二月十六日 火曜日
第七場 百花屋
わたしは、なんてあざとい人間なんだろう。幸せになって欲しいなんて思いながら、実際はこんなことをしてる。陸上部の部長としての立場よりも、香里の親友としての立場よりも、大好きな祐一の幸せのことを考えるより早く、下校していく二人の姿が気になって姿を追わざるを得なかった。別に疑っているわけじゃない、祐一と香里の関係を。あの二人がいかに睦まじいかというのは、今日一日の行動を見ていて痛過ぎるほどよく分かっているから。
朝、わたしはお母さんに揺り起こされて目覚めた。優しい振幅のリフレインと、聞き慣れた声。霞む視界で周囲を望むと、そこには少しだけ困った顔のお母さんが見えた。わたしは目を何度か擦ると、大きく伸びをして目を覚ます。それから、いつもの日常と少しだけ違った光景に戸惑ってしまった。
「おはよう、名雪」いつもの明るく心休まる声が胸の中に染み入り、ようやく今が朝だという感覚が理性のレベルで取り戻されていく。「そろそろ起きないと、遅刻ですよ」
「うん、分かった……」まだ半ば納得できずにいるわたしは、お母さんに今抱いている疑問をぶつけた。「あ、れ……祐一はどうしたの? 今日は起こしてくれなかったのかな?」
「祐一さんなら、今日は用事があると言ってもう学校に出掛けていきましたよ」
先に出たということは、もうそんなに危険な時間帯なのだろうか? その疑問を確かめるべく覗いた複数の時計は皆、数十秒のずれはあるものの一律で七時五十分を指していた。歩けば二十分もあれば余裕を持って間に合うのだから、余程の理由がない限りはここまで早い時間には出ない。
「ふーん、まだこんな早く行ってもやることなんてないのに」
誰かに会いたいのならば別だけど……と考えを巡らせてみて、初めてその理由が分かったような気がした。祐一はきっと、香里と待ち合わせているのだろう。鈍いわたしでも、それくらいの察しはつく。わたしは除け者にされたのだろうか? いや、きっとわたしを起こす時間すら勿体無いと思っただけに違いない。そう考えると、わたしの寝坊は迷惑をかける類のものなんだなって改めて思い知らされた。けど、それを差し引いても僅かな余裕すらもうわたしには向かなくなったことを思うととても寂しかった。祐一にとって、今大事なのは香里だけだという事実を思い知らされる。胸が痛くて堪らない。でも、そんなことで迷っている暇なんてなかった。もう、朝ごはんを食べて身支度をするギリギリの時間しか残っていなかったから。
急いで制服に着替えると、お母さんが用意してくれたパンにイチゴジャムを塗ってゆっくりと咀嚼する。時間との睨めっこ、それでもなるべく食事を味わっていたくて、結局は八時十三分に急いで家を出た。益々寒さの厳しくなる中を一人で走って行く。普段通りの習慣、たった一ヶ月そこら前までは当たり前だった朝の光景。しかし、今は隣に誰もいないというだけで隙間風が吹いたような寂しさを感じる。いつのまにか、祐一が側にいることが当たり前になっている自分に驚き、そしてそれ故に悲しくも思える。これから、わたしはまたずっと一人でこの道を進まなければならない。
いや、それは違う。やろうと思えば、もっと早く起きれば良いのだ。もっと早くに眠るようにして、誰の迷惑もかけずに目覚める。それができるようになれば、また祐一と一緒に学校まで歩いていける筈だ。心踊るような楽しい会話と、少しずつ縮まっていく距離を楽しむことだってできるだろう。けど、今更そんなことをしたって何になるのだろう。わたしが祐一と香里の間に割り込んだって二人ともこっちのことなんてきっと考えてくれない。三人なのに、わたしはずっと一人で祐一と香里が楽しそうに歩いて行くのをじっと眺めていることしかできないに違いない。
もう、わたしなんていらないのかもしれない。香里にとって、わたしが親友である意味なんてどこにもないのかもしれない。祐一が七年前、わたしを必要としてくれなかったみたいに、もう香里には祐一がいれば大丈夫なんだ。そうだよね、恋人同士なんだし、迷うことなんてない。迷っているのはわたしだけ。割り切ってしまえば、これからも馬鹿みたいにやっていける。二人の関係をちょっと眩しそうに見ながら、それでも綻ぶものは何もない。悲しみを埋めるように結ばれた二人だから、これ以上どんな苦しみや迷いを持ち込む必要はない……そう、ない筈なのに。
わたしは急がなければならない足をぴたりと止めた。胸が痞えて、とても全力で走れそうになかったから。
「駄目だね、わたしって……」自分で自分の心が制御できない。あの時、偶然にだったとしても生まれてしまった気持ちが歯痒くてしょうがない。「しょうがないのに……もう、どれだけ想ったってしょうがないのに……馬鹿、本当に馬鹿だよ」
それはどちらに向けての言葉? 祐一? それともわたし? でも、それも今は些末なこと。走らなければ学校に遅れる。僅かに零れ落ちた涙を拭わなければ、誰かが心配する。だから、わたしは制服の裾で涙を拭い、そして大きく深呼吸すると再び走り出した。もう、自分にはそれしか残っていないかのように、全速力で走った。
学校に着くと、反対側から走り込んでくる北川君の姿が見えた。
「水瀬さん、おはよう。お、今日は相沢と一緒じゃないのか?」挨拶もそこそこに、彼はあまりして欲しくない疑問を投げかけてきた。「もしかして、置いて行かれたとか?」
デリカシーがないというより率直なんだろうと思うけれど、今はその質問が一番辛い。わたしは「うん」と答えながら早足で歩き、少ししてから思い直すように補足した。
「今日は用事があるって、早く出て行ったみたい」
「ふーん、まあいっか」
北川君はわたしの言葉から深い意味を何も感じ取らなかったのか、それとも敢えて知らない振りをしてくれたのか、それ以上は何も訊かなかった。
教室に入ると、思った通りに祐一と香里がいる。けど、その様子はどことなく余所余所しげに見えた。まるで喧嘩でもしている感じ。まさかねと思いながら、そっと二人の姿を観察していたけど、実際にそうではない様子だった。ただ、照れというか衒いというものが二人の距離を不自然に離しているだけのような……だって、授業中はお互い気付かずだけど無意識のうちに目で追ったりしてるから。きっと祐一が馬鹿なことでも言ったかそれくらいの理由なのだろう。心配するのも馬鹿馬鹿しいほど、それは幸せな悩みだった。そう分かってしまうと途端に沸いてくるのは虚しさだけ。
心が乱れて、何一つ集中できない。こんな日がこれからずっと続くのだと思うと、それだけで頭が壊れそうになる。崩してしまうのは、とても簡単。二人のことを嫌いになってしまえば良い。口汚く罵ってしまえば良いのだ。けど、わたしにそんなことをする権利なんてない。好きという勇気すら持たず、一番近くにいたのにそのチャンスすら利用することもできず、気持ちに気付いた後もただ気の良い同居人として振る舞ってきた。そんなわたしに、今更何を壊せというんだろう。それに祐一も香里も、わたしの大事な人。鈍くて人に世話ばかりかけて要領が悪くて、そんなわたしを好きでいて暮れる数少ない仲間だ。嫌いになんてなれない。嫌いだなんて言えない。もう、この想いはがんじ絡めの錠詰にして深くしまいこんでしまうしかない。
昼休みになって、わたしはそんなことを盛んに自らへ言い聞かせていた。祐一と香里に、嫌われたくないから。香里の怒鳴り声が聞こえてきたのは、そんな時だった。
「相沢君はそんな人じゃないわ!」声のした方を向くと、香里が何故か北川君に厳しい形相を向けていた。「悪いのは私なんだから、それにこれは相沢君と私の問題だから部外者は口出ししないで!」
部外者……その言葉がわたしの胸を打つ。わたしも密かに心配していたけど、口出しして欲しくないことなんだ。そのことがまた一つ、心に翳を落としていく。
香里はしばらく北川君を睨み付けた後、途端に決意を込めた眼差しを浮かべて教室を急いで出て行く。すると周りの男子生徒が「おう、派手に振られたな」とか「馬鹿だな、美坂を怒らすなんて」と冷やかしを浴びせかけた。が、当の北川君は居も介さぬ風に自分の席へ戻った。
「やれやれ、心配して声をかけたんだけどな」シニカルな笑みを浮かべて、北川君はわたしに話を投げてきた。「どうも今日は、虫の居所が悪かったらしい」
違う……と言いかけてわたしは直前で思い留まった。祐一と香里のことをみだりに言いふらして、お喋りだなんて怒られたくなかった。以前にも祐一が家に一緒に住んでいることを言いふらして、ひどく怒られたことがあったから。
「うん、そうみたいだね」平然と吐く嘘にちくりと痛みが走る。わたしはいつの間にか、こうも簡単に嘘が吐けるようになっていた。こんなこと、いつ学んだんだろう。「でも、香里ってああ見えて繊細なところとかあるから、あまりからかっちゃ駄目だよ」
「ああ、そうだな……気をつけるよ」
北川君はただそれだけを言うと、気まずさが募ったのか教室を出ていった。わたしはただ一人で、中庭の雪に覆われた景色を眺めながら思っていた。もし栞ちゃんが生きていたら、わたしはこんなにも嫉妬――そう、わたしの抱いている感情はきっと嫉妬だ――することもなかった。香里もきっと祐一と栞ちゃんの関係を姉の目で優しく見つめ、わたしも優しくそれに倣えた筈だ。心にしこりなど溜めることなく、いつまでも笑っていられた。
けど、この世にもしもなんて存在しない。奇跡もまた、在り得ない。栞ちゃんはこの世を去り、皆が皆、容易には癒し難い傷を内包して今でももがき苦しみ続けている。絶望はしかし、祐一と香里の心を強く惹きつける起爆剤ともなった。在り得ないことは、一人の人間の死によって必然となっている。もし、それを……在り得ないことが起きることを奇跡と言うのなら、奇跡というのはなんて残酷なんだろう。そんなもの、誰も救ってくれない、誰も助けてはくれない。
決して起きる筈などないと分かっていても、わたしはこう思わざるを得ない。もし、栞ちゃんさえ生きていたら……と。
気付かぬ内に、昼休み五分前の予鈴が鳴る。祐一と香里は、寄り添い並んで帰ってきた。その姿にまた、わたしの心は揺れる。フーコーの振り子のように、いつまでもいつまでも、それはゆっくりと心を掻き乱していく。きっと、わたしが壊れてしまうまで。北川君が帰ってきたのは、五時間目の授業が始まるほんの少し前だった。
何かの和解があったのだろう。香里の祐一を見る目は優しさそのものだった。これ以上、愛しいものはないという態度で香里はずっと視線を送り続けている。その先には、昼先の授業に微睡む祐一。見えるわけないのに、そこには他人の介入できない空間が存在しているようだ。昼休みの香里の言葉が蘇ってくる。
『悪いのは私なんだから、それにこれは相沢君と私の問題だから部外者は口出ししないで!』
そう、二人の関係は全て二人で修繕されている。それもより強く強固に。喧嘩するほど仲が良いと言うけど、二人の心が通じていると知る前から祐一と香里はそうだった。下らないことで喧嘩して、でも次には意も介せぬように飄々としている。そして、その度に二人の親密度は増していった。
香里は飽きる様子もないほど、祐一を熱く見つめている。わたしは何度も止めてと叫びたかった。もう、それ以上、二人の繋がりをわたしに見せないでと声を張り上げたかった。ここが教室で、授業中でなければわたしは叫んでいたかもしれない。恐い……とても恐かった。わたしはそんなことをしたいわけじゃないのに。
責め苦のような時間の末、ようやく放課後が訪れる。香里はホームルームが終わると、一目散に教室を出ていった。祐一は平然な振りをしてるけど、挙動が不審。その様子が気になって、わたしは……そう、今こうしてここにいる。同じ部員のクラスメートに調子が悪いからと嘘を――今日、何回嘘を吐いたんだろう――吐き、祐一の後を追った。正門のところまで来ると、二人はそれぞれの腰を手に絡めて寄り添うように歩いていた。その足取りは躊躇うことなく、一つの場所を目指していく。香里の家、そこに香里だけでなく祐一も入っていった。もう、追いかける必要なんてない。もう……もう帰ろう。ここにいても、惨めになるだけだから。涙を流してしまうだけだから。
空を満たす青空さえも、わたしを押し潰そうとしているように見える。風は冷たく肌を薙ぎ、地の果てに向かって吹きすさんでいったまま帰ってくることはない。祐一もまた、わたしの心に二度と戻ってくることはないのだ。もう、終わり。これで本当に終わり。
虚無だけをたたえたまま、進む足取りは自然と商店街に向かっていた。百花屋は今日も、大勢の学生客を集めていた。失恋してやけ食いなんてドラマみたいと自嘲しながら、入ろうか入るまいかしばし迷っていた。
「おっ、水瀬さんじゃないか。何してるんだ、こんな所で」背後から唐突に声が入り、わたしは驚いて振り返る。そこには相変わらずの明るい笑顔を浮かべた北川君の姿があった。「って、ここで迷ってるなら理由は一つだよな。食べてかないのか? もしかして懐が寂しいとか……太ると困るとか考えてる?」
わたしはゆっくりと首を振った。
「ううん、ただ……」と出かけた言葉をわたしは飲み込む。「う、うん……入るよ。わたし、イチゴサンデー好きだもん」
「そっか、水瀬さんらしいな」そう言う北川君の口調は、どこか寂しげだった。「じゃあ、俺も付き合って……別に深い意味はないぞ。ただ、無性にやけ食いしたい気分なんだ。でも、一人だと虚しいから……誰か滑稽だって笑ってくれる人がいると助かる」
何故、そんなことを言うのだろうか? それに、笑われるというならそれはこちらも同じ。誰かにわたしのことを笑って欲しい。わたしは馬鹿だと、そんな些細なことで悩むなと。
「分かった……でも、笑ったりなんかしないよ」他人を笑うほど、わたしは図太くないし、第一そんな資格はない。「それでも良いのだったら……わたしも、実を言うと何か食べて気を紛らわせたいなって、そう思ってたから」
「そっか……」北川君は、その理由を聞かずに黙って頷くだけだった。「まあ立ち話もなんだし、さっさと入っちまおう」
彼はそう促すと、店に入り二人がけの席に腰掛けた。わたしも向かい側の席に座り、オーダを待つ。
「いらっしゃいませ」と声をかけて来たのは、先週ここに来た時にもウェイトレスをしていた若い女性だった。「ご注文の方は、もうお決まりになりましたか?」
「イチゴサンデー二つ」北川君が口早に頼み、そして確認の言葉を紡ぐ。「で、良いんだよな、水瀬さん」
「うん、それでお願いします」
わたしがそう念を押すと、ウェイトレスは頭を一つ下げて厨房の方に戻っていった。後には冷水とお手拭だけが残る。
「……で、北川君はどうしてその、やけ食いなんてしたいって思ったの? 見ててもそういう風には感じなかったけど」
「まあ、顔で笑ってても心では色々と悩んでいるんだよ」妙に悟りきった口調に、わたしは余計なことを尋ねたかなと不安に思ってしまう。「あ、別にそんな顔するなって。やけ食いしたいことがあるって言ったのは俺だし。その……まあ、別にずっと黙っておくようなことでもないしな、ははっ」
無理に誤魔化した感のある物言いは、しかしその悩みが決して瑣末でないことを如実に表していた。
「まあ、ちょっとした御伽噺のつもりで聞いてくれ」
北川君はそう述べて、こほんと喉を一つ鳴らした。
「ある時、とある街に弱気な一人の男性が住んでいました。その男性はある日、一人の女性に恋しました。なびく髪と憂いを帯びた表情、そして凛とした態度に男性は一目で惹きつけられてしまったのです。けど、男性はなかなかその胸の内を打ち明けることができません。そうしたまま、春が過ぎ、短い夏が過ぎ、秋が過ぎ、やがて長く苦しい冬がやってきました。その頃、女性の親友の家に家庭の事情で一人の男性がやって来ました。明るく社交的なその男性と近付くことで、意中の人に近づけるのではないかと一縷の望みをかけて。その考えは、上手くいきました。そして、二人の男性と二人の女性はいつも四人で行動するようになりました」
名雪は水を啜るのも止め、眩暈すらする心を奮い立たせて北川君の『御伽噺』を聞いていた。まさかそんな……そんなことがあるなんて……。
彼はなおも、冷静な口調で続けた。
「しかし、意中の女性はやがて家庭の事情でやって来た男性と惹かれ合い、反目しながらも恋に落ちて行きました。男性は必死で否定しようとしましたが、ある日、二人が激しいキスを交わしているのを目撃してしまいます。それで、男性はもう自分に望みがないことを悟りました。嗚呼、もう少し勇気があれば……もっと早く告白していれば、こんなことにはならなかったのかもしれないのに」
わたしは背もたれに身を委ね、思わず歯を食いしばった。まさかそんな。私と同じ理由で苦しんでいる人が、こんなにも身近にもう一人いたなんて……。
「まあ、ありがちな御伽噺だよ」
北川君は、小さく溜息を吐く。その時、丁度ウェイトレスが二人分のイチゴサンデーを運んで来た。その明るい声が、今のわたしには不愉快で不似合いに思えた。
「……馬鹿だよな、こんな御伽噺で、誤魔化したりして。こんなだから駄目なんだ、俺って。意外と軽そうに見えてさ、悲しいくらいに優柔不断なんだ。あれでも精一杯、痩せ我慢してたんだよ。そうだよ、こんな弱い俺より相沢の奴を選ぶのも当たり前だよな。あいつは俺とは違う。軽そうに見えて、本当は凄え強い奴だと思う。それこそ、頑なな女性の心を軽く融かしてしまうくらいに……」
頑なな女性と言うのは、やはり香里のことだろうか。そしてそれは、香里の背負ってきた苦しみのことに相違ないとわたしは思った。きっと、何もできなかったことを北川君は悔やんでいるのだ。そして、気持ちを打ち明けられなかったことを。わたしと……立場は違っても何から何までわたしと同じだ。
「ところで水瀬さんは……」北川君は、少しだけ表情を緩めると私の方を覗き込んでくる。「何か紛らわせたいことってあるのか? いや、別に話したくないなら話さなくて良いんだ」
確かに、わたしは話したくなどなかった。話してしまえば、自分がどんなに汚い人間かということをぶちまけてしまいそうで恐いから。でも、北川君が話してくれたのならわたしも話さない訳にはいかない。結局、オブラートに包んだみたいに間接的な伝え方しかできなかった。
「わたしも……うん、御伽噺だと思ってくれて良いから。そのね、一人の女性がいたの。ある日、家庭の事情で一人の男性が女性の住んでいる部屋に居候することになりました。最初は、女性は男性のことを仲の良い友達くらいにしか思っていませんでした。そうしている内に、男性は恋に落ちました。女性の親友の妹の、とても可愛らしい女の子です。けど、その子は死病に苛まれていました。そのことを知ってもなお、男性はその女の子と付き合う気持ちを変えませんでした。けど、努力の甲斐もなく女の子は死んでしまいます。男性は思い悔やみました。その姿を女性はずっと見ており、影から日向から慰めました。その内に、女性は男性のことを好きになっていたのです。けど、男性は同じ大切な人を亡くした親友の女性に心惹かれていきます。そしてお互いが激しくお互いを想いあうのにそう時間はかかりませんでした。女性は、その気持ちに気付くのが遅すぎたのです。もっと早く、思いを打ち明けていればもしかしたら何かが変わっていたのかもしれないのに……」
一応、名前はぼかしているけど言いたいことは多分、分かったと思う。どんな反応を示すのか恐くて、わたしはちらと北川君の顔を見た。彼は、目を剥き何か恐ろしいものでも見たかのように体を強張らせていた。
「……本当か、水瀬さん」表情を崩さぬまま、北川君はわたしに詰め寄った。「本当か? 美坂には……その、そうだよな!」
その勢いに押され、わたしは思わず肯く。
「美坂にはその、病弱な妹がいたのか? それで、妹は死んだのか? もしかして美坂が忌引きで休んだのって妹が死んだからなのか? 本当に祐一は美坂の妹と付き合ってたのか? 本気でその妹と付き合っていたのか?」
次々と浴びせかけられる質問に、わたしは頭を整理することしかできなかった。そして、逐次肯いていく。
「うん、そうだけど……北川君は知らなかったの?」
わたしはてっきり、祐一か香里が話していると思っていた。
「聞いてない。俺には二人とも……何も話してくれなかった。妹が……香里に妹がいることすら俺は知らなかった。畜生、俺だけ何も知らないままだったのかよ。俺だけ蚊帳の外かよ。これじゃ、マジで俺が滑稽じゃないか……畜生……畜生っ!」
両手を握り、テーブルに叩きつける、そのままうなだれ、北川君は顔をあげようともしない。自分の話がこんなにもショックを与えてしまうなんて思わなかったから、わたしは思わず慌てた、どうしようかとあたふたしていると、北川君はゆっくり顔をあげた。
「ごめん、喚き散らして……それと、今は何も食う気がしないから二つとも水瀬さんが食べてくれ、じゃあな」
そう言ってすっと立ち上がり店を出て行く。僅かだけ確認できたその顔は……憎悪で漲っていた。少なくとも、激しく怒っていたことだけは間違いなかった。わたしはお金を置いて、イチゴサンデーを残し急いで店を飛び出す。しかし、もう北川君の姿はなかった。
しばらくして、店に戻ろうかとも思ったがわたしも何か食べる気分ではなかったのでまっすぐ家に帰ることにした。そうだ、家に帰ればお母さんが待っている。お母さんは、ずっとわたしだけを愛してくれる。これまで、お母さんと二人でやって来たのだからこれからも大丈夫だ。お母さんがいれば、わたしはやっていける。そう思うと、無性にお母さんに会いたくて小走りで家に帰った。
「ただいまー、お母さん」
そう声をかけたが、返事がない。また眠っているのかなと思い、居間に向かうと案の定、お母さんは気持ち良さそうに眠っていた。寝返りを打ったのか、ソファとテーブルの隙間にはまり込んでいる。流石にその体勢ではまずいと思い、身を呈してソファまで持ち上げゆっくりと寝かせた。最近、少し疲れてるのかなと思いながらもわたしは今日もお母さんが側にいてくれることに感謝した。
お母さんがいれば、わたしは一人じゃない。ちゃんと笑っていられる。祐一の心がわたしに向いてなくても……大丈夫。
「お母さん……ずっとわたしの側にいてね」
鼻が詰まっているのか、僅かにいびきをかくお母さんの鼻をつんつんと突付きながら、わたしは言った。