紐解く余裕ときっかけさえあればドミノ倒しのように全ては崩れていっただろう。思ったとおり、私の行動はそれを少しだけ早めただけに過ぎないのだ。

「ええ、妹が死んで悲しい筈なのに私は保身のことを考えてた。乗り物酔いのせいにして誤魔化して、内心は凄く不安だった。責められてしまうことが恐かったの。栞が変わり果てた姿で現れたとき、ようやく自分がいかに醜かったか知ることができたわ。こんな私、生きてる価値はないと思った。生きてることさえ無駄で、死んだところで何も変わらないのだと……。

 けど、私が死んだら周りに迷惑をかけるって知った。こんな酷い人間なのに、本気で悲しんでくれる人がいると知ったら死ねなくなった。自分のためじゃなく、名雪や相沢君や両親のために死ねなかった。だったら、私は彼らのために生きなくてはならなかった。だから、栞の生きていた頃と等しい幸せを、例え私の個性を全て切り刻んでも良いから果たせれば良いと思った。実行にさえ移したの。

 でも、それすら他人を傷つける行為だって分かった。それは結局、自己満足のためでしかないものだって。だとしたら、私は緩慢に意味なく時を過ごすことしかない。けど、それは生きる意欲と明るさを抱いていた栞を冒涜する生き方だと思った。だからといって、自分の道を、幸せを進むことなんて決してできない。生きていくということがどういうことなのか、もう分からない……」

 答えなんて、どこにもないのだと……思考を閉ざして狂ってしまうことしか私には残されていないように思える。

「だから相沢君に答えを求めてる。卑怯者の行為だって分かってるけど……」

 私は、期待と不安の眼差しで相沢君の方を見た。彼は、私をどうしたいと思ってるのだろう。何か、どんなに絶望的なものであろうと答えをくれるだろうか? しかし、相沢君は首を横に振った。返答を拒否する、と言わんばかりに。

「俺は、人の行き方を左右することなんて言えないしそんな権利なんてないよ。ただ一つ言うのなら、俺の望みは最初からただ一つだ。香里、お前には幸せに生きて欲しい……そのためなら、俺は自分のできることをする、それだけだから」

 相沢君の言葉は、予想していたどんなものよりも優しく、私を気遣ったものだった。どう接して良いか分からず、口をぱくぱくさせている私に相沢君は真摯な表情で話し始めた。

「それに香里、お前は凄い勘違いをしてる」勘違い? と問うよりも相沢君の方が早かった。「栞はな、あの一週間を最後にするためにあんなことを言ったんじゃない。その勘違いだけは、正す必要があると思う。何より、香里のために」

 勘違い? あの言葉にどんな勘違いを抱きうると言うのだろう。

「だって、栞は誕生日までの一週間だけ、普通の女の子として生活するって。それって、その時間を過ぎたら終わりってことを自覚していたということでしょう? それ以外に、どのような解釈があるって言うの? 終わりってこと以外に」

 そう、栞はあと一週間で終わりだと思っていたからこそあんなことを言ったのだ。相沢君に、そして私に。

「栞は、俺に言ったよ。一週間だけ、普通の女の子として見て欲しいって」相沢君の言ってることは、私が以前聞いたものと寸分違わぬものだ。しかし、そこから先の言葉は私の知り得ないものだった。「そして、その一週間が終わったら元の生活に戻るって。病院に戻って、治療を受けて精一杯頑張るって」

「嘘? だって私……」そんなこと、そんなことは……。「聞いてない、そんなこと言わなかった。この一週間で終わりなんだって、栞はそれだけしか言わなかった。ねえ相沢君、それは本当なの? 私を慰めるためについた嘘なんかじゃないの?」

「嘘じゃない。俺がこんなところで香里に嘘なんかつくと思うか? あんな残酷な嘘をつけると思うか? きっと俺に言った後だから、言葉足らずになったんだと思う。お互いに思いは違ってるのに、偶然言葉が繋がってしまった。それが、香里の信じてた真実だよ。栞の伝えたかった真実は違う、あいつは精一杯生きることを望んでた。暗く傾きがちな心を励ましながら、希望を求めてた。誕生日までで終わりだと信じてたんなら、ヴァレンタイン用にチョコレートの作り方が書かれた本なんて買って来ないだろ? いつも笑顔でいることもできない筈だ。これは香里にとって酷な言い方かもしれないけど、栞は多分知ってたんだと思う。香里の言葉が嘘だって」

 相沢君の言葉、それは天地が引っ繰り返るほどの認識の相違だった。今まで自分の言葉が、栞を死に至らしめたのだと思っていた。私が悪意をもった言葉を発し、その結実として死があったのだと思っていた。けど、違った。栞は私の言葉を嘘だと見抜いており、最初から誕生日まで生きられないなどということ、信じてなかったという事実。付け加えられた傍証も、それを後押ししているかのように見える。しかし、それでも私はそれを信じることができなかった。

「分かってたのなら、嘘だと見抜いてたのなら何故、栞は何も言わなかったの? ただ笑顔で、笑顔を称えて私に接してたの?」

「栞がそんなこと言う訳ないじゃないか」相沢君が、初めて激しい口調を発した。「お姉ちゃんの言ったことが嘘であることくらい、お見通しですなんて、そんなことを言うとでも思ったのか? きっと、何も言わなければ誰も傷つかないと思って沈黙を守ってたんだよ」

 そう、きっとそれも相沢君の言う通りだろう。栞は私の妹だなんて思えないほど、強い娘だった。苦しいことも一人で秘めて、笑顔を忘れなかった。それが真実なら……どうなるのだろう? 罪を悔やまなくても良くなるの? いや、そんな筈がなかった。嘘と知れていても、私が悪意をもって言葉を発したのも真実だし、栞のことを一時的であるにしろ無視してきたのも真実だ。新しい解釈が与えられたといって、罪が軽くなるなんて考えてはいけない。

「それでも、香里は自分が悪いって考えてるのか?」そんなことを考えてる私に、相沢君はまるで心を見透かしたような口調だった。「だったら、俺にも責任はあるよ。病人だってこと忘れて、色々と負担をかけるようなことをした。俺は、未来へと夢を抱いてた栞の時間を縮めてしまったんだろうな。そのことは、ずっと悔やんでる。もし栞が生きてたらなんて考える度に、あいつと一緒にやりたかったことが見つかると涙が出る。正直言うと、栞と遊園地に来れたらなって思ったら涙が出た。止まらなかった。もっと沢山、楽しいことがあったのにそれを知らずに死んでいったことが悔しくて、苦しくて……。たった一週間で、これだからな。十数年接してきた香里が、辛いと思わない筈ないって思う。いずれやってくる別れが悲しいと思って当然だろうな。

 香里が自分を苦しめる必要はないんだ。少なくとも、今のやり方は酷すぎるから。見ている俺が、心掻き毟られるような気持ちになってしょうがない。香里には幸せになって欲しい、そして願わくば……その役目を俺が負いたいと願ってる。栞を酷い目に合わせたと思ってるなら俺に半分、いや全部罪を擦り付けても良い。辛いことは全部、俺に押し付けても良いから。嫌なことは全部、俺が引き受けるから香里には幸せでいて欲しい。栞の分まで精一杯、明るく前向きにそして香里自身のために生きて欲しい。

 香里は、俺にどうして欲しいか聞きたいって行ってたよな。だったら幸せに生きて欲しい。自分自身のこと、もう少し愛してやって欲しい。俺を軽蔑しても良いから、それでも笑ってて欲しい。これは難しいことか、贅沢なことなのか? そんなことない、普通の、ごく普通の願いを俺はしてるつもりだ」

 ごく普通の願い……そうだったろうか? 前向きに、自分自身をもう少し愛して生きることは普通のことだっただろうか? 今の私にはそれすらも思い出せない。昔は知っていたかもしれないが、今は不定の霧の中にしかない。けど、そんなことを超越して一つの感情が今までより強く急速に芽生えていくのを自覚していた。今までずっと堪えていた涙を堪えきれなくなり、俯いて膝の上に幾つも幾つも雫を落とした。

「香里? どうした、俺なにか酷いこと言ったか?」

「ううん、違う。酷いことを言ったから泣いてるんじゃないの」いくら酷いことを言われたって、私は泣いたりはしなかった。「嬉しいから、私のような愚かで汚い人間に幸せに生きて良いって言ってくれたから。辛いことを分け合っても構わないって言ってくれたから。優しいから、申し訳ないくらい優しいから。こんな私を愛してくれて嬉しいから……」

 私は、他人に罪を委ねて楽をするつもりはない。今すぐ貪欲に幸せを求めるつもりもない。ただ、下向きに生きてはならないことは分かった。自分を研磨する努力を、否定してはいけないのだ。栞が死病に耐えながら、決して希望と向上とを忘れなかったのと同じように。それができない人間なら、今度こそ私はこの世にいてもしょうがない人間になってしまう。相沢君の言葉は、そのことを教えてくれた。

 そして、もう一つだけ。私は決して、幸せを求めるつもりはないと考えているけど、今たった一つだけ欲しい幸せがあった。それは目の前にいて、欲すればすぐ手に抱くことができる。愛しい人、愛してる人、愛されたい人、愛したい人……。

「相沢君……」私は耐え切れずに、涙声のまま言葉を紡いだ。「相沢君は、私のことを今でも好きでいてくれる?」

「ああ」と、躊躇うことなく相沢君は肯いた。「俺の気持ちは昨日からずっと変わってない。香里のこと、嫌いになるなんて今の俺には想像もできない。今日、一緒に遊園地を回ってとても楽しかった。隣に香里がいるってだけで胸がどきどきした。この関係がいつまでも続いたらなって何度も思った」

「本当?」その言葉を聞いて、胸が強く揺れた。「本当にこんな私を愛してくれる? 醜くて汚い、こんな私を好きだと言ってくれる?」

「香里は、綺麗だよ」相沢君は、真面目な顔でそんなことを言ってきた。「俺が言わなくても、通り縋った男性ならきっと誰でもそう思う。その中には、俺よりもっと香里を幸せにできる奴だっている。自分じゃなくて、まず他人を思いやれるような綺麗な心も持ってるよ。そこまで自分を苦しめることも、香里の言うような弱い人間には絶対にできない。でも、それよりも何よりも香里のこと、放っとけないんだ。ずっと側にいて、支えてやりたい。そういう考えは古いかもしれないけど、そういう思いも含めて俺は香里のことが好きだ。何度聞かれたって、同じことを答える。それよりも俺は香里の心が知りたい。香里は俺のこと、どう思ってる? 一度はああ言われたからそれが不安でしょうがないんだ」

 私が相沢君のことをどう思ってる? そんなこと決まっていた。いや、今は決まっている。それよりも私は、今まで相沢君に一度も想いを打ち明けたことがないことに驚いていた。心の中では何度も何度も、それを形にしてきたような気がするから。けど、心の中のものが現実として伝わることがないことも理解している。口に出さなければ、何事も伝わらない。目で見て、様子から判断できるなんて幻想だ。私は想いを口に出さなければならない。

 普段の私なら、誤魔化して曲解していただろう。「さあね」とはぐらかし、本音を声に出しはしなかった筈だ。でも、今はそんなこと微塵も思ってない。私の綺麗なところも汚いところも、全てを受け止めて包み込んでくれる人。そんな人、今までいなかったし、きっとこれからも現れないだろう。ここで相沢君のことを離したら、きっと一生後悔する。そんな思いが、ちっぽけな勇気を言葉とする力を与えてくれた。

「好きよ、相沢君」

私は自ら相沢君の胸に顔を押し付けた。もっと側に、彼のことを直接感じていたかった。

「本当に大好き……」

 一言だけじゃ足りない。きっと、言葉だけじゃ足りない。相沢君のことが好き、何度言ったところで私の想いの全てを伝えることはできない。言葉も必要だけど、こういう場所では言葉以上のものが必要だということを直感的に理解した。

 胸に預けた顔をあげ、相沢君の顔を改めて見る。僅かに潤み、優しさに満ちた瞳が柔らかく私を包んでいた。彼の顔がすぐ間近にある。視線が何秒か、お互いの想いを求めて交錯した。求めているものは分かっていた。求めたいものは分かっていた。だから躊躇うことなく……昨日は拒んだその行為を私は唇で受け止めた。

 柔らかい感触が、唇を満たす。男性の唇は固くて荒れてるなんて表現があるけど、相沢君の唇は温かく、柔らかく心地良かった。手が、体の一部が触れ合った時とは比べようにならない感情が、急速に胸を満たしていくのが分かる。一秒ごとに、胸を突付く奇妙な痛み。その痛みは決して辛いものじゃなく、寧ろ相手への愛情を募らせていくようだった。

 キスは特別なんだって、よくドラマや小説で言っている。実際に体験するまで、それが本当かどうか分からないかった。けど、今なら分かる。キスをするまでの私なら、多少は辛いにしても簡単に諦めることができただろう。けど、一度唇を交わして強い想いを……その喜びを感じてしまったなら容易には引き返せない。相沢君を失ってしまうなら、狂ってしまうかもしれない。少なくとも、正気ではいられないだろう。もう、頭でも好きで、体でも好きで、それ以外の部分でも好きだと訴えていた。私の唇の温度と、相沢君の唇の温度が平均化されていくのが分かる。それでも、お互いに離そうとしない。離れようとはしない。頭が酸欠で、少しぼうっとしている。只でさえ真っ白に近い頭が、どんどん白くなっていく。それでも、限界にが来るまで私はこの唇を離す気はなかった。呼吸せずとも生きていけるのなら、好きなだけキスして良いのならあと観覧車が何周するまでキスし続けているだろうか? 想像もできなかった。

 もうどのくらい時間が経っただろうか? 一分、二分? もう時間の感覚なんて曖昧になってきた。相変わらず、触れ合う唇の感触だけが特別に強く伝わってきてる。今、ここはどの辺りだろう。でも、それだってどうでも良い。苦しくなったら、本当に苦しくなったら離そう。あと十秒……やっぱりあともう十秒……区切りがつかない。私はこんなに息が続いただろうか? それとも息をすることなんて些細なことだと考えてるのだろうか? ただ頭の中は確実に真っ白になっていく。これが完全に白で染まった時、それがデッドラインなのだろう。それまでは……それまでは唇を離さないでいよう。想いを離さないでいよう。

 柔らかく、暖かく、全てを包み込むような幸福感。きっと、その全てがキスというものなのだ。こんなに素敵で良いものだとは知らなかった。それが相沢君とであることは、それを何倍にも何十倍にも膨らませてる。大好きと何百回言うよりも深い想いを、今この一瞬一瞬で伝えてる。同時に、相沢君の思いを沢山沢山受け取ってる。好きだと何百回言われても持ち得ない愛情を、確かに胸の中に貯めてる。あまりに貯まり過ぎてパンクするくらい。一度のキスでこれなのだから、これから何度も何十回も何百回もキスしたら本当にパンクするかもしれない。ああ、頭が完全に真っ白……悔しい、もう限界だなんて、本当に悔しい。

 真っ白の光景が、徐々に夕焼け色へと戻っていく。唇を離し、何度も何度も思い切り呼吸をする。すぐ近くに、相沢君の呼吸音が聞こえる。息が整ってくるとようやく、ゴンドラがとっくに三周目に突入してることに気付いた。見られただろうか……いや、そんなことは些細なことだ。

 相沢君は呼吸が落ち着くと、強い力で私を抱きしめてきた。あまりに強い力だったので、私は一瞬、痛いと抗議しようと考えたほどだ。でも、すぐに押し留めた。そこで僅かな痛みを理由に抱擁を拒んでしまっては、この時間が壊れてしまう。まだ、壊したくなかった。伝え切れない感情が、どんどん溢れてきて止まらない。こんなところで終わってしまっては耐えられない、嫌だ。

 私は痛みに抗うよう、思い切り相沢君を抱きしめた。すると、驚くほどに痛みが消え失せてしまった。代わりにやってきたのは、強く体と想いを触れ合わせているという想い、先程のキスの時にも強烈に感じた想いだった。

「香里、本当に俺で良いのか?」耳元にかかる息もくすぐったげに、相沢君は囁きかける。「こんな甲斐性なしで、力もない俺で」

「甲斐性なしなら、私だって同じことよ」相沢君の言いたいことが分かって、私は思わず囁き返していた。「私だって栞の好きだった男の人を、そのことを知りながらたった二週間でこんなことしてる。離したくないと思ってる。

ねえ相沢君、もっと強く抱きしめて。貴方のこと強く感じるために、貴方は二度と私から離れていかないと信じるために……」

 抱かれる相沢君の手が、すぐに強くなる。私も負けないように、強く抱きしめ返した。きつくきつく、相手のことをもっと感じられるように。もっと一つになって、互いの思いを伝えるために。私は思いつく限りの渾身の力を込めて相沢君を抱きしめた。このまま押し砕かれても良いとさえ思った。ただ、愛してるってことを狂おしいまでに伝えたい。それだけを思って、抱きしめていた。

 お互いの諒解の元にそれが解かれると、再び私と相沢君は見つめあった。分かってるのだろうか? 相沢君への愛情が引き返せないところまで強く満たされていることに。貴方がいれば、他の幸せなんて求める必要はないということに。それだけ貴方を愛してるということに。私は気付いているのだろうか、相沢君がどれだけ私を愛してくれているのか。

 それを確かめるために、私はもう一度キスしたいと思った。でも、口に出す必要はない。既に一度交わされた思いだから、こうして見つめあっていれば自然と流れる。まるで示し合わせたように、お互いの顔がゆっくりゆっくりと近付き始める。すぐそこに迫っている唇の感触と想いに備えるため、私は徐々に目を細めていく。観覧車は僅かに軋み、風は全てを通り抜けていく。夜の帳が、僅かずつこの世界にも迫りつつあった。

 愛してるわ、相沢君……。

 私は心の中でそう呟くと、唇を再び重ね合わせ、目を閉じた。

 全てはここから始まっていくような、そんな気がした……。

――――暗転、そして一時閉幕――――

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