二月十六日 火曜日
第六場 香里の部屋
私が目を覚ました時、既にカーテンの向こう側は宵闇の色に沈んでいた。寝惚け眼のうちに、微かな寒気を覚えて見回した私の体は、一糸纏わぬ姿を曝している。その隣にはやはり、いつの間にか眠りに落ちたであろう祐一の姿があった。勿論、私と変わらぬ裸のままの状態で……だ。部屋の中には未だ性交の香りが強く漂い、純白のシーツは白く濁る精液や薄いピンクに染められた粘度のある液体によって染め上げられていた。それらの認識が強まるにつれ、先程まで祐一と行っていたことが望まずともありありと思い返されてくる。
お互いの性感を刺激しあい、性器をその舌で舐め合い、最後にはそれらを執拗に擦り合わせ、ぶつけ合わせる激しい挿入運動の繰り返し。憚ることなく高い声をあげ、相手の快感を貪るような激しいセックス。勿論、私だって初心な女の子というわけでもない。今の世の中、普通にドラマを見ていれば嫌でもそういうシーンにはお目にかかれる。言葉では飽き足らない恋人たちが、自らを快楽の海へと堕としめ、体をぶつけ合うことによって更なる愛情を確認する行為。恋人なら、誰もがいつかは通る場所だった。
分かってはいたが、実際に生身でそれを体験し肌に捻じ込まれた幾多もの快感を思い出すだけで体が震えそうだった。祐一とあんなにも強く交われたこと、そして文字通り一つになれたことに対する得も言われぬ感情は今でも私を満たしている。股の奥に何か挟まったような違和感を覚えるのは、初体験を済ませた証左。そして、目の前の光景が虚構でないことを私に教えてくれる。良かったとは素直に言えないけれど、その相手が祐一であることは僥倖に思えた。祐一ほど私のことを労わり優しく、激しく抱いてくれる人なんていないであろうから。
そして、これから先も彼以外の男性に抱かれるなんて考えたくもない。腕一つ、髪の毛一本さえも他の誰にも触れられたくない。私のものは全て、そう、祐一のものだからだ。そして祐一のものも全て、また私のものだ。誰にも渡したくない。
狂おしい……そう呼称するのが正しいであろう感情を持て余しているにも関わらず、その思いの果てに存在する彼は幸せそうに眠っている。それが、悔しくて堪らなかった。私はそっと祐一の顔を覗き込む。どきりとするほど、それは素敵で……頂点から下り落ちてしまった気持ちが再び揺り返してくるのを抑えることができない。
「祐一、起きないの?」思いつく限りの優しい声をかけながら、指で鼻の頭をそっと突付く。「早く起きないと、キスしちゃうわよ」
言いながら、私はそっと顔を寄せて無防備な祐一の唇を奪う。相変わらず、男性のものとは思えない整ってて柔らかい祐一の唇。一度重ねてしまうと癖になりそうな、それは味と感触だった。
「ほんと……大好きよ、祐一」
その穏やかな頬を撫でながら、心に秘めておくのが耐え切れなくて思わず口に出してしまう。
「まだ、信じられないわ。こんなにも男の人を好きになれるなんて。信じられないでしょうね、私がこんなにも祐一のことを愛してるって。でも、本当のことなのよ。祐一がどんなに愛してるって言ってくれても、きっと私の思いには勝てないんでしょうね」
それくらい、私は祐一が好き。もっと深い部分で一つになれたことが、今まで以上にその思いを助長していた。けど、そんな言葉にも目を覚まさない祐一に少し腹が立ってくる。私は頬を軽く摘みながら、拗ねたように言った。
「悔しいでしょ、だから祐一も私のこと、もっと好きだって言って。愛してるって、言って欲しいの」
すると突然に、私の体が二本の腕に抱きすくめられる。そのまま祐一は、耳元に口を寄せて囁き始める。
「香里、愛してる……」祐一の声は甘く、私の心の中に響き渡る。「香里こそ、俺がどんなことを思っているか知ったら驚くと思うぞ。お前のこと、絶対に離したくない。抱きしめて、キスして、もっと攻め立てて、激しく繋がりたいって、そんなことを考えてる。香里が魅力的で、凄く綺麗だからそんなことをしたいって思うんだぞ。香里……香里は何でそんなに可愛いんだろうな」
どうやらさっきの言葉は聞かれていたらしい。けど、恥ずかしいと思うよりもまず、愛していると囁いてくれたことが嬉しくて、私は祐一に抱かれるままにこの身を委ねていた。繋がりは解かれても、私はいつでも肌を重ねられるほどの近くにいる。驚くくらいの喜びと幸せを、ただそれだけで感じられた。
「祐一、これからどうするの?」時計を見るともうすぐ六時、正確に言えば五時五十分。「もう、外は暗いけど」
「そうだな……香里の母親が帰ってくるのって九時過ぎだよな」祐一は私を更に強く抱きしめ、あっさりと言ってのけた。「頑張れば、あと三回くらいはできるかも」
「さ、三回ってどういう意味よ!」
その意味が分かって動転する私に、祐一は再び覆い被さってくる。
「勿論、香里のことを無茶苦茶にする」予想通り、祐一は真面目に私の方を見つめてくる。「まだ、あれじゃ全然足りない。俺は香里のことが全部欲しいんだ。指一本から、髪の毛一筋に至るまで、手の届かない部分がないくらい、香里のことを抱きしめたい。もっともっと、香里と一つになってたい……繋がってたいんだ。三回でも足りない。本当なら香里のこと、一晩中でも一日中でも抱いていたい。交わっていたい。それくらい俺は……香里のことが好きだ」
祐一は容赦なく、またその欲望を隠すことなく私にぶつけてくる。婉曲的な言い方は余り好きになれないけど、祐一はいつだって良い意味でも悪い意味でも正直に事を口にする。どうも私はそういうものに弱いらしく、またその言葉が祐一から出たとなれば、ほぼ抗うことは不可能だった。その真摯な姿に覚悟を決め、再び熱い抱擁へと身を移そうとしたその時だった。ムードを一気にぶち壊す音が祐一のお腹から聞こえてきた。腹の虫の、声が。
それが一瞬、二人の時を止め、次の瞬間に私は腹を抱えて忍び笑いを漏らしていた。
「祐一、お腹空いてるじゃない……」それは決して逃げではなく、私への想いで空腹を耐えていた祐一に対する愛おしさから出た言葉だった。「そんなに無理しないで。お腹が空いたのなら、私が何か美味しいものを作ってあげるから」
「あ、うん……悪いな」
先程までとは形勢が逆転し、恥ずかしそうに頬を掻く祐一。私はちょっとした優越感から、精神にも少し余裕がでてきた。相手より有利な立場であるというのは、思ったより心が弾んでくるものだ。流石に裸では料理ができないから、床に散乱していた二人の洋服や下着の中からショーツとシャツを選んで素早く手に取る。まだ祐一と繋がっていた部分が少し湿っていたが、祐一の前でティッシュで拭ったりするのは避けたくて、我慢して着込んだ。それから箪笥を探り、白のブラウスと茶縞模様のスカートを穿く。流石に、制服では料理には動き難い。それからトランクスとシャツ、それにワイシャツと制服のズボンを拾い上げるとベッドに座る祐一に手渡した。
「はい、これ。流石に裸で夕食を食べるわけにはいかないでしょ」
ちょっと露骨な言い方かなとも思ったが、祐一の露骨さに比べれば些細なものだと思い直す。
「何も用意してないから、あと三十分くらいかかると思うけど、下で待ってる? それとも、シャワーを貸して欲しい? 大分、汗掻いちゃったしね」
実を言うと、私も汗で体が少しべとべとしている。が、先にシャワーを浴びてたら夕食の準備が遅れるし、少しくらいならと我慢することにした。料理ができるまでは暇だから、祐一だけでもさっぱりしたらと思って持ちかけたのだが、祐一はしかし首を振った。
「いや、香里が料理しているのに俺だけくつろいでいるのもなんだし、それに……」
祐一は言いながらトランクスとシャツを着込むと、とぼけた口調とにやけた表情を浮かべた。
「風呂に入るなら、香里と二人で入りたいからな」
「ふ、二人って……言われても……」またしても形勢逆転。悔しいけど、私は祐一の言葉に完全に慌てさせられてしまった。「えっと、言っとくけど私の家のお風呂って、水瀬家のより狭いわよ」
「俺は狭い方が都合が良いと思うけどな。ずっとくっついていられるし、香里のことをより強く感じられるから」
祐一の調子から、彼は私のことを十中八九風呂場で襲う――この場合は体を求めてくるという意味だ――つもりらしいことが分かる。飾り気がないというか直情的というか……でも、そんな祐一を私は拒めない。いや、私も祐一ほどの積極性はないにしても、彼のことを強く求めている。祐一の望みはまた、同じくらいに私の望みでもあった。変だろうか? 女性なのにこれほど積極的に祐一との行為を望むなんて。いや、それ自体は別に責められる筋合いのものではないと思う。女性が求めたから恥知らずだなんて、何十年前の権威に凝り固まった男の台詞だ。
それよりも寧ろ、私は何故ここまでの激情が心を支配しているのかというのが不思議だった。勿論、祐一が魅力的だということもあるのだろうけど、それにしてもここまで来ると最早病的に近い。もしかしたらまだ、私には私の知らない、理解できていない心の部分が残っているのかもしれない。そして、その部分が祐一との行為を切望している気がした。今はその部分に全てを委ねたいと感じる私も含めて、私の一番を占めている。それは私を満たすのか、それとも壊すのか……それすらも今は分からない。ただ、こんなにも優しく激しくなれるのだから、きっとそれは満たすものだろう。そう結論付けてしまうと、私は驚くほど穏やかに肯くことができた。
「分かったわ、じゃあ一緒に入りましょ、祐一」激しい私のそれが、盛んにそうせっつく。「私も祐一のこと、沢山感じたいから」
胸が疼くのを必死に抑えながら、私は深呼吸をした。それから不意に思い立ち、皺にならないよう私と祐一の制服をハンガにかけた。それから下に降り、再びダイニングへと至る。そこには二人分のココアの飲み指しが残っていた。まずそれを片付けると台所に立ち、冷蔵庫を覗きながら祐一に問うた。
「結構色々食材はあるから大体、何でも作れそうよ」
野菜に各種肉類、魚の切り身に香辛料と、何故か周到的に用意が良い。最初から来客を想定していなければ、こんな品揃えは有り得ない。つまり母は、最初から祐一が訪れるのを見越していたことになる。まあ、あの冗談通りにセックスまで及ぶかどうかは、判断していなかったと信じたい。実際、してしまった今となっては冷やかされること当然の如しだが。と同時に、一種の開き直りのようなものも生まれる。もう、とことんまで行き着いてしまったのだから、これからどんな展開になっても構うまい、驚くまいという強がり。
「祐一は何が食べたい?」
「勿論、香里のこと」祐一がふざけて答える。「と言ったら怒るだろうから、そうだな……なるべく炒め物以外で、昨日食ったからな」
「ん、了解」最初の冗談は聞かなかったことにして、私はその意見を諾した。「でも、煮物も鍋物も汁物もよく考えると少し前に食べてしまってる気がするし……」
何でも良いとか、条件が少ない時が決定するのに一番困る。今までに何度も感じてきたことではあるが、こうして様々な料理を思い浮かべてみてもいまいちしっくり来ない。献立選びに明け暮れる私に、祐一は助け舟を出してくれた。
「そうだ、前に香里、お好み焼きを作るって言ってたよな。俺、ああいうのって殆ど食べたことなくてさ、ちょっと食べたいと思ってたんだ。あ、でも焼き蕎麦と似てるけど……ま、OKってことで」
どうやら祐一はお好み焼きを所望らしい。私としても他に代案がないし、それで腹は決まった。冷蔵庫にはお好み焼き粉にキャベツ、豚肉にもやしなど二人分のお好み焼きを作る余裕は充分にある。卵もてんかすも新鮮なものが揃っており、余程ミスしなければ美味しいものが作れるだろう。しかし、お好み焼きはそのミスの可能性が他の料理と比べると結構高かったりする。特に広島風はボリュームが半端じゃないので、覚悟を決めなくてはならない。
「分かったわ、じゃあお好み焼きね。ちょっと下ごしらえに時間がかかるから、祐一も少し手伝ってくれると嬉しいかな。もやしのへた取りなんて、手間も時間もかかるから」
「ん、了解。って、昨日も同じようなことをした気がするが……まあ良いか」
祐一は俄かに判然としない様子で、しかし籠に盛ったもやしのへたを淡々と取り除き始めた。その間に、私はまず一個分のキャベツを丸ごと千切りにする。広島風では、キャベツを半玉も一玉も使うのが当たり前なのだ。好事家の中には二玉も使う人もいるらしい。続いては市販のお好み焼き粉に卵と少量の水を加えて箸でさっくりとこねながら混ぜていく。クッキーくらいの固さを持つ塊を、適当なところまで少しずつ水で溶いていく。こうすると生地にだまができず、均等に混ぜ合わせることができる。後は豚肉を切り、てんかすや青海苔、魚粉などのトッピングを用意する。そして忘れてはいけないのがおたふくソース。お好み焼きにウスターソースなんて邪道の極みでしかない。
「香里、こっちもできたぞ」
こっちが残りの準備を終えた頃、祐一もまたへた取りを完了していた。私は棚に入っていたホットプレートを取り出すと、テーブルの上に置く。電気式でコンセントを繋げば自動的に鉄板が熱せられる、我が家の定番アイテム。というか、このような北国でお好み焼き用にこんなものを持っている家庭は珍しいかもしれない。
「でも俺、作り方知らないけど。香里は上手いのか?」
「それは愚問と言うものよ」私は意識して祐一に可愛い笑みを浮かべてみせる。「そうでなければ、祐一に食べさせようなんて考えないわ。まあ、結果は見てのお楽しみ」
暗に美味しいお好み焼きを作ると宣言した私。僅かながらプレッシャを感じながらも、油をひくその手は弾んでいた。少量の生地から薄く広く延ばしていくのは正にテクニック。それからうんざりするほどのキャベツ、ほぐした蕎麦にもやしにてんかす、最後に豚肉を載せて返しの生地を満遍なく散らした。山盛りになるくらい具材を乗せなければ、広島風の真の魅力は出せない。
「うわあ、凄いなそれって……」祐一はその様子を見て、心底感嘆の溜息を漏らしていた。「こんなの、本当に引っ繰り返せるのか?」
「さあね、今日は二人分だし運と気力が充実していればってところかしら……失敗しても恨まないでね」
もっとも、恨むと言われても困るのだが。幸い、祐一はお好み焼きの量に圧倒され声を失っていた。私は生地が最も硬く、そして返すのに容易い瞬間をじっと狙う。焦げ過ぎても逆に、下地は弱く空中分解しやすくなってしまうのだ。正にお好み焼きにおける、返しとは一つの鬼門だ。私も何度か失敗して、ようやく半人前には引っ繰り返せるようにはなった。が、いつでもこの瞬間は緊張する。
しばらくすると、水分の爆ぜる音が収まりその瞬間が近付いていることを感じ取れた。あと少し……へらを隙間に挿し込んで様子を確認する。正に狙いのタイミング、私は両手にもつへらに力を込め、手首の動きをもって素早く引っ繰り返した。具材は魔術でも使ったかのように、生地の中へと収まる。実にエクセレント。
「おっ、凄え。香里ってこういうことまで得意なんだな……全く、本当に才色兼備って感じ」
お好み焼きを上手に返せるだけで才色兼備というのは言い過ぎなような気がしたが、ようはそれほど上手くいったのだろう。それにまあ、嫌な気分じゃない。祐一に誉められたのははっきり言って嬉しい。今まで、誉められるのなんて全然嬉しくなかったのに、これも人を好きになった影響かもしれない。また、そう思える自分を少しだけど好きになれる。
「祐一だって、何度か失敗すればできるようになるわよ」私はへらで抑え付け、お好み焼きの容量を圧縮しながら祐一にこう促してみた。「だったら、今度は祐一がやってみる? 二度目はもう形が定まってるし、思いきりよく返せば大概上手くいくから」
「俺が? うーん……」祐一は少し悩んだようだが、やがて興味を持ち私の顔を覗き込んだ。「よし、じゃあ前の学校ではチャレンジャとさえ呼ばれた俺だ。やるしかあるまい」
昔からああだったということを示す事実をうっかり口にしたことにも気付かず、祐一は私から受け取ったへらをまるで武器でもあるかのように打ち鳴らした。たまにお好み焼きの店で子供がやることで、祐一の根本が子供なんだなって理解できる。でも、その姿はとても微笑ましく私の瞳に映った。馬鹿みたいという一言で片付けてきた色々なことが、祐一のお蔭でどんどん解きほぐされていくのが分かる。世界というものはこうも感情に満ち溢れているということを次々と知り、そしてその度に祐一のことが好きになっていく、恋をしていく。全身がバラバラになりそうなほど、愛していける。そんな私が、とても素敵に思える。
「祐一、そろそろ引っ繰り返して良いわよ」豚肉がカリカリに焼け、香ばしい匂いが部屋一杯に漂い出すと、そう指示を出す。「大丈夫よ、ここまで来たら失敗しても充分に美味しいから」
ダイナミックに形が崩れることはないし、ソースの味で何とか誤魔化せたりするからだ。しかし、祐一は更に気合を入れるとへらを一閃、素早く恰幅よく引っ繰り返した。それは見事に半回転、気持ち良いほど垂直に落下していき、高く持ち上げ過ぎたせいもあって……ぐしゃり、完全に崩れた。
「あああっ! 完全に、完全に崩れたあっ!」
当の本人は私なんかより遥かに動転しているらしい。祐一はへらを持ったまま、崩れたお好み焼きを何とか修復しようと右往左往している。しかし、既に固化した澱粉は糊のような修復を許さない。結局、ソースに魚粉、青海苔を乗せて完成したものは見るも無残なゾンビのような姿のお好み焼きだった。何ていうかその、どう声をかけて良いのか分からないし、気まずい。
「あ、えっと、その……」そして不思議なことだが、先程の性行為の時にすら見せなかった如実な動転ぶりを顕していた。祐一は思いきり手を合わし、深く頭を下げる。「悪い、思いきり失敗して……その、思い切ってやってやれって思ったらああなって……本当、まじで悪かった、この通りだ」
こっちは怒っていないのに一生懸命謝る祐一。その姿がまた可笑しくて、私は愉快な気持ちで首を振った。
「別に初めてなんだから、失敗して当たり前なのよ。それに、崩れたら崩れたでちゃんと焼けてたら美味しかったりするんだから。じゃあ、今から食べ易いように切り分けてあげる」
祐一から再びへらを受け取ると、やや難事ながらも私はそれを上手く切り分けて言った。不恰好な十六分割を、しかしソースの香りは優しく包み込んでくれる。この優しさは、やはりウスターソースでは決して出ないだろう。
「ん、ちゃんとできてるから食べて」
促してはみるのだが、祐一は一向にショックから立ち直っていない。このままでは折角作ったお好み焼きが焦げてしまうなと思い、ちょっと恥ずかしいシチュエーションになることを覚悟しながらそれを実行に移す。まず一切れ目を口に運び、咀嚼すると次の一切れを祐一の目の前に差し出した。
「もう、食べてみたけど美味しいわよ。祐一も食べてみて」無邪気に薦めると、ようやく祐一も立ち直ったのかへらに乗ったお好み焼きに顔を近づけてきた。「どうする? 食べさせてあげよっか」
らしくない物言いを披露すると、祐一は即座に首肯する。大きく口を開くと、私は恋人お決まりの行動という奴を実践した。
「ほら、あーんして……」言いながら祐一の口にお好み焼きを放り込む。「どう? 美味しいでしょ」
「ん……お、こりゃ確かになかなかいけるな。形が崩れても、お好み焼きってそれなりに食えるんだな、初めて知った」
祐一は素早く食べてしまうと、もう一度こちらに視線を寄せた。
「香里、もう一個食べさせてくれないか?」
祐一は照れる様子もなく、あっさりとしている。面白くない……どうしてか分からないけど、無性に面白くなかった。
「祐一の馬鹿……子供じゃないんだから、一人で勝手に食べて」もう一個のへらを、不躾に押し付ける。「一人でどきどきしてた私は、本当の馬鹿じゃないの」
「あ……」祐一は手渡されたへらを持ち、さっきとは別の意味で狼狽していた。「ごめん……食べさせてくれたのに、感謝の言葉一つ示してなかったよな、俺って」
祐一は私とお好み焼きを見比べると、切り分けられた塊の一つを私の方に向けた。その目は優しく私を射抜いている。
「香里にも食べさせてやるからな」そっと寄せてくるお好み焼きに、私は顔を近づけた。「ほら香里、あーん」
私は小さく口を開け、そしてゆっくり口に含む。同じ食材でできているのに、何故かそれは数段美味しい。それから私と祐一は、お好み焼きを一切れずつ食べさせていった。停滞していた空気はいつしか、甘く柔く心地良く変化している。
「香里、ちょっとこっちに来てくれないか」
祐一は私を呼び寄せると、私の分の最後の一切れをさっさと口に含んでしまった。が、しばらく咀嚼した後に、祐一は素早く唇を重ねてきた。そして、咀嚼したお好み焼きを少しずつ私の中に流し込んでくる。所謂、口移しというもの。予測しておらずかなり戸惑ったものの、祐一の意図を汲み取ると喉の奥にその全てを受け入れた。
「んんっ……これって、実は一度やってみたかったんだよな」
もう一度、ソースや青海苔を舐め取りながら祐一は深くキスを求めてくる。舌をたっぷりと絡めてさえきた。私は全感覚を舌先に向けそれを余すことなく受け止めると、唇を離し自分でも分かるくらいの甘ったるい声をあげた。
「祐一……私も、食べさせてあげるわね」
少しだけ残された最後の一切れを口に含むと、それを離乳食と見間違うくらいまでたっぷりと咀嚼し、それからお返しとばかり唇を委ねる。キスと舌の動きを組み合わせ、ゆっくり、ゆっくりと祐一に口移しでお好み焼きを流し込んでゆく。食事モードだった私の心は、キスの応酬で激しい心を取り戻してきていた。
溜息すら出る。抑制しても、多方向から寄せられる刺激と愛情とには理性なんて塵に等しい。ただ私は、祐一と繋がっていたいのだ。私はまだお互いの唾液で濡れた唇を、そっと祐一の耳に寄せた。耳朶に軽く触れ、二、三言囁くと祐一は静かに肯いた。
ホットプレートの電源を切ることだけ、防災上の観点から済ませておくと他の片付けは後回しにした。そして、先程約束したことを果たそうと甲斐甲斐しく動いた。祐一を洗面所で待たせると、湯船に湯を――温度は自動調節だから焦ることはない――張り、先程着込んだ洋服や下着を、今度は自らの手で脱いでいく。
「祐一、何をじろじろと見てるのよ」相変わらず、というか欲望を隠さないというのが正解だろうか、祐一は私の動きをじっと眺めていた。「別に、飽きるほど裸だって見てるんだし、いちいちその、注視しなくても良いじゃない。その……見られてると気になるし」
「だって、香里の着替え姿が艶かしいから、思わず目を向けてしまうんだ」別に祐一を誘ってるつもりはないけど、そう見えてしまうらしい。「それに、初めてのシチュエーションだから」
さっきは私のことを脱がせたくせに、今は服を脱ぐ私の姿を見るのが好きだと言う祐一。どうも、彼の嗜好はいまいちよく分からない。それとも要はどちらも好きということだろうか……節操なしと心の中で呟くと私はさっさと服を脱ぎ捨ててしまった。祐一はこれほどにない不満な顔をしたが、祐一は私自身より私が洋服を脱いでいるシーンの方が良いのかなと思うと、少し悲しかった。
祐一は少しして、既にシャワーで汗を流している私の元にすり寄って来る。すり寄るというか、はっきりと背中から抱きしめた。
「香里、俺にもシャワー貸して」
こっちはちょっと複雑な気持ちなのに、祐一は意も介せぬ様子で接してくる。こうなると、私が自意識過剰とも思えてしまう。祐一はどんな私でも愛してくれるっていう甘えた感情を盲信している私が。本当は、祐一にだって愛することのできない部分があるのかもしれない。私は、もしかしたら祐一のそれに触れてしまったかもしれない。それだけでも体に震えが走り、次の瞬間には強く祐一に縋り付いていた。
「ど、どうしたんだ急に……もう我慢できなくなったとか、じゃないよな」
祐一は軽口を叩くけど、私の様子を悟ったのか淡く手を背中に添えて抱きしめてきた。初めてそうした時のように、戸惑ったり激しい快感が襲ってくるということはなかったが、それでも祐一の感触は充足を与えるに十分過ぎるほどだった。
「何か俺、香里の嫌がるようなことをしたか? もしかして、俺とこんなことするのが本当は嫌だって思ってるのか?」
「そうじゃないの……」
祐一がまた勘違いしてるから、私は先程まで思っていたことを迷いながらも話した。
「我ながら、変なことで悩んでるわよね……」
「そんなことないって……」
祐一は私の話を馬鹿にせず、シャワーで湿った髪を撫で始めた。
「ごめん、別に香里の中に嫌いな部分があるってわけじゃなくて……俺がその、すけべなだけだから。俺の知らない香里の新しい部分を見ることができて、馬鹿みたいに興奮してさ。それで香里のことを傷つけたなら……本当にごめん」
祐一の声は少し怯えた、私に拒絶されるのを心底恐れているような、そんな声だった。私がそんなことする筈ないのに。私は言葉の代わりに抱きしめて、キスをした。祐一の言葉を否定するのに、それは一番良い方法だと思えたから。
「私こそごめんね、変なことで祐一を心配させて。お詫びに……そうね、背中でも流してあげよっか?」
有無を言わさず、私はスポンジにボディソープを馴染ませ強く泡立たせた。石鹸にも似た香料の匂いが風呂場の雰囲気に溶け込んでゆく。祐一は微笑みながら背中を向けた。その広い背中を、私はスポンジで丹念に洗っていく。
「じゃあ、今度は俺の番な」
祐一はスポンジを受け取ると、同じく背中をごしごしと洗っていく。しかし、背中だけでは飽き足らなかったのか、首筋から胸にかけても後ろから手を回しながら洗ってくれる。足へ、そしてお尻の方にも……私は興奮と恥ずかしさを必死に抑えないといけなかった。
「ほら、もっと綺麗にしてやるから」
言葉とは裏腹に、いつの間にかその……感じ易いところばかりにスポンジを沿わせてくる。
「祐一、そんなところばっかり洗わないでよ……ぅん……もうっ……」
感覚の極まった私は、甘ったるい声を漏らす前に祐一から無理矢理スポンジをひったくった。
「私はもう綺麗になったから、祐一の方をもっと洗ってあげる」
さっきは背中しか洗わなかったが、今度は祐一を真似て前の方も、足や腰の方もゆっくりと泡で覆っていった。そしてさっきのお返しとばかり、祐一の急所をさするように洗っていく。
「か、香里……うっ、ん……」
以前に口で含んで刺激した時も思ったけど、男の人は本当にこの部分が感じるらしい。
「も、もう良いからさ。流して、二人でゆっくりと湯船に浸ろう、なっ」
逃げるように祐一が退き、そしてさっきから出っ放しのシャワーを掴む。泡はゆっくりと、そして完全に流され、そして僅かばかり古い皮脂や汚れの落ちた姿が露わになる。大して変わりはしないけど、毎日風呂に入らないと落ち着かない。それは私が潔癖症なのか、それとも単なる習慣なのかずっと疑問に思っていた。が、今正にそれが瓦解していた。祐一と風呂に入ればお互いを再び満たしあおうと激しく動くだろう。汗を掻き、また汚れてしまう筈だ。どうやら私はそこまで潔癖症でないみたいだ。それは単なる習慣、不快を取り除くための行為に過ぎない。或いはそれは、愛する人が不快を被らないためにとも言い換えられるのだろうか。
これからするであろう行為にまだ動揺しているのか、愚にもつかないことを考えてしまう。しかし、即座に覚悟を決めると三分の二ほど貯まっている湯の塊に身を委ねた。僅かに肌を焼くその感覚は、今日もまた在り、そしていつも以上に顕著だった。祐一もほぼ同時に侵入を図り、そして衒いもなく私の身体を正面から抱く。狭い湯船の中では、そうでもしないと二人入れない。もとい、大人同士だと二人は入れないというべきだろう。小さい頃はよく、母と入ったが窮屈だと思うことはなかった。
湯と、そして祐一。二重に抱かれているのはまた、空気中と違った感触を与える。祐一は強く抱きしめ、そして頬を私の頬にすりつけてくる。まるで甘えん坊の子供みたいに。
「香里って、やっぱり柔らかいなあ」
頬擦りしているので分からないけど、祐一は情けない笑顔を浮かべている筈だった。
「壊れそうなくらいに細いくせに、俺のことを丸ごと受け止めてくれるし、外も中も触れてるだけで気持ち良いし。もう俺、多分香里に凄くはまってる。香里の全部が、その壊れそうな喉とか腰とか、凄い変態っぽいこと言ってるけど……」
「分かってるわ……私もそうだから」
短い言葉、けどそれだけで事足りる。少なくとも、今の私と祐一なら。
「祐一……その、だから、また……一つになりたいの」
祐一と一つに、深い部分で一つに。身体も心も、もう絡まった糸ほど解けないようにきつく結んで欲しい。そのためなら私は、私から求めることだって辞さない。私は祐一が欲しいのだ。祐一も私の言葉を聞くとすぐに腰を動かし、私の身体を少し持ち上げてから、再び挿入運動を開始した。異物が下腹部を充足していく感覚に、私はとても無言で耐え切れそうにない。
「んっ……はぁん……」
完全に奥に収まったとき、私は思わず艶かしい吐息を漏らしていた。
「はぁ……んっ、んんっ……」
しかし、しばらくしても祐一は全く動こうとはしなかった。それが不思議で私は声をかける。
「ゆう、いち……何も、しないの?」
「ああ、したいって気持ち……はあっ……もあるけどな」祐一もまた、私の中に挿れた影響からか絶え間なく息を荒げている。「俺が香里と一つになりたいと思ってることを証明したいから。セックスだけとか、欲望の捌け口に使いたいとか思ってる訳じゃないことを、香里に知って貰いたいんだ。何より、香里と一つになりたいから……一秒でも長く、一つでいたい。心も体も通じていたい。折角こうしてるのに、セックスしかやることがないっていうのは、何だか悲しく思えるしな。だから…ふぅ……しばらくこうやってたい」
祐一は、いや祐一もまた私と同じことを考えてくれていた。私は以前、祐一も男の行為を助長し女の要求を妨げるような部類の人間かもしれないと心の中で心配していたけど、祐一は全く対等の相手として接してくれている。攻める方は彼の方が圧倒的に多いけど、私が求めても祐一は優しく受け入れてくれた。女性が求めることをからかうことはあっても汚らわしいものとしては決して見てない。平等に感じあい触れ合い重なり合う……そして今も私の望みを最大限に叶えてくれる手段を模索している。
この方法も、しかし近いうちには破綻するだろう。挿入されてるだけでも下腹部を中心に拡がる感情は抑え難くなっているし、祐一も同様の筈だ。元々、性器なんて快楽と愉悦の最適化を行う部位だ。でも、意味がなくてもこうして二人で本能と抗い繋がっていることはとても価値のあることに思えた。
「私も、こうしてたい。祐一と一つになっていたいの。だから限界まで……んふぅ……お互いが限界を迎えるまで頑張ってみたい」
けど、欲望の反応は思ったより顕著だ。祐一との最初のセックスのせいか、それとも先程のキスのためか、反応の増した体は震えて沈黙ではもうどうしようもできなくなっていた。
「祐一、んっ……愛してる」
暴れ馬を抑えるため、私は強く祐一のことを抱きしめた。ふとしたら壊れてしまいそうな理性をぎりぎりで守るために。
「好きよ、大好きよ祐一。愛してるの、凄く愛してるのよぅっ……」
陳腐な使い古された言葉でしか自分の気持ちを伝えられないことに対する焦燥感が強まる。どんなに考えてもこれ以上に想いを伝える言葉が出てこず、貧弱な語彙が嫌で仕方がない。
「こっちもだ、はぁ……香里、香里、かおりぃっ……お前が好きだ。香里、大好きだ。愛してる、もう凄く愛してる、愛してるんだ」
そして少しの間、好きだとか、愛してるとか、ただそんな言葉だけを浴室中に響かせていた。私と祐一は、お互いが夢のような現実を視ていた。のぼせるのが先か、本能に負けるのが先かは一秒たりとも分からないけど、できるなら前者に勝って欲しい。欲望だけじゃなく、それを超えるくらいの愛情を以って今、繋がっているのだと信じたいから。
湯船の中、激しく交わることはないけど、今までで一番満たされているということは分かる。本当なら、ずっとずっとこうしていたい。けど、それは無理だということも十分くらい後になって認識できた。のぼせ上がった体で、視界は霧のように染まり頭も淀んできた。何より、もう動かずにいることに耐えられそうになかった。
「香里……そろそろのぼせて来ないか?」祐一も同じらしく、額を流れる私の汗を手で拭っていく。「それにごめんけど、あの……そろそろ、我慢できそうにない……」
その正直な言葉は、また私の好むところでもある。私が無言で肯くと、ゆっくり結合を解き放ち、触れるだけの淡いキスをした。些細なことだけど、それは明らかに私と祐一のリミットをを破る。風呂から上がり、タオルで水滴を拭き取り終わると同時に祐一は先ほどと違う荒々しさをもって私を抱きしめてきた。
「香里、俺、お前のことをこれからもっと無茶苦茶にする」祐一は熱烈な宣言を私になげかける。「だから……断るのならこれが最後だ。今、嫌だって言えば……」
「我慢、できるの?」私は少し、からかうように言った。「自制しなくても大丈夫よ。私も祐一としたいって、思ってるから。だから遠慮しなくても良いの。本気で私のことを求めて、そして愛して欲しいから」
だから、無理な自制なんてしないで欲しい。祐一の求めるものは、また全て私の求めるものだから。本当の意味で一つになるというのは、そういうことじゃないかと思う。
洗濯籠に入れていた衣服を抱え、戻った部屋は乱れ散らかったままだった。が、それを整理する気もなく手に持った衣服をも床にぶちまけると一つのベッドを二人で共有する。実を言うとまだ、先程のように理性を完全に排除してしまうことが少し恐い。けどそれも、祐一が求めているのだとしたら……一回か二回か、それとももっとか……何度でも良い。私は祐一のため、そして自分のために理性を捧げられる。他人が聞けば眉を潜めるような言葉や行為だって、躊躇うことはない。それは、狂ったように激しい行為を約束するようなもので赤面しそうになるけど、祐一だから……祐一が求めてくれるから……そして私のためにも止める気はない。
祐一に身を委ねながら、私はふとこの幸せが崩れないように強く願った。いや、私と祐一の間を崩そうとするなら誰だって許さない。私はただ私と、そして祐一だけのものなのだから……。