−11−

「お前らは一度、じっくり話し合わないと駄目だ」

 打ち汚れた麻見静子の姿を見て、明らかに取り乱していた広瀬真希に制止をかけたのは折原浩平のその言葉だった。

「お互い、大事なことを喋らないから大切なことが伝わらないんだ。俺は馬鹿なりにも、全員の言い分や行動を見てきた。だから分かるんだ――お前らの中に、本気で意地が悪くて救いようもなくて、同情する価値もないような人間なんて一人もいなかった。誤解してすれ違って、それでお互いのことを悪く思っているだけに違いないんだ。違うか?」

 浩平の言葉に、誰も二の句を継ぐことができなかった。七瀬留美は寧ろ納得げに肯いていたし、静子も顔を伏せたままで何も喋ろうとしない。真希は――正に図星を突かれてはっと息を飲んだ。もしかして浩平は皆にという口実の元、自分がそうなのだと暗に告発していると勘繰りさえした。

「ごめんなさい」と泣きながら、静子は真希に縋ってくる。「私が、私が全部悪かったの。勘違いして、自分勝手で我侭で、真希や節子や直美を巻き込んで酷いことやらせて――ごめんなさい、本当にごめんなさい。私が、もっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかった――」

 静子は、ただ自分だけが罪を背負うような形で悔やんでいて、真希にはそれも辛かった。どのような理由があろうと、優しさと思いやりを勘違いして静子を止めなかった責任が真希にはある。しかも、留美に対する苛めを煽った。だからこそあの時、留美に言えなかった。浩平にも言えなかった。彼らに嫌われるのが怖くて、嫌われて当然の事だと決め付けていたから。でも、今の静子の姿を見て真希は、今度こそ全てを話さなければならないと思った。下手な嘘や欺瞞は結局、誰も救ってはくれないのだ。

 二十分後、三森節子と夕霧直美の二人とも合流でき、六人連れで真希たちは静子の部屋にいた。浩平は女の子の部屋が珍しく、辺りを見回して留美に耳をつねられるというデリカシィと緊張感のないことをしていた。

 そして、先ずは静子が本当のことを話した。好きだった恋人に振られたこと、錯乱していて留美が彼を奪ったと勘違いして逆恨みしたこと、真希や他の者を巻き込んで陰湿な苛めを行ったこと、そして久しぶりに会った彼にぼろぼろに痛めつけられ、通りかかった留美に救われたこと。その全てを終えると彼女は、怯えながら他の人間を伺うように見回していた。

 静子の狼狽ぶりを目にして、真希もまた本当のことを語る。静子を励ます為に、留美を苛めることを計画したこと。陰湿な、幾ら謝っても許されないような企てをしたこと。ただ、夢中で話していった。そして言葉も尽きた後、真希は留美に向けて大きく頭を下げた。これ以上ないくらい、深々と。留美は、自分の預かり知らぬ所でそんな紆余曲折があったのかと、目を丸くしていた。

「本当に悪いのはわたしなの。わたしは、本当に救いようのない人間なのよ」

「違う、悪いのは私だから――真希や節子や直美は私が巻き込んだだけで――だから、責めるのだったら私だけで――」

「何言ってるの静子、わたしが焚きつけたのはよく覚えてるでしょ?」

 そこに、節子や直美も加わってきて自分の責任も少しはあると言い張り、収集がつかない寸前まで達した時だった。留美が一言、本当に眩しそうな表情で誰もが思いがけないことを口にする。

「そうやって皆、打算もなしにお互いを気にかけ庇いあえるんだ――羨ましいな。そういう仲の良いところを見せられたら、少しだけ嫉妬する。友達ってやっぱ、良いなあって思えちゃう」

 嫉妬。まさか、彼女の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。真希こそ、留美の相手を包みこめる包容力と、自分とは質の違う場当たり的ではない、本当に相手を思いやった優しさに半分、嫉妬の思いを抱いていた。どれもこれも、自分には全くないものだと決め付けている。

 この中で、真希だけは彼女の感情を僅かだけでも理解できる。身を切るほど辛い筈なのに、半ば自分の為に話してくれたことは今でも胸の中に刻み付けられていた。もしかしたら、留美は自分の中にある暗い感情をこれから語るのかもしれないと、真希は身構える。嫉妬という言葉の響きが、真希には殊更暗く、そして嫌な思い出に満ちていたから。

 しかし、留美は恨みつらみなど全く言わなかった。照れ臭そうに、しかし屈託ない笑顔で、息を飲む真希たちに向かって、ただ一言。

「本当に、良いなあ――」

 満点の笑顔に、憧れを含んだ声。そんなものを見せられたら、聞かされたら――誰にも抗うことなんてできなかった。彼女を嫌うことなんてできなかった。留美のような人と、毎日を一緒に過ごせたらどんなに良いことだろうかと考えない人間など一人もいなかった。真希も、恐らく皆も、一瞬で七瀬留美という女性のことを好きになった。それくらいの魅力が、あの笑顔にはあった。

 雨降って、地が固まるなんて古臭い、最もらしくない諺くらいにしか思ってなかった。けど、真希は今日、自分がまた一つ誤っていることを知った。否、救いようのないくらいの泥濘に覆われていた大地が、たった一つの太陽によって壊れそうもないくらい、しっかり固められてしまった。

 それからは、とても簡単なことだった。真希も含めて皆が留美に謝った、それもひたすらに。そして、当の本人である留美は「もう良いよ、過ぎたことだし」と、微笑みながら手をぱたぱたと振っていた。それでも真希は、留美にまだ大きな負い目を感じていたし、一番に苦しめたのはやっぱり自分だと思っていた。他の者と同じように、明るく輪を作って話を弾ませることなどできそうになかった。一層のこと、自分だけがこの輪から外れることが最善なのかもしれないとさえ。

 和気藹々としているのに、妙に居心地が悪くて、真希は思わず部屋を見渡す。いかにも大人しめの少女らしい装飾に混ざって、ちらとだけ浩平の姿が見えた。彼は一言も話さないから、すっかり存在を忘れていたのだ。真希は、留美を中心に作られたグループとそれを離れた場所から楽しそうな笑顔で見つめる浩平を交互に見やる。浩平は真希の視線に気付き、視線を彼の見つめる方向へとしゃくってみせた。何時の間にか、留美は真希の方を物欲しげな目で眺めている。

 留美は心から、自分のことを欲している。彼女の気持ちが透き通る水のように理解できて、真希は思わず戸惑う。しかし、彼女と和解したい、楽しく話したいという誘惑には勝てそうもない。自然と心浮き立つのを感じながら、真希は仕方ないなと言わんばかりに首を振り、自然と微笑む。

 こんなにも自然に、自分でも意識せずに笑ったのは、本当に久しぶりのことだった。それだけでも真希は――自分の仕出かしたことはやはり忘れられなかったけど――辛いことや苦しいこと、現在や過去や未来のことを、ほんの少しだけ忘れられた。

 そう、ほんの少しの間だけ――。

 

−12−

 十二月二十一日の朝。教室の中で折原浩平は珍しく、一人だった。最近は、七瀬留美と一緒にいることが習慣となっていたから、余計にそう思えるのかもしれない。留美の転校してくる以前は、友人の住井護とつるむことが多かった。しかし、一時的に疎遠になったのが原因なのか、彼は別のグループにちゃっかり紛れ込んで、一番騒いでいる。浩平は、住井なら例えやくざの集団に過って入り込んだとしても、何時の間にか馴染んでいるだろうと確信している。故に、彼のことは心配していない。浩平が気がかりなのは、もう一つのグループだった。

 あの日から四日――正確には三日半程だが――経つのに留美は未だに慣れないのか、集団の中にあって少し緊張している。彼女を積極的にリードし、慕うような態度で話し掛けているのが麻見静子だった。不倶戴天の敵の如く、留美を恨み抜いていたとは到底思えない、屈託なき笑顔を浮かべている。留美にはきっと、それもこそばゆいのだろう。二人を興味深く観察していると、恭崎鈴華が手を振ってくる。浩平は彼女のことを、妙な予言を与えた変な女性だと今でも思っている。しかし、彼女の忠告はあながち外れていた訳ではない。それに、彼女は自ら留美に下剤を盛ったと宣言した。その謎も、浩平には解けていなかった。一昨日の告白大会を経た後でも、未参加者である鈴華の事情だけは誰も分からなかった。どこをどのレベルまで制御していたか、浩平には及びもしない。ただ、鈴華が誰も理解し得ない感性によって行動していることだけは、皆の一致する認識だった。

 浩平は鈴華に手を振り返し、隣に座る女性に目を移す。広瀬真希は、鈴華のリアクションを見て自分に気付いたのか、こちらをじっと見つめた。だが、すぐにふいと視線を逸らしてしまう。そう言えば、昨日も何度か視線を逸らされたなと、浩平は理由を探った。その点については、屋上での出来事が尾を引いているのかなというくらいしか思い当たらない。もしそうだとしたら、謝っておきたかった。しかし、和気藹々としたグループ――しかも女子の中から一人を呼び出すことは結構恥ずかしい。瑞佳や留美なら良いのだが、真希だと駄目だ。理由は分からないけど、とにかく駄目だった。浩平は休み時間ごとにタイミングを計り、何とか真希に接触しようとするのだが、上手くいかない。何度か目が合っても相変わらず、逸らされるばかりで埒があかない。

 結局、放課後まで浩平は杞憂を胸に抱えたまま過ごさざるを得なかった。一層のこと、気にすることを忘れようとも思ったが、真希の姿を目に映す度、気が失せてしまう。埃が堆積するように感情も積もり、今では一角のものとなっていた。ホームルームが終わっても、真希の友人達は彼女から離れようとせず、楽しそうに周りを取り巻いている。以前と違うのは、留美がその輪の中にいること。そして、それに対比するように真希の表情が少し暗いということだった。

 気にはなったが、前提条件が変わらない今、近づくことはできない。仕方なく、浩平は鬱屈とした思いを抱きながら教室を出る。特にすることもなかったので、商店街でもうろつこうと思ったが、それすらも面倒臭いと思った。気が滅入る――そんな時に浩平は、ふらりとあの場所に向かう。今は誰も使っていない、閑散とした教室。ここでかつて部活動が行われていたことを、知る人間はあまり多くない。元々、設立されて間もなかった上に数ヶ月で自然消滅した部だった。軽音楽部というと聞こえは良いが、ようはヴィジュアル系バンドに憧れている若者達が、ある教師の想いと結びついただけに過ぎない。大学のバンド同好会みたいなものだった。

 しかも、双方の求める音楽の方向性が違った。教師はジャズという予想外のジャンルを打ち立て、生徒はそれに抗議して即日、半数以上が止めていった。浩平はそれでも数日ほど、興味を持ってピアノに接してみたのだが、上達する気配もなさそうなので、すぐに止めた。教師はやる気のなさに憤慨して顧問を降り聴き専に戻ったが、生徒達はその後も教室を駐屯基地として使っていた。好き勝手にギターやクラリネットをかき鳴らし、持ち込んだ漫画や小説に耽る。集団としては末期症状で、消滅に至るまでの過程は極めて明瞭だった。

 浩平は、部が怠惰と同した時点で暫くは部室に近寄らなかった。ただある日、偶然覗き込んだその場所が、何故か自分を誘っているよう思えた。普段もそうだが、心が触れた時は感情に逆らわない。施錠もなされていないので、浩平はそっと教室に入り、無為に時間を過ごす。ギターは調弦がなされていないためか張りが悪く、クラリネットは鳴らせない。ピアノも調律が狂っていることを数回の訪問で粗方、把握していた。掃除係は、楽器の調整まではしない。上手に鳴らない楽器の折り重なる、無価値が集約したような場所。浩平は窓を開け、埃ばんだ空気を追い出した。部屋が清涼に満たされ、冷気に満たぬ内に窓を閉める。

「何、やってんだろうな――俺」

 ピアノに据えられた椅子に座り、浩平は思わず独り言を呟く。奇跡的に、部活にやる気を出して訪れた時も、一人になりたいがために訪れた時も、最終的にもれる言葉はいつも同じようなものだった。ピアノの前に座り、一言、そして溜息。何もするわけでもない、そして数分後には教室を出ていた――少なくとも今までは。

 鍵盤に目をやる。埃の積もったカヴァを、そっと手でなぞる。今なら、何故か弾けそうな気がして――何故か、弾きたいと思った。カヴァを持ち上げ、黒鍵をそっと叩く。叩いた場所はファのシャープだが、絶対的な音感を持たない浩平にもそれが楽譜どおりの音とは聞こえなかった。以前、ふざけて何度か叩いた頃より、音は更に悪くなっている。

『ねえ、――を、弾いてよ』

 誰かが、自分にそれをせがんでいる――ように、聞こえた。浩平は鍵盤に両手を沿え、ふと手を止める。よく考えれば、先程の声のようなものの聞こえ先が不思議だった。何より、この場にいるのは自分一人だと誰よりもよく分かっている。浩平は顔をあげ、辺りを見回す。すると入口には、とても見慣れた顔。何故、彼女がここにいるのだろう――浩平はぼんやりとそんなことを考える。

「あれ――折原、何か弾くんじゃないの? 詰まんない」

 あまりに唐突な登場で、浩平は何度も目を瞬かせるが、不服そうな顔でこちらを眺めているのは広瀬真希だった。てっきり、仲直りした友人と帰宅の途についているとばかり思っていたので些か不思議な気がする。

「折角、そこまで構えておいて何もしないってのはある意味、詐欺ね」

 そう言い切ってから、ゆっくり近づいてくる真希の姿に、授業中や休憩時間に見て取れた憂いはない。はしゃいでいるため、一時的に負の感情が抜けているのかなと想像してみたりもする。浩平が見る限り、今の彼女は屈託なき明るい少女にしか見えなかった。

「詐欺って、俺は誰も騙してないぞ。発言の撤回を要求する」

「さっきまではね。でも、今となってはもう既に遅いのよね。ここで折原がピアノを弾いてくれなければ、わたしに対して詐欺を行ったことになるんじゃない?」

 さしもの浩平の抗議も、真希には別の意味で通らない。無茶苦茶な理屈だ、と浩平は抗議したかったが、真希の楽しそうな顔を見ているとその気も失せた。先日までの杞憂が抜けたからだろうか、彼女は時折気負いの抜けた、優しい笑みを向けるようになったような気がする。勿論、あくまでそれは浩平の推測に過ぎないのだが。それにしても、普段からこういう顔ができればクラスメートの彼女を見る目も変わるのになあと、少し穿った気分で顔を眺めていると、見られているのに気付いたのか、真希は不機嫌さを顔に浮かべてそっぽを向いた。またかと心の中で呟きながら、折角二人で話す機会に恵まれたのだから、この際、一切合財尋ねてみようと浩平は口を開く。

「なあ、ここ数日の間、ずっと思っていたことだが」

「ん、何よ?」

 真希の受け答えもまた、表情に似て素っ気ない。浩平は頭に一つ、疑問符を付け加える。

「どうして、俺に見られてるとそんなに不機嫌そうな顔するんだ?」

 浩平の言葉を聞いた途端、真希は僅かに顔を紅潮させ抗弁してきた。

「折原――それ、本気で言ってるの? だって、授業中とか休憩時間の時とかしょっちゅう、視線を向けられたら気になるわよ。ちらちら見られて、何か監視されてる感じで嫌だったの」

 何を言わせるのかとばかり、真希は立腹の様子だった。浩平は、試験の時の一連の事件があったからこそ気になっただけのことなのだが、少なくとも真希には監視と映ったようだった。

「それは心外だな、俺はちらちらと見てた訳じゃない。堂々と、見てたんだ」

 人をストーカみたいに表現するから浩平は真正面から抗議した。だが、なぜか真希は溜息を吐きやれやれという声が聞こえそうな程に首を横に振る。一目見て、現状に不満を感じていると分かる仕草だった。

「あんたねえっ、余計に悪いじゃない――兎に角、わたしは折原に見られると落ち着かないの。だから、これからはちらちらとわたしたちの方に目をやるのは禁止。一昨昨日のやり取り、折原だって見てたでしょ? 心配しなくても大丈夫だし、それに何かあったら――今度こそわたしも逃げないから。だから折原、少しだけでも良いからわたしを信じて」

 信じて――と、力強く語る真希の表情は、今まで一度も思ったことはなかったのに、よく整っていて正直に綺麗だなと感じた。すぐに柄でもないと思い直すのだが、浩平は顔の温度が僅かに高い自分を見出していた。感情が表に出ていないことを望みながら、浩平は真摯さを受け止められるように、それでいて照れ隠しのためか僅かに素っ気なく答える。

「そっか――じゃあ明日からはそうする」

 浩平は真希のことを疑っている訳ではない。彼女の行動力や明るさ、人の輪の中心になれるような魅力については既に存じていることだったし、先日の件についても親しい人間を気遣いすぎた故ということで浩平の意見は落ち着いている。何より、七瀬留美がそれで良いと言ったのだから、浩平には抗うこともできなかった。

 真希は、浩平の言葉に満足したのか僅かに頷いた。それから、少し悪戯者めいた色も含めて、浩平の止まった指先を再び眺め始める。

「ん、分かれば宜しい。ということで折原――話もまとまったところだし、何か弾いて」

 期せずとも、話は再びピアノに戻る。浩平は己の下手さ加減を誰より理解しているので、何とかそれだけは避けようと頭脳をフル回転させた。

「いや、本気で駄目だって。俺ははっきり言うと、小学生の頃のバッハと対決しても勝利できる気が微塵もしない」

「そりゃ、当たり前でしょうが。バッハは、幼年期からずっと両親に添われてピアノの練習を欠かさずに続けてきたんだから、折原が叶わないのは当然に決まってるじゃない。別にそこまでのレベルじゃなくてさ、普通の童謡でも良いから軽く弾くとか、それくらいなら折原にだってできるでしょ? 別に質の高さを求めてるんじゃないの。わたしとしては、折原が苦労しながら鍵盤を一個一個叩いていく姿を見るのが楽しみなだけだから」

 考えようによっては容赦なく酷い台詞だが、半面でプレッシャも抜けた。ピアノソナタの有名所でも弾かされるのかと、浩平は内心で身構えていたのだから。そうなると元々、調子に乗り易い浩平のことだから、手が出るのは案外、早かった。

「よし、それでは俺の得意技を見せてやろう。音楽的才能に自信はないが、これだけはシンプルながらも人を驚かせる真の芸だと思っている。聴きたいか?」

 浩平はそれがピアニストにあるまじき行為だと知らず、指の関節をぽきぽきと鳴らす。

「聴きたいってさっきも言ったわよ」

 急かすような言葉に満足しながら、浩平は両腕を演奏というより格闘の構えの如く、力を込めて鍵盤と向き合った。まるで、不倶戴天の敵と向き合うように。

「では、行くぞ――秘技、蛙之歌組曲」

 浩平はこの日、恐らく世界で最も粗末な組曲を奏でた。

 

−13−

 真希の顔があまりにもなネーミング・センスで凍り付いたも露知らず、浩平は先ず右手で、続いて左手で同じ曲を弾き始めた。楽曲は、小学校一年に誰もが鍵盤ハーモニカか笛で演奏する極めて簡便な曲。調律がなされず、僅かばかり歪んだ音であっても、真希にとってもそれは自明だった。浩平は左手で蛙の歌を弾き終えて、間違いの一つもないことによって得られた余韻に浸る。しかし、満足げな浩平に、真希は今日一番の冷淡さを惜しげもなく披露した。

「折原」と一際、大きな声で呼びつけてから、感想を待つ浩平に向かって容赦なく言い放つ。「あんたに少しでも期待したわたしが、愚かだったわ」

 賛美を求めていた浩平の体がぴくりと固まった。彼は慌てて真希に、先程の音楽がどれほどの偉業なのかを懇々と説こうとする。

「そんな――折角の最強技だぞ。言うならば、右手で書きながら左手で六角形を書くようなものだ。俺は、練習で鍵盤ハーモニカを一台、壊してしまった」

「何で腕じゃなくて鍵盤ハーモニカが物理的に壊れるのよっ!」

 とりあえず声を張り上げてみた真希だったが、元々常識の通じない浩平に言葉で聞かせようとしても無駄だと悟り、仕方なく折れた。それでも、まだ実は隠されたネタがあるのではと探りをいれてみることを忘れない。

「まあ、良いわ。あれはあれで珍しいし――で、他には何か弾けないの?」

「残念ながら、ネタ切れだ」

 浩平があまりに堂々としているものだから、真希には最早、溜息を吐く気力すらなかった。この不思議な世界から抜け出さなければ、独自性の崩壊は避けられない。真希は、浩平の強烈な個性を今更ながらに思いながら、話を別の方向に向けることにした。

「で、これからどうするの。まだ、この教室に残る気? それとも、もう帰る?」

 最初、真希は彼が部活動に来たのかと思ったが、そうではないことは教室に入り暫く教室を観察することで用意に推測できた。所々に散乱した楽器、一応掃除だけは成されている部屋にそれは、果たして惨めに思えた。そして、半音もずれたピアノは長い間、厳密な調律が行われなかったことを如実に示している。このような有様で、何か真面目な活動をしていると信じられる人間はいないだろう。真希はかつて僅かの期間だけ、軽音楽部がこの学校に存在したことを思い出し、そこがこの部室だったのではないかという推察も付け加える。しかし、浩平がその部員だったかは真希にとっての興味には成りえなかった。真希の興味は今回に限って言えば、過去ではなく現代にあこそある。

 だから、少し戸惑う浩平を、真希はずっと見守っていた。彼は無言でピアノの蓋を下ろすと、側においてあった鞄を拾い上げ、真希には目線を合わせず、空気に話しかける。

「じゃあ、帰るか」

 浩平はそう言ったまま、動こうともしない。真希は、彼のことを少しばかりからかったら一人で帰るつもりだったので、その言葉が自分に向けられていると気付くのに数秒かかった。

「ねえ、さっきの言葉――もしかして、わたしに言った?」

「当たり前だろ。まさか広瀬は、俺が空気や埃と会話ができるなんて思ってないだろうな?」

 あんたならやりかねないという言葉をぐっと飲み込み、真希は別の意味で抗議した。

「だったら目くらい合わせないよ――そりゃわたしも間抜けだったかもしれないけどさ、明らかにそっぽ向かれてたら、直ぐには気付かないに決まってるじゃない」

 第一、浩平は今まで嫌なくらいに真希と視線を合わせようとしてきた。あまりの変わりようが少し癪で、真希の語調も自然、荒くなる。しかし、浩平もまた別の角度から真希に手痛い一言を返した。

「先に視線を向けるなと言ってきたのは広瀬の方じゃないか。俺は、それを忠実に守っただけだぞ」

「うっ、それは――」

 確かに、ついさっき自分はそんなことを言っていたので、すぐには反撃に移れなかった。しかし、何も言い返さないのは浩平の言い分を認めたみたいで、真希の自尊心がそれを許さない。

「まあ、そうは言ったわよ、認めるわよ。でも、今は別にこちらをちらちら伺う必要はないじゃない? その、ここにはわたしと折原以外、誰もいないんだから」

 咄嗟の弁解だったからか、真希は少しばかりではない迂闊なことを口走る。すぐに彼女はそれに気付いたのだが、苛めっ子気質の浩平がそれを見逃す筈はなかった。

「ほうほう、そうか。広瀬は、二人きりならじろじろ見られても良いんだな?」

 途端に、全視神経を真希へと注ぎ込んでくる浩平。真希は思わず頭に血が昇ってしまい、大声で怒鳴り散らしていた。

「う、五月蝿いっ。もう、折原の馬鹿っ――わたし、もう帰るからっ!」

 自分の顔がどれほどか、想像するのも嫌だった。真希はこれ以上、誰かに見られたくないと両腕で顔を塞ぎながら滑稽な姿で廊下を、下駄箱を、正門前を駆けて行く。浩平に言い負かされたのが悔しくて、恥ずかしくて、真希は全力疾走して頬が紅潮していると勘違いされるまで懸命に走り続けた。前も後ろも、北風伴う冷気も全身の火照りも、気にならない。誰もいない場所まで、走っていってしまいたかった。

 十分程走り、真希はようやく何処かの住宅の壁に寄りかかり、息を整え始める。そして、全身が、脳がクールダウンするのに比例して、今度は逆の意味で頭が混乱してきた。普段から個性集まる集団に身を置いているので風変わりな悪戯には慣れっこの筈なのに何故、今回に限ってこうも慌てているのだろうか。あまり考えたくないことだとだったが、何故そう思うか真希には系統だって説明できない。

 それは真希にとって嫌なことでも、怖いことでもあった。自分自身を納得させず、先延ばしにするのは悔しかったが、頭を冷やしてみても何ら効果的でかつ建設的なものは浮かんでこない。取り合えず、歩けるくらいには回復したので家に戻ろうと立ち上がる。しかし背後から突如、響いた声がそれを許さなかった。

「よ、よし――何とか追いついた――」

 振り返るまでもなく浩平だと分かっていたから、真希は振り向かずに再び走り出す。

「あ、こらまた逃げようとするなっ」

 浩平は慌てた様子で追いかけてくる。真希も必死で走ったが、体力的にも経験的にも長距離走に秀でている浩平には勝てず、結局は膝を折り屈服してしまった。

「もう、動かないよな。はあっ、はあっ――ここまでがむしゃらに走るのは朝の時だけで十分なのに、はあっ。おーい広瀬、生きてるかあ」

 ただ、息を荒くするだけの真希に、浩平は心配そうに声をかける。呼吸をしているから生きているに決まってるでしょと抗おうにも、真希には声帯を震わす元気すらなかった。でも、気力を振り絞ってこれだけは尋ねた。

「お、折原――何で、追い、かけて、来た、のよ――」

 息も絶え絶えの真希に、浩平は例によって悪ふざけにも似た態度で答える。

「逃げるものを追いかけるのは、当然与えられた権利だぞ。中学の公民の授業で習わなかったか? 日本では一般人にも現行逮捕の権利が与えられてるって」

「わ、わたしは、犯罪者、じゃない――」

 流石にいい加減、怒っても良いだろうと真希は思い始めた。元々、少し激し易い性格でもある故、真希は強く構えたが、しかしその前に浩平は気勢を削ぐようなことを言った。

「分かってるって、さっきのは冗談というかだな――本当はいきなり逃げ出したから、また気付かないうちに嫌な思いをさせたのかなって、それが心配だったんだ。ほら、俺って前科ありだし――長森が言うには他人の感情をあまり考えないらしいし」

 人懐こい笑顔を浮かべる浩平。それが意図してか否かは分からない、おそらくは意図していない。だが、悪ふざけが過ぎるか過ぎないかの絶妙のタイミングで謝って来るものだから、真希は生えかけの刺を抜かれてしまったような錯覚に陥った。素直に言われたから、腹を立てている自分が狭量にみえてしょうがない。この世には、どんな悪戯をしても笑顔で謝られるだけで許したくなる人間がいると有名な漫画の一節にあったが、真希は浩平が間違いなくそのタイプの人間だと思った。

 つまりは、とっくに許してしまったということ。

 考えてみれば、いきなり逃げ出した時点で普通なら不気味に思って追いかけても来ないだろう。少なくとも、自分ならそうした。浩平が真希を心配して駆けてくれたことは分かったし、少なからず嬉しかったが、彼に奇矯めいた行動を説明するだけの筋道がない。浩平を納得させるものがないということが、真希には少し心苦しかった。

「別に意味があったわけじゃ――」

 言葉はそこで潰えてしまう。意味がないならそもそも逃げないし、取り乱しもしない。真希は、己の心を容易には信じない。少なくとも、数日前の出来事がそれを嫌でもそれを思い出させてしまう。歯痒く思いながら、何も語らない真希に対して浩平はあくまで優しかった。

「まあ、意味がなくても全力疾走したくなる時はあるよな」

 変な人間と暗に込められている気がしないでもなかったが、真希はそれを浩平の気遣いだと判断した。いや、信じた。その方が気持ち、楽だったから。暫く、形容し難い沈黙が二人の間を流れる。冷たい風の音が、だから真希には少し白々しく聞こえた。

 何をしたら良いのか、何を言ったら良いのか。頭は混乱していないのに、混乱しているようで――つまりは混乱しているのだろう。真希は自分の愚鈍さに呆れながら、そっと浩平の顔を覗く。彼は唐突に言った。

「なあ、甘い物は好きか?」

 質問の意図が読めなかったが、真希は反射的に肯いていた。甘い物は普通の女性並には好きだし、今はダイエット中でもない。真希と甘味を隔てる壁は存在しなかった。

「だったら、クレープの美味い店があるんだ。よく分からないけど迷惑かけたから――今日は俺の奢りで好きなもん頼んでも良いってことでさ」

 話が飛躍し過ぎていて真希には、何を言いたいのかが分からなかった。しかし、所謂食べ物でつろうとしていることが理解できて、つくづく女というものを分かっていないと溜息を吐きたい気分になる。しかし、反論して禍根を広げるのも嫌だったし、ここは食べ物につられる振りをした。

「わたし、意地悪だから一番高いものを注文するかもよ。それでも良い?」

 浩平は一瞬、誰が見ても分かるほど情けない表情をみせたが、次には力強いところを見せようと胸をどんと叩く。力が強すぎて思わず咽てしまっているのが、哀しいほどお約束だった。

 別に並んで歩いている訳ではないが、無性に周りが気になる。商店街はどうしても、地理的にみて帰宅部員の溜まり場所になり易いので、学生が多い。勿論、その中には数名のクラスメイトもいるし、真希も偶然出くわして挨拶くらいしたことがあった。気になるのはそういう理由だった。見つかったら、どのような噂を言い触らされるかたまったものではない、という事実に今更ながら思い至ったからだ。浩平の空気に流されて迂闊になっていたのは、明らかだった。

「広瀬、ここが俺のお気に入りのクレープ屋だぞ」

 商店街にクレープ屋は一軒しかないので、お気に入りがここであることは自明なのにわざとらしく大声で紹介する浩平が、心底から憎かった。真希は少し顔を伏せ、バナナクレープという最も無難で美味しいものを選んだ。浩平も甘味にだけは奇抜さを求めないらしく同じものを選んだ。

「もっと高い物を選ぶと思ったのに、謙虚だな。それとも俺の懐具合を心配して、わざと安いのを選んでくれたのか?」

「え、ええ――やっぱ、可哀想と思ったから」

 本当は目立ちたくなかったからだが、浩平に恩を着せられるという魅力に負けて真希は後ろめたげに嘘を吐いた。そんな真希に、浩平は予想外に優しかった。

「そっか、ありがとうな」

 ほんわかと笑顔な浩平に、真希はどう致しましてと言わんばかりに微笑み返す。彼の顔を見ても、今度は狼狽することもなく、それは真希をある程度、満足させた。シンプルながらも、皮から具まで甘味と旨味に溢れたクレープを、一口ずつ齧りながら浩平と歩く。案外、悪くないと思った。異性だからだと、過剰に意識してきたのかもしれない。真希は、こういう気さくな男友達がいることは案外、心を落ち着けてくれるのだろうかと、思ってみて微かに微笑む。浩平はクレープに夢中になっていたため、不幸か幸いか真希のそんな表情をみることはなかった。

 ゆっくりと商店街を道なりに歩き、真希と浩平はそれこそ沢山のことを話した。好きなドラマや食べ物、科目、それこそ皆が他愛のないと言うことを、それこそ意味もなくただひたすらに。真希は浩平とこうして普通の会話を交わすことが初めてと気付きながらも、それを指摘することはしなかった。無粋に思えたし、何よりそんなつまらないことで会話を途切れさせたくなかった。真希はすっかり安心しきっていた。彼が隣にいることにも、きっとそれ以上のことにも。

 何時の間にか別れ道に差し掛かっている。真希は少し名残惜しいなと思いながら、明日も話したいとかそういう気持ちは抱いていなかった。

「折原、今日はクレープありがと」

「甘いな、後で十倍にして返して貰うぞ」

 勿論、それは浩平の冗談だから真希も真面目には答えない。浩平はバイバイと手を振り、さっさと続く道を歩いていく。真希は意味もなく立ち止まり、彼とは時々、馬鹿な話をするくらいが丁度良いのだと、自分を納得させる。そして、真希はそのことに殆ど成功していた。

 安堵を求めるよう、見上げた空は誰にも分かるほどの夕暮れ。冬至が迫り、四時半過ぎと言うのにもう、空を果てしない橙に染め上げている。相変わらず、綺麗な空だった。烏が二羽、電柱から大空へと旅立っていく。その姿は、ある童謡を容易に誰の胸へも蘇らせるに違いない。細かく亀裂の入るアスファルトの道、徐々に深まる空気の冷たさが大気を駆ける。道路は、継ぎ接ぎだらけで寒くないのだろうか? 無為なことに思いを巡らせながら、真希は最後にもう一度、家路を辿る浩平の後ろ姿を見る。計ったようにその時、浩平もこちらへと振り向く。

 逆光に照らされ、金にも似た輝きが真希の目を紅く灼く。その中心には浩平がいて、彼は一種、ぞっとするほど綺麗で、危うげな笑みを浮かべていて、今にも消えてしまいそうで。真希は今までの確信を崩し、安心を不安に変え、大声で叫んでいた。

「折原あっ! 明日も、ちゃんと、遅れずに、学校来るのよっ!」

 形振り構わぬ言葉を放った真希に、浩平はぶんぶんと大袈裟に手を振る。真希は今更ながらに恥ずかしくなり、自らの帰路を足早に歩き出した。その胸には、混乱が満ちている。

「こんな筈じゃなかったのに――」

 呟きが自然ともれる。気のおける男友達という、最も安定した場所に落ち着こうとしていたのに、浩平の消え入りそうな、それでいて背筋に悪寒が走るような綺麗な顔立ちが、真希の心から簡単に冷静を奪い取っていた。あの時と、同じだ――。

 折角、組み立てたのに何処か間違って無理矢理押し込んでいた所為で一から作り直さなければいけない、ジグソーパズルのようだった。僅かな綻びから、次々と突き崩されていく完全犯罪のようだった。浩平に嫌われるという事態は去った、友情という関係にも何ら不満はない。だったら何故、心がこうも揺れるのだろう。何故、安易な解決を認めてくれないのだろう。真希は、思い通りにいかない自分にやきもきしながら、ようやくのことでマンションの自宅に辿り着く。

 真希は自分の部屋に入ると、即座に制服を行儀悪く脱ぎ捨て床に投げる。下着のまま、真希はベッドに倒れこんだ。暖房はつけていない。そうすることで、過剰熱を何とか放出してしまいたかった。布団の微かな温もりを背に感じながら、真希は考える。自分は、浩平のことをどう考えているのだろう。何とも思っていないのか、単なる友情なのか、それとももっと深いものなのか。

 正直、真希にとっては色恋沙汰なんてうんざりだった。折角、友人達と元の穏やかな生活に戻れたのだから、暫くは心悩ますことなく日常に耽っていたかった。だから、浩平の存在が殊更憎い。彼は最近、いつも自分を掻き乱す。心を剥き出しにする。安定を許さない。揺れながら、醒めない夢のようにぼんやりとしていながらそれは現実だった。

 真希は何故、こんなことになったか理由を必死で探る。何処かに答えが落ちていないか、さもしいと思いながらつい探してしまう。悪い癖と思いながら、遅々とフラッシュバックしていく記憶の中で最初に引っ掛かったのは、やはり眩しいくらいに消え入りそうな程、綺麗だった彼のこと。

「もしかして、今度こそ――本当にそうなのかなあ?」

 主語を明確にしないのは、真希の精一杯のプライドだった。

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