二月十七日 水曜日

第八場 学校

 どうして、こんなことになったのだろうか……。

 今日は、起きだちだというのに体が酷く重かった。腰を中心に全体の筋肉が張り、頭も素直に回らない。全ての感覚がへどろのように重く、圧し掛かるような重力がしきりに責め立てる。どこか夢見心地、現実の喪失した世界が眼前に存在していた。何が起こったか思い返すため、必死で昨日の夜のことを頭に浮かべる。

と同時に、咽かえるような気恥ずかしさをおぼえた。香里との艶かしい情景は朝の生理現象と相俟って、昨日あんなにも酷使したものを暴れさせる。浅ましいと思いながら、それでも思い起こされるのは香里のことばかりだった。笑顔の香里、少し拗ねた顔をした香里、凛とした表情を崩さない香里、潤んだ瞳でもって俺のことを積極的に求めてくれる香里。そのどれもが、愛おしくて仕方なかった。今、ここにいればすぐにでも強くきつく抱きしめてしまいたい。

 痺れるような身体も、ただそれだけで活気を取り戻していく。何度かストレッチし、それから制服に着替えるとゆっくり外に出た。そこでようやく、今が厳冬の真っ只中であることを思い出す。俺はヒータを求めて、素早く階下に向かう。というか、いつもはもっと暖かい気がするのだが……。一階に下り、台所に至ってもまだ冷え冷えとした空気は変わらない。どうやら、まだ誰も起きていないようだった。

時刻は丁度七時、いつもなら台所に活発な動きがあって良い筈だ。名雪はともかく、秋子さんが寝過ごすのは珍しいなと思いながら、俺は台所に置いてあるパンを一斤掴んでトースタの中に放り込んだ。珈琲用の湯を沸かし、暖で場を満たす。それからダイニングのヒータを付け、湯が沸くのを待った。質素だが、今日はちょっと食欲がなかったし元々凝った朝食なんて作れないからこんなもので良かった。本格的な珈琲は実家の方でも淹れていて慣れてるので、湯が沸くとすぐに鼻腔をくすぐる珈琲を作った。

 珈琲を少し啜っていると、その騒ぎを聞きつけたのか秋子さんが気だるそうな様子でやって来た。頭を仕切りに抑えており、かなり辛そうだ。風邪でも引いたのだろうか。

「おはようございます、祐一さん……あら、すいません。この間も、夕食を作って貰ったのに迷惑をかけてしまって」

「そんなことないですって、秋子さん」というか、今までずっと迷惑をかけて来たのは俺の方なのだ。昨日だって、夜遅く帰って来た俺を何も聞かずに笑顔で迎えてくれたし、一番辛い時には必死に励ましてもくれた。「俺からしてみたら、秋子さんは働き過ぎなんですから。たまには居候の俺に、力仕事でも何でも押しつけて下さいよ。その、料理だって上手くないけどできない訳じゃないですし」

 弱々しいその姿が琴線に触れたのか、少々熱っぽく語る俺に秋子さんは優しく微笑みかける。

「ありがとうございます、祐一さん。でも私は大丈夫ですから、心配りだけ受け取っておきま……」

 語尾を紡ぐ前に、しかし秋子さんはぐらりと身体をテーブルに預けてしまった。俺は慌てて駆け寄り、秋子さんを支える。熱っぽくはなかったが、息はかなり荒かった。

「ほら、辛いんだったら無理しないで下さい。飯ぐらい、言いつけて大丈夫ですから。秋子さんは今、食欲ありますか?」

「えっと……すいません、あまりないみたいです。どうやら本当に、風邪を引いてしまったみたい」大変なことであるのに、秋子さんは些細なものとして考えているようだった。「でしたら、お粥を所望して宜しいかしら。ご飯の方は、昨日の残りをジッパに入れて冷凍庫に保存してありますから。卵はいつもの場所ですし、調味料もそこの棚に置いてます」

それだけ言うと、秋子さんはテーブルに両手で頬杖をついた。その仕草は、何とはなしに子供っぽく見える。パンを少々と残りの珈琲を一気にかき込むと、冷凍ごはんをレンジにかけ小さな土鍋に水を張って火をかけた。ダシの取り方……はよく分からないが、沸騰するまで昆布、してからはそれを取り出して鰹節というのは覚えている。中学の調理実習で一度だけやったことがあるのが幸いした。

取り合えず適度なサイズの昆布と鰹節を冷蔵庫から探し当てると、ゆっくり土鍋に昆布を沈めた。確か沸かないようにゆっくりと煮立てるのが良いと記憶している。しばらくすると良い匂いと滲み出すエキスが直に感じられ、己の選択が間違っていないことを悟った。次に昆布を掬い、沸騰した鍋に鷲掴みで放り込む。あまり煮立てると嫌な臭いが残るので、ある程度しなびたところで取り上げて滓は三角コーナに捨てた。これでダシは完成、後はごはんを入れるだけだ。

 いつの間にかレンジはその役目を終えており、湯気を立てるごはんが胃を刺激した。何だかんだいっても、動いていればお腹は空いて来るものらしい。ごはんを加え、塩を少量加える。あまり大量に入れ過ぎると味がくどくなるので、匙加減は各人の好みに任せるべきだ。最後に溶き卵を半熟まで煮立たせれば……。

「よっしゃ、完成」

俺は思わずガッツポーズを取った。所要時間、約十五分。俺にしてみれば手際の良い方だろう。

「さっ、秋子さん、どうぞ」

 敷物の上に鍋を置き、秋子さんに示してみせる。戸棚から取ってきた蓮華を手渡すと、受け取って覚束ない手で一掬いした。

「良い匂い……本当に美味しそうね」何度も息を吹きかけてから、そっと口に運ぶのを俺は固唾を飲んで見守った。「薄味だけど、ダシも利いてるし何より病人のことをよく考えてるわ。最初、焼き蕎麦のソースの話を聞いた時は驚いたけど、料理は上手いんですね」

「レパートリィは狭いですけどね」事実、この他に作れる料理は十種類を下る。コンビニがなければ自活など到底無理だろう。だからこそ、両親は一人暮らしを頑なに却下したのであろうが。「秋子さんには叶いませんけど、口汚しくらいにはなるりますから」

「ふふ、謙遜しなくて良いんですよ」

 ダイニングに、一種和やかな空気が流れ始めた頃だった。二階の方から、目覚し時計の大斉唱が響いてくる。

「やべっ、名雪のこと忘れてた。じゃあ、秋子さんはそれを食べておいて下さい。薬の方はありますか? なかったら後で一っ走り買って来ますけど」

「いえ、買い置きはありますから大丈夫です。それより、名雪を早く起こして貰えると助かるんですが」

 こくと頷き、二階に駆け上がった。目覚ましを叩くようにして止め、全てが収まったところではあと一つ息を吐いた。いつの間にか、この音に慣れてしまった自分が恐いなと思う。

「ほら名雪、とっとと起きろ」頬を何度かぺちぺちと裏打ちしてみるが、起きる気配を見せない。「くそう、何てこった。こら、起きないとその口に秋子さん特製ジャムを流し込むぞ」

「うー、それはやだ……くー」

 最後は暴力に訴えた。

「何も思い切り殴らなくたって良いじゃない」名雪は抗議の視線を向ける。「瘤になったらどうするつもりだったの?」

「そういうことを言われても困るんだが……」いつもは暴力になど訴えたりしないのだが、今日は事情が事情だけに最終手段に訴えざるを得なかったのだ。「秋子さんが風邪気味だから、名雪にも一働きして貰わねばならないんだ」

 そう言うと、名雪は途端に血相を変えた。寝惚けているといっても、流石にただ一人の母親のことは気になるのだろう。

「本当なの? それでお母さん、大丈夫?」

「ああ。今は俺の作ったお粥を食べてるところだ」勿論、俺のというところを微妙に強調した。「しかし、まだ非常時の家の勝手はよく分からない。だから荒々しい方法だが、名雪には早く起きてくれなければならなかったわけだ……諒解したか」

「うん、諒解した」名雪は怒りこそ静めているが、真剣な表情を崩してはいない。「分かった。今日はわたしが、お母さんを付きっきりで看病するから。先生にはそう、伝えておいて」

「それは頼まれるけど……学校の方は休んで良いのか? そういう理由で」

「良いんだよ」名雪は俺の方をちらりと見て、少し悲しげな口調で答えた。「お母さんはわたしの大切な人だし、いつもお世話になってるからこういうときくらいはお返ししないと。いつまでも、お母さんには元気でいて欲しいからね」

 意外と大人な名雪の言葉に目を細める。そして、俺や香里が苦しんでいた時も、真っ先に励ましてくれたのは名雪だったことを思い出す。七年前はほぼ同じ精神構造であったにも関わらず、片や子供で後悔してばかりの子供。片や、闊達とした大人に枝分かれしている。

「名雪は偉いな」心からの思いを込めて、俺はそう言葉を向ける。「俺も、名雪くらい強く優しくなれたらな……」

 羨望の思い……しかし名雪の表情は晴れないままだった。口元で何か呟いた気もするが、よく聞こえなかった。

 ダイニングに戻ると、秋子さんはお粥を半分ほど平らげていた。名雪は救急箱をどこからか持ってきて、秋子さんに症状を聞く。頭が痛いと答えると、その中から全国的に有名な頭痛薬を取り出した。コップに水を汲むと、錠剤三つと共にそっと手渡した。

「ありがとう、名雪」それを一息でこくりと飲み干し、秋子さんは柔く笑う。その笑みは、少し儚げに見えた。「……じゃあ、私はもう少し部屋で眠って良いかしら。朝ご飯は作ってあげられないけど、自分で作れるわよね」

「うんっ、それは大丈夫だよ」名雪はどんと胸を叩く。「今日は、わたしが付きっきりで看病してあげるから」

 普段なら気遣い、抗うようなことを口にするのだが、今日に限っては何も言わずただ首肯して従った。その様子からするに、症状はかなり重たいようだ。

「俺は何か手伝わなくても大丈夫ですか?」思わずもどかしくなり、俺はつい口を開いていた。「一人より、二人でやった方が負担が少ないですし楽だと思うんです。だから……」

「ううん、わたし一人で大丈夫だよ。祐一は学校に行って。香里や北川君が心配してもいけないしね」

 二人の、特に香里の名前を出されると俺は弱かった。結局、今日は俺だけが学校に行くことになった。勿論、歩いて余裕で学校に着けるギリギリの時間まで留まり秋子さんの様子を見ていた。床に伏せってみて初めて、大黒柱の不在における喪失感と不安に気付く。やはり、彼女はこの家に無くてはならない存在なのだ……俺なんかとは違って。それはそうだ、ここは秋子さんの家なのだから。

 少しばかりの寂寥感を抱きながら、しかし足は自然と学校に向かっていた。そう言えば、香里は通学路で立ち尽くしていないかなと少し心配になる。約束はしていなかったが、今日も待っていた可能性は非常に高い。てんてこまいで考えが及ばなかったが、せめて電話はかけておくべきだったと後悔する。しかし、その後悔は杞憂だと言うことがすぐに分かった。香里もまた、遅れたのか急いでこちらへと走ってきたのだ。立ち止まり息を整えると、香里は飛びつくようにして俺を抱きしめてきた。

「祐一、おはよう」周りには結構な数の生徒がいるのだが、香里は躊躇する様子すらない。「ん、祐一の良い匂いがする……」

 体を強く密着させ、犬のように鼻を寄せる香里。肌を燻る髪の毛からは、シャンプーの綺麗な香りが漂ってくる。あれから、また風呂に入ってどうやら髪の毛も洗ったらしかった。まあ、もう一度流してしまわなければいけないくらい汗を掻いたのだから当たり前と言えば当たり前だが。

「と、今日はそんなにゆっくりできないのよね」香里は名残惜しげに距離を取り、隣に並ぶと片方の手を強く絡ませてきた。「早く行かないと、学校に遅刻するし。ところで名雪はどうしたの? もう、この時間に出てないとまずいと思うんだけど」

「ああ、それはな……」肩に頭を乗せ、身を委ねてくる香里と共に歩きながら、俺は今朝のことを簡単に説明した。「まあ、そういうわけだから今日は名雪は学校を休むってよ」

「そう……秋子さんがねえ。あの人、そういうイメージから一番程遠く思えるけど、やっぱり人間だから風邪も引くのよね」それではまるで、秋子さんがターミネータみたいな言い方だ。まあ、分からないでもないが。「じゃあ、お見舞にいかないとね。秋子さんには、言葉に尽くせぬほどお世話になってるし」

 物憂げな香里の姿を眺めていると、香里が不審そうにこちらを見つめてくる。

「……何、じろじろ見てるの?」

「別に……ただ可愛いなって思って見てただけ」

 それ以外に、どんな理由があるだろうか。香里は少し照れて俯いた後、再び正面から抱きつきそっと唇を合わせてきた。

「んっ……祐一、ありがと」

 それからの香里は、まるで懐いた猫のようにしきりに俺の方へと身体をすり寄せて来る。くすぐったいけど、かなり良い心地だった。しかし、校門の前に来ても一向に離そうとしてくれない。

「流石に、教室の中までこれじゃ冷やかされてまずいだろ。だから離れろって、な」

「……やだ、離れたくない」

 香里は戒めを解くどころか、逆に後から思い切り抱きしめてくる。というか、周りの余りな好奇の視線が強烈に痛い……。

「早くしないと遅刻するし……」

「良いの、このまま離れるくらいだったら遅刻した方がましだから。祐一、祐一……大好き、大好きよ……」

 その甘えた態度はとても嬉しいのだが、やはり学校だけは勘弁して欲しい。それにしても、香里がここまで熱情的だったとは未だに信じられない。ここまでの慕われぶりは少々恐い気がする。俺はただ、香里の背中を押して一歩を踏み出す助けをしたくらいなのに……。

「香里、やっぱまずいって。それに……周りの人に冷やかされたら面白くないだろ。俺は香里と二人きりが良いんだから」

「……本当?」頭を背に預けながら、香里が淡く囁く。「だったら、今は解放してあげるわね。でも、今だけよ祐一、分かってる?」

 何とか体勢を立て直そうと慌てて頷く俺。するとようやく、背に回した腕を離し、だが次の瞬間には再び俺の腕に絡めてくる。

「じゃあ、教室に行きましょ。早くしないと遅刻になるわ」

 腕、腕と何度か抗議したのだが、香里は聞かない振りをして黙殺し早々と歩いていく。全然分かっていない。もう、こうなったら俺も覚悟を決めたつもりでいくしかないと開き直る。そう、今ならこう訴えても憚るものはない筈だ。相沢祐一と、美坂香里は恋人同士だと。

 だが、やっぱり恥ずかしさが勝った俺は強引に腕を振り切って教室に入る。その時、丁度刻限を告げるチャイムが鳴り響いた。香里はこちらを恨みがましい目で眺めているが、その仕草がまた可愛くて何度でもからかってみたいと思わせた。笑みが零れるのを何とか隠蔽しながら、俺は着席する。

その時、ふと妙な気配を感じた。後ろからこう、ねめつけるような視線が纏わりつくのだ。振り向くと、北川はわざとらしく視線を逸らして見せた。そのままの体勢で、一枚の紙切れを手渡してくる。そして一瞬だけこちらを向くと、無言で逃げるなよと恫喝してきた。その表情を伺えたのはほんの刹那だが、憎悪と寂愁が混じったかのような激しい色を帯びていたことだけは理解できた。何故、そんな顔をするのかと自らに問い、そして一つだけ思い当たるその節に気付く。多分……いや、きっと香里のことに違いない。

 そう断定すると、今までの浮かれ気分が一気に吹き飛んだ。とても大事なことを、忘却の彼方に置いていた自分への嫌悪感がどっと浮かび上がる。実は昨日の、香里と至る所まで至った段階で正直に打ち明けるつもりではいた。本当ならもっと早く話すべきだったのだが、一昨日は香里とのことに自信が持てず、昨日はちょっとした諍いのために失念していた。その結果、最良の時期を逃してしまったことを鑑みるとかなり心苦しい。欺瞞と罵られてもしょうがないだろう。二、三発殴られることはとうの前に覚悟していた。殴られるくらいで許して貰うのは甘いとさえ思っている。そんな想を巡らせながら、開いた紙切れに書かれていたのはただ一言。

『昼休み、裏庭近くのゴミ収集場で待つ』

 その言葉の影響で、午前中の授業は全く手に付かなかった。休み時間になると、香里が寄って来て積極的に話しかけてきた。その隙間から、誰にも見えないようにそっと手を握ってくる。北川は眠った振りをしているのか、本当に眠っているのかずっと机に伏せていた。そのことが気になり、俺はなるべく素っ気無い振りをするのが精一杯だった。それでも、クラスの端々からたまに冷やかしめいた言葉をかけてくる。どうも、昨日や一昨日の様子を見ていた者が何人かいるらしい。だが、その言葉も今は鬱陶しかった。

 結局、どんな言葉を交わしたのかも全く分からないまま昼休憩の開始を示すチャイムが鳴った。ふと後ろを見ると、北川は挨拶の間に既に教室を抜け出していた。余程、俺の顔を見たくないらしい。とことんまで嫌われてしまったことに暗鬱とした気持ちを抱く。それを知らぬ香里は、弁当箱の包みを二つ持って俺の机に近付いてきた。何だか、妙に浮かれているようだ。

「祐一、今日は昼ご飯はどうするの?」

「いや、特に用事はないけど……」

というより、昼飯を食べている状況ではない。

「じゃあ……私、お弁当を作って来たんだけど一緒に食べよ」香里は二つの包みの訳を明かすと、相変わらずの魅力的な笑みを浮かべる。「私、朝早く起きて精一杯作ったのよ。今日遅れたのって、実はそれが原因だったりするんだけど……ねっ、良いでしょ」

 香里の申し出は、いつもなら有り難い。浮かれて、すぐにでもその弁当に飛びつくだろう。しかし、今日だけはそれはできなかった。

「ん、ちょっと俺、トイレに行って来る。前の時間から我慢してたんだ」意図しての嘘に肺腑がずきりと痛むが、今日だけは仕方ない。「だから、先に食べててくれ」

 俺は似合わないながらもウインクしてみせると、急ぎたいのを抑えてゆっくりと歩き出した。目的の場所に近付くごとに動悸が早まり、また覚悟も少しずつ強まってくる。空は皮肉なほどに晴れ渡り、真冬の雪国にしては珍しく雪もここ数日は殆ど降っていない。最も、一週間前にあれだけ降ったのだから収支を合わせたのかもしれない。

多くの生徒が足を運ぶのか、泥に塗れた雪には無数の足跡が刻まれている。集積場に入れ忘れたゴミの残滓が、殺伐とした空気を更に煽っているように見えた。真新しい溜息を一つ付くと、更に目的地へと近付く。木々は薄氷に覆われ、煌く雫が壊れやすいグラスのような脆さを醸し出していた。無意識の内に、風景へと目が向いている。目的の場所に辿り着いても、先に出た筈の北川は現れることなく俺はその辺りをもう一回りすることにしてみた。

 集積場の隣には、ダイオキシンの関係で使われなくなった焼却炉が無残に放置されてある。その陰にこそ、俺は目指す目的の人物を見つけた。何故、そんな場所にいるのかと無防備に近付いたその一瞬の隙が命取りだった。予想だにしない素早さから繰り出される打撃は、俺の頬を容赦なく削ぎ腫らしていく。不快極まりない痛みを堪えながら、俺は倒れる寸前でどうにか踏み止まった。そして、俺と北川は険悪のうちに対峙する。

「相沢、何で殴られたか分かってるよな」

 物静かな、しかし殺気こもったその瞳には不退転の決意が強く漲っていた。俺は黙って首肯すると、頬の痛みを無視して口を開く。

「俺が、お前のことを裏切って香里と付き合いだしたからだろ」

 理由はそれしか考えられなかった。が、北川は強く拳を握りしめると激しく怒鳴り散らし始めた。

「みくびるなっ! 俺はそんなことで人を殴ったりしない。別にな、お前と香里が付き合ってたのは知ってたよ。でもな、そのことでお前を責めようなんて思っちゃいない。元々こういうことを人に頼るのが馬鹿なんだし、人間の心なんて……特に男女の中なんて弁解もできないうちに変わっていくなんてこともある。そんなこと、俺だって理解できてる。そうじゃない、そうじゃないんだっ!」

 北川は、もう一度俺を殴りつけたい衝動を必死に抑えながら、厳しい視線を以って俺を苛み続ける。

「俺が許せないのは、妹が死んだからってあっさりと姉に乗り換えるような軽薄な態度だ。妹が死んだから次は姉か? どんな慰め方をしたか分からないけど、さぞかし上手くやったんだろうな」

「違っ……」

「どこが違うんだっ! 普通、好きな女が死んだのにたった二週間で他人に乗り換えるかよ。しかも、その姉にだ。結局、お前は女なら誰だって良いんだろ! 香里なんて、そこら辺に転がってる女の一人だくらいにしか思ってないんだろ! それなのに、これ見よがしに俺の前で……どうせ今も、俺のことをせせら笑ってるんだろ。間抜けな奴だなんて思ってるんだろ。構わないさ、その代わり俺もこれからお前のことを心底軽蔑してやる。女なら誰でも良いって、心の中で唾を吐いてやる。お前のことだからきっと、水瀬さんにだって同じことを言って気を惹いたんじゃないのか? もうヤったのか? 二人ともヤったのかよ? えっ、言ってみろよ!」

 最初は……ずっと黙っておくつもりだった。どんなに罵られようが、殴られようが粛々として受け入れようと思った。俺の仕出かしたことは、俺の中で決着をつけなければならない。でも……香里や名雪のことをそこまで悪し様に言うのは許せなかった。今や寛容の精神は消え、煮えたぎるような憎悪が沸々と渦巻いていた。香里や名雪のことを、まるで娼婦のように決め付ける態度に吐き気がするほどの爆発的な感情が弾け回っている。

「……れ」最初は、掠れて声も出なかった。が、次第に電子顕微鏡のように焦点の合った声が喉から絞り出されてくる。「黙れ、黙れ、黙れ黙れ黙れっ! 俺はともかく香里たちのことをこれ以上侮辱してみろ。お前の五月蝿いその喉を、無茶苦茶に潰してやる。この両腕で握り潰して、ぐちゃぐちゃに潰してやるっ!」

 感覚が吹き飛び、汚泥に塗れた言葉がどんどんと口から出でる。憎悪が果てしなく気持ち良かった。以前にも味わったことのあるような、得も言えぬ昂揚感が俺を徐々に満たしていく。北川はその様子に一瞬怯んだみたいだったが、慌てて言い返してきた。

「その怒りようじゃ図星か? ふん、呆れて反吐が出そうだ。とにかく、お前のような奴には絶対に香里は渡さない。どんなことをしてでも邪魔をしてやる。香里の目を覚まさせるためなら、俺はお前の喉を掻き切って殺すことすら辞さないからな」

 何てことを言うんだろう、この男は。ますます、殴りたくなってきた。殴って殴って、歯が一本残らず抜けるまで殴り倒して、それからこのゴミ捨て場に捨ててやる。のたれ死のうが、俺の知ったことではない。何で、こうまで言われなくてはならない? 香里を、俺の大切な香里を穢れたものである風に言いやがって、その上で目を覚まさせるだと? 冗談じゃない。香里は俺のものだ。綺麗なところも汚いところも、爪の一欠けらから汗の一滴まで誰にも渡してたまるものか。香里は俺だけを愛している。俺も香里だけしか愛せない。邪魔をする奴は皆、許しはしない。

 視界が歪む。内耳からキィの高い耳鳴りがんがん響く。吐く息は獣のように荒く、アドレナリンは全身の筋肉を軋ませている。今なら、どんな奴だろうと地に平伏させることさえできる気がした。俺は北川の制服の襟をぐいと掴みあげると、そのまま雑巾を絞るように一気に捩じ上げた。これでも、握力には多少なりとも自信がある。

「ぐっ……がっ……あ、いざわっ!」

 盛んに頭を振るが、戒めは一ミリたりとも緩まない。心なしか、顔が酸素不足で赤くなってきている。でも、香里に謂れのない侮辱を与えた罪は到底この程度で許されるべきではない。このまま、殺してしまっても良いかとさえ思う。香里への狂熱的な愛情を示すためなら、俺はこいつを……北川を殺すことができる。が、下衆なりの必死の反撃が俺の頬を再び捉えたため思わず手を離してしまった。すかさず北川は後ろに身を下げ、泥だらけの地面に這いつくばる。

「げほっ、げほっ……はあ、畜生、畜生畜生っ!」

 更に殴りかかってくる北川の拳を、俺は難なく受け止めた。肺腑を痛め、力点をも意識しないその一撃は脅威に値しない。このまま、拳を潰そうと力を込めようとした瞬間、しかし意外な横槍によってその行為は留められた。

「祐一に北川君……二人ともそこで何をやってるの?」

 そこには、何故か香里の姿があった。待っていろと言ったのだが、心配で探し回っていたのだろう。香里は俺の方に駆け寄ると、口から僅かに血を流している俺と未だに拳を握っている北川を見比べ、それから北川へと憎悪の眼差しを向けた。

「北川君、あなた何をやってるの? 何で祐一を殴るのよ……信じられない、あなた本当に最低の人だわ」香里の口調には、およそ容赦がなく辛辣極まりなかった。「最初に話しかけてきた時は、良い人かなって思ったけど、とんだ見込み違いだったわ。まさか、意味もなく暴力に訴える人だなんて思わなかった……本当、最低っ!」

 そして中空に、乾いた音が響き渡る。北川は、香里に手厳しい平手打ちを受け、半ば呆然としていた。

「それが祐一の受けた痛みだと思いなさい。本当なら……ここで殺してやりたいくらいだわ」

「それはっ……俺は、香里が相沢に騙されてるから目を覚まさせてやろうと思っただけだ。相沢は、香里のことを妹の代替品くらいにしか考えてないんだぞ。そんな奴を信じて良いのかよ」

「それで? 言いたいことはそれだけなの? そんな戯言で誤魔化して……女々しくて情けないわね。北川君、今までは別に何とも思わなかったけど、もう金輪際私と祐一に近付かないで。祐一は妹が死んでから、沈むだけの私を精一杯励まし、慰めてくれたのよ。こんな私を愛してさえくれたのに……それさえも汚そうと言うなら、私は絶対に容赦しないわ」

 香里は冷酷に喉を掻っ切る仕草を見せ、そして止めの一言を言い放った。声の詰まった北川は、最後の威嚇か焼却炉を思い切り殴りつけると去っていった。後には、俺と香里だけが残される。

「本当に大丈夫? 祐一」香里は今にも泣き出しそうな顔を俺の頬にそっと近づけてくる。「血も出て……酷い、何で祐一にこんなことをするの? 祐一……」

 頬を、不意にざらりとした感触が触る。傷つき腫れた頬を、そして強かに打ちつけられ切れた唇の端を……香里はまるで犬のようにぺろぺろと舐め始めた。舌先が触れただけでも僅かな痛みを感じ、しかしそれ以上の快感が狭間から滲んでいる。まるで憎悪がそのまま欲望に変わったように、急激な身体の変化は盛んに香里を求めていた。それも生易しい求め方ではない。すぐにでもこの場に組み伏して、全てを奪ってしまいたいほどの狂おしい欲情だった。

 俺は衝動だけで事を進めないよう、しかしこの思いを少しでも昇華できるよう激しく抱きしめた。その反動で、香里を焼却炉に押さえつけるような形になる。体が更に密着し、柔らかく弾力のある胸がより身近に感じられた。この胸を晒し、散々弄り回して思う存分嬌声をあげさせたい。俺の手で悦びを死ぬほど与えてやりたい。人の来ない所に追いやって、チャイムが鳴ろうが休みが終わろうが交わり続けたい。奥深くまで香里の中に俺の性器をぶち込み、心ゆくまで掻き回して深い深い悦楽を二人で共有したい。この魅力的な女性を、離したくない。絶対に離してなるものか。もし、そんなことでもあろうなら、俺は……。

 俺は? 俺は何をすると言うのだ。見ると、香里は半泣きのように潤んだ瞳をこちらに向けていた。何となくだがキスを……それも普通じゃない激しいキスを望んでいるのが分かった。けど、この時には香里の細く壊れそうな喉に目がいった。すぐにでも消えてしまいそうな、白く美しい喉元とうなじと……俺はこの喉を見て何を思った? 俺は……香里を殺せるとまで思ってしまった。

 その時、初めて自分の抱いている感情を恐いと思った。初めは純然たる愛だったのに、それが繋がりを重ねる度により激しい欲望へ、そして今は熱波にも似た憎悪と。その境界線は極めて曖昧だった。俺は香里を、これほどにないくらい愛している。ありとあらゆる卑猥な行為を欲望している。それと同時に、いざとなればとことんまで憎めると……そんなことを想像してしまった。北川にやったように、喉を握り潰せると思ったのだ。途端、香里の囁くような声が蘇る。

『……殺しても、良いのよ』と、香里は言った。もし、俺が手をかけた時でも、香里はその笑みを崩さないのだろうか。根拠はないが、俺には香里がそうするような気がしてならなかった。

 俺は、香里を改めて見つめた。一瞬だが俺の胸に投じられた狂熱は、しかし今は完全に鳴りを潜めている。心ゆくまで犯したいという欲望もまた、今はもうない。ただ、香里が愛らしくて堪らなくてそっと唇を重ねた。すぐにそれは、水音が派手に響くような舌と唇の熱烈な絡めあいへと変わっていった。脳が痺れるような感覚に満たされながら、俺は先程の思考が北川との喧嘩で生まれた一過性のものだと確信していった。

 俺が欲しいのはただ、幸せだけなのだ。香里と共に歩めて、悲しいけど愛しい思い出を時には切なく、時には笑って話せるような優しい関係。壊してしまうなんて、とんでもないことだった。俺は唇を離し、涙で濡れた香里の瞳をお返しとばかりに舌で何度も掬い上げていく。塩辛いけど、とても甘い感じがした。

「ごめんね、祐一……」何故か、香里は暗く微笑みながら謝りの言葉をかけてくる。「あんなこと言ったけど、私は少しだけ疑ってしまったの。北川君が私を栞の代替物だと言った時、もしかしたら祐一はそう思ってるんじゃないかって。栞の姉だから……貴方は愛してくれているのではないかと。そうでなければ、私は生きている価値もない人間なんじゃないかと。そう思った時、本当に恐かった。つい怒鳴り散らしたけど……それは恐さを隠すために……。それに、もっと恐いことがあるの。でも、それが私には分からなくてもっと恐いのよ。どんなにキスしても、どんなに抱かれても拭えない不安があって……祐一にそれを満たして貰えるのを期待している私がいるの。それが、何だかとんでもなく惨めで……」

 香里の体は、まるで鼠のように震えていた。強く……どんなに強く抱きしめても止まらない。俺は香里を、ここまで不安な気持ちにさせていたと言うのか? いや、俺だって不安に思っていることがある。香里とよく似た、判じきれない感情が。それは恐怖にも、慟哭にも似て、不意に俺を苛んでいる。言いようのない不安。

「俺も時々怖くなる……」心に留めているだけでは足りなくなって、俺は思わず声に出していく。「怖くて怖くて……募れば募った分だけ熱烈に香里が欲しくなる。どうしようもなく、胸が苦しくて香里を抱くとそれが収まって……」

 幸せな筈。とても幸せな筈なのに、俺も香里も無性に怖がっている。まるでそれが、すぐにでも壊れてしまうかのように。だったら、壊れる前に少しでも貪欲に求めようと思ってしまう。相手のことを少しでも多く、手に入れようとする。手段や対面なんて選んでいられない。邪魔されただけで相手を殺したいほど憎くなる。

もしかして、俺も香里も病んでいるのだろうか? 心はまだ果てしなく病み続けている途中なのだろうか? 分からない、分からないんだ、俺には。何をするべきか、何をしたら良いのか。

 今の俺にできるのは、香里と抱き締め合い、求めるようにキスを交わしまくることだけだった。弱く強く、淡くそして濃く、ちゅぷちゅぷと舌を弄んでいる時だけ、その恐怖を忘れられお互いの愛情に没頭できるような気がした。

 五分前の予鈴が鳴っても、授業開始の鈴が鳴っても、とてもじゃないけど離れる気にはなれなかった。結局、ようやくお互いの気が済んだのは五時間目も半ばに差し掛かってのことだった。俺と香里は、しっかりと手を繋いで俺と香里の所属するクラスへと向かう。校舎に入るとしかし、すぐに石橋に捕まった。

「おお相沢、今まで何処に行ってたんだ? それに美坂も……」

「あ、ええっと……」まさか今まで、ずっと抱き合いキスをしてましたとも言えない。俺は北川に受けた傷をネタに、最もらしい嘘をでっちあげることにした。「その……ちょっと酷い喧嘩をやらかしてそのせいで……すいませんでした」

 香里は俺の言葉に目を剥いていたが、すぐその意図を悟ると歩調を合わせた。流石は学年主席、頭の回転は並じゃない。

「ええ、彼の言う通りで……」

「まあ、そんなことはどうでも良い」

石橋はしかし、俺と香里のことを咎めはしなかった。が、それよりも衝撃的なことを石橋は口にした。

「それより相沢、お前は水瀬の家に居候しているんだったな。今、その水瀬から電話があってな。母親が倒れて病院に運ばれたらしいんだ」

 何だって? 俺は声に出すことのできなかったそれを脳内に響かせる。秋子さんが倒れて病院だって? そんな、そんな馬鹿な。単なる風邪だった筈だろ?

「どういうことなんだ? そんな……倒れただなんて、確かに今朝は風邪気味だったけどそこまで酷いなんて思わなかった……」

「落ち着け、相沢。兎に角、急いで病院まで行った方が良い。もう、タクシーは正門の前に待たせてあるからすぐに行きなさい」

「私も……私も行きます」

 香里が悲愴を込めた視線を向けるが、石橋は首をふってその申し出をはねつけた。

「いや、美坂は残った方が良い」

「でも、名雪の母親は私もよく知ってるんです。私、あの人にはいつもよくして貰ったから、気になります」

「それは分かる。けどな、余り大勢で病院を訪ねても迷惑だし、放課後になったらすぐに尋ねられる。別に事故を起こしたとかそういうわけじゃないから、慌てる必要もない」

 仮にも教師にそこまで抗弁されては、香里と言えど反論することはできなかった。俺は僅かに口惜しく思いながら、しかし今は秋子さんのことばかり考えていた。あのいつも明るい秋子さんが倒れた。何故? どんな理由で? タクシーの待機場所に一人で向かいながら、俺はそのことばかりを考える。嫌な予感がした。底なし沼にはまっていくかのように鈍く、深く、苦く、それは病院に辿り着くまで俺の胸を離れなかった。

[PREV PAGE] [SS INDEX] [NEXT PAGE]