二月二十日 土曜日
第十九場 病院
一昨日の反動からか、眠り明かした一夜も明け、本当に久々の健やかな目覚めだった。精一杯背伸びをし、それで初めて肩の鋭い痛みに気付くくらい、睡眠は深く良好だ。件の傷も一時と比べれば大分落ち着いてきた。医師の診断に寄れば、来週の頭には退院できるらしい。ちょっとばかり無理したから、退院が長引くと言われたらどうしようかと内心少し心配だったのだ。
朝の診療が終わり、少しすると私は秋子さんの病室に向かった。まだ自力で歩くと傷が痛むが、我慢できないほどではない。部屋に入ると、秋子さんは窓に顔を向け憂いを帯びた表情を窓ガラスに映していた。心配になって声をかけると、秋子さんはゆっくりとこちらを向いた。
「あら、香里、ちゃん。おはようございます」
たどたどしさの含まれる口調と、暖かな微笑み。だが、弱っているせいか明らかに無理していることが分かった。
「秋子さん、何か悩み事でもあるんですか?」
私が単刀直入に切り出すと、予想に反して秋子さんはすぐに答えてくれた。
「ええ……昨日、姉が、尋ねてきてね」
私もそのことは看護婦から聞いた。何やら凄い剣幕だったらしいが、秋子さんはそのことを思い返したのか珍しく苦笑を漏らした。
「私は、無理し過ぎだ、馬鹿だ、って、言うんです。自己、中心的で、阿呆だって、声を、張り上げるんです。最後は、泣きそうな、顔で……」
秋子さんは、ひどくもどかしそうな顔をしている。
「上手く、喋れない、けど……香里ちゃん、私、間違って、いましたか? 駄目な、人間、でしょうか?」
その問いに、私は静かに首を振って答えた。
「私は、秋子さんほど正しい人は見たことがないし、強い人も見たことないです。貴女ほど、自分自身の心に素直で一途に生きている人を私は見たことがありません……だから、秋子さんのことを罵ることしかできないのだと思います。無理をしてると明らかに分かっていても、正面から切ったらこちらの方が間違っていそうで、すぐに言いくるめられそうで不安になるから。私だって正直、秋子さんと真正面から言葉を交し合って自分の正しさを貫き通せるとは思えません。多分、秋子さんのことが正しいと思ってしまいます。
でも、それじゃ駄目だから……無理をして欲しくない、辛いことがあったら相談して欲しいと思ってるから、わざと辛く当たるんじゃないでしょうか? 秋子さんがどう思ってるか分からないけど、貴女は自分が思っているよりも遥かに皆に愛されているんです。名雪が、秋子さんが倒れたときにどんなに悩み苦しんだか知ってますか? 祐一がどんなに悲しんだか想像できますか? 私がどんなに心配したか分かりますか? 皆、秋子さんが好きだから――誰も貴女にいなくなって欲しいなんて思ってません。体を壊すくらい無理する前に、相談して欲しいって考えてるんです。だから……だから……」
興奮して上手く言葉が出ない。けど、何か話し続けてないと自分が保てなかった。今ほど、私は語彙の薄さを呪ったことはない。秋子さんを本当の意味で励まし、強過ぎる思いを留める言葉を、何一つ吐けないのだから。
「ええ、分かって、います」秋子さんは、これまでの私の言葉すら見透かしたような超然とした表情を浮かべていた。「姉も、同じことを、言いました。そんなに、一人で、背負うなって。名雪も、子供じゃ、ないから、見くびっちゃ、駄目だって。もう少し、信用して、やれって。夫の、分まで、我が子の、成長を、少しでも、見守るのが、私の、役目だって」
どうやら秋子さんは、言葉を文章として構成する能力をかなり喪失しているらしい。その喋りは途切れがちで拙かった。しかし、思考自体は明瞭に働いているようで、言葉をどんどん並べていくといった調子で話を続ける。
「私は、ずっと、名雪が、大人になれば、この世に、用のない、人間だと、思ってました。けど、皆が、悲しんで、くれて、そうじゃないって、分かって。私も、もっと、生きたいって。間違って、いたとしても、まだ、皆と、一緒にいたい……夫は、寂しいと、思うかも、しれませんけど」
秋子さんは、夫という言葉を出した瞬間だけ、寂しげな顔を私に曝した。が、すぐに温かい笑顔を浮かべる。
「私が、こんなことを言うのは烏滸がましいかもしれません。でも……」
でも、やはり言わずにはおれなかった。
「生きていたいって思うことに、間違いなんてない筈です。人間の生命は決して平等じゃありません。私は……身をもってそれを知っています。でも、精一杯に生きようと思う権利は誰にだってある、その点だけでは人間は平等なんじゃないかと思うんです。それだけは、どんな言葉をもってしても否定してはいけないものだと。だから、生きて下さい。私は秋子さんに……生きていて欲しいです」
生きていて欲しい、色々な言葉を並べたけど、私が本当に言いたかったのはその一言だったような気がする。その証拠に、今までわだかまっていた心の中から、汚泥が根こそぎ取り除かれたような清冽な感情すらわいてきた。同時に、あんなに前置かなければ本当に言いたいことの言えない自分に少し呆れてしまう。
秋子さんは、私の思いを知ってか知らずかただ小さく頭を下げた。包帯の巻かれた頭蓋が痛々しいが、それが覆い隠されてしまう頃には、どんな顔と立場とで秋子さんと対しているだろうか。それを考えるのは、嫌なことではなかった。
私は一礼を返すと、秋子さんの病室を出た。すると、三十代前半程の女性が入れ替わりに秋子さんの部屋の前に現れた。髪の毛は耳を辛うじて隠すくらいのスポーティなショートカットで、顔立ちも幾分か太いがその主だった体格や雰囲気は直感的に秋子さんを思い出させる。それで、私は彼女が秋子さんの姉であることを悟る。祐一の母なのだと至ったのは、そのすぐ後だった。
「あら、妹の知り合い?」彼女は、秋子さんの部屋から出てきた私に素早く声をかける。「貴女も入院着姿だから病人だってことは分かるけど……宜しければ、どちら様か教えて貰えませんか?」
それは不審人物に対する接し方ではなく、純粋に私という存在に興味を抱いている風だった。
「あ、ええと……私、美坂香里と言います」人が人だけに、嫌な印象を抱かれまいと私は丁重に頭を下げた。「私、その……名雪の親友で、たまたま同じ病院に入院しているものだから訪ねていたんです」
「ああ、名雪ちゃんの?」名雪の名前が出ると、祐一の母親は顔をぱあと輝かせた。「会うのはもう七年ぶりかねえ、気立ての良い女性に成長してまあ驚いてね。若い頃の妹によく似てるよ、あと私にも。全く、祐一も同じ血を引いてるのに無愛想で無責任で。まあ、私の愛しい夫に似て、面だけは多少良いけど、どこで育て方を間違えたのか……もしかして、貴女も迷惑とかかけられてない?」
祐一の母親は、それが心配と言わんばかりに私の顔を覗き込む。けど、迷惑をかけたのは寧ろ私の方だった。
「そんなことありません」と、私は少し力を込めて否定した。「確かに、笑顔で突拍子もないことをしてますし、本気で悪戯して呆れるようなこともあったし、無愛想に見えるかもしれませんけど……いざという時は優しいし、私なんかより強くてしっかりしてるし、それに案外と格好良いところもあったりするんですから」
けなしてるのか誉めてるのか分からない言い草になってしまったけど、相沢祐一という人物を簡単に評するとそうなってしまうのだ。そこには勿論、私の主観が強く入ってるかもしれないが。
「へえ、成程ねえ……」と、いきなり祐一の母親が私のことをじろじろと眺め回してきた。「美坂さんって言ったわよね、単刀直入に聞くけど、祐一のことが好きなの?」
いきなりの先制攻撃に、私は……顔を赤くして肯くことしかできなかった。
「まあまあ、こんな可愛い女性に想われるなんて……それで祐一は貴女のことをどう思ってるの? もしかして、もう付き合ってるとか? だったらキスはしたの? それとも、行き着くとこまで行っちゃったとか……まさか、そんなことはないわよねえ」
相手は至って軽い調子で聞いてくるが、こちらにとっては笑い事でも何でもなかった。冗談交じりでまさかと言ったことまで、私と祐一はもう済ませてしまっていたのだから……。
もじもじと体を震わす私を見てそのことに気付いたのか、流石に今度は真面目な様相で言った。
「もしかして、本当にそうなの? だったら祐一には絶対、けじめを取らせなくちゃ!」
その両目が一瞬、強く輝いたのは気のせいだったのだろうか? ただ、このままでは祐一がやばいということは本能的に分かる。私は祐一を庇うため、思わず口を開いていた。
「あの、その……それは、その、私も合意の上でしたし……だから、祐一は悪くなくて、だから責めないで下さい。私、祐一のことが本当にその、好きだから……」
そして、何があっても側にいて欲しいと思っている。
「そう……そこまで言うなら私は何も言わないけど」
祐一の母親は未だ納得できないようだったが、鋭い矛先は収めたように思えた。
「全く、祐一には本当に勿体無い娘だわ、貴女。じゃあ、今回は祐一のこと、見逃してあげるけど、祐一に変なことされたり嫌なことされたらすぐに相談してね。私はいつでも美坂さんの味方だから」
海外生活のせいか、祐一の母親は右手をすうと差し出してきた。私はその意味を察すると右手を差し出して強く握り合った。同盟成立を示す、堅い握手だ。手を離すと、私は何とも言えぬ気持ちを抱いたまま病室に戻った。
それから、昼過ぎまでは惚として病人らしく過ごしていた。怪我が治癒段階に入っているせいか、暇でしょうがない。この状況があと二、三日続くとなると少しうんざりしてくる。だが、昼を過ぎれば祐一や名雪が来てくれると思い、心は俄かに弾んだ。
そして午後一時過ぎ、祐一が病室を訪れてくれた。が、昨日と同じくらい元気がないように見える。
「香里、怪我の方は大丈夫か?」
それでも私のことを心配してくれるのが嬉しくて、先程覗いた不安も素知らぬ振りで明るく答えた。
「ええ、もう激しく動かさなければ痛むことはないみたい。昨日一日良く寝て疲れも取れたし、予定通りに来週の頭には退院できると思うわ。それで祐一の方はどう? 少し元気がないみたいだけど」
私が指摘すると、祐一は僅かに体を震わせた。図星だったのか、祐一はわざとらしく悪戯が見つかったような態度を見せる。自嘲的で、同時にガードが固い。
「そっか……香里には分かるんだな」
祐一は小さく首を振った。それから、昨日の内に体験した全てのことを余すことなく私に話してくれた。私は思わず目を見張り、祐一の顔を覗き込んだ。
「信じられないだろ、まるで夢みたいだろ」
私を試すかのような、縋るかのようなそれは物言いだった。祐一は鞄から、証拠と言わんばかりに古びた天使の翼の片割れを見せる。でも、そんなもの見なくても私は祐一の話を信じただろう。
「これだけが、瓶の中に残ってたんだ。唯一、形あるものとして。でも、これだって本当にあるのか分からない」
まるで謎かけのような祐一の言葉。私には、祐一もその羽根もあるように見えるが、祐一にはそうではないのだろうか?
「俺、正直言って分からないんだ。今、俺がいる世界は本当に現実なのかって。もしかしたら、この世界は誰かの夢の構築物で、それが覚めたら全て消えてしまうんじゃないか? でも、いくら考えても分からなくて……なあ香里、俺は本当に現実の世界にいるのかな? 香里と同じ世界を、強く明るく歩んでいるのか?」
この世界は夢か、はたまた現実か。とても簡単なことのようで、でも他人に納得させることは難しい気がする。私だって小さい頃は、もしかしたらこれが全て夢じゃないかと疑ったりもしたが、大きくなるにすれその疑問は消えていった。何故だろう? もう十七年も生きてきたのだから、今更夢である筈がないだろうと無意識に妥協しているのだろうか? それとも、気付かないだけで何か確信があるのだろうか? 今の私にはそれも分からない。でも、この世界が夢だなんて信じてしまうのが嫌で私は必死に抗弁した。
「でも、私は夢じゃないと思う。夢って、それが理想的であっても絶望的であっても……夢の中では何の感覚もないの。目覚めてみて初めて、それが悲しい夢とか楽しい夢とかっていうのは分かるけど、夢を見ている時にそれは感じないわ。祐一は、この世界にいて何も感じない? 私は祐一のことを長い間ずっと見てきたから分かるの……絶対にそんなことはないわ。この世界は夢じゃない、目覚めたら儚く消えることなんてないのよ。それに、私はいつでも祐一の側にいるから。もし、夢から覚めてしまいそうで怖かったら、私が耳元で囁いてあげる。大丈夫、大丈夫よって」
それは、ほんの思いつきで言ったことだけど、祐一が望むなら本当にそうしても良かった。祐一は、どきりとするような真面目な視線で私の瞳の中を覗き込む。何かを確認するように、そして何かを確信するように。
「そっか……」
祐一が呟く。晴れやかな顔から、何かの納得できる答えを見つけたのだなと思った。
「やっぱり、俺は妙なところで馬鹿だな。いくら不思議なことだったからって……今までのことを全部嘘にしようとして。今までずっと体験したきた思いや痛みを考えもしないで……本当に、馬鹿だ」
祐一は、優しい微笑を浮かべる。その笑顔は本当に、額縁にいれて飾っておきたいほどに稀有なものだった。
「ありがと、香里。当たり前のことに気付かせてくれて。それと、側にいてくれるって言ってくれて」
「それだったら、良いのよ」
私も、その笑顔にまけじと精一杯の笑みを浮かべる。
「私は、祐一が好きだから側にいたいだけなの。だから、祐一が嫌というまでずっと側にいてあげる」
それは、どのくらいだろうか? と、私は不安げに考えた。私に対する幻想が全て消えてしまった時だろうか? 祐一が私なしでも歩いていけるようになった時だろうか?
けど、祐一はそれを超越するようなことを、心のどこかで私が望んでいた言葉をくれた。
「じゃあ……香里、俺の側に一生いてくれるか?」
一生という言葉。それは余りにも重たすぎて、すぐには受け止められなかった。素直に喜べなかった。
「本当? 本当に、祐一は一生、私の側にいて欲しい? しばらくしたら、私の嫌な部分が目に付いてすぐに嫌いになるかもしれないわ。そうしたら、後悔するかもしれないのよ。それでも、良いの?」
私の問いに、祐一はこくと肯いた。
「ああ、構わない。それに言っただろ。俺は香里の綺麗な部分も汚い部分も、明るい部分も暗い部分も、その全てが好きなんだ。とても愛おしく思ってる。一生かけて、愛していきたい。何なら、今ここで誓っても良いぞ」
でも、祐一がそう言ってくれると不思議と信じられる。一生だなんて、そう簡単に誓って良いものではない。けど……祐一となら誓って良いと思える。私も……一生、祐一の側にいたい。
「私だって……」
私は祐一をもう二度と逃したくなくて、祐一を引き寄せて抱きしめる。腕の痛みなど構ってられなかった。
「一生、祐一の側にいたいの、離れたくないの。ううん、絶対に離さないわ。私、とても執念深い女なのよ。それでも、私をずっと愛してくれるって誓える?」
「ああ、誓うよ」
祐一は迷いなくそう答え、
私を優しく抱きしめてくれた。
それはとても長い長い誓い。
お互いの愛が尽きないことを証明するかのように。
私と祐一はいつまでも抱き合っていた。
その暖かさは、
終わりなき夜の中で私の手を掴んでくれた、
優しい手の感触ととてもよく似ている。
だから、
私は祐一を離さない。
祐一の体を、
祐一の手を、
祐一の心を、
その全てを絶対に離さない。
そう思った時に、
私ははっきりと感じることができた。
終わりなき夜の終わりを。