今日、わたしは、家族を失った。血の繋がりはなく、彼らの言葉を信じるならば人間ですらない少女。しかし、わたしにとってはかけがえのない妹だったのだ。
1 さよならの、そのひに
既に日の暮れかけた道を、わたしはとぼとぼと歩いていた。この足が家に向かっているのかも怪しいが、それならそれでも良かった。正直、今は家に帰りたくない。あそこにはまだ、コルルとの生活の跡が一杯残っている。彼女の甘く優しい匂いが、部屋中に満ちているに違いないのだ。そんな場所に戻ろうものなら、今も必死で堪え続けている感情がとめどなく溢れ、止まらなくなるだろう。
幸い、今日は両親とも家には帰ってこない。どこか宿泊場、或いは友人の家にお邪魔するという手もあった。
でも、と私は考え直した。今の自分は、通りがかる人たちが引き止めるかもしれないくらいにぼろぼろで、目も泣き腫らして無残な姿を晒している。ここまでの自分を問い質さず、側にいさせてくれる友人など一人もいなかった。それによく考えれば、夜分に訪れるだけでも迷惑と思われる可能性が高いのだ。私は首を振り、その可能性を否定した。そして、思わず苦笑する。悲しいはずなのに、自分は妙に冷静でいる……何故だろう?
それはきっと、今がまるでどこか夢を見ているような現実であるからだと思った。
本を燃やされることによる、魔界への強制送還。百人の魔物による、壮絶なバトル・ロワイアル。高嶺清麿と名乗る少年の語る話はあまりにも突拍子めいて、まるで現実味がなかった。しかし、わたしは彼の言うことを信じざるを得なかった。何故なら、実際に見てしまったからだ。高嶺さんの隣にいるコルルと同じ背丈ほどの少年、ガッシュが電撃を放出するところを。そして、呪文の力により豹変し、殺戮機械となった異形のコルルを。
あの身と心を削るような戦い、何より今も疼く肩の痛みは、今が現実だと盛んに囃し立ててくる。どんなに認めたくなくとも、あれらは現実だった。そしてコルルも……現実だった。
現実……という言葉が、今のわたしにはとても辛い。まだ、夢や幻の類であった方が楽であっただろう。出会って日が浅ければ、或いは自分がもっとさばさばした性格であれば、簡単に割り切れたのだろう。でも、コルルは現実で……余りにも思い出であり過ぎたから。
わたしはきっと一生、彼女のことを忘れることはないだろう。
正直いって、それが良いことなのか悪いことなのか、わたしには分からない。もう二度と会えない子のことを考えるのは不毛と思える一方、彼女と共に歩むことで得たものを抱き続けるのが何より貴いとも思えるのだ。
どちらがより、正しいのだろうか。
暫く立ち止まって考えてみたが、一朝一夕で出るようなものではない。結局は未だ方向性も決まらぬ歩みを、惰性に準じて行うことしかできないのだ。
わたしは歩きながら、すれ違う人たちをいつしか仔細に見やっていた。思い思いに帰途に着く子供たち、仲良く手を繋ぎ歩む親娘、巨体にひきずられるようにして散歩している犬と少年……彼らには皆、心休まる場所がある。そして昨日まで、それはわたしにも存在していた。そのことが酷く、胸を締めつけるのだ。
「どうしたの?」ぼーっと歩いていたから、わたしは最初彼女の声に気付かなかった。「どこか具合でも悪いの?」と、問いかけられ初めて足を止める。そこには六歳くらいの子供が一人、立っていた。その顔は幼いというのに、気遣わしげなもので満ちている。少しおしゃまな印象を受けるにしても、こんな子供に心配されるほど自分は酷い顔をしていたのだろうか?
相手にするのも億劫だった。でも、そこに少しだけ……コルルの面影を感じてしまい、人恋しさも手伝って、わたしは自然と頭の位置を下げていた。少女と同じ目線を保つと、わたしはゆっくりと左手を頭に添えた。
「ありがとう、お姉ちゃんは大丈夫よ」
「でも……」できるだけ微笑み返事をしたのだが、少女にはそれでも気がかりなことがあったようだ。その視線を追うと、右手に持つ素朴な人形に釘付けられていた。「お顔、真っ青だよ。お姉さんもそのお人形さんも、酷い怪我をしてるし……」
怪我……お人形……? わたしは今まで、手にしていたこともおぼろげだったそれに、目をやる。わたしがコルルに『ティーナ』という名前をつけて渡した人形。裁縫は元々得意だったが、人形はそこまで数を作ったことはなかったので、形はかなり歪だ。指に少なからぬ怪我もこしらえた。でも、コルルは気に入ってくれた。まるで宝物のように……。
その布地には目立つとまでいかないが、斑点状に血が付着している。顔を近づけると不意に、ミルクじみた甘い香りがし、わたしは全てを止めた。砂に汚れ、血に侵され、それでも幼く身奇麗な子供が放つ独特の香りは、強く残っていた。微かな草の匂いは、ぽかぽかとした陽気の中に公園で戯れるコルルの姿を否が応でも想像させる。芝生を駆けずり回ったかつてが蘇り、わたしは目頭と鼻に走る痛みを抑えることができず、駆け出していた。
今やわたしは、気遣う少女に大丈夫と、声をかける余裕さえ失っていたのだ。
全力で走り、それでも胸から流れてくる雫に耐え切れず、わたしは裏道に逃れ電柱の隙間に顔を伏せると生ゴミの匂いも気にせず、一心不乱に泣いた。あれほど流した涙だというのに、孤独というだけで際限なく、容赦なく、それは迫ってくるのだということを思いながら。
「コルル、コルル……」ぼやけた視界の中にはただ笑顔で両手を広げ、わたしを受け入れるコルルの姿が……。「無理だよ、わたし……コルルがいないと駄目だよ。一人じゃ頑張れない、何もできないのに。弱くてだらしなくて……ううっ……」
もう、声さえ出ない。
せめてもの救いは、泣き声を夕暮れの中繰り広げられる猫の喧嘩が打ち隠してくれたことだった……。
「ただいま」と。
誰もいない家に声をかけたのがコルルのいた名残だと思うと、心はより深い所に沈んでいく。案の定、返す言葉はいつまでもなく、救急箱を取ると二階に上がり、床に腰掛けた。赤い本の持ち主の少年が応急手当はしてくれたが、血は容赦なく滲みどすぐろい痕を肩に残している。一度、取り替える必要があった。
病院に行った方が良いと言ったけど、その気にはなれなかった。肩の傷は通り魔にナイフで何度も刺されたようにしか見えず、医師や両親に説明するのが面倒だった。コルル抜きで説明することは酷く難しかったし、かといって両親に彼女のことを説明するのは嫌だ。それだけはどうしても勘弁して欲しかった。それならば例え傷が長く痛みを穿とうとも、自分でなんとかするだけのことだ。服越しの包帯を外し、傷む肩に耐えながら一枚ずつ脱いでいく。
肩の肉は致命的ではないにしても、ざっくりと裂けている。病院で縫い合わせ、然るべき治療を受けなければ、最悪の形で体に残ってしまう。でも、それが何なのだろう。確かに傷が残るのは悲しいけど、ノースリーブの夏服が着れなくなるだけのことだ。そして、わたしはそんな服を着たことはない。これから着ることもないだろう。
タオルで血と汚れを拭い、薬を塗る。酷く染みたけど、不感気味になっているのか、肉体の痛みが左程感じられない。包帯をきつく巻き、クロゼットから新しい服を取り出す。今の服はもう、血の滲みと破れで使い物にならない。修繕することも叶わないだろう。
袖を通し、苦痛に顔を歪めながら、わたしは破れた服と人形を手に持ち、階下に向かった。燃えるゴミの入った袋に先ずは服を押し込み、人形を勢いで放り込もうとして……わたしは手を止めた。
これを勢いで捨ててしまったら、大事なものも一緒に捨ててしまいそうな気がする。わたしは留まり、二階に戻ってそれを机に置いた。その隣には、子供の頃のわたしとパンダのぬいぐるみを映したポートレイトが目立たぬようにある。
「写真、一枚も撮らなかったな……」
今になって考えても遅いのだが、一度根ざした後悔は何時までも沈殿するものらしい。しかし、今回だけはそれを脳裏から追い払った。形に残そうと思う暇がないほど、わたしとコルルは日々を埋めていたのだし、写真があるといつでも思い出せてしまう。それが正しいことなのかも、今のわたしには分からない。
机に顔を伏し、汚れたコルルの人形と対峙していると、それだけでも悔しさがこみ上げてきて。逃げるようにして枕に顔を埋めると、今度はコルルの暖かい匂いがわたしを否が応でも刺激する。わたしは慌てて飛び出し、クッションにけつまづいて転んだ。本当なら蹲るほどに痛いはずなのだが、何も感じない。感じている暇など、なかった。
この部屋から脱け出さないと。
後悔と思い出と……あの子の名残で頭が変になってしまいそうだったから。
再び階下におり、わたしは夢中で駆けた。一人じゃ駄目、こんなのどう耐えたら良いのか分からない。
「お父さんっ! お母さんっ!」
いもしない両親を呼ぶための声を辺り構わず張り上げ、居間や風呂場、台所などを夢中で探して回った。コルルは言った、寂しいって……その気持ちをぶつければ良いんだって。
でも。
いつまで経ってもわたしの元には誰も表れなかった。恐慌が収まり、冷静になっていくと自分の滑稽さに、今度は嫌な種類の笑いが込み上げてくる。笑いたくもないのに、そうしていなければ心の平衡が保てなくて笑うような、良くない衝動。わたしは歯を食い縛って、それに堪えた。これじゃまるで、コルルがいなくなったから嬉しくて笑っているようで、嫌だった。例え、それがわたしの心を落ち着けてくれるとしても。
自分を笑うことだけは、どうしても嫌だったのだ。
それからのことは、よく覚えていない。肩の傷や疲労が、わたしを苛んでいたのだろう。無意識のうちにわたしの心は、暗く混沌とした場所に運び込まれてった。