終幕 終わりなき夜の終わりに……

The End Of The Darkness

ただエリーだけが……そして、エリーは二度とこのぼくを見つけることはできないのだ……終わりなき夜……ぼくの話は、これで終わりだ……。

 二月の残りの日は、それまでと比べると驚くほど穏やかに過ぎていった。香里は怪我をして一週間ほどで退院できたし、それからはいつも通りに学校に通っている。学校が終わると大抵は二人でいたけど、以前と違って相手を貪欲に求めるということはなくなった。その時からすると非常に不思議なことだけど、ただ隣に香里がいて、商店街やその周りを二人で手を繋ぎ、寄り添い歩くだけで俺は満足だった。けど、香里のことは以前にも増して好きだし、その顔立ちや仕草を見ているだけで心が満たされるのを感じる。それは香里も同じようで、そうして大体を過ごしていた。

 そして三月最初の日、俺はようやく一つの決心を固めた。ずっと鞄の中に仕舞っていた、天使の翼の片割れをあるべき場所へ返そうと心に決めたのだ。俺はその場所に一人で向かうつもりだったが、香里はいつものように巧妙に先回りしており、事情を話すと是非とも付いていきたいと申し出た。それについては、何も反論を言う気はなかったし、寧ろ香里にも側にいて欲しいと思うようになった。何だかだと言ってもやはり不安なものは不安だし、俺のやろうとしていることが正しいかどうかも分からないから。

「それで祐一、何処に行くの? 何かあては?」

「ああ、それなら一つだけあるんだ」

そう言って、俺は掻い摘んで月宮あゆの家庭状況を説明する。あゆの両親は、あゆが小さい頃に相次いで事故と病気で死んだ。そして間もなく、あゆ自身も例の事件で植物状態になる。目覚める当てのないあゆを、親類縁者はこぞって見放した。ただ、ようやく年金生活に入ったあゆの祖父母だけが世話をしていた。病院の看護婦からそのことを聞き出した俺は、住所からその場所を調べ、一度はその家の前まで行った。けど、その時は訪ねることができなかった。俺の話をその祖父母が信じてくれるかは分からないし、最悪の場合は彼らをひどく傷つけてしまうと考えたからだ。

「だから、これから俺がやろうと思うことは本当にただの自己満足だ。香里がしない方が良いと、正しくないって思ったのなら帰ってくれて構わない」

 だが、俺の言葉に香里は首を振った。

「私は、祐一は正しいと思うわ。どんな事情があろうと、それは唯一の思い出の品なんでしょ? だったら、あるべき場所にそれを返すべきよ。私だったら、きっとそうするわ」

 香里は、俺の手を取り何とか励まそうとしている。その仕草にほだされて、俺は少しだけだが自信を取り戻していた。

 それからは、お互い何も話さずにただあゆの祖父母の家に向かった。二度目だから迷うことなく、俺は垣根に覆われた平屋建ての一軒家を見つけることができた。そこには月宮と書いてあり、俺の方向感覚の正しさを裏付けている。俺はしばらく迷った後、おざなりに取り付けられているインタフォンを鳴らした。

 すると、すぐに中から柿色のセータに足まで伸びた芥子色のスカートを身につけた老婆が現れた。彼女が多分、あゆの祖母にあたる人物なのだろう。

「あら、見かけない顔だけど、何か御用かしら」

 全くの初顔合わせにも関わらず、老婆は皺だらけの顔をますますくしゃくしゃにしてこちらが驚くくらいの笑顔を浮かべた。こちらが恐縮するほどの歓待の仕方に、俺と香里は思わず深々と頭を下げた。老婆の仕草にはそれだけの強さと温かみがあった。そこでもしばらく黙っていたが、ずっとそのままでは逆に失礼になると思い、実直に言葉を切り出した。

「俺、相沢祐一と言います」

 名前を名乗った瞬間、老婆の気配が僅かに曇った。それから何かを思い出そうとして顔を傾げ……それから激しい驚きの表情と共に俺の顔を老人とは思えぬ鋭さでじっと見つめる。

「祐一、あんたもしかしたら七年前にあゆが話してくれた『祐一くん』かい? いや、ここに来てくれたってことはそうなんだよね。あゆのことを知ってわざわざ訪ねて来てくれたのかい?」

「ええ、はい……そうです」

「そうかそうか、よく訪ねてきてくれたねえ。本当にありがとう。まあ、まずは仏壇に手でも合わせてやって下さい。きっと、積もる話もあるでしょうし。さあ、こちらへどうぞ」

 話をどう切り出そうと悩んでいた俺にとって、この展開は正に願ったり叶ったりだ。俺は柄にもなく靴を揃え――あの老婆の礼儀正しさに影響されたのだろうか――ゆっくりと床の感触を確かめた。老婆の後を追い、案内されたのは微かに線香の匂いがする六畳一間の和室だった。その中央に、質素だがよく手入れされた古い仏壇があり、そこには七年前の記憶通りのあゆが額縁の中で屈託のない笑みを浮かべていた。その写真をじっと眺めていた俺に、あゆの祖母は弁解するように言った。

「すいませんが、あゆの写真は十歳の時のものしかないんですよ。じゃあ、私はおじいさんを呼んで来ますから」

 あゆの祖母は、深く礼をすると部屋を出る。それからしばらくすると、「おじいさん、おじいさん、あゆのお友達が来てますよ」と大声でまくし立て始めた。

 俺はそんな喧騒をどこか遠くのものに思いながら、改めて仏壇を見る。それから蝋燭に火を点し、置いてあった線香を一本だけ捧げた。香里もそれに倣い、線香を捧げる。それから少しの間だけ目を閉じ、何も考えずに手を合わせた。

 目をうっすらと開け、俺はふと部屋を見渡した。隅の方には藍色の座布団が数枚重ねてあり、その隣には小さな書き物机がある。その上に、俺はここで見かける筈のないものを見てしまった。片方の羽根がもげた天使の人形……。

 香里もそれに気付いたのか、目を見開きその人形に心を奪われていた。と、そこにあゆの祖母が祖父を連れてやって来た。グレイのベストに黒のジャージを穿き、髪の毛はほぼ全てが真っ白だ。が、その外見以上の衰えを俺は目の前の老翁から感じ取った。

「おお、君があの祐一くんか? あゆが何度かだけだが、君のことを楽しそうに話してたよ。私はずっと、君に会いたいと思っていた……会えて、とても嬉しいよ」

あゆの祖父は仏壇にちらと目を向け、それからこちらを向く。彼らは俺から幼い頃のあゆの話を聞きたいと思っているのだろうが、その前に俺は一つだけ尋ねておく必要があった。

「すいません、つかぬことを聞きますが……あの天使の人形はどこで見つけたんですか?」

 そう尋ねると、あゆの祖母は再び首を傾げ、少しして口を開いた。

「ああ、あの人形ね。ええ、誰が持って来たかは分からないのですが、あゆと生きて会った最後の日、えっと一月の二十九日か三十日だったかしら、何故か枕元に置いてあったの。私は誰か、看護婦の方が置いて下さったのだと思っていたのですが違うのですか?」

 その言葉を聞き、祐一は間違いないと思った。それは、きっとあゆが見つけ出した大切な探し物だ。俺はそのことをどう切り出そうか迷ったが、彼らに誤魔化しや曲解をしてはならないと思い、最初から正直に話した。商店街での出会い、あゆの性格や仕草、そして十日ほど前にこの天使の羽根の片割れを見つけ出した経緯……。

 俺の話を、あゆの祖父母はそれぞれの思いで受け取った。そしてしばらくした後、祖母の方が突然に泣き始めた。俺はこの優しい老婆のことを傷つけてしまったかと心配したが、そうではなかった。

「そう、だったんですか……私、ずっと不憫に思ってました。あゆは、本当なら皆が一番楽しく過ごす時代にずっと眠り続け、何の楽しみも知らないままに逝ってしまったことに。でも、そうじゃなかったんですね……あゆはたった一月足らずでしたけど、普通の女の子と同じように明るく走り回っていたんですね……」

 あゆの祖母は、あゆのことを本当に思って泣いていたのだ。それに、俺の話を疑いもせずに信じてくれた。

「あなたたちは、俺の話を信じてくれるんですか?」

 余りに素直だから、俺は彼らが現実を見失ってしまったのかと、そのことを逆に案じてしまった。が、それもまた俺の杞憂だった。

「ああ」と、泣き続ける伴侶を宥めながら老翁は頷く。「自分ももう、七十年以上生きてきた。良い奴も悪い奴も、正直な奴も嘘吐きの奴も山ほど見てきた。だから分かるんだ、君は嘘を吐いていないしそんな残酷な嘘を吐ける人間ではないとね。君はあゆと、そして自分たちのことを本当に大切に思ってくれたからこそ、ここを尋ねてきたし本当のことも話してくれた。だから、本当に感謝している」

「ええ、そうですよ……」まだ半べそをかきながら、あゆの祖母も同様のことを述べた。「私、今ではよく分かります。何故、あゆがあなたのことをあんなにも慕っていたのか……よく分かります」

 それから再び啜り泣きを始め、俺は寧ろ必死で涙を流す老婆を励まさなければならなかった。香里は俺の隣に立ち、あゆの祖母にハンカチをそっと差し出すと、背中を優しく擦った。

 柔らかい激情がゆっくり過ぎ去ると、俺はその羽根を二人に手渡した。これは元々、二人の持つべきものだと思うから。

「すいません、本当にありがとうございます」

 そう、二人は頭を下げて羽根を受け取る。それから、何か考えるところがあったのかあゆの祖母が部屋を出て行く。すぐに戻ってきた彼女の手には、古ぼけた裁縫セットがあった。そこから針と糸を取り出すと、年の功か素早く縫い合わせていく。羽根が元あるべき場所に戻るのに、五分もかからなかった。彼女はそれを仏壇の真ん中に飾る。古ぼけ、少し寂しそうに見えたその人形は、今では優しく微笑んでいるように見えた。俺と香里は、その光景をしばらく眺めていた。天真爛漫な、天使の笑顔を。

 それから俺と香里は、実直そうな包みに入った味は確かなお茶菓子を振る舞われた。それからあゆのこと、俺のこと、そして香里のことをそれこそ止め処もなく話していった。

西陽がゆるりと差し込み、ようやく長居し過ぎたなと自分を戒める心が戻ってきた。俺は何杯か目のお茶のおかわりの申し出をきっぱりと断り立ち上がる。

「今日は、本当にすいませんでした。突然訪ねてしまって……」

「いや、良いんだよ。私はあゆのことが沢山聞けて満足だった。君たちなら、またいつでも大歓迎するよ。そうだ……是非、君たちに受け取って貰いたいものがあるんだ。特にそちらの女性の方に」

 あゆの祖父はゆっくり腰をあげると、俺と香里を軽く手招きした。その後に続き、通された居間には明らかに老人の二人住まいにしては不自然な代物が並んでいた。それは人形だったり、流行のおもちゃだったり、綺麗な洋服であったり。それが誰のために、そして何の目的で揃えられたか、それは事情を知っているものなら誰の目にも明らかだった。

「これは毎年、あゆの誕生日が来る度に買っていたものなんだ」

 そして、あゆの祖父は小さなうさぎのぬいぐるみを抱きかかえた。

「そして、この人形が、あゆの十七歳のプレゼントとして買ったものだ。結局、どれもこれも意味がなくなってしまったが……。残念ながら、こんなおもちゃはもう貰ったって嬉しくないだろう。洋服だって、小さすぎて着れない。けど、この人形はいつになってもプレゼントに相応しい。だから、この人形を……受け取って欲しい。天使の羽根を私たちに与えてくれた、その恩返しとして」

 祐一は、どうしようかと香里に視線を送る。

「では……ありがたく頂きます」

香里は迷うことなく、老翁の申し出を受ける。その態度は、祐一には少し意外だった。が、次の本当に衝撃的な言葉によってそれが当然の反応であることを知った。

「幸い、今日は私の誕生日ですから、天から降って来た贈り物だと思い、大事にします」

 そして、ちらと俺の反応を気にする。当の俺は……正直言うと、正常な思考力をしたたかに奪われていた。

 丁重な言葉と共に家を後にする時も、俺は精神の残量を総動員しなくてはならなかったほどだ。だから、家から遠ざかった後に俺は思わず尋ねていた。

「香里、今日が誕生日だったのか?」

 香里は少しの間、黙っていたがすぐにその事実を認めた。「ええ、そうよ……隠しててごめんね」

「隠しててって、何で誕生日なんて大切な日を内緒にしとくんだよ。じゃあ、名雪や北川にも話してないのか? どうしてだ? 香里は誕生日を祝って貰うのが嫌いなのか?」

「ううん、そう言うことじゃないの」香里はすぐに首を振る。「けど、栞が死んですぐだって言うのに、片方で誕生日を祝って貰うなんてこと、できないと思ったから。それにね、誕生日のことを意識すると色々なことを考えちゃうの。私、今日はなるべく考えまいと思ってたんだけど、さっきの話を聞いて考えざるを得なくなって……」

 香里は、辛うじて体勢を保っているようだった。

「誕生日が過ぎて、栞が元気になったらしたいことが一杯あったわ」

 香里は、辛そうな光を称えた瞳を俺に見せる。

「春がきたら……皆でお花見に行って……栞が一生懸命に作った大量のお弁当を必死で食べて、花より団子だなって笑いあうの」

 その瞳は僅かに湿り気を帯び……。

「夏がきたら……お揃いの水着で海辺を走り回ったり海水の冷たさに驚いて笑いあったり、栞の憧れてた西瓜割りもするのよ」

 徐々に、涙で満たされていく……。

「秋がきたら、楓や紅葉の色づく通りを、二人で並んでゆっくりと歩きたかった……」

 声は加速度的に悲愴さを増し……。

「冬が来たら、ずっとやりたいと言ってた雪合戦をへとへとになるまで思う存分楽しみたかった。どれも、ずっと胸に抱いてきたの」

 それでも……香里は泣きながら笑顔を浮かべていた。俺は、そんな香里を見るのが忍びなくて……耐える必要なんてないと言いたくて、歪んだ顔を胸に引き寄せた。

「そんな、我慢するなよ」

俺は、思わず耳元で囁いていた。

「辛いんだったら、思う存分泣いて良いんだぞ。誰かのためじゃなく、自分を責めるためじゃなく、自分を慰めるためだって泣いて良いんだ。顔を見られたくなかったらずっとこうしててやる、一人で泣くのが寂しいなら俺がずっと側にいてやるから。だから、我慢しなくて良いんだ、泣いて……良いんだぞ」

 俺の言葉は、香里の崩れかけていた忌々しい理性を吹き飛ばしたらしい。香里は、堰を切ったように咽び泣き始めた。

「私、わたし、嫌よっ……栞にもう何もしてやることができないなんて、そんなの嫌、嫌なのよおっ……しおり、しおりぃ、しおりいっ……」

 香里は、一番最後まで心の底に残っていた悲しみを留めることなく吐き出していた。理性的であるが故に、優しすぎるが故にずっと抑えつけて来た我侭。その全てが、香里を揺るがしていた。

 俺は、そんな香里をいつまでも抱きしめ、ただ側にいた。宥めることなく、励ますこともなくただ香里の泣くがままに任せた。俺には、それが一番良いように思えたから。きっと香里がこのように泣くのはこれが最初で最後だろう。だから、思う存分泣かせてやることに決めた。愛する人の誕生日に、ただ側にいてやることしかできないことを、情けないなと思いながら。

 香里の泣き声は未だ、空気を震わせている。

 西陽はますます傾き、夜の中へと消えようとしている。

 複雑に絡み合う空には雲一つない。

 様々な思いを抱き、

 寄り添う俺と香里の横を、

 今までよりほんの少しだけ暖かく、

 優しい風が通り過ぎていった。

――終――

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