二月十八日 木曜日

第十二場 病院

 秋子さんの入院している場所、それは同時に栞が死を認定された場所でもある。無慈悲にただ静かに、二度と目覚めることのない眠りを享受した栞。回りを取り囲み涙を流す両親、そして何故か冷めた調子の俺と香里。けど、それはまだ現実に気付いていないからだった。夢の中に、そして奇跡という名の幻想によって来ただけだ。そんなもの、滅多なことで起こるものではないのだと、気付いた時に初めて俺は泣いた。香里も泣いた。

 そして緩慢な歩みの中で、前に進めているのかも分からない夜の闇の中で香里を好きになって少しは光を見出せた気がして……香里も俺のことを好きだと言ってくれて泣きたくなるほど嬉しかった。ただそれが傷を舐めあっているだけだと思われても、互いを慈しむことができれば躊躇わずに前を進めると思っていた。

 けど、二人だけで在る世界など存在しない。俺はそれすらも知らなかった本当の馬鹿だ。俺が香里を愛していて、香里が俺を愛してくれて、それだけで成立する世界など在り得ないのに。現に秋子さんは苦しんでいる。名雪も苦しんでいる。北川のことも傷つけてしまった。逆切れし、殺してしまおうとさえした。

 もう、何が正しいか分からない。人を愛することも、ただ他の人間を傷つけるだけ。優しい笑みを信用して、その人は心の中で必死に苦しんでいることに気付かなかった。苦しみ悩むものを慰めようとすれば、手酷い言葉と暴力によって踏みにじられる。俺はどれだけ正しいのだろうか、どこまで間違っているのだろうか。もしかしたら……俺という存在がこの街に現れたこと自体が間違いだったのかもしれない。それ故、機能を保持していた世界が脆くも崩れているのかもしれない。そう思うと居た堪れない気持ちになった。

 偉い言葉を大層吐きながら、本当はそんな言葉を吐く価値など微塵もない人間。縋ってくる人間を誰も救えない人間。愛することもロクにできない人間。それが俺だった。その全てが俺だった。そして、そう思う度に気が狂いそうになる。後一歩、誰かが背中をぽんと押してくれたら、俺はきっとその中に果てしなく堕ち込んでしまうに違いない。何もできないことがこんなにも辛いのだろうということを、知りたくなくても現実は押し付けようとする。残酷に、そして最も悲劇めいたやり方で。

 しばらく立ち止まり、病院の庭を散歩する患者やその家族を惚と見つめていた。意味するところはなく、ただ病院に入るのを少しでも先延ばしにしたいというだけのことだ。そのうち、それも虚しくなって俺は中に入った。外来患者の待ち受け場所では、医師の診察を待つ人々が思い思いに腰掛けている。その勢いは正午過ぎであっても、途切れることはないようだ。

 あれから病院に戻り、朝方近くまで秋子さんのことをずっと案じていたせいかまだ体が重たい。現実には三時間ほどしか眠っていないのだから、当然だろう。夜勤の医師や看護婦はしきりに帰宅や睡眠を促したが、いつ秋子さんが目覚めるかと思うと眠ることなどできなかった。その時、側に誰かいてくれなければ不安に思うだろうからと、俺は夜通しその役目を遵守した。

 名雪がやって来たのは朝八時前だった。普段なら診療時間ですらなかったが、特別扱いとしてくれたみたいだ。既に面会謝絶の札は外されていたが、俺は中に入る気になれなずにずっと外で待っていた。顔を合わせることすら、おこがましいと思ったからだ。名雪もそんな俺の考えを肯定するかのように、鋭く睨みつけると病室に入っていく。その目は人殺しと、俺を責めていた。

 歩く気力もなく、タクシーを拾って家に帰ると丁度八時。耐え切れずに三時間だけ眠ると、秋子さんの着替えや何やらを持って再び家を出る。名雪の荷物にはどう考えても、そういう類のものが入っているとは思えなかった。だとすれば、俺が運ぶしかない。陳腐な使命感が、俺を何とか救ってくれていた。こんな時、何もできないというのは拷問に等しい。

 名雪と鉢合わせすることを恐れながら――自分ながら情けない感情だけど――俺は瞬き光度の下がった蛍光灯の下をゆっくり歩いていった。その途中、俺は誰かがすすり泣く声を聞いた。見回すと、廊下の陰に二人の看護婦がいた。一人は涙を流し、もう一人はそれを必死に宥めている。

「水瀬さんのところ、ようやく落ち着いたみたいだし……だからそんなに泣かないの。看護婦が患者の容態にいちいちメソメソしてたら看護婦なんてやっていけないでしょ」

 どうやら二人は秋子さんの容態について話しているらしかった。しかもただならぬことが起きたらしい。俺は不安になって、身を潜めながら二人の話を聞き続けた。

「泣いても構わないけど、患者の前でそれを見せたら駄目よ。残酷な言い方だけど、貴女は大勢の患者を受け持ってる。その人たちが皆、不安に思うんだから。もう、そんなことを諭されるような年齢でもキャリアでもないでしょ、しっかりしなさい」

「でも、でも……」見たところ同年代のようだが、もう一人の方はまるで子供のようにしゃくりあげていた。涙もひっきりなしに頬を伝ってその跡が痛々しい。「あんなところを見せられたら誰だって動転するに決まってるじゃない。だって、自殺未遂なのよ。私、ナイフで肩を刺すところを見せられたんだから……」

 二人の会話に急激な悪寒が走る。低迷していた肉体が音を立ててうなりを上げ、俺は思わず看護婦に詰め寄っていた。

「ちょっと待って下さい、自殺未遂って何ですか?」突然の登場者に驚く二人。呆然と佇む看護婦たちに向かって、俺は大声でまくし立てた。「俺は秋子さんの甥なんです。だから教えて下さい、何があったんですか? 自殺未遂って、まさか名雪が?」

「水瀬さんのご家族の方ね」気丈そうな看護婦の方が、慌てる俺を冷静に諌めて問うてくる。「私は彼女の担当じゃないけど、状況はよく知ってるわ。名雪って言うのは水瀬さんの娘さんのこと? あの、ストレートヘアで綺麗な女の子のことよね?」

「はい、そうです」祐一は即座に首肯した。「あいつ、秋子さんが倒れて無茶苦茶参ってて精神とかも不安定で……だから、もしかしたらあいつが自殺しそうになったんじゃないかって」

「そうなの……でも彼女じゃないわ。名雪さんは同じ部屋にいて、引っ切り無しに叫びながら取り乱していただけですから。名雪さんの方には今、鎮静剤を投与して病院の一室で眠ってるわ。本当はこういうやり方、好きじゃないんだけどあのままじゃ暴れて何を仕出かすか分からなかったの、ごめんなさい」

 こちらを落ち着かせようとする意図もあったのか、ゆっくりと文節を区切りながらの説明を聞き、どうやら名雪ではないことに安堵する。しかし、だとしたら誰なのだ? 俺の思いつく中で、自殺してしまいそうな人間と言えば……。

「自殺を図ろうとしたのは香里さん……貴方は知ってるかしら。以前、この病院によく妹を見舞いに来ていたから私は良く知って……」

「馬鹿な!」俺は思わず叫んでいた。「なんで香里が、どうして自殺なんてしないといけないんだ!」

「ちょっと、落ち着きなさい。ちゃんと説明するから、もうちょっと冷静になりなさい」

 そう諭されるが、全身を滾る血は俺を留めなかった。

「何でそんなことが起こるんだ。ここは病院なんじゃないのか? 病院でどうして怪我人が出るんだ、おかしいじゃないか。何故、誰も止めなかった。何で香里を誰も止めなかったんだ」

 興奮のままに、相手を責める言葉が次々と口を出る。

「看護婦だって、病人にいつも付いてるわけじゃないわ。ただ、叫び声や何やらを聞いて駆けつけてみると一人はナイフを握りしめたまま両肩に深い傷を負って倒れていて、もう一人は叫び声をあげて暴れてたの。詳しいことなら、私たちのほうが知りたいくらいよ」

 拗ねるように言い捨てるその態度に、怒りが胸を灼く。心の奥底ではこんなことをするべきではないと分かっている。けど、今は責任逃れのようなその言葉を撤回させたかった。胸倉を掴んで、ぶん殴ってやりたかった。実際、もう一人の看護婦が啜り泣く声を強めなければそうしていただろう。そして俺たちの喧騒に当てられたのか、甲高いヒステリックな声で叫び出した。

「もう嫌だ、何で私のところにだけこんな辛いことが集まるの? どうしてこんな悲しいことばかりが集まるの? 私、必死に頑張ってるのに……頑張ってるのに……」

 何故、突然に泣き出す? 苛々する。苛々しながら、不思議に思う。以前の俺には激して怒り、その感情の源となる人間に直接ぶつけようなんてしない人間だった。怒ったことは何度もあるけれど、それは胸の中をじわじわと焦がしていくようなタイプの感情だったし、大概はそれにも耐えられた。この感情の差が分からない。しかし、俺は今の感情を知っている。これは、香里を激しく求めたいと思うのとよく似ていた。また悪寒がする。人を激しく愛するということと、殺したいというのは紙一重の感情なのか? そんな筈はない、これは錯覚だ。余りに衝撃的なことが重なり過ぎたから、頭が混乱しているのだ。

 看護婦の泣き声は大きくなっていく。要領を得ない話がもどかしい。泣くなと叫びたかった。泣きたいのはこっちの方だ。

「あなたは疲れてるのよ」と隣にいた看護婦が手を肩に置く。「最近、全然休みも取ってないじゃない。後で私が婦長に連絡しておくから今日はもう帰りなさい。もう、一ヶ月近くも休みを取ってないんでしょ……体も心ももたないわよ、それじゃ」

 そう言われて、しばし躊躇う様子を見せたが、言われた方にも思い当たる節があったのだろう。僅かに肯いて、涙を拭うと足取りをふらふらとさせながらどこかに歩いていった。

「彼女もいつもはああじゃないの。もっとしっかりしてる筈なんだけど、ずっと付き添っていた患者が死んでしまってね、それでショックなのよ。ここに新米として赴任してきてから七年以上、ずっと世話を見てきたのだから、当然と言えば当然なんだけど……あっ、ごめんなさいね、色々と変な話しちゃって」

「いえ、別に……」感情を揺らす原因がなくなり、僅かだが平常心を取り戻していた俺はぼそりと答えた。「確かに、それだけ付き添ってると情も移りますよ、俺にも心当たりがあるから」

 名雪と秋子さん、香里と栞。親娘、そして姉妹。生まれた時から一緒で、お互いを大切に思いあえる関係。だから、その片方がいなくなればもう片方にも影響を及ぼさずにはいられない。半身を失ったかのような痛みは、いつまでも消えずに残ってしまう。そう思うと、ヒステリックに泣いていた看護婦を心の中で責めていた自分が随分と浅ましく感じられた。

「そう……でも、仕方ないのかもね。だって、皆が悲観する中で彼女だけが必死で介護してたもの。あゆちゃんはきっと目覚める、だから私だけでもちゃんとしてなくちゃって」

 気だるそうに言う看護婦の言葉に引きずられそうになる俺。と、その言葉に何か違和感を感じた。胸を掻き毟られるような、抗い難い違和感。そして、その名前が俺にとって特別な名前ではないかという強い予感。全てを知ってはならないと、警鐘を鳴らす頭。いつも頭痛や嘔吐感を生み出してまで、記憶の復元を留めてきた体。夕焼けと共に思い出す血の色。黄昏よりも暗い血の色。白い――いや、赤だったろうか、血に塗れてよく分からない――カチューシャを付けた儚げな少女の笑顔。絡められる小指、そして弱々しい言葉。

『約束、だよ』

 と、彼女は言った。それは……俺が月宮あゆという少女に対して記憶している事象の全て。何かが変だ、何かが俺の中で間違っている。認識の相違、事実の歪曲、都合の良い記憶への変換。

「……どうしたの? 急にぼうっとして。大丈夫?」

 余程、思考に没頭していたのだろう。俺は是非を言う間もなく問うていた。違和感の理由を明らかにするために。

「そのあゆって娘の苗字は何なんだ? もしかして、月宮って言わなかったか」

「……そうよ」俺がその名前を知っているのが不思議なのか、看護婦は首を傾げながら肯定した。「もしかして、彼女の知り合いか何か? だとすると、世界って意外と狭い……」

「そんなことはどうでも良いんだ」

思わず怒鳴りつける俺。冷静に話し掛ける余裕など既になくなっていた。おかしい、七年以上もずっと寝たきりだったのなら、あの時に現れた『月宮あゆ』という少女は何者なのだ。ぞわりと、背筋を冷たいものが走る。幽霊とか生霊という、馬鹿馬鹿しいものを考えてしまった。そんな筈はない。この世界では、そういう不可思議現象や奇跡なんてものは起こらないようにできているのだ。そんなものがるとしたら何故、栞は助からなかった? どうして、そんな滑稽な現象だけが発露するんだ。ほら、変じゃないか。あいつは、同姓同名の単なる別人だ。鯛焼きが好きで、食い逃げまでしてしまう間抜けな奴だ。栞と出会った時も、自ら木にダイブするような……。

ちょっと待て、それもおかしいじゃないか。あの時、あゆは七年ぶりだと言った。何で、七年前のことをあいつは知っている? 誰かに教えて貰った? そうだ、それが正しい筈だ。幽霊になって現れるなんてそんな、そんな馬鹿なことが……。

でも、だとしたら……何故、あゆを最後に見た時とこの病院に入院していた『月宮あゆ』の死亡時刻が一致する? これも偶然なのか? それともタイムリミットが来てしまったのか? 何のタイムリミット?

「そんなわけがない!」

俺は思わず大声で叫んでいた。それこそ口にすることすら馬鹿らしい、いや……口にしてしまったら全てが壊れそうな予感。そのタイムリミットとは……。

『探し物があるんだよ』

 その、タイムリミットではないのか? 違う、そんなものは存在しない。人の命を救う都合の良い探し物なんて存在する筈がない。何を信じている? どうしてそんなものを信じている? そんなものを信じてはいけない。それを信じたら俺は本当に終わってしまう。奇跡なんて起こりようがないからと断定し、割り切れた感情が全て崩壊してしまう。でも、もし俺が探し物を見つけることができていたら、もしかして助かったんじゃないのか? そんな荒唐無稽が染み付いて離れない。眩暈がし、俺は思わず壁に寄り添った。全身に力が入らず、何故か脱力感が酷い。頭が痛い。まるで脳を直接、手で掻き回されているかのように痛い。狂ってしまうほど痛い。それでも容赦なく、記憶は引き出されていく。取り留めのないことを、ただ激しく羅列してしまう。

 この世が、科学法則だけで成り立つと誰が決めた? この病院で一人寂しく眠っていた少女と、商店街を明るく走り回っていた月宮あゆという少女。常識で考えれば、そんなこと在り得ない。人間は同時に二箇所には存在できない。だからこそ、ミステリィだって現実の犯罪捜査だって存在できるのだ。でも、そんな表面的な部分よりもっと深い箇所で俺はそれが事実だと理解していた。七年前、俺が『見殺し』にした少女。月宮あゆ……俺が、彼女を殺したんだ。あの時、俺は何もできずにただうめき俯くのみだった。思い出していく、血に染まった自分。思い出していく、何もできない自分。そしてあゆは俺の気付かないところでひっそりと死んでいった。俺だ、俺はあいつを二度『見殺し』にしたんだ。

 なんだ、こんなことに気付かないなんて変じゃないか。そう、変だった。あゆも、栞も、秋子さんも、俺が『見殺し』にしたも同然じゃないか。何で、こうのうのうと正気でいられる? 俺のせいで香里や名雪は酷く傷ついてるじゃないか? 何故、気付かなかった? どうして、俺はここにいられる?

 どうして、俺はこうまで他人を傷つけて存在していられるんだ? 本当は何も傷付けたくなんかないのに……俺がここにいるだけで皆を傷つけてしまう。それは完璧なまでに絶望的だった。

 もう出ようと、思った。こんな街、もう出ようと思った。俺が皆を傷つけるなら、俺はこの町を出なければならない……今すぐにでも。だから、俺は歩き出した。最後に俺が傷つけた人たちの元に出向いて……頭を地面に擦りつけて這いつくばって謝って……。

俺は名雪と香里の病室を尋ねると、よろけそうになる体を辛うじて支えながら進んでいく。後ろから看護婦の静止する声が聞こえたが、最早俺の耳には届かなかった。

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