二月十六日 火曜日
第四場 香里の家
どうして、こういうことになったのだろうか? それを考えるには私の頭は混乱し過ぎていた。台所に立ち、二人分のココアを入れている内に、何とか平静を保たなければと……思いながら、空回りする頭の何て虚しいことだろう。ただ、一つだけはっきりとしている事実があった。今、この家には私と……相沢君しかいない。
第一にして、この間の悪さというのは昨夜から始まっていたのかもしれない。私は今更とも思える申し出を相沢君に差し出そうかと、夜中の三時くらいまで悩んでいた。目が覚めたのは午前六時だから、賞味三時間しか眠っていない。昨日、肌が荒れてると指摘されたが、もしかしたらそれは寝不足のせいもあったのかもしれない。先週の土曜日も日曜日も余り眠っていない。そして今日も然り。これではますます酷くなっているのではないかと、急いで洗面所まで行き、顔を覗き込む。しかし、詳しく確認はしていないが、昨日よりは肌にも張りがあると思う。幸いにして、目に隈もできてない。充血もしていないし、藪睨みで恐いということもなかった。その代わり、まるでドリフの爆弾コントのように自然とウエイブのかかった髪は驚くべきほどのボリュームを醸し出していた。
流石にこれはまずいので、整髪料をいつもより心地大目に手に取り、ゆっくりと撫で付けていった。丹念に櫛で梳かして、それでも満足するボリュームに抑えつけるまで十分もかかってしまった。全く、この癖毛だけは何とかならないかなと思う。他の部分はある程度気に入っていたり、諦めたりしているけど、やはり髪は女性に取って傾倒を捧げざるを得ない。ファッションや流行には疎い私でも、余程のことがない限りは髪の手入れにそれなりの手間をかけている。今日は、それでも最高記録を更新したのだが、執拗なほどに気にかけた原因は相沢君に変だと言われるのが恐かったからだ。
顔を洗う時だって、普段は使わない洗顔材を――と言っても母の借り物だけど――使ったし、歯だって十分すぎるほど磨いた。やっぱり、相沢君には一番素敵な私を見て欲しいから。今まで、誰に何て見られようと気にしてなかった私とは大違いだ。けど、私にとって相沢君はただ一つの幸せを占めている。相沢君が私を好きで、そして私が相沢君を好きならば、少しずつだけど前向きに生きていけるような気がする。それだけが希望ではいけないのだと思うけど、相沢君なしで次の希望を見つけていくこともまた無理だと感じる。そのために、今は少しでも綺麗な自分でいたい。鏡に浮かべた精一杯の笑顔は、昨日より少しだけ私を美人に写しているように見えた。
気取ったポーズもしかし一瞬だけで、私はすぐ我に帰る。折角のそれも、パジャマではいまいち決まらない。誰にも見られなくて良かったと内心で呟きながら、部屋に戻ると素早く制服に着替えた。まだかなり気が早いかもしれないけど、相沢君と一緒に登校するのだから準備が早すぎて困ることはない。リボンの位置をいつもより気にし、制服の皺もいつも以上に丹念に延ばした。隙の多い自分の綻びを少しでも塞いでおきたいと考えるのは、極めて自然な欲求だろう。弱く自信のない人間だから、私はきっとここまで細かいことを気にしてしまうのだ。それは、分かっていた。
しかし、簡単には直せない性分だと割り切ると再び階下に降り今度は朝食を求めてダイニングに入った。そこには八割方食事を済ませている父と、その食事の用意に今まで奔走していたであろう母がいた。久しぶりに見るであろう父の姿は、少し焦燥している。全体的に見ても、五歳くらいは老けて見えるあ。それでも父はそそくさと立ち上がると「じゃあ、今日も遅くなるから。それと香里、おはよう。それと、行って来ます」と言い残し、素早く部屋を出て行く。私は行ってらっしゃいの言葉もかけられず、無力に佇むのみだった。
「お父さん、大分無理してるみたいね……」
何とか明るく発しようとしたその言葉は、しかし翳をどうしても含んでしまう。
「ええ。まあ、今はやらせるようにしておくしかないんでしょうね。無理がたたって倒れるまで……でも、そうなったら家にいる以外に何もできないから、自分を見直す余裕もでてくると思うわ。そうね、逆に紛らわすものがあると心の傷が癒えるのは遅いのかもしれない」
母の感想に私は賛同できなかったが、否定できないものも感じた。私には逃げ場がなかったから、毎日自分をひたすら責め続けてきた。嫌になるくらいに追い詰めて、狂ってしまうほどに悩み続け、ようやく一筋の光明くらいは見出せたような気がする。母はそんな様子も見せないが、きっと短期間で凄く悩んだのだろう。苦しかっただろうに、それでも唯一気丈に行動していた。強い人だなと、香里は改めて母に尊敬の念を抱く。
「それより香里、今日はやけに早いわね。あ、もしかして相沢君と一緒に学校に行くの? 昨日は嫌だって言ったけど、気が変わったならこの家に連れ込んで良いから。で、シーツの替えは一階の……」
「そんなこと、平然とした顔で教えないでよ!」
前言撤回。尊敬の念など、先程の言葉で吹き飛んでいた。それに、もしかしたら過剰に明るく振る舞うことで父とは違う悲しみの発散のさせ方を実行しているのかもしれない。それならできる限り会話を合わせてあげたいが、流石にそっち側の会話だけは頂けない。
「そう……でもね香里、女から迫ることは決して倫理にもとる行為でなければ、蔑まれることじゃないの。第一、男だったら何で恋愛やセックスの数は勲章で、女だったらはしたないとか乱交とか言われるのかしら。そんなの不平等じゃない」
その言葉には、私も頷けるものがあった。結局、男は女を縛り付けたくて女の性行為による積極さを疎んじている。それだけでなく、浮気を勲章と言い換えることで性欲を正当化している。考えてみれば、馬鹿みたいなことだ。そして……相沢君はその範疇に入っているのかなと、少し不安になる。もし、もしも私が相沢君に性行為の誘いをかけたらどのように思うだろう。はしたなく、汚い女だと勝手に断定してしまうだろうか? いや、相沢君ならそんな部分までも優しく包んでくれるだろう。勿論そこまでの積極性はないけど、何れは相沢君とそういう関係になることも覚悟している。そうなったら、また、そうなっても良いとも思っている。ただ、流石に今日、明日の話となると躊躇するものがあった。
私は朝食中、そんなことを考えているとは微塵も感じさせずに食事を平らげた。何を食べたのかは憶えていない。そして、前日に教科書やノートの準備を忘れたことに気付き、一品ずつ吟味しながらそれを鞄に詰めていった。それでもまだ一時間ほど時間があったが、迷わず家を出た。早く、早く相沢君に会いたかった。そうして初めて、今日という日も幸せに見えそうな気がする。それに、昨夜中考えて結論を出したあのことについても、尋ねてみるつもりだった。
夜に雪が降ったのか、新たな処女雪は灰色に汚れた雪掻きの山を僅かな時間だけ純白に染め直してくれていた。寒さは全身に堪えるけど、それ以上の興奮が押し留めてくれる。回りに生徒の姿はなく、時々駅から会社に通うであろうサラリーマンの姿が確認できる程度だった。明らかに早過ぎるのは分かっているが、足は一歩一歩学校に近付いていく。そしてその正門を素通りすると、相沢君の通学路を逆走する形で進んでいった。一層のこと、家まで訊ねていったら楽しいかなとも思ったが、登校時に会おうと言った手前、それに拘る気持ちがどうしても捨てきれなかった。しかしその考えは、杞憂と終わることになる。その途中の道で、相沢君とばったりでくわしたからだ。
いつもと比べて心なしかしゃんとしているその姿に、昨日以上に胸の高まりを感じる。私が少しばかり綺麗になっても、彼の良さに比べたらやっぱり叶いそうになかった。私は衒うことなく相沢君に近付くと、挨拶の代わりに目一杯の抱擁を捧げる。それだけで、厳寒の空気も全ての効力を失ったかのようだった。
「おはよう、相沢君っ」
心が自然と浮かれてしまい、思わず顔がにやけてしまう。彼はそんな様子を察してか否か、昨日と違い迷うことなく素直に抱きしめ返してくれた。拍動が急激に増していく……。
「ん、おはよう、香里」相沢君は耳元に唇が触れるかというところまで近付き、低く甘い囁き声を漏らす。私の体を得も言えぬぞくぞくとした感じが襲い、それに抗うためもっと強く彼の体を抱きしめた。そして、今日も素敵な日になりそうだと確信する。しばらくその感触を楽しんでから、私は両腕に絡めた腕をそのままに少しだけ距離を保つ。それが零となるまで、五秒とかからなかった。
昨日、散々交わした筈のキスなのにもう長いことしてないような気さえする。柔らかく全てをとろかすような感覚が昨日と比べて増大しているのは、また昨日と比べて相沢君のことを好きになっている証拠。今日の私はどうしてこんなにと思えるくらい、彼のことを愛している。
当然、一度だけじゃ満足できなくてどちらからの意志ともなく私たちはキスを交し合った。その度に唇から受ける想いが全身を暖め、また更なる繋がりを求めて長くそして激しいキスへと変わっていった。絡め合わせる舌先も今日は自然と交わり、時には二人の共有空間の狭間で執拗に混ざり合い、時にはお互いの唇を潤すためにひっきりなしと動く。最初に舌先の先端だけを触れ合わせ、這いよる蛇のようにその表面積を増やし、やがてきつく密着する唇を貪るような淫靡なキスすら躊躇うことなく交わした。
「んっ、んむっ……はあっ」呼吸の限界が二人同時に来て、ようやく相沢君は咽るような吐息の中でキスを中断する。それでも外されない視線は、まだ全く物足りないことを暗に示していた。事実、相沢君はゆっくりと顔を近づけながら瞳を輝かせながら言う。
「香里……俺、お前のことがもっと欲しい」
「私もよ……」私はそっと唇を触れ合わせ、それから離すと言葉を続けた。「相沢君と、もっと一つになっていたいの。大好きなの、本当に大好きよ。いつも澄ました顔をしてたから信じて貰えないかもしれないけど、あなたのことを好きで好きで堪らないの。昨日もね、ずっと相沢君のことを考えてたのよ」
これ以上相沢君の顔を見てると全身がパンクしてしまいそうで、私はそっと彼の胸に顔を埋めた。
「う……そんなに言われると、流石に照れる」
私から相沢君の顔は見えないけど、照れる程に気持ちが伝わったのならこれ以上言う必要はない。でも、もし相沢君が私の心を少しでも疑うことがあるのなら、何度でも同じことを言葉にするだろう。そう、何度でもだ。
「ねえ、相沢君」
胸にごしごしと顔を擦りつけ、その感触の心地よさを存分に味わった後、私は顔を離した。視界にこれから電車に乗り、会社に向かうであろう会社員の人が歩いてきたけどそんなことにかまけている時間が勿体無く敢えて黙殺した。そして、昨日からずっと考えていたその提案を口にする。
「私と、相沢君って、その……恋人同士よね、誰から見ても」
「そうじゃなきゃ、あんなことはしないと思うぞ」相沢君は何故か、私の髪を触ってくる。「まだ昨日のこと気にしてるのか? こうして睦まじく抱きしめあってる状態のどこが他人に見えるんだ? 単なる友人に思えるんだ? どう考えたって恋人同士だろ?」
「あ、ううん……そのことじゃないの。あのね、昨日精一杯考えたの、私。その、恋人同士なのに私だけ呼び方が他人行儀じゃないかって。あ、ううん……別に嫌なら良いのよ」そう断り、わざとらしく口ごもってから言った。「でも、相沢君が良いって言ってくれるんなら、今日からその……祐一って呼んで良いかしら」
う……覚悟はしてたけど、恥ずかしい。天と地が引っ繰り返りそうな、酩酊感すら感じる。それは自分の言葉に酔ったからだろうか? それともあまりに恥ずかしいことを口にしたからだろうか? こんなことなら、最初に会った時に言われた通り、名前で呼ぶようにしておくのだったと一ヶ月半前の自分に恨みすらおぼえた。
相沢君はふるふると震えていたので、怒ってしまったのかと不安になってしまったが、次には激しく抱きしめセットが乱れるくらいに髪の毛を撫で始めた。
「ああもう、どうして俺がのぼせ上がりそうになるようなことばかり言ってくるんだ? 香里は」
折角撫で付けて来た髪が無茶苦茶になりそうで抗議しようとしたが、元々相沢君にために頑張って整えた髪形だ。彼になら、どんなに弄られたって構わないと思い、私は黙ってその乱暴な仕草を受け止める。
「可愛い、本当に可愛い、凄く可愛い、無茶苦茶可愛い。もう、押し倒してしまいたいくらいに可愛い。香里……」
最後に私の名前を耳元で囁き、その耳朶に淡い口づけをする。その瞬間、恥ずかしさのメータが限界を振り切った。押し倒してしまいたいという言葉と共に、昨日のやり取りも思い出されて私は咄嗟に体を離す。その不自然な行為に対し、何か弁解をしなくてはならないと思ったのだが、既に故障してしまった私の頭は素直に言うことを聞かなかった。
「あ、うん……そろそろ学校に行きましょ。生徒だって一杯集まって来るし、早起きしたのに遅刻したんじゃ忍びないし、その……うん……ごめんなさい、相沢君」
私は後ろを振り向かず、すたすたと歩き出す。まるで今までの冷徹で鋭い人間に戻ったかのように。私のしたいのはこんなことじゃないのに、どうしてもその一線を越える勇気がなかった。けど、それより悲しかったことは相沢君が追ってきてくれなかったということだ。ショックを与えておいて追いかけてきて欲しいとは我侭な言い分だけど……。
結局、相沢君は私が教室に入って丁度三分経ってから教室に入ってきた。二人きりならこの状況でも何とかなったのかもしれないが、既に朝練を終えた生徒たちが集っていたので何も言えなかった。沈黙が一分続くごとに、気まずさが徐々に取り返しのつかない事態へと醸成されているような気がした。それでも私は、どのように謝ったら良いか分からなかったのだ。
やがて、三分前になり北川君が急いで教室に入ってくる。それから三十秒と経たない内に名雪も。けど、おはようと声をかけられてもそれを明るめの挨拶で返した時も、私の心の中は相沢君にどう謝るかで占められていた。午前中の授業は全く身に入らず、休憩中は何らかの理由をつけて席を外して問題を先送りした。それが授業中になると、今度は相沢君がどこかへ行ってしまうので、私はますます落ち着かず、腹立たしさだけが募っていく。そんな私に声をかけてきたのは北川君だった。
「よう美坂、元気がないじゃないか」非常に余計なお世話なのだが、敢えて口に出す気にはなれなかった。「もしかして、また相沢とでも喧嘩したんじゃないだろうな」
妙なところで鋭い。私は否定しようと思ったが、面倒臭くなり適当に首肯してしまった。
「そうか……まあ、あいつも馬鹿だからな」
けど、北川君に馬鹿と言われて、私は強い怒りが湧き上がってくるのを抑え切れなかった。嘲るように馬鹿と言ったその態度が許せなく思えてきた。
「別に香里が謝ることじゃないとは思うけどな。どうせ悪いのはあいつなんだろうしさ」
「相沢君はそんな人じゃないわ!」そのお喋りな口調が許せなくて、私は思わず大声を張り上げる。「悪いのは私なんだから、それにこれは相沢君と私の問題だから部外者は口出ししないで!」
私が珍しく大声を出したせいか、教室にいた人間は皆、こちらを見ている。その様子を見て言い過ぎたと思ったが、北川君は「ふぅ……」と溜息をついただけだった。
「そっか……それじゃまあ、しょうがないけど。でも、どうしても解決できそうにないって時は、構わず俺に言ってくれよな」
さばさばとした調子で、北川君は教室を出て行く。ああ、もうどうしてこんなに苛々するのだろう。私が素直になれば、すぐに解決できる問題なのに……。今まで強気で何も寄せつけず、人ばかりを傷つけてきた。これからは素直になろうって思った途端にこれだ。つくづく自分が嫌になるが、そう思うや否や相沢君を求めて教室を飛び出せたことは、進歩なのかもしれない。
相沢君は最初の予想ポイント、屋上にいた。彼は壁に寄りかかり、一人寂しくパンを頬張っていたが、私の姿に気付いてその手を止めた。そして心底どきりとするような笑顔を向ける。
「良かった、来てくれて……」相沢君は立ち上がると、私のすぐ目の前までやって来た。「もしかして俺なんて、追いかけてくれる価値もない人間なのかなって思い始めてたから。あ、ごめん……別に試すつもりとかそういう訳じゃないんだ。最初から、帰りにでも謝ろうとは思ってたんだ。けど、香里が俺のことを追いかけてくれたら嬉しいなって思って……馬鹿かな、俺?」
消え入りそうなその声に、私はいたたまれなくなってすぐに「ううん」と首を振ると強く彼の身を抱きしめた。
「私こそごめんなさい、あんな些細なことで怒ったりして。馬鹿よね、私って……」
「いや、誰だってあんなことを言われたら嫌がるって普通」相沢君は私の背をぽんぽんと叩いた。「女の子に向かって言う台詞じゃないよな、悪かった」
調子良さそうに両手を合わせるなんてことだったら私としても気楽に接することができたのだが、真摯に謝られては返す言葉もない。いや、言葉の代わりに私はそっと相沢君と唇を重ねた。
「別に怒ってたわけじゃないの。ちょっと驚いただけ。その、相沢君があんなことを言うから……だって、まだ心の準備ができてないし、それに、あの……」
したくないってわけじゃないし……そう言おうとした唇は、相沢君の唇によってそっと塞がれる。
「良いよ、別に言わなくても。あ、それからさ……」相沢君は唇を離すと、悪戯っぽく笑ってみせた。「相沢君じゃなくて、祐一だろ。香里、俺のこと名前で呼びたかったんじゃないのか?」
「あ……そうだったわ、ね」そんなこと、私はすっかり忘れていた。けど……すれ違いの解けた今ならそれは重大な問題になり得る。私はわざと悪戯っぽく微笑んで見せた。「大好きよ、祐一」
ただ、名前の呼び方を変えただけでこんなにもどきどきする。でも、それは彼も同じだったみたいで。苦しいほどに抱きしめて、何度も何度も可愛いと言ってくれた。私は本当にただそれだけが嬉しくて、つまらないわだかまりが解けて本当に良かったと思えた。そしてこの時から、心の中でも相沢君じゃなく祐一と呼ぶようになった。また一つ、私と祐一は強く結びつけられたのだろう。
午後の授業はうって変わって、気が付けば祐一のことばかりを目で追っていて授業には全く集中できなかった。最初は努力して黒板に意識を集中させようとしたが、途中で諦めた。明日からは真面目にやろうと自分に言い訳すると、それからは思う存分、祐一の横顔を眺め続けた。それにしても……やっぱり格好良い。
そして帰りのホームルームが終わると、私はダッシュで正門まで駆けた。勿論、昨日と同じように祐一を待ち伏せするためだ。正門近くの木陰に、私は昨日と同じように隠れて相沢君がやってくるのを待っていた。けど、昨日は三分ほどで来たのに今日は五分経っても来ない。不安に思いかけてた私の背中が、不意にぎゅっと抱きしめられた。
「香里、お待たせ」
優しく耳元で呟くと、祐一は再び私の耳朶に軽くキスをする。その感覚がくすぐったくて、顔が徐々に赤くなっていくのを隠すことはできなかった。
「うん……」私はしおらしく頷くと、抱きしめられた腕の隙間を縫って向きを変え、正面から改めて抱きしめあった。
しばらくそうした後、私は祐一の腕を絡めとり、折り重なるようにして歩き始めた。正門を出る時、きっと沢山の人に見られただろうけど、気にしない。私は一秒でも多く、祐一との繋がりを感じていたい、ただそれだけ。
「なあ、今日は何処かに寄るか?」
祐一が尋ねてくるので、私は首を振った。
「ううん、今日はまっすぐ家に帰るわ」と、ここで昨日考えていた誘い文句を口にする。「ところで昨日、CDを貸すって言って忘れてたでしょ。今日、改めて渡したいから家に来てくれない?」
「家に?」祐一は何故か、大袈裟なほどに驚いている。「あ、うん……まあ、俺も聴きたかったし、良いけど」
どうやら作戦は成功したみたいだった。私は絡めた腕を更にぴたりと寄せ、頭を半分祐一に預けた。こうしていれば、とても安心できる。私は言葉少なめに帰り道を共有しながら歩いた。濃密な幸福の時間は、しかし泡沫の夢のように僅かで儚く、あっという間に家の前まで辿り着いてしまう。
「えっと……じゃあ、これからCDを持ってくるから」
今度は忘れないよう、キスをしたい衝動を無理矢理抑えつけて家に入る。階段を全速力で上がり、CDを自分の部屋から見繕って素早く降りる……と、何故か家の中に、祐一が入り込んでいた。
「えっ? 祐一……どうしたの?」
混乱する頭で何とか事態を把握しようとするが、祐一はあっけらかんとその理由を答えてみせた。
「あ、だってその……香里が家に来てくれって言うからだろ?」
その言葉を聞いて、私と祐一の理解に大きな隔たりがあることを悟った。私は家の前という意味で言ったのだが、どうも祐一は家に入って良いと勘違いしたらしい。
「う、うん……そうよね」
けど、今更帰れというのも何となく変な感じがして断りきれなかった。そして、病院の待合口で暇潰しに読んだ雑誌の一文を久々に思い出した。
「そういや、今日は香里のお母さんはどうした?」今日は仕事に出ていて、九時過ぎまで帰ってこない。「俺、ちょっと挨拶しときたいんだけど」
「お母さんはその……今日は仕事に出てて遅くまで帰らないの」
雑誌にはこう書かれていた。女性が誰も居ない家に男性を入れたなら、それをOKの合図だと男性はみている……と。今の状況は、正にそれにあてはまっているのではないだろうか……そう思うと内心、気が気でなかった。まだ心の準備なんて全然できてない。大体、私と祐一が付き合い始めてまだ三日目だ。いくら何でも、そういうことに及ぶのは早過ぎるような気がする。
「じゃあ私、飲み物を入れるわ。祐一は珈琲と紅茶、どっちが良いの? あ、一応ココアもあったりするけど」
そして祐一はココアを頼み、そして私は台所に立っている。
どうしよう。
祐一はココアを飲み終えたらすぐにでも、ことに及ぶ気かもしれない。全てが片付くのにあと十分もいらない……十分、なんて短い時間なんだろう。
お湯が沸くのに三分。その素早さは物理法則を超越しているみたい。ココアパウダを二人分のコップに入れ、先程沸かしたお湯を注ぐ。普段なら安静を誘うその匂いも、今の私には微塵も作用していない。胸だけがばくばくと波打っていた。
そして予想に反して、祐一は二分でココアを平らげてしまった。これは大きな誤算。そして熱いものを一気に飲めなくて少しずつ飲んでいる私を、彼は凄く優しげな目つきで眺めていた。緊張と緊張の狭間で、一番減るのが早かったのはココアだった……。
そして二人分の飲み物が空になると、ダイニングは緊張に包まれる。どうしようもない、緊張に。
「あ、そう言えば今、面白いテレビをやってるの。一緒に見ましょう、ねっ……」
祐一が口を開く前に、私はテレビのリモコンを操作した。けど、何度電源ボタンを押してもうんともすんとも言わない。電池が切れてるのかと思い、直接電源を触りに言ったけどそちらもうんともすんとも言わない。壊れている……何て間の悪いテレビだろう。
「あははっ、壊れてるみたいね」らしくない空笑いを浮かべて、私はリモコンを置く。「祐一は、他に面白い話とかない?」
「いや……特にないな」なしのつぶての一言。
「じゃあ、何かしたいことってない?」
すると祐一は、しばらく迷っていたが、席から立ち上がるとテーブルの側で突っ立っていた私を強く抱きしめた。唐突な反応に、私は慌ててしまう。
「ゆ、祐一?」
より強く密着してくる祐一の感触に眩暈がするような感覚が襲う。しかし、次の言葉で再び硬直と、そしてこれまで以上の覚悟を迫られることになった。
「香里を……抱きたい」
戸惑うように、でもはっきりとした口調で祐一は言った。そして、優しく耳元で囁く。
「香里がそんなことをするために、俺を家に招待したんじゃないってことは分かってる。でも俺は……香里が欲しい。一つになりたい、もっと繋がってたい。本当に好きなんだ、香里が。だから全てを知りたい、全てを見たい、全てが……欲しい」
その言葉は、反則。だって、そんなに言われたら……愛してるって、私が思っていることと同じことを言われたら、断れないじゃない。心の準備なんてどうでも良いって思えるじゃない。流れに任せようって考えちゃうじゃない。でも……良いのだろうか、こんな、流されるように行為に及んでも。
私は、こうされたいといつかは望むつもりだった。しかし、それが今日になるなんて予定になかった。予定になんて……。
思索の中でふと、気付く。私は、予定通りの恋愛をしたいのだろうか。順風で統制だった恋が、本当の恋と言えるのだろうか? いや、違う筈だ。心の赴くままに、祐一のことを愛してるというその思いのままに恋するべきじゃないだろうか。
全身を包む胸苦しさ。私は、祐一がこうも求めてくれることに対する強い戸惑いを感じている。けど、そのことに対して同時に、深い喜びも内在していた。そして、こんなにも強い、想い……この想いに時間なんて関係ない。だから私は、今求めるべきものを求めなければいけないと悟った。そして逡巡と決意のうちに私は口を開く。
「……良いわよ」
私は心臓が飛び出しそうなほどの鼓動を必死に飲み込みながら肯く。私は流れに任せた。狂おしいほどの愛情を、そして祐一の全てを信じた。
「私のこと、抱いて良いわよ。祐一を信じてるから……祐一のことを本当に愛してるから……」
私と祐一は無言のうちに視線を交し合うと、無言で私の部屋に向かった。不安と緊張と不確定が頭の中で渦を巻く。でも、これから行うことだけは頭の中で理解していた。これから、私と祐一は一つになる……。