二月十八日 木曜日
十三場 香里の病室
目が覚めると、母がベッドに縋って泣いていた。時計はないから時間が分からない。私は自分に起こったことが理解できず、薄目を開けてゆっくりと部屋を見回した。隅には働きに出た筈の父が居り、怒りを堪えたような顔でこちらを眺めている。妙に体が重い。特に上半身に痺れるような痛みを感じた。右腕からは針を支点にしてチューブが伸びている……何でこんなものを投与される必要があるんだろう。そう考え、起こそうとした体に酷い激痛が走る。無意識の内にあげた呻き声で、両親は私の覚醒に気付いた。と同時に、陶酔の中に淀んでいた記憶を取り戻す。自分で刺した右肩がずきりと痛む。それ以上に、名雪に刺された左肩が酷く痛む。傷の深さではなく、精神に穿たれた傷の痛みと相俟って。
「香里、良かった……」母は左手を思わず握りしめたが、今の私にはそれさえ苦痛だった。「あっ、ごめんなさい……そうよね、香里は両腕に怪我をしてるのよね……」
苦痛の声をあげたせいだろう、母がすっと手を引く。その顔は見るも難く歪み、涙は未だ留まることを知らなかった。手持ち無沙汰になった手を腰の方に当てると、思い出したようにしてナースコールのボタンを押した。多分、私が目覚めたことを知らせるためだろう。今まで距離をおいていた父も、ゆっくりとだがこちらに近付いてきた。遠慮がちな父の姿は疲労の色が濃い。やっぱり、無理してるんだなとおぼろな頭で思った。
「香里……」父は喉に何かが詰まったかのように、それ以上の言葉を発しなかった。ただ上を向き、必死に涙を耐えているようだ。私は、父が私のためにも泣いてくれるのだということを新鮮な面持ちで見ていた。だが、それは父を苦しめているのだということに気付くと何だか申し訳ない気分になった。
「今、医師の方を呼んだからね。もうすぐ来てくれるわよ」
母のその言葉通り、それから三十秒もしない内に医師がやって来た。その短い間、父も母も何も言葉を発しなかった。
医師は私の全身を一瞥した後、私の方を悼むような、睨むような微妙な視線を向けた。その後ろに立つ看護婦の視線はもっと露骨な警戒のそれだった。私は今更ながら、じわじわと苛む肩の意識を苦痛として認識する。医師の仰々しい態度によって、明確により鮮明に感覚が目覚めていた。
「さて、美坂香里さん……だったかな?」
眼鏡をかけた神経質そうなその初老の医師は、こちらを問い質すような口調を投げかけてくる。そして事実、次の言葉は正にそれだった。
「まず、君に言っておかなければいけないことがある。私が君の意識がない時に、両親の同意を得て行った治療についてだ」
医師はわざとらしく咳をすると、私に腕時計の盤面を見せた。十一時過ぎということは、まるまる二時間気絶していたことになる。大分血を失ったから、或いは妥当な時間かもしれない。
「まず両肩の傷、右肩が六針、左肩に九針。年頃の女性だから傷は残らないように配慮はしたが、完全とは言えない。もし、その傷を完全に消したいなら専門の整形外科を訪れる他にはないと思って良いだろう。まあ、命に別状は無い。消毒はしたし化膿止めの薬も点滴を通して投与している。二次感染症の可能性についても、ほぼないと考えてくれて良いだろう」
彼は、極めて丁寧に私の病状を説明していった。しかし、医師に有らざる横柄な口調、そして苛々とした身振りが病院で自傷行為を行った私を責めているように見える。まあ、病院にとってはあまり好ましくないことだから当然だろう。病院の幹部らしい、神経質な医師がやって来たこともその事実を巧みに補っていた。
「次に――これは、答えてくれなくても良い。我々は過度に患者のプライバシに関わることを是とは思っていないからだ。けど、もしその気があるなら教えて欲しい」大きく息を吸う医師。私は彼が、次にどんな言葉を吐くか予想がついていた。
「何故、自殺なんてしたんだ。しかも、病院なんかで」
話さなくても良い、と医師は言う。だがその目には、是非を言わさぬという凄みを感じた。この男は体面だけしか考えていないと思うと、とてもじゃないが話す気にはなれなかった。こいつはことを穏便に済ませるためなら、名雪にどんな仕打ちでもするだろう。それだけは、何としても避けなければならない。私は正面からきっと睨み付けると、無言のままに激しく対峙した。
「まあ、言いたくないのならそれでも良いが」初老の医師はそっぽを向くと、後ろに立つ看護婦に指示を出す。どうやら、彼女が震えているのは私の次なる行動を恐れてというわけでもないらしい。「私はこれから用事があるので出かける。後は任せた」
横柄に言うと部屋を睥睨するように見回し、そして不愉快そうに病室を出た。残された看護婦は皆に頭を下げると、血に染まった包帯を取り替えてくれた。そこで初めて直に患部を拝見する機会を得たのだが、成程、百足の埋め込まれたような傷痕が生々しく残っている。何もしなければ、この傷は一生肌身に残ってしまうようだ。血は殆ど止まっていたが、未だに僅かずつ染み出してきていた。巻き直された包帯は思いのほか強く、堪らず苦悶の表情を浮かべてしまう。だが、止血には圧迫が肝心と知っているから、私は何とか我慢した。それに、結局は自業自得なのだから耐えないと嘘だ。
看護婦は怯えた兎のようにもう一度頭を下げると「お大事に」と一言残して部屋を出ていった。改めて病室が三人のものとなると、母は怒りを露わにする。
「なあに、あの人は」母は誰もいないドアの向こうを睨み付けると、リノリウムの床を蹴った。「重病人に向かってあんな態度を取るなんて……この病院は良い医師や看護婦が集まっているって思ってたけど、嫌な奴もいるものね」
その言葉に、父はこくと肯いた。いつもなら母の粗野な態度を窘める父だが、この時だけはとてもそんな気分ではなかったらしい。憤怒の満ち溢れる中、しかし私だけは冷静だった。
「仕方ないわ、病院であんなことをしたんだもの。流石に責められて当然だとも思う。治療を受けられただけでも、運が良かったのよ」
私は両親を安心させようと、何とか笑みを浮かべようとした。が、その試みは明らかに失敗だった。母は下手したら怒鳴りつけてしまいそうな自分を必死に抑えながら、それでも核心を問うた。
「何故、あんなことをしたの?」
母は私を責めてはいない。ただ、どのような事実があってこのような重症を負ったのか、それを知りたいだけなのだ。父もまた、普段は寡黙なその優しげな瞳を強く寄せてくる。それだけに、黙り通している私が悪い人間のように思えた。否、それは事実だ。
しかし、その影響が及ぼすことを考えると決して答えることはできなかった。私の中にだけ潜めていれば、全ては収まることなのだから。丸くとはいかないが、いくつかの棘を削ることはできると思う。だから、私は素直に頭を下げた。
「ごめんなさい……」と精一杯の悔恨の情を込めて。
「そう……私じゃ駄目なの?」母は胸を強く押さえ、苦しげに訴えてくる。「そうよね、私は香里のことを殆ど気にかけて来なかった。気持ちを理解しようとしなかった。こんな時だけ理解しようなんて、虫が良過ぎる……」
「違うっ!」
母の言い方が余りに自虐的なことに我慢できず、私は思わず叫んでいた。肺腑を裂く痛みを全身に感じたが、気になどしていられない。
「お父さんやお母さんが信用できないからじゃないの。そんなあざとい理由じゃないから……こうやって黙ってるだけで心配をかけるということは分かってる。でも、それでも……話せないの。話してしまったら意味のなくなることだから。でも、これだけは信じて。こんなことはもう二度と起きない、約束するから。散々心配をかけておいて、虫の良い申し出だってことは分かってるけど、それでも私のことを信じて欲しいの……」
これが信用の強要だということは分かっている。特に母は、こんな答えでは決して納得しないことも理解している。それでも、私は決して事実を話す気はなかった。妹を失って鬱気味の私が、衝動的にナイフを奪って自殺しようとした。それで構わないのだ。
「でも……」母が反論を試みようとする。それを、父は一歩前に出て遮る。そして、無言で首を振り制した。
「分かった。香里がそこまで言うなら、私はもう何も聞かない。賢いお前がここまで意固地になるなら、きっと深い理由があるんだろう。それで良いか?」
強い威厳を滲ませ、静かだが凛と張った声を部屋に響かせる父。普段は母の尻に敷かれ気味で弱々しく見えるが、こういう時には一切の曲解、冗談は許されない。私はそれに応じ、強く肯く。その決定に、母は未だに渋る様子を見せながらも何とか認めてくれた。今回だけよという限定つきの寛容ではあったが。
「ただし、だ。できるなら次は、自分の体を労わった方法を取ると約束してくれ。これ以上……大切な者を失うなんてこれっぽっちも想像したくないから。香里が優しいというのは分かる、けどもう少し自分を労わるんだ。香里だけの幸せを考えるんだ。もう、誰かの変わりになろうなんて思わないでくれ……」
父の言葉は重く、また微かに自嘲的な響きも含んでいた。だが、祐一も言ってくれたその言葉は私に僅かだけ決意と強さをくれた。
「本当なら、父としてもう少し早くお前にかけてやるべき言葉だったな……娘がここまで追い詰められていたのに、私は自分だけが悲しんでると思い込んでたんだから、本当に馬鹿だ。全く……家族が苦しんでいるのに何一つできないなんて、父親失格だな」
「ううん、そんなことないわ」私は言いながら、ゆっくりと首を振る。「こうして傷を負った私のことを慈しみ励ましてくれるんだから……それだけで満足よ。それよりお父さんも、無理しないでね。少し前までは気の済むまで、倒れるまで好きなようにさせれば良いって思ってた。けど、それじゃ遅いって気付いたから」
私は即座に秋子さんのことを思い出す。
「ああ……水瀬さんの母親のことね」
母が即座に思い当たる節を口に出したのには少し驚いた。が、当の秋子さんの病室であんなことを起こしたのだ。事情を聞く内、自然と耳に入っても不思議はないだろう。
「香里のことも驚いたけど、そのことにも驚いたわよ。直接はあったことないけど、香里が随分とお世話になった方でしょう。それが急に倒れただなんて……今日ここに来ていたのはお見舞いのためだったのよね」
母の暗い表情を見ると、罪悪感がしきりに背中を蹴り飛ばす。その後のことを聞こうとしてはっと口を噤んだのが容易に見て取れた。
「ええ」と、だから見舞いに来たことは肯定する。「私が迷惑をかけたから、きっとそれが原因で倒れてしまったのよ……」
その言葉は、下手すれば自殺未遂の原因とも取れないわけではない。そして、嘘は言ってない。私はなおも続ける。
「私は幸せだったの。もう、これ以上にないくらい幸せだった。けど、そうしてるだけで傷つく人がいるの。悩み苦しむ人がいるの。そう考えただけで頭が変になりそうで……」
だから、名雪に刺された時も罪と刃物を素直に認められた。痛みをこの体に刻み付けたかったのだ。多分、名雪のことなど単なるきっかけに過ぎない。私はそうしたかったから、刃を受容した。自分も苦しんで見せたからおあいこだなんてきっと偽善以外の何者でもないけど。
「それは、秋子さんの症状に香里も関与しているということなの? 確か看護婦の話では脳卒中という話だったけど。でも、どうして香里がそこまで非を背負わなければならないの? 香里はその秋子さんのことを、長年に渡って苦しめて来たりでもしたの?」
「それは、違うけど……時期は関係ないの。私は結果として、秋子さんに負担を負わせたのだから」
「関係あるわ」しかし母はなおも抗弁する。「昼のテレビ番組で言ってたけど、脳卒中って若い人だと余程長時間ストレスに曝されない限り、陥ったりしない病気の筈よ。確かに香里も一度や二度、迷惑をかけたかもしれない。けど、彼女が倒れたのは無理をしたからよ。決して香里が負担をかけたからじゃない。そのことで自分を責めているならそれはお門違いだし、思い上がりも甚だしいわ」
母の言葉は、私を救うようでいて脇から強く叱りつけるような厳しいものだった。どんな理由があろうが私のやったことは正しくないと、強く言い竦めてくる。針鼠のようにぎゅうと体勢を固めると、強く言っても無駄だと思ったのか、今度は微かに微笑を浮かべた。
「とは言え、大事にならなくて良かったわ。もし香里までいなくなったらお母さん、絶対に駄目になってしまうから。もうやらないと約束してくれたから信じるけど、もう自分を傷つける方法だけはしては駄目よ。そうでないと、私は、私は……」
そこまで話した時、ついに堰が切れたかのように泣き始めた。今まで私に心配をかけまいと、必死で耐えていたのだろう。父はその背中に優しく手を添えると、泣き止むまでずっと背中を叩いていた。
ああ、と香里は思う。彼らは私がいなくなると怖れて、本気で悲しんでいるのだと。そしてそれは、今まで私すら理解できなかった心の一部を明かしてくれた。何故、私はこうまで貪欲に祐一を求めてしまうのか。焦るかのように突き進んでしまうのか。
私はきっと、祐一を失うことが怖かったのだ。正しくは、近い将来に祐一を失ってしまうことが。だから、刻一刻と過ぎる時間の全てを祐一に預けたいと濃密に願ってしまった。居なくなった時に悲しく思わないように、強く、強く私を愛して欲しいと。いつまでも私の元にいるかのように明るかった栞。彼女が永久に失われて、私はこの世に永遠に生きるものはないと知ってしまった。それどころか、どんな悪戯かで大切な人をも不意に失ってしまうことを直感的に理解してしまったのだ。
だから、祐一と激しく愛し合った。キスを求めたし、体も求めた。急ぎ過ぎてるなと自分で思いながらも、止められなかった。このまま続けていけばお互いを押し潰してしまうと分かっていながら。何故かと求め続けた問いの答えと、そしてこれから私がとるべき道が目の前にある。私はこんな光景を求めていた。隣には愛する人がいて、周りには大切な友人たちがいる。時には皆で騒ぎ、時には二人でゆっくりと寄り添い緩やかに流れていく愛を確認する。辛い時には皆で支え、或いは側に寄り添い癒してあげられたら……これほど幸せなことはないのではないだろうか。
その世界は私が作らなければならない。母と父が長い間をかけてその絆を培ったように、私もそうしないといけないのだ。そんな決意が沸いて来る。そして少なくとも、私の側にはそれを信じ支えてくれる家族がいた。それはとても大事なことだ。
私は色々なものを傷つけた。それは直接的な傷だったり、間接的に与えてしまった心の傷であったり……。でも、傷を与えているだけではいけない。もう手遅れかもしれないけど、ただの独り善がりかもしれないけど、精一杯の優しい世界を築きたい。こんな終わりのない夜のような状況から抜け出したい。今の私には何が欠けても駄目なのだ。家族、友情、愛情、信頼、そして希望。
自分を傷つける以外に、ただ罵られて黙っている以外に、私にできることは何だろうか……両親の励ましの声を聞きながら心の中で復唱しているうちに、麻酔か何かが残っていたのか無性に眠くなってきた。私が眠いと正直に口にすると、母はシーツを肩にかけて最後にお休みの言葉を言ってくれた。
次に目覚めた時、私は掌に何か熱いものがあたるのを感じた。見回すと両親の姿は見えず、代わりに何故か祐一がいた。彼は涙をしきりに流している。その涙の理由は分からないが、その様子が愛おしくて抱きしめたくて仕方がなかった。それは相手を求めるというものとは違う。ただ優しく抱きしめてあげたかった。この腕が自由に動いたら、今すぐにでもそうしたのに。
だから私は、微笑を浮かべて、祐一に声をかけた。
「どうしたの、祐一……どうして泣いてるの?」
祐一はその問いには答えず、ただぽつりとこう呟くのみだった。
「香里……俺はもうこの街を出ようと思う」