二月十八日 木曜日

第十一場 美坂家〜病院

 それが夢だということは分かっていた。現実の私はこんなことを望んでいないということも。しかし、私から乖離した夢の中の『私』は妖艶な笑みを浮かべてベッドを軋ませていた。一糸纏わぬ体を互いに絡め合わせ、ベッドを激しく軋ませる『私』と祐一。私はそんな悪夢を、ただ眺めていることしかできなかった。これも私という現象なのに、嘲笑うかのようにその動きは激しさを増していく。密に漏れる吐息と嬌声は、振り乱れる汗と共に全てを汚していった。

 祐一は『私』に隆起したペニスを見せつけ『私』はそれを誘うかのように、襞を指で押し広げてみせる。違う、私はそんなことした覚えはない。そんなことしたくないのに……。祐一はギリギリまで『私』の性器に近付けると、一気に奥まで押し貫いていく。悦びの余りよがり狂う『私』……違う、こんなの私じゃない。名雪が、秋子さんが苦しんでいると言うのに、こんなことのできる人間なんかじゃない。いくら何でも、私はここまで醜くない筈だ。

 ぐちゅぐちゃと掻き混ぜられていく二人の中、じゅぷじゅぷと泡立っていく液体の音、汚らしいセックス。快感に身を委ねながら『私』は時折、にいとこちらを振り返り卑らしい笑みを浮かべてくる。その目はこう訴えているかのようだった。どんなに言い訳したってお前の本性はこれだ、祐一と狂ったようにセックスをするのがどんなことよりも大切なのだ、名雪や秋子さんのことなんて本当はどうでも良いのだと、揶揄しているように見えた。

「やめて、違うの……私はこんなんじゃない……」

『あぁん……祐一、イイの、祐一のが凄くイイのっ』

「私の口を借りてそんなことしないで。私の振りをして、そんなことしないでっ。お願い、お願いだから……」

『お願い、もっと掻き乱して。祐一のでもっと感じさせて……』

「嫌っ! こんなの見たくない、見たくない、見たくない……」

『もう、死にかけの奴らなんて関係ないのよ。だから祐一、私のことをイかせて。もっと乱れたいの、祐一とセックスがしたいの。はぁん……んっ……祐一とずっとセックスしていられたら、もう他のことなんてどうでも良いの……』

「やめてええええええええぇぇぇぇっ!」

 爆発にも似た叫びが、欺瞞に満ちた夢を吹き飛ばしていく……。

 そして、私は夢から醒めた。喉がカラカラに渇き、汗もひっきりなしに流れていた。胸の動悸は激しく、頭の中はドラムでも内蔵されているかのような大音量を叩きつけている。胸が苦しい……ひっきりなしに呼吸していないと心臓が止まってしまいそうだった。なのに、あれほどまで鮮明に記憶された悪夢。縛られたかのように立ち竦んだ私が見下ろす『私』と祐一の激しいセックスの光景。隣では秋子さんが苦しみ、その側に寄り添いひっきりなしに弱音を漏らしている。その隣で『私』は祐一を無理矢理誘い込んで、それから、それから、それから……。

 胃が暴れ、今にも戻してしまいそうだった。それを辛うじて留めているのは、脳を焼くような嫌悪感。だらしなく体を弛緩させている自分、そして汚らしく濡れた私の下着……激情に駆られ、自分を殺したくてどうしようもなく、私は跳ね上がるように飛び起き、机に置いてあったナイフの刃を露出させ手の甲に突き立てようとする。

その数ミリ先で私は塵ばかりの理性を取り戻し、ピタリとその切っ先を止めた。このまま、狂気に身を任せ手首を思うがままに突き刺せたらどんなにか楽だったろう。けど、弱虫の私はたったそれだけの罰すら体に刻むことを許しはしない。何て半端な理性だろう。その反面では、夢であんなに乱れた私を生み出したくせに。

 夢は願望を映す鏡だと聞いたことがある。だとすれば、私は本当は秋子さんや名雪が苦しむその隣で、それを嘲笑うかのようにセックスしたいと考えているのだろうか。嘘だ、そんなの嘘だ。現実の私は夢の中の愚考に怒りを表している。許し難いとしきりにシンバルを打ち鳴らしている。ただ一つ言えるのは、優しさという幻想は既に粉々に打ち砕かれたということだけだった。祐一を愛するようになって、私は際限なく優しくなれると思った。けど、それは錯覚だった。私は祐一を愛する余り、周りの人たちがどんな感情を抱いているかを考えることすらできなくなっていた。私の優しさは、ただ恋人に媚びるそんな優しさでしかなかった。恋に狂った愚かな私が夢想した幻想でしかなかったのだ。結局、生身の私は今も汚らしく醜かった。泣きたいくらい、愚かだった……。

 全身を鞭打たれたかのような痛みと脱力感が、仮釈ない悲鳴を細胞の底から押し上げていた。痰が絡まったかのように喉が詰まり、胃腸は反逆の狼煙を上げ中から万力で押し潰されているかのようだった。階段を下りることさえ重労働で、私は壁伝いにゆっくりと進んでいく。不規則な呼吸が、ひっきりなしに漏れ出た。本当なら、歩き回るのだって億劫なのだ。けど、私だけ休んではいられない。

秋子さんはこうしている今でも、この全身を灼き尽くすような苦痛の何倍ものそれをはねのけようと必死で戦っている。名雪はきっと、その側を必死に寄り添っているだろう。例え嫌われていようとも……どんなに逃げ出したくても、逃げ出すことはできなかった。

何故なら、私も二人を傷つけたからだ。呵責の念はますます募り、私の体を今にも押し潰そうとしていた。人間は決して罪に押し潰されたりはしない。ただ、そう錯覚するだけだ。湯気立つ氷が、決して熱気によるものではないのと同じように。しかし、人間は精神の痛みを肉体の痛みにできる。火の棒を押し当てられていると錯覚すれば、変哲のない金属でも火傷を負わせることができる。それと一緒だ。肉体的に押し潰されることはなくても、精神が死の加重を思えばその人間は本当に圧死してしまう。

 生きていることに意味がある。私がいつしかしがみついている幻想。けど、人を傷つけることしかできない私にどんな意味があるのだろう。ただ存在するよりもタチが悪い。まるで自分が、不幸を撒き散らす悪性の腫瘍であるかのように思える。他人の温もりに堂々と寄宿し、それを散々と利用し尽くした後、すべてを奪ってのうのうと次の宿主を探す、汚らしい癌細胞みたいだと。

 このままでは、私が全てを壊してしまう。そして、私も壊れてしまう。私は何も壊したくないのに、それでも私の存在が誰かを壊していく。おぞましい、余りにおぞましい世界。考えただけでも寒気と吐き気がする。喚起した瞬間、それは現実となった。私はトイレに駆け込み、胃に溜まった胃液を全て便器の奥底にぶちまける。そんな自分が情けなくて、酸の臭いのする中で涙を流した。私にはこんな、ゴミ溜めほどの価値しかないんだと心に繰り返しながら。

 トイレの小さな洗面台で顔を洗い、丹念に消臭スプレーを撒いて外に出る。続いて洗面所で口を漱ぎ、たった今しがた顔を洗ったようにみせかけた。その直後、母が声をかけてきたのは私には非常に幸運だった。

「香里、おはよう……」そう声をかけ、私の顔を覗き込んだ母ははてと首を傾げた。「どうしたの? 酷く顔色が悪いみたいだけど。まだ、風邪が酷いの? それとも何か悩み事?」

 特有の鋭さが徐々に戻りつつある、しかしそれは余りにもはた迷惑な指摘だった。私はふいと顔を背け、踵を返した。今はとてもじゃないけど、朝食を食べる気分じゃない。

「朝食、今日はいらないから」

細い声で告げると私はベッドに倒れ込んだ。あと十分だけ、一握りの気力と勇気が沸いて来るまで休んでいたかった。今度は、夢は見なかった。それだけが救いだったような気がする。

 ドアをノックする音で目覚め、時計を見上げると七時五十分。そろそろ身支度も始めないと危ない時間だ。十分と言っておきながら、三十分近く眠っていたようだ。しかし、胃の中身を全て吐き出したことも相俟って気分はいくらか良好だった。グリーン・ゾーンとは決して言えなかったが、他人に不安で声をかけられることもないだろう。ただ、唇はかなり蒼ざめていたので心配をかけないよう僅かに朱を点した。母から数年前に強引に押し付けられたプレゼントが、今日初めて役に立った形になるわけだ。ただ、それは死化粧にも似てただ人間に生気を錯覚させる類の化粧だった。

 母にすぐ下りると答えたあと、制服に着替えて部屋を出る。もっとも、今日は学校になんて行くつもりはなかった。これは、母親を騙すためのフェイク。

「大丈夫? まだ風邪気味なら休んでも良いのよ」

 私は首を振ると「行ってきます」と気丈に挨拶した。風邪気味だという私の嘘を疑いもせず、にこやかに見送ってくれる母に対する罪悪感が胸をちくちくと突付く。溜息と呼吸とをない交ぜながら、向かうのは秋子さんの入院する病院だった。昨日は面会謝絶だったけど、今日は大丈夫かもしれない。とにかく、ただ会いたかった。会って何をするか、何を言うのかなんて考えていない。

 病院の面会時間は九時から十八時までということを、私は栞との面会の中で知っていた。丁度都合よく、徒歩で三十分以上もかかる病院までの道程。私はいつもの二倍の時間をかけてゆっくり、寒波が苛むに任せて歩を進めていった。それが私には相応しいと思う。

 学校とは反対側を進む私の姿を、稀に訝しげに見つめながら通り過ぎていく人々。そんなものは気にならなかったが、巡回中の警察官や補導員に捕まるのは厄介だ。まあ、そうなれば病院で診てもらってから学校に行くと嘘を付けば良い。母すら欺き通せたのだ、赤の他人にばれる筈などない。

 しかし、そんな心構えなど杞憂だと言わんばかりに、何のトラブルもなく私は病院に着いた。見慣れた建物はいつも巨大で、そして病人たちを睥睨している。その姿は私に死を想わせた。緩慢な流れの果て、朽ちるように力尽き果てていく死の姿を。

躊躇いながら中に入ると、一人の看護婦が親しそうに声をかけてきた。確か、栞のために粉骨砕身してくれた病院関係者の一人だ。そういう人物が、ここには十人くらいいるのではないだろうか。彼女はその中で最も同情深く、両親とも気が合っていたように思える。私はどんなに頑張っても、彼女ほどに栞を労われない自分への嫌悪からこの人を意識して避けていたように思える。しかし、それも無くなった今、彼女を避ける理由はなかった。

「香里さん、お久しぶりですね」その柔らかな口調に、私は思わず頭を下げてしまう。「私も葬儀の方に向かわせて頂いたのですが、ご両親や香里さんに声もかけられずに……その、どう声をかけたら良いか分からなかったもので。変ですよね、看護婦のくせに患者の葬式に出るのに慣れてないなんて。でも、栞ちゃんのことは本当に残念で……あんなに明るくて良い娘だったのに……」

 既に三十路へと差しかかり、患者の死にもようやく慣れてきたはずの彼女は、しかし涙を零さんばかりに顔を震わせている。彼女にとっても、栞の死はショックだったのだ。あんなに良い娘なんだもの、いなくなって悲しいなんて思わない人なんていないだろう。

「すいません……」しかし、その役目を十二分に知っている看護婦は涙をすぐに拭い毅然と前を向く。「外来の方に、こんな弱々しいところを見せてしまって」

「いえ、別に気にしてません」

嘘ではなく、私はそう答えた。それよりも、私は自分に代わって栞を悼んでくれる女性に感謝したいくらいだった。あの葬儀の出席者の殆どにとって、悲しくはあるけれど栞の葬儀は他人事だった。その点、この人のことは本当に信頼することができる。私は奇妙な連帯感を、沈黙のまましばし目の前の看護婦と共有する。

それから気持ちを本来の目的へと切り替えた。

「それで……今日は親友の母親のお見舞いに来たんです。水瀬秋子という女性の方ですが、ご存知ありませんか?」

「水瀬……ああ、あの綺麗な女性の方ね。ええ、今は外科病棟の集中治療室の一室にいますよ」その声は決して明るくなく、見舞い客の手前、わざと毅然に振るまっている節があった。これもまた、看護婦という職種に長く接してきた所以だ。「もう麻酔は切れたし、そろそろ目覚めても良いんですが……まあ、麻酔というのは人によって効果が違いますから。水瀬さんは偶然、麻酔の効きやすい体質だったんでしょう。ええ、そんなに心配することありませんよ」

「そうですか……」どんなことを言われたとしても、私はこう答えることしかできなかっただろう。そしてこう尋ねることも、止められなかった。「では、秋子さんは遅くともいつくらいに目覚めるのでしょうか……教えて下さい」

 すると、看護婦の女性は僅かに目を逸らした。それは明らかに、話すことを拒絶している目だ。

「あ、すいません。今の状況では、一概には言いようがないですね。答え難いことを聞いて、申し訳ありません」

「いえ、良いのよ……担当患者の病状も答えられないようじゃ、看護婦失格ですものね」自嘲気味に微笑むその姿が、しかし如実に状況の悪さを表していた。「良くすれば、今日、明日中にも目覚めるでしょうね。少なくとも、今のところでは脳波にも異常は見られないし自発呼吸も確認できますから。右半身麻痺や言語障害などが――出血したのは左脳の方ですから――残るかもしれませんが、それは後のリハビリで回復もできると思います。しかし、数日経っても目覚めなかった場合……非常に危険です。こうなるともう、私たちでも水瀬さんがどれほど眠り続けるか検討がつきません。一週間、一ヶ月、一年、もしかしたらそれ以上かも……」

 それは、暗に植物状態となる運命を形作っていた。その身に時を刻みながら、しかし決して時の流れを知覚できない状態。死に最も近い状態。不安に呑まれそうになる私に、看護婦の女性は更に残酷な現実を以って飾り立てた。

「うちの病院には小さい時からずっと植物状態で眠り続けている少女がいたんです。香里さんももしかしたらご存知かもしれないけど」

 その問いに、私はゆっくり首を振った。私は栞だけが気がかりで、他の患者になど心を傾ける余裕などなかったのだ。それに栞も、意識してか否か、他の病人のことは滅多に話さなかった。あるとしたら、それは栞を置いて退院していく同年代のずっと軽い症状。そしてその度に、羨ましげな視線を向けていた。そう、決して不平は漏らさなかったけど、羨ましがってはいたのだ。

「もう、七年以上になるでしょうか。その娘を看護していたのが私の親友なのですが、今から半月ほど前にとうとう眠るように逝ってしまって。彼女を宥めるのに、久しぶりの休暇を自棄酒に付き合ってあげたからよく覚えてるんです。名前は確か……」

 その時、丁度新米風の看護婦が間に割ってきてまくし立てた。

「あの、すいません。たった今、交通事故で急患が入ってきて。それで人手が足りなくて……」

「分かった、今行くわ。ごめんなさい、香里さん。ちょっと案内はできないみたいだから、受付の人に聞いて下さいね」

 そう言い残すと、二人は早足で病棟の奥へと消えていった。先程の少女の名前は僅かに気になったが、敢えて接点を持とうとも思わなかった。それに、不安材料をこれ以上増やしたくない。受付で秋子さんの病室を訊くと、私は一直線にそこへ向かう。そして病室の前に立った時、奥からか細い声が聞こえてきた。

「おかあさん……」名雪の声だった。「おかあさん、林檎剥けたよ。早く食べないと、表面が茶色になって美味しくなくなっちゃうよ」

 私はとてもじゃないが、その間に割って入ることができなかった。ただ音を加えることでさえ、悪徳のような気がした。

「おかあさんほど上手じゃないけど、わたしだってこれくらいできるんだよ。何も食べないと、体に悪いよ」

 名雪の声は、しかし秋子さんの命を永らえさせる装置の稼動音をより際立たせたに過ぎなかった。しばらくの沈黙の後、名雪は壊れたオルゴールのようにただ一語を繰り返した。

「おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん……」

 耐えられなかった。名雪がもう、これ以上泣くことに耐えられなくて私は思わずドアを押し開け、中に入る。

「名雪……」

そう呟きながら近付く私を射抜くのは、昨日にもまして虚ろな名雪の目。まるで冬の荒野のように惨憺たる空気が、ヒータの利いた部屋を冷たく染め上げている。そして手を伸ばせば届く距離まで近付くと、私はもう一度声をかけた。

「なゆ……」

 唐突に、左肩に熱湯を浴びせかけられたかのような激痛が走った。音も立たずにすっと、その凶器は肩から引き抜かれた。今まで秋子さんのための林檎を優しく剥いていた果物ナイフ。それは今、私の血でとろりと濡れ、ぴちゃりと床に大きな血痕を作っている。

 名雪は笑っていた。私は刺傷の痛みを堪えきれず、思わず肩を抑えて情けなく床に転がった。名雪はとても冷たい笑みを浮かべていた。私は血に滲む制服を必死に抑えた。名雪は、汚らしいものを上から見下し、そして笑っていた。

「ど、どうし、て……」

「香里のことが嫌いだからだよ。香里のことが世界で一番、嫌いだからだよ。だから刺したんだよ」それがまるで当然の権利であるかの如く、名雪はナイフに付いた血をぺろりと舐める。「凄くまずくて腐った血だね。自分のことしか考えてない女性の血って、みんなこんなにまずいのかなあ……」

 抑えても流れ出る血。赤く濁ったその色は、私の今の汚さを象徴しているかのようだった。規則的に響く電子音や機械音、その中を穏やかに眠り続ける秋子さん、ナイフを持ち笑顔で佇む名雪。苦悶の表情で楽園を歪める私。総じて狂っている世界の中で、一番気が違って見える私が一番正気だなんて、何て滑稽な世界だろう。もしかしてこれは、できの悪い夢なのではないだろうか。

 けど、名雪はこの世界の現実性を主張する。際限なく、私に痛みを植え付けることによって。

「痛い? そうだよね、こんなに血が出てるもの。でもね、お母さんはもっと痛いんだよ。綺麗な髪の毛も全部剃られて、頭蓋骨を鋸で切り裂かされて、メスとか管とかで寄って集って弄ばれたんだよ。包帯でぐるぐる巻きにして隠されてるけど、頭蓋骨には醜い傷が残ってるんだ。それなのに恥じもせず、こんなところに現れて。殺されたって、本当は文句も言えないんだよ。でも、こんな女を祐一は必死で愛してる。何か、馬鹿みたいだよね……」

 今や名雪は絶対的勝者で、私は痛みでのた打ち回る敗者。けど……それなら何故、名雪はこうも涙を流しているのだろうか。どうして、私はそんな彼女を可哀想だと思えるのだろうか。決まっている……こうまでされても、いくら罵られても、私は名雪が好きなのだ。どんなに名雪が私のことを嫌っても、私は名雪のことを嫌いにはなれない。欺瞞と言われても、大切な親友だから。

「嫌いだよっ、香里なんて世界で一番、大っ嫌いなんだからっ! うっ、うっ……嫌いなんだからぁ!」

 カランと、ナイフがリノリウムの床に落ちる。続いて、コツコツと靴の音が近付いてくる。この足音は、きっと看護婦だろう。目の前には涙を流す名雪。私のためにこんなにも苦しんでいる名雪。彼女に報いるためには、少しでも彼女のためになることとは何だろうか。痛む肩が、私に答えを指し示してくれた。名雪に罪を負わさないこと、罪を引き受けるのは私だけで良い。

 咄嗟に怪我をした方の手でナイフを拾い上げると、私は反対側の肩に思い切り突き立て、それからすっと抜いた。ドラマのように、ぐさりとかずぶりとかいう音は全くしない。ただ静寂のみが血の演舞に応えるのみ。

 ドアが開き、そして滑稽な舞台は明らかになる。途端に響き渡る悲鳴。その悲鳴は果たして、訪れた看護婦のものだったろうか。それとも名雪のものだったろうか。意識を失いつつある私に、そのことを確かめる術はなかった。

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