二月十七日 水曜日
第九場 学校〜病院
上の空という言葉を、正直これほど感じたことはなかった。五時間目の途中から入ってきた私は、病院に向かったであろう祐一と名雪、そして倒れた秋子さんの病状ばかりを考えている。授業は耳障りな雑踏の喧騒に等しく、全てを連なる空もまた、私の不安を決して払拭してはくれない。忙しなくシャープペンシルをノートに打ちつけながら、私は溜息をつく。謂れのない疎外感、そこから来る焦燥が限界に達するには十分も要さなかった。何時の間にか黒点だらけとなったノートを閉じると、私はただ五時間目の終わりを待った。
チョークを削る音、ノートに内容を書き連ねる音、時折窓を風が叩きつける音、全てが鬱陶しくてたまらない。発狂しそうなほどの苛立ちと、喉を乾かす飢餓感とに必死に耐え、チャイムが鳴ると同時に荷物を持って席を立っていた。教師に叱られようが、構うことはない。そんなもの、些細なことだ。私の大切な人が苦しんでいるのに、どうしてそれを見過ごせようか。もう、二度とそんな真似はごめんだった。栞の時の後悔を、私は繰り返したくない。あれを、最後の後悔にしたいのだ……。
教室を出て、一階の公衆電話にまず向かうことにした。私は携帯電話を持っていないし、職員室の電話は使えないから、そこの電話を使うしかないのだ。しかし、急いでいる私の後からそれを留める不愉快な声が響いた。
「美坂、どこに行くんだ」と声をかけてくるのは北川君。「相沢の奴が戻って来なかったけど……何かあったのか?」
「何? 心配する気? 貴方が傷付けておいて……」身勝手だ。余りにも身勝手すぎる。「もう、私と貴方は何の関係もないの。話しかけないでって言ったでしょ。私は貴方のこと、大嫌いなの。こうして……話をしてるだけで苦痛なの、分かる? それにね、今はとても急いでるの。これ以上、下らない話を聞かせないで」
「……分かった」か細い声をあげて、彼はさっさと引き下がった。去り際、こんな言葉を残して。「あの時のことは言い過ぎたって、相沢に伝えておいてくれ」
私は首肯も否定もせず、公衆電話に向かった。十円硬貨を数枚投入して、近場のタクシー会社に電話をかける。五分くらいかかると言って、向こうは電話を切った。私は空回りする心を必死で制御しながら正門の前に立った。教師に見つからないようにと木陰に身を隠し、該当する車がやってきたところで素早く手をあげて先導した。最初は学生がこんな時間にと訝しい顔をしていたが、病院の名前を告げると表情を変えた。
「ご家族か何かが不幸に?」あまり話したい気分ではなかったのだが、運転手はこちらに話し掛けてくる。「宜しければ、もう少し飛ばしますがどうしましょう」
「あ、はい……お願いします」
一秒でも早くと考えていた私は、是も非もなく頭を下げた。運転手はある程度手馴れているのか、ペダルを踏み込みスピードを上げる。明らかに交通規則違反だが、私は黙殺した。そこまで融通の利かない人間に育った覚えはない。私の心は猪のようにはやり、信号や通過する歩行者にすら言い難い苦痛を感じていた。轢き殺しても良いと思った自分が怖かった。が、そんな苛立ちの時間も終わりを告げる。
病院の正面玄関前に到着すると、私は財布からなけなしの小遣いをタクシーの運転手に手渡して病院に入った。そこで昼前に搬送された、水瀬秋子の知り合いのものですがと尋ねると、受付の看護婦がとある場所まで案内してくれた。栞がよくこの病院に入院していたので、私はもうこの建物をほぼ隅から隅まで知り尽くしていた。この先にあるのは、外科病棟の手術室……そのことが分かり、私は一層不安になる。手術をしなければならないほどの重病とは、一体どのようなものであるのか……と。
「香里……なんでここに?」
赤いランプの灯る手術室の前で祈るように両手を組んでいた祐一は、私の姿を見るなり驚きの表情を見せた。
「心配で耐えられなくて……教師に叱られるのを覚悟でやって来たの。ところで名雪は? ここにいないけど」
「ああ、名雪は今、トイレに行ってる」祐一は意気消沈とした様子を崩さず、しかし私の目の前ということで精一杯の笑顔を浮かべている。「でも、サンキュな。正直、一人じゃどうして良いか分からなかったんだ。名雪は……さっきからずっと泣き続けていて、俺にはどう慰めて良いのか分からない」
名雪が……しかし、私には何となく分かるような気がした。あの娘は正に、母親にべったりだった。ある意味、理想の母親像を絵に描いたような人物だから、それも当然だったのかもしれない。付け加えて、名雪は父を幼い時期に失っている。それだけ、母親との……秋子さんとの絆は深い筈だ。その秋子さんが今、大変なことになっているとすれば、深い悲しみに打ちひしがれるのは必然だ。名雪は私と違って優しいから……大事なもののために素直に悲しみを表現できる。泣くことができる。
「……情けないよな、俺って」祐一は両手で顔を覆った。まるで、今の表情を悟られたくないかのように。「名雪には辛い時に慰めて貰った癖にさ、いざこちらが励ます側になるとどう声をかけて良いか分からないんだ。いや、声はかけた。けど、その言葉はどれも心には届かない……届かないんだ」
顔を覆うその手はわなわなと震えている。それは言いようのない悔しさを、必死で耐えているかのようだった。
「それで……秋子さんはどうしてここに運ばれてきたの?」それは、絶望に震える祐一に問うてはならないことだったかもしれない。が、私は聞かずにおれなかった。「家で倒れたから、事故ってことはないと思うけど……何かの病気なの?」
祐一はしばらく黙っていたが、やがて全身を奮わせ始めた。最初は怒りかと思ったが、やがて祐一が堪えているものが分かった。それは笑いだった。自らに向けられた、虚無感溢れる哄笑……。
「はっ、ははははははっ……」それは、余りに悲しい笑いだった。「硬膜外出血、医者はそう言ってた。脳溢血の症状の一つなんだとよ。脳溢血……まだ四十にもいかない、普通の主婦の陥る症状じゃ決してないって、医者が話してた。あれは余程無理してる体だって……俺と名雪を責めるようにも言ってきた」
脳溢血……その言葉の重みに私は眩暈のする思いだった。そんなに重大な症状だとまでは、まさか考えていなかったのだ。脳溢血……日本三大成人病の一つで、癌の次に死亡者の多い病気。また、もし死を免れたとしても重大な後遺症に苦しむ人も多いと聞く。半身不随、言語障害、記憶障害、情緒障害……最悪の場合は植物状態。人間が植物になる……はじめて聞いた時、その意味合いに酷く恐怖した症状。もしかしたら、秋子さんもそうなってしまうかもしれない……そう考えただけで、気持ちが汚泥の底まで沈みそうだった。間断な思考の合間に、祐一は自嘲的な話を続けていく。
「少し、変だなとは思ってたんだ。最初は、何だか秋子さんの体が頼りなく小さく見えた……そんな直感的な感情だった。それから、いつもなら弱みの一つも見せない彼女が、泥のように眠りこけたり少ししんどそうにしてるのを何度か見かけた。一度だけ、部屋に連れて行く時に抱いた体は酷く華奢で……怖いくらい軽かった。その時、秋子さんが凄く無理をしていることに気付くべきだったんだ。でも、そんなことを感じさせないくらい気丈で、こちらが圧倒されそうなほどの笑顔を見せるから……分からなかった。秋子さんがどれだけ苦しんでいたのか、分からなかったんだ」
祐一の言葉を聞きながら、私はああ何かに似ているなと思った。こんな状況を、私は身近に感じたことがあると。そして、それはすぐさま私の頭に導き出される。それは、私だ。栞の苦しみに気付いてやれず、苦悩煩悶した私自身……。
「今日の朝も、頭が痛いってしきりに言ってたんだ。あんなに直接的な症状を見せたのに……それでも俺には分からなかった。悔しい……凄く悔しいんだ。これじゃ……これじゃ、栞の時の繰り返しじゃないか。どうして、どうして俺はこうも馬鹿なんだっ! どうして、人が傷ついているのに何もできないんだっ! 何もっ、何もできないっ! くそっ、くそっ……くそうっ!」
祐一は何度も、病院の古ぼけた白い壁を拳で殴り付けた。こちらが痛みを感じるほどに、何度も、何度も、何度も……。
「昨日だって、何も言わずに遅く帰宅した俺のことを、秋子さんは明るく出迎えてくれたんだ。文句の一つも言わず、優しく……本当は死ぬほど辛かったに違いないのに。俺は秋子さんが苦しんでる他所でセックス……セックスなんかしてたんだぞっ!」
それは……その言葉は、私の胸に刃を突き立てたも同然だった。祐一は私のことを責めているわけではない。でも、それなら私も同罪だ。誘ってきたのは祐一だけど、引き止めたのは私だった。はしたない喘ぎ声をあげ、腰を振って……離れたくない離れたくないと連呼して……同罪だ、私もそれなら、同罪だ。と同時に如何ともし難い、嘔吐感にも似た怒りが沸いて来る。またか、また私が『栞』を生んでしまったのか? 自らの身勝手さ、意地汚さ、醜さがまた、苦しむ者を生んでしまったというのか? その衝撃で声が掠れて満足に出ない。
「そ、んな……」
私は唇を噛み、意識の喪失を辛うじて食い止める。
「わ、私が……私が、私が……」
その両の手はいつか、祐一と同じように震えていた。そして、ようやくその意味が分かった。祐一は自らに、これほどにないという勢いで怒りを向けているということに……。
リノリウムの床を打つ音に、だから私はすぐには気付かなかった。逆にその音が止まったことで、私は目の前に人がいることに気づいたくらいだ。そこには名雪が立っていた。目を兎のように腫らし、涙の跡を滲ませ、髪を振り乱し、暗澹たる空気を淀ませて。その瞳には悲しみというより、絶望とそして……狂気が潜んでいるように見えた。それを払拭したいが故に、私は漏れる空気をようやく声へと変換することができた。
「名雪……その、大丈夫なの」
「わたしは大丈夫だよ」名雪は僅かにしゃくりあげ、痛ましさは感じさせるものの、相対的に見れば極めて冷静だった。「大丈夫じゃないのは、お母さんの方だよ。脳溢血だって、お医者さんが話してくれたんだ。凄く危険な病気なんだよね、ニュースとか授業で聞いてるからわたしだって知ってる。ふふ、馬鹿だよね。お母さん、とても苦しんでたのにわたし、何も気付かなかった。こんなので家族って名乗ってるんだから、笑えるよね」
ぞくりとした。名雪の言い回しに……その根底に見える淀んだ感情に。そして、微かに覗く私への憎悪に。だが、何よりも螺旋の一本外れてしまったかのような壊れた様子が私には一番怖かった。
「昨日の夕方にね、お母さんがいびきをかいて眠ってたと話したんだ。それは脳溢血の典型的な自覚症状だって。だよね、よく考えたらお母さん、どんなに疲れたっていびきをかいて眠ったりしないから。その時にはもう、凄く苦しんでたんだよ。香里、お母さんはとてもとても苦しんでたんだよ、ねえ、分かる?」
分かる。そんなものは、痛いほど。
「それなのに、お母さんは祐一のことを待ってたんだよ。苦しいのに、じっと我慢して……。ねえ香里、お母さん、可哀想だよね。そうやって必死に待ってた人は、他人の家で必死にセックスしてたんだから。ねえ香里、祐一とは気持ち良かった? そうだよね、祐一ってとても優しいからきっとそうだと思う。でもね、お母さんはその間、ずっと苦しいのに耐えてたんだよ。無理して、耐えて……限界が来て、倒れちゃった。ふふっ、馬鹿みたい。馬鹿みたい……お母さん、可哀想。可哀想だよぅ……」
聞かれていた! 名雪の言葉からその一言が出てきて、私は咄嗟にそう思った。しかし、それすらも後の名雪の言葉に掻き消されていく。そして……その口調は天使から悪魔のそれに一変した。
「二人のせいだよっ! 祐一と香里が、お母さんをあんな風にしたんだ。酷いよ、酷いよっ! お母さんはわたしにとって只一人、わたしのことを本気で愛してくれる人なのに……。お母さんがいなくなったら、わたしはもう、一人になっちゃうのに……」
名雪は私と祐一のことを容赦なく責め立てる。断罪の魔剣で、心をズタズタに切り裂こうと口火を開いている。そして、私はそれに抗うことができない。只の一言も返すことができない。当然だ、名雪の言ったことは例え不可抗力であれ、事実なのだから。私が秋子さんを苦しめたという事実に変わりはないのだから。
でも、私にとって同じくらいに辛いのは名雪の最後の言葉。一人になってしまうという、そんな悲しい言葉だった。それはつまり、名雪は私や祐一の愛を信じてくれないということ。私が名雪のことを好きだと、名雪の方は微塵も感じてくれていないということ。そのことが重く、切なく胸を押し潰していく。
「そんな……」ようやく、祐一が崩れ落ちそうな言葉を発する。「なんで一人なんだ。俺は……」
「祐一には香里がいるじゃない」
しかし、それすらも名雪は冷たく封じてしまう。
「それに、どうせ祐一は他人だから……お母さんが苦しんでる中でセックスなんてできるんでしょ。そうやってお母さんを苦しめて、平気でいられるんでしょ」
「平気だなんて、俺は全然……」
「もう嫌っ! 祐一も香里も何処かに行ってよ。顔も見たくない、声を聞くのも嫌。もう、何もかもが嫌。お母さんを苦しめた人たちと一緒にいるだけでも吐き気がする。汚らしくセックスなんてしてたかと思うと、殺したくなってくる。だから何処かに行って! わたしを苦しめないで、お母さんを苦しめないで。もうこれ以上、誰も苦しめないでよ。もう嫌だよ、苦しいのは嫌だよ……」
名雪の圧倒的な迫力に押され、情けなくも私はその場から離れざるを得なかった。何をしようにも、私の存在そのものが苦痛だと言われればそうしないわけにはいかない。そんな弱い自分が大嫌いなのに……今までずっと嫌ってきた自分なのに、同じ行動しかとれないことがもどかしい。最後の後悔にしようなんて言葉が、本当におこがましく思えてきた。泣きたかったが、それすらも名雪を冒涜するようでぐっと堪えた。
隣を見ると、祐一も同じような顔をしていた。泣きたくて、でも泣けなくて……それ故に悲愴すぎる表情。鏡を見れば、きっと私の顔がそうなっていると分かるのだろう。私も祐一も、溜息すら漏らせぬままに名雪から無様にも離れてただ立ち尽くしていた。疲れるということも忘れて、何時間もずっと立ち尽くしていた。まるでよくできた人形のように、身動きもせずにじっと……罪に怯える信徒のように。
その中で何度、祐一に縋りたいと思っただろう。けど、それをやったら私は二度と自分を誇れなくなってしまう。名雪が孤独を耐えているのに、私が同じ――名雪に比べれば浅い孤独であっても――痛みを耐えなくてどうするというのだろうか。私は自分を、これ以上に浅ましい人間にはしたくなかった。
静寂の時は、こちらの方に一人の医師が近付いてきたことで破られた。既に白衣ではあるが、強い消毒液や微かに鼻腔を揺らす血の匂いからこの人物が今まで手術、恐らく秋子さんの担当医なのだとすぐに気付いた。その顔は無表情で読み難いが、疲れのせいかやや焦燥しているように見える。
「相沢さん、そこにいたんですか。そちらの女性は……」
と、そこで医師の目が私を射抜く。私はこの人を知っていた。何故なら栞の担当医がこの人であったから。栞の死を認定したのが彼であったから。祐一もその場に居合わせていたから、彼とは既にいくつか言葉を交わしているのだろう。
「美坂さん、お久しぶりです」医師の男性は、すっと頭を下げた。「先日のことは私も、心からお悔やみ申し上げます。葬儀の方には忙しくて伺えもせずに……どうもすいませんでした」
「いえ、良いです。医師は一人でも多くの人間の命を救うのが仕事ですから……」私は心にもないことを言った。
「そう言って貰えると助かります。ところで美坂さんはどうしてここに? 相沢さんの付き添いですか?」
「はい。水瀬秋子さんには私も色々とご好意を受けてますから」その言葉に、私は一片の感情も加えなかった。少しでも感情を入れてしまうと、もう歯止めが利かないと思ったからだ。「それで秋子さんの容態はどうなんですか? 手術はもう、終わったんでしょうか」
「はい」と医師は首肯した。「手術自体は先程終了しました。我々としては、最善を尽くしたつもりです。溜まった血液は全て排出しましたし、血管も縫合しました。自発呼吸も今では回復しています。ただ……その範囲が広かったため、脳の機能がどれくらい回復するかはこちらとしてもはっきりは答えかねる状況なのです」
「回復状況って、どういうことですか?」今度は祐一が、激しい口調で医師を問い詰める。「血は全部抜いたし、出血も止めたんでしょう? だったら、ちゃんと回復するんじゃないんですか?」
「はい、私もそれを望んでいます。ただ……」歯切れ悪く言葉を切手から、医師は再び言葉を紡いだ。「血液によって圧迫された時間が長ければ、その部分は当然壊死します。死んだ脳細胞は二度と復活しません。だから、その範囲によって回復具合が変わってくるんです。良ければ何も後遺症は残りませんが、水瀬秋子さんの場合、運ばれてきた段階でかなり症状が重かったため、残念ながらその可能性はかなり低いと思います。半身に麻痺が残るか、言語や情緒にやや問題が残る、まだその程度ならリハビリで何とかなるかもしれません。ただ最悪の場合……」
医師はそこで大きく息を吸う。衝撃的な一語を発する衝撃に耐えるかのように……そしてそれは、私の最後の拠り所さえも粉々に崩壊させてしまうほど、衝撃的な一言だった。
「植物状態に陥る可能性もあるということです」