夢を見た。夢の中で、コルルはわたしに笑いかけてくれる。公園を、商店街を、家までの道程を二人並んで歩いていくのだ。そして眠る前に、こう呟いてくれる。

「ずっと、一緒だからね」

 そんな、悲しい夢だった。

 

 

 

 

2 さよならの、つぎのひに

 目が覚めると先ず、目に涙の溜まっていることが自覚できる。ぼんやりとした頭は、右腕でそれを拭おうと試みるが、激しい痛みのために妨げられた。そうしてわたしは昨日のこと、大切な妹を永遠に失ってしまったことを嫌でも思い出すのだ。今まで朧に見ていた光景が夢であることも、今では余りに自明だった。

 痛みは、とても緩慢にわたしを蝕んでいく。肩の傷はずきずき痛み、コルルを失った傷はちくちく痛む。今でも寸分なく思い描けるあの子の笑顔は、忘却が時によらないことを押しつける。いや、それは正しくない。わたしはコルルを絶対に忘れない。忘れてなんて、やるものか。

 そのためなら、わたしはきっとどんな痛みだった耐えるよ。だから。

 コルル、コルル……。

 お願いだから、戻ってきてよ。

 わたしには悲しいくらいに、貴女しかいないのに。

 

 頭が、ぼうっとする。昨夜意識できた熱が今では全身を蝕み、気だるさと頭痛を促進させている。傷のせいだろうか。それとも、精神的なもの? きっと両方なのだろう。お腹は空いていない、それどころか吐きそうだった。薬箱はどこにあっただろう、考えて虚しくなったので、動くのをやめた。寒い、とても寒い。まるで、冷たい水の中に長い間浸かっていたかのように、震えが止まらない。なんでこんなに寒いの、コルルが隣にいた時は抱きしめてとても温かかったのに。そう、きっとそうだ。この寒さは風邪でなく、心の空虚なせい。

 時計を見る、もう八時半を過ぎていて、今から全力で走っても遅刻決定だった。今の体調では授業どころか通学することすら危ういから、どのみち休むしかないのだけど。時は粛々と流れ、過ぎていく。痛い、苦しい。心の中で呟いてみて、それが凶暴な魔物化したコルルの嘆きと全く同じことを思い出す。コルルは苦しんでいた。魔物の子の一撃に、何より戦う運命を止められない己自身に。

 魔物の子、戦い、そしてコルルは消えた。一人は消え、一組は残った。赤い本を持ち、電撃を操る子供。コルルと同じく可愛らしい容姿に、人ならざる力を秘めていた。

 高嶺さんと、ガッシュくん。彼らはコルルのために涙を流してくれた。今も、わたしの数十分の一で良い、コルルのために悲しんでいてくれるだろうか。きっと、そうだと思った。彼らは優しい。コルルを魔界に送還した張本人であっても、わたしは彼らを毛の一つほどもうらむことは出来ないだろう。

 誰を恨むことができない。誰にも押し付けることができない。それならばわたしは、この想いを一体誰にぶつければ良いのだろう。訴えれば良いのだろう。

 意識が保てない、気を失ってしまう。

 暗いトンネルの中。

 そんなところには行きたくない、行きたくないよ……。

 

 次に目を覚ましたのは、女の人の金切り声のためだった。視界すらぼんやりとしないわたしには一瞬、目の前の女性がお母さんだと気付かなかった。徹夜明けなのか顔色を悪くし、化粧も半分取れかけたお母さんは、わたしに責めるような瞳を向けている。わたしが何をしたって言うのだろう。

「しおりっ、その肩の傷はどうしたのっ!」

 肩、の傷……ああ、コルルを庇った時のものだ。どうしようか、わたしはお母さんに何ら言い訳を考えてなかった。見ると完全に止血してなかったのだろう、包帯に付着した血が寝間着にまで染み出している。お母さんは、これを見て心配してくれているのだ。

 そう、思っていたのだけど。

 母の声は冷たく、ヒステリィに満ちていた。

「しおり、貴女私のいないところで何やってたの? まさか、妙なトラブルに巻き込まれたんじゃないでしょうね」

 ああ、そうなのか。わたしはその時自然と、理解する。お母さんは、肩の傷なんてどうでも良い。熱を出して苦しんでいることなど、二の次なのだ。体裁を失い、恥を掻かないか。お母さんの気になるのはそのことだけなのだ。体裁が悪いから、わたしを養っている。世話をしないで死なせてしまったら世間に責められてしまう。とどのつまり、わたしがこの家で暮らせている理由など、それだけに過ぎないのだ。

 コルル、貴女は言ったわよね。寂しい、苦しいって言えば、両親もきっと分かってくれるって。

 こんな両親が何を分かってくれるっていうのっ!

 何を分かってくれるっていうのよ……。

「言いなさい」

 お母さんはあくまでも厳しい表情を崩さず、わたしに顔を寄せてくる。近寄るな、汚らわしい。わたしはもう、貴女の顔なんて見たくもないっ!

「うるさい……」

 反抗的なわたしの言葉に、お母さんは一瞬、硬直する。だが、沈黙は長く続かない。顔に険しい顔を浮かべ、頬を真っ赤にして怒鳴った。

「貴女、いま何て言ったのっ」

「うるさいって言ってるのよっっ!」

 目の前の女性の全てが腹立たしくて堪らなくて、わたしは真っ向から怒鳴り返していた。

「いつも家にいないくせに、お金だけ渡して親の役目果たしてるって顔をして。それで、自分の立場が拙くなりそうだからっていきなり子供のことを知りたい? ふざけないでよっ!」

 それは、今のわたしにできる精一杯の反抗だった。

 反抗に報いたのは平手の一撃だった。ぱん、という乾いた音がリビング一杯に広がり、静寂が場を支配する。お母さんの顔が更に、醜く歪む。

 それが、答えなのか。

 怒りに任せた汚い言葉だったけど、私は必死で訴えた。

 なのに。

 もう嫌だ。養われなければ生きていけない? こんな親に養われるくらいなら死んだ方がましだ。精々、わたしの死体が発見された後で、体裁を失えば良い。

 不意をついて、わたしは走り出す。リビングを抜け、靴も履かずに裸足で表に飛び出した。背後でお母さんの叫び声が聞こえるけど、無視する。体が鉛のように重いけど、歯を食いしばって耐えた。砂塵交じりのアスファルトが、灼けるように痛い。それでもわたしは、どこかに走ってしまいたかった。

 どこへ?

 答えが分かっていたら、こんなになりふり構わず走っていない。周りの景色がぼやけて見える。上下左右に激しく動き、まるで地震が起きているようだ。

 わたしは、どこへ行けば良いの?

 疲れが体を支えきれなくなり、崩れ落ちるように倒れる。ここはどこだろう。見回すと視界に入ってくる草むらや樹木、そして時計台。そんな、と膝をつく。ここは昨日、コルルの消えたこども公園だった。わたしはここにしか戻ってくることができないのか。

 仰向けになる。登りきった太陽が、目に痛い。体がまるで霧みたいに定まらず、まるでこの世界に薄まってしまいそうな錯覚をおぼえる。コルルも、消える時にこんな気持ちを抱いていたのだろうか。不安で、悲しくて、恐ろしくて、それでも貴女は笑っていたよね。

 なんて強いんだろう。

 そして、なんて弱いんだろう、わたしは。

 ああ、もう……。

 このまま、消えてしまいたいよ。

 そうして貴女のいる所で、ずっと一緒にいたい。

 この身が滅びてしまっても良いから……。

 世界がぐるぐると回る。もうすぐ終わってしまうのかもしれない。

 遠くから、走るような足音が聞こえる。誰かが急いでわたしに近づいてきている。誰だろう、もしかして……いや、そんなことは有り得ない。有り得ないはずだ。でも……。

「おい、大丈夫か?」

 よく分からないけど、女の人の声。違う、コルルじゃない。もっと、しっかりとした大人の女性。なんだ、やっぱりそういうことは起きないんだ。

「酷い熱、それにその格好、何があった? 大丈夫か?」

 額に当てられた、温かい手の感触。ああ、貴女の手はこんな温かさだったよね。もう、忘れてた。姿形は思い出せても、感触や熱の記憶は触れられなくなった瞬間から容赦なく奪われていくものなんだ。喉が詰まる。

「どうして、どうして、消えなければいけなかったの……」

 誰にでもない呟きがもれる。最後まで張り詰めていた気の糸の、最後の一本がぷつりと切れた、そんな気がした。女の人が何か怒鳴っていたようだけど、それも届かない。

 多分、わたしは今、身体から解き放たれたのだろう。

 意識が深い、とても深いところまで潜行していく。

 最後まで沈んでいけば、そこにコルルのいる世界に辿り着けるのだろうか。

 そうだったら良いなと、わたしは心の底から願った。

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