−6−
全てを語り終えた時、広瀬真希はまるで魂を全て吐き出してしまったかのような錯覚を覚えた。呪いと言っても差し支えないほどの、散々たる家族崩壊の歴史。その中で行われた自分の役割は、改めて口に出されたことで逃れようのない程の重圧に膨れ上がっていた。
最初の母親と生まれてくる前の弟を死に追いやり、愛情すら交わせると思えた義兄を最も残酷なことで失い、連れ子を奪われた二番目の母親は狂い、しかし初めから最も狂っていた父親に殴り殺されそうになる。そして最後まで信じていた姉に、罵声を飛ばされ忌み嫌われる始末。
そして、今日の父の行動――どの事象がどのように繋がっているのかは分からない。しかし、その発端に自分があるのだということは理解できている。自分が母さんと生まれて来る筈の弟を死に追いやらなければ義兄さんが死ぬことはなかったし、昭子さんがおかしくなることもなかった。きっと、父さんや姉さんもまともにいれた。
要は――発端が全て自分だということだけが、確実で。意図せぬところで真希を追いやり、苦しめてきた事だった。そして今も苦しめている。忌まわしく、自らの命ごと捨て去ってしまいたくなるような記憶だった。
小坂由起子は真希の告白を、ただ黙って聞いていた。彼女が後悔していること、その全てを脳に留めて盛んに整理しているようだ。しかし、その沈黙が真希には辛い。彼女からどのような言葉が飛んでくるか、どのような処遇を言い渡されるか、考えただけで憂鬱になる。
そして、沈黙すらも価値を失い真希の心を保ちえぬほどになった頃。由起子がようやく、しかし重々しい雰囲気で口を開く。
「それが貴女が『罪』だと思っていることか?」
まるで裁判官のような言葉遣いに、真希は思わず肯いた。これこそが、自分の罪なのだ。伏して償わなければならぬほどの、救いようなさに満ちたものだ。
「そう、です。わたしが――全部やったこと――」
だからこそ。自分は誰にも許されないと信じた。あの時――公園でブランコを漕いでいたあの時。自分で自分を刺そうとしたあの時。その思いは頂点に達していた。だから、どんなことを言われようと家族が自分にとっての絶望である限り。自分は自分を殺すだろう。しかし、由起子は驚くことに、真希の言葉を信じなかった。
「成程、ね。巧妙だ、実に巧妙――幼稚臭い程に巧妙で――お話にならない。真希さん、君は本当に自分でこんなことを信じているのか? 信じたのか?」
信じたのか――という彼女の言葉が分からなかった。自分の記憶の中にあることなのだから、それは間違いなく事実なのではないか? 真希は当たり前のことを思い出し、そして力強く肯く。しかし、それでも由起子は納得しないようだった。
「君の意見を曲げるようですまないがね、私は少なくとも貴女が最初の母親を突き落としたとは思えないんだ。もし、貴女の話すことを信じるならば。よく思い出すんだ、あの時の君はたったの七歳だった。勿論、七歳であろうと母親がより愛情を寄せる存在に嫉妬はしたかもしれない。でも、それで愛している母親は突き落とさないよ、断言する。まだ、分別のない三歳時なら可能性があるかもしれない。しかし、七歳児はそれをすれば、母親にまで致命的な悪影響を与えることを知っている。母親を愛しているならば尚更のこと、当時の貴女は母親を突き落としたりはしなかった。事故なら有り得る、しかし故意ということは有り得ない。君の信じる『記憶』というのは、完全に間違っている。理論的に考えればそうなんだよ、分かるかい?」
理論的に考えれば、と由起子は真希をゆっくりと諭す。理論的――冷静になれということか。真希はしかし、冷静に物事を考えられるような状況ではなかった。だから、七歳の自分が母親を突き落としたということよりも、それが嘘だということの方が驚きだった。それくらい、思考が錯綜していた。
「嘘、嘘――わたし、記憶にあるもの。何か強く背を押すような感触に、べっとりとまとわりつく血の色と」確かに、それらの感触は真希の心に今でも刻み付けられていた。「あの感触は忘れない、偽りじゃない。覚えてる――」
「違うね。覚えてるんじゃない。勘違いしているんだ。断片的な記憶が、君の中で無理矢理繋がってるだけだ。悪戯で背中を突くなんて、子供なら誰でもやることだし――血に塗れた母親に駆け寄るのは娘なら必ず行うことに違いない。しかし、君の中にあるのか? 君の記憶の果てに、母親を突き落とした記憶が存在するのか? 君はそこまで残酷な存在だったのか?」
記憶の果て――その言葉が、真希の心を酷く揺さぶる。記憶、記憶――今まで、心を抉り出さんかのように凄惨な思い出を幾つも貯めていたその果てに。もし、答えがあるとすれば、そこには一体、何があるのだろうか。真希は怖かった。記憶の奥底に、自分は悪しきものしか見出せなかった。ならば、その果てにあるものは――全てを飲み込むくらいの悪夢のような気がするのだ。
残酷な存在。そう問いかける由起子の言葉が、真希には痛い。自分は決して優しくない。人を虐げることばかり、長けている。そういう人間は、例え無邪気な子供の存在であっても限りなく残酷になれるのではと、思ってしまう。
「分かんない、分かんないよ。わたしがどんな人間なのか、わたしの記憶の果てに何が眠っているのか、そんなに分かんない。ねえ、わたしは――わたしは広瀬真希よ。でも、やっぱり分かんない。わたしはどういう人間なの? どんな人間なの?」
「――私には分からないね、そんなこと」真希は、由起子に何かを期待していた。しかし、その期待した答えを、言葉を由起子は何一つくれなかった。「自分がどういう人間なのか、それを探すのは自分自身だよ。勿論、私にも何かは言えるだろう。綺麗なこと、救いになりそうなこと、何でも言ってやれる。他人だからだ、他人だから何でも言えるんだ。でも、ありのままの自分を見つけることは本人にしかでいない。だから、私は貴女の質問には答えられない。他のどんな質問に答えられても、貴女がどんな人間かは貴女が自分で決めるしかないんだ」
それは、とても厳しい言葉だった。自分のことは自分で決める――確かに、それは涙が出るくらい正しい。実際に、涙が出そうだった。しかし、由起子は突き放すようなことを言っておきながら、片方では救いをくれるのだ。その救いは言葉の形をしていた。
「でも――これは私の主観だから聞き流してくれても良い。だがな、私は真希さんのことを優しい女性だと思う。心が強く、思いやりもあって忍耐強い性格をしていると思う。その本質は、信じても良い気がする。私にとっても、貴女にとっても」
優しい――それは浩平にも、友人達にもかけられたことのある言葉だった。でも、本当にそうなのだろうか? 本当に自分は優しいのか、馬鹿なことかもしれないが真希には理由が欲しかった。そう評される理由が、論理的な言質が欲しかった。
ただ一つのそれを求め、真希は問いかける。「それは本当なんですか?」と。
「さあな」と。しかし、由起子は不気味な笑みを浮かべる。真希は思わず身構えるが、直ぐにその必要はないことが分かった。「でも、分かるよ。何たって、折原浩平なんて馬鹿な男を愛してるんだからな。こいつは愚図で間抜けで、馬鹿なことばかりして、他人を驚かせて、ふらふらしてるようで、それでいて呆れるくらい一途な奴だ。はっきり言えば、生活不適応者予備軍筆頭くらい言ったところで言い過ぎじゃない。私が貴女を信じるのは、だからだよ。あいつを好きでいてくれる貴女だから信じられる。その奥底に眠るものの中には、優しさや慈しみの心が満ちているんだって。たったそれだけ、論理もくそもないさ」
今まで、真希は由起子の言葉に何度も驚かされた。しかし、今の言葉ほど真希を驚かせたものはなかった。浩平を愛しているから、優しい――今まで、考えたこともなかった。彼を愛することが自分の優しさに繋がっているなんて、想像すらできなかった。真希はただ、彼の優しさに少しでも報いたいと願っているだけだ。
それが、自身の心すら証明立てているなんて――真希は想像した。何を成したか、浩平に対して自分が何を及ぼしてきたか。迷惑をかけて、何度も慰められ、好きとすら言ってくれた彼。抱きしめ、何度もキスを交わし、体すら躊躇うことなく重ねた。暖かな体も心も重ねた、幸福の瞬間。しかし、それは転換し。真希は浩平に憎しみを抱いた。殺意にも似て、浩平を責め立て、やろうと思えば殺すことすら可能だった。
真希は思い出す。今まで絶望に淀んでいた瞳が、少しずつ理知で輝いてきていた。そう、殺そうと思った。けど、実際にはできなかった。どうしても、できなかった。自分を殺したいと思っても、他人を殺そうとはどうしても思えなかった。それはできない。心の奥底、一番大事な部分はそれを拒否していた。大事な人を殺すことを。
と同時に、真希の中の見えない部分に光が当たったような気がした。自分には、憎むことはできても殺すことはできない。それが分かったからだ。だとすれば、実の母親を突き落としたという感触も記憶も、全て嘘ということになる。
でも、それが嘘なら何が真実なのだろうか。そもそも、自分が何故、突き落としたと思っているのか。記憶の一部が蘇ってくる。あの時、自分は――そもそも、下から母さんのもとに駆けつけた。着いた時にはもう倒れていた、その時はもう本当に動転していて必死で救急車を呼んだ。何か靄のようなものがかかって読み出せない部分もある。あれは何だろう。
しかし、少なくともやってないということだけは確かだ。でも、それならどうして――。自分が母さんを突き落としたことになっているのだろう。誰が、そんなことを決めたのだろう。そこまで突き詰めて初めて、真希はあることに気付いた。本当なら、もっと早く気付かなければならなかったこと。その記憶は姉さんの、美晴のただ一言だけが証明だという事実。彼女のヒステリックな告発にしか、自分の罪は顕れていなかった。
そうなのだろうか。あのことは全て、美晴が自分を脅かす為にやったのだろうか。そう考えて、実の姉を疑う浅ましさを呪いたくなったが、同時に――。
美晴の呪詛に満ちた言葉を、真希は否が応でも思い出していた。
『いつか、絶対、あんたを酷い目に合わせてやる。私と同じ地獄に堕としてやる――あんたと私が同じ家族だって言うのなら、私は絶対。あんたを不幸にしてやるっ! 覚えてなさい、覚えてなさいよっ!』
あの時からもう既に、嘘が混じっていたのだろうか。自分が実の母親を殺したと刷り込むことが、彼女の言葉を実践した初たるものだったのか。しかし、それでも分からないことがある。それほどまでに憎まれる理由。そして、私と同じ地獄に堕としてやるという言葉だ。美晴の感じていた地獄とは一体何なのか――ああ、誤魔化すな、誤魔化してはいけない。真希は、塞ぎかけていた記憶の棺をこじ開ける。自分は見ている筈だ、実の姉の地獄を。
布団に組み伏せられた――一瞬、酷い吐き気がした――二人の姿。あれは罪悪から生まれた妄想ではなく、真実だった。そう、二人は体を重ねて――酷い、吐き気が――。
「おい、大丈夫か?」口元を抑え、あえぎながら膝をついた真希の背中を支えながら、由起子が囁きかける。「何か――思い出したのか?」
思い出した。胸の悪くなりそうな恐ろしい事実。家庭内暴力は今日、始まったことではなく既に長い糸を紡ぎがんじがらめに一人の人間の幸福や希望を悉く奪った後だった。しかしと、真希は思い起こす。これも記憶の都合良い、または都合悪い改竄という可能性はないだろうか。姉さんい責任転嫁をする為の――。
「まだ、よく――分からない」そう、全てに霧が晴れたかのような明るさはまだ心の中に見出せない。「でも、折原を好きなわたしは信じられる気がする。そのことが優しさに繋がるなら、これほど嬉しいことはなくて――信じたいって思った。答えはまだ出ないけど――この世界がとんでもなく嘘に見えるけど――きっと、彼だけは嘘じゃない。信じてる」
もしかしたら、それは永遠に求められないものなのかもしれない。しかし、例え苦しみが一生ついてまわるとしても、浩平が側にいてくれるだけで大丈夫な気がした。彼がそっと頬を撫でてくれるだけで、救われるとさえ思う。
「それで良い。無闇に真実に拘る必要もないさ」由起子はあっけらかんと答える。「君は苦しんだ。その壊れそうな心で、死ぬほど苦しんだんだ。しかも苦しむ必要もないことで。もうそろそろ、貴女自身の幸せを考えても良い筈だ」
自分自身の幸せ――かつて、浩平も言ったことだった。そして、それより前にも求めたことだ。幸せ、しかし真希にはその幸せが何か分からなかった。今ではとてもよく分かっている。愛するものがいること、それを誠心誠意を込めてあいすること。結ばれていくその喜びを、心と体で感じていくこと。苦しいこともあるかもしれない、悲しいことも。
でも、だからこそ真希は思う。それすらも含めて、受け入れることができる――信じることができる、それが幸福なのではないかと。
「まあ、説教も取り合えずこの辺にしよう。今の貴女は浩平と同じくらい疲れている。温かい布団にもぐり、これでもかというくらいの睡眠が必要だ。さっき言ったように、布団は好きな場所に用意しよう。勿論、この家に住むことも構わない。ただ――」
ただ――何か条件があるのだろうと真希はそっと身構えた。しかし、由起子が要求したのは真希の覚悟したものとは全く別のものだった。
「極力、外には出歩かない方が良い。万が一、君の父親に見つかってこの家に返してくれとせがまれれば、法律上は私も浩平も拒むことができない。世の中には親権者の権利というものがあってだな、家族はその属するものに対して最も高い束縛を要求できる。滅多なことでは外部の人間も、警察機構すら介入できないんだ。家庭内で暴力を振るう親にさえ、その親権は須らく執行される――恐ろしいことにな」
由起子の説明に、真希は自分の顔が徐々に青ざめていくのを感じた。勿論、真希だって家庭内暴力に対して警察が極めて踏み込みにくいことは知っている。でも、そこから逃れる権利はある筈だった。それに、相談施設や保護施設だってある。最悪の場合、そこに逃れれば良いのだ。真希は思わず声を張り上げていた。
「でもっ――暴行は犯罪じゃない。強姦も――重大な犯罪なのに、どんなに苦しくても家族にはそれを拒む権利がないって言うの?」
「ないね、今の所はない」由起子はきっぱりと言い切る。「家庭内暴力の保護施設でさえ、親権を振りかざす親から子供を助けることはできない。現行の法律では、例えどんな屑親の持つ親権であっても、他人の権利より強いんだ。実際、その為に子供が虐待死した例もある。統計上のデータだけでも、家庭内暴力の件数は六〇〇〇件以上にも及ぶ。その内の一割が、性的暴行だ。勿論、これは氷山の一角に過ぎない。最も多い見積もりでは、この数倍、少なくとも数万件の潜在被暴力者がいると言われている」
「そんな――じゃあ、子供は黙って親に殺されろって言うの? 犯されろって言うの。そんなの、間違ってる。子供は――親の慰め者じゃないのに――」
数万件、それほどの子供が親によって非人道的な暴力を与えられている、俄かには信じ難い数字だ。しかし、同時に微かな安堵も感じている自分に嫌悪する。真希は希春の暴行が、他には類を見ないおぞましいものであると思っていた。だが、現実は違うらしい。少し隣の家を覗けば、実際に行われていることかもしれないのだ。真希は思わず戦慄した。その怯えを見て取ったのか、由起子はなおも畳み掛けるように言葉を続ける。
「だが、事実そうなんだ。良いか、真希さん。これが日本の、偽らざる現状だよ。子供達が実際に犯されるか、殺されるかしないと、警察は調べてくれない。世間は同情してくれない。よく考えれば、少しだけ親の調子がおかしい――笑わせてくれる。人一人殺そうとしている人間も見抜けないほど、無気力で、無関心なだけだ。言い訳にもならない。でも、そんな言い訳にも笑い事にもならない状況に、貴女は巻き込まれている。そのことだけは十分、注意して欲しい。勿論、私も浩平も細心の注意を払う。再び、堂々と怯えることなく暮らせる生活を取り戻せるよう、努力もする。でも――今の日本の法律の前ではそれすらも余りに無力だということを覚えていて欲しい。私も浩平も、刑法上は未成年者略取、逮捕監禁者なんだよ」
「でも――正しいのがどちらかは――」無慈悲な暴力を振るう方が正義でそれを助けようとするものが悪だと。そんな馬鹿げたことを信じたくなくて、真希は殆ど藁にも縋る思いで由起子を見た。からからな喉の痛みに耐えながら反論した。「分かり切ってることなのに――それでも駄目なの? 誰もが正しいと想うことを、悪いこととして裁くなんて間違ってるのに」
「ああ、間違ってるさ。でもね、いつでも正しいことがまかり通るくらいなら――」そう言って、由起子は苦々しい苦笑を浮かべた。「警察なんて必要ないのさ」
それはどんな皮肉家が束になっても、叶わないくらいの強烈な皮肉だった。しかし、だからこそ目の前の女性は誰よりも信頼できる。それもまた確かなことだった。
それで本当に、会話は打ち切りとなった。リビングの時計を見ると、時刻は既に一時を回っている。まだ少し興奮しているが、しかし積もるような眠気がただでさえ朧な思考を奪っているのもまた、事実だった。今は心を少しだけでも綺麗にする為、眠りたい。目を擦り、しかし今日最後の作業をする為に立ち上がる。布団を運ばなければならない。
真希は敷布団と毛布、掛け布団一式を抱え、浩平のソファの隣にひいた。由起子はその様子を確認してから、こう言葉を残して立ち去った。
「――良い夢を」
その通り、良い夢を見ることだけを望む。今日だけは、せめて、良い夢を。それが叶わぬなら、せめて夢を見ないよう。真希は布団に入る前に、浩平の姿を見た。胸を苦しげに上下させ、息も苦しそうだ。熱もあるかもしれない。しかし、何もできない。何もできないのだ。真希はそっと、浩平の頬に触れた。
そして電気を消し、布団の中でそっと目を瞑った。真希は今日のことを考える。何て色々なことが起こった一日だろうか。久しぶりの休日で、浩平に幸せと初めての痛みを貰って。実の父親に襲われ、暴行をうけかけた。そして、実の母親を階段から突き落とした記憶を思い出して。もう、この世界からいなくなってしまいたいと願うほどの絶望を覚えた。
しかし、浩平の優しさは心と体の鋭い棘すら引き受けて、それを彼そのものとして刻み込んでいる。そして、真希の代わりに苦しんでいた。思い出した記憶が、しかし本当はとても曖昧なものと気付かされ、再び今は混沌としている。光のない部屋の中で、ただ真希の思考だけが蠢いていた。自分は本当に、実の母親を――裕子を突き落としたのか、激しく自問する。
義兄が自分のことで死んだのが事実だということは、紛れもなかった。真希はクリスマス・イヴの夜にそれを吹っ切った。その死すら包み込んでくれる人間に出会えたから。浩平の存在が、真希にとって唯一の救いだった。そして今回もまた、救いになろうとしている。
「結局――」真希は思いを口に出す。そうして、確認してみたかったのだ。「わたしは、彼じゃないともう、どうしようもないところまで、来てるんだ――」
状況はどうしようもないというのに、つい頬が緩んでしまう。愛する人が隣にいて、これが取りとめもない日常ならどれほど良かっただろう。
面倒臭い。真希は今日、答えを出すことを拒否した。今だけは、せめて今だけは逃げて良いだろう。時間も、まだ沢山ある。彼女はそう思っていた。
しかし、その認識は間違いで――真希の想像だにできない理由によって、刻限は着々と近付いていた。
−7−
いつものように起きようとすると、体が妙にだるかった。どうやら熱っぽいらしい。それでも身を起こして背伸びしようとすると、左肩に激痛が走った。凶暴な痛みは全てを一瞬で覚醒させ、そして記憶を呼び覚ます。昨日の夜のこと、身も心も絶望しきっていた広瀬真希のことが思い起こされ、浩平はそっと立ち上がり――柔らかいものを踏んでバランスを崩しそうになった。
慌てて下を見ると、当の真希がソファの下に布団を敷き、健やかな顔を浮かべていた。唐突過ぎて、浩平は謀らずしも考えざるを得なかった。何故、彼女がここに――しかし、自分の体に布団が被せられていたことに気付くと、直ぐにその気遣いが分かった。真希は自分の様子を見る為、隣にいてくれるに違いないと思った。少なくとも、そう信じておくことにした。
浩平は肩の負担とならぬよう、膝を付き、その無防備な姿を眺めていた。いつもは少し厳しい表情をしている彼女の、隙だらけの姿を見るのは悪い気分ではない。そっと顔を近付け、ふと少女漫画じみたことを思う。キスすれば――起きるだろうか?
暫く悩んだ後、殴られるのを確保でキスしようとした浩平だが、玄関から聞こえるチャイムに遮られた。浩平は慌てて体を起こし、その際再び激痛に身を苛まれる。だが、その声に聞き覚えがありなおかつ緊急を要する用事だったので我慢し、玄関に向かった。早くしなければ、無言で家に上がってくるからだ。
「あ、今日は起きてるねー」
声の主である長森瑞佳は、いつものように屈託のない笑みを浮かべていた。いつもは安らぐその仕草も、今日だけは少し明る過ぎた。そしてその明るさゆえに、瑞佳も浩平の暗さを見逃さない。
「どうしたの、少し顔色が悪いみたいだけど。もしかして、風邪引いた?」
どうせ、お腹でも出して眠ったんでしょうと言わんばかりのあどけなさに、浩平は一瞬、左肩を刺されたことを話せばどれくらい驚くだろうかと、馬鹿なことも考えた。しかし、直ぐに思い留まる。このことを話せば、真希が今この家にいることも――あのことも話さなければならない。勿論、味方にはなってくれる。しかし、瑞佳について浩平がこれだけは間違いないと思うことが、協力の言葉を噤ませる。瑞佳は、隠し事をするには余りに、正直者だ。それが答えだった。
「ああ、腹を出して寝てしまってな。流石に俺のような馬鹿でも風邪を引くらしい。というわけですまんが、今日は休むってことを伝えといてくれ」
「うん、それは構わないよ」
瑞佳はあっさりと引き受け、しかしすっと瞳を薄く伸ばしてくる。嘘を見破ぶろうとしているような表情に、浩平は内心慌てた。何処かに、瑞佳を不審がらせるものがあったのだろうかと、表面には見えぬように心を固めた。
「でも――本当に風邪なの?」瑞佳は言いながら、浩平の額に手を当てる。そして、びっくりしたように手を離した。「わっ、結構熱い」
「当たり前だ、本当に風邪なんだから」多分、怪我の影響で発熱しているのだろうが、浩平には好都合だった。「何でそんなことを思う?」
「だって、わたしにすまん――だなんて、浩平はいつも言わないもん」
いつもは無作法であるかのように、瑞佳はちょっと拗ねた風な言い方をした。浩平は「ははは、俺だって感謝するときは言葉にするさ』と答えながら、これから瑞佳にありがとうの類は絶対に言わないことを深く心に刻み付けた。瑞佳には、親切に、しない。聞いたら、それこそ猛烈に抗議しそうなことだったが、浩平は残念ながら真剣だった。
「でも、そうだね。感謝されるのは嬉しいから――浩平が素直になった、ということにしておくよ。じゃあ、わたしは学校行くね。浩平はちゃんと布団被って眠るんだよ。ゲームとかやっちゃいけないから、それと水分はしっかり取って、栄養も――ああもう本当、浩平、大丈夫? わたしがいなくても一人で生きられる?」
心配しているからであって、悪意はないだろうが無茶苦茶失礼な言い方で、浩平は思わず顔をしかめてしまう。そこまでどうしようもない人間と思われていることに、少しだけ反省の余地があるなと思い直した。
「大丈夫だ。食い物も飲み物も既に常備されてる。一週間くらいは余裕で生きられる」
後で考えれば情けない答えだったが、それで瑞佳は納得したようだった。
「うーん、心配だけど――まあ、大丈夫だよね。じゃあ、今度こそわたしは学校行くよ。早く元気になるんだよ、ノートは元気になったら写させてあげるから」
正に、将来痒いところを予想して予め掻いておくかのようなきめ細かさだった。浩平ははいはいと肯いてから、瑞佳を送り出す。しかし、その直前でそれを留めた。そして、咄嗟に尋ねていた。
「なあ長森。一つ例え話をして良いか――」
「どうしたの、誰が来てたの?」
正直、放心を隠せない浩平だったが、真希の言葉に彼女を不安にさせないという使命を思い出し、笑顔で答えた。
「ああ、長森が来てたんだ。向かいってことで、いつも迎えに来るんだよ。まあ――朝起きない俺を見かねての処断らしいが。大丈夫、その――真希の父親はここのことを知らないから、来ることはない。怯えなくて良いんだぞ、よしよし」
浩平はわざとらしく、生きている右腕で真希の乱れた髪を撫でた。すると彼女は気にしているのか、直ぐに顔をあからめて押さえ始めた。
「折原、もしかしてわたしの頭ってかなりはねてる?」
「いや、目立つほどじゃないぞ。そうだな、前髪に三本ほどアンテナが立ってるくらいだ」
「――それってぼさぼさになってるって意味じゃない。ああもう、こんなの見せられないっ! 折原、洗面台貸して。身だしなみを整えてくるから」
浩平は別に気にならないのだが、そこをからかったりするのは良くないと思った。それに寝起きでぼーっとしている為か、昨夜の辛いことも頭から少しだけ抜けているようだった。浩平はゆっくりとリビングを見渡す。すると、机に書置きが残っているのが見えた。今回もまた、由起子の伝言のようだ。浩平は目を通した。そこには極めて客観的に、現在の刑法における虐待防止措置のいかに杜撰なことを説明した一文と、それに付して気をつけるようにとの注意が残っている。
浩平は自分のやっていることが犯罪行為だと知らされ、一般市民風の驚きを呈した。しかし、直ぐに軽い憤りへと変わる。暴力から身を守ることが犯罪で、暴力を振るう側が法律上は正当化されるなんて、こんな変なことはない。しかし事実、今の日本ではそれがまかり通っている。十分に気をつけなければならないことは、浩平にも分かった。
手紙を読み、折り畳んで引き出しに入れる。そして、真希のいる洗面所に向かった。彼女はまだ髪の毛と格闘している。その姿は、普通の高校生だった。幸せで、それ故に何としても守ってやらなければならないもの。浩平の心の中に、この時初めてある決心が生まれた。瑞佳の話を聞いた時に思いついた、あることだ。もし、この身に起きる現象が真ならば。
とある方法で、広瀬真希の安全を守ることができるということを知識として得たのだ。それは、できるなら試したくはない方法だった。と同時に、やると決めたら確実にやり遂げようとも決心している。暗い、しかし全てを灼き尽くすかのような炎の一撃。浩平は思わず身震いした。そして、それを風邪のせいにした。
「どう、変じゃない?」洗面所から出てきたばかりで、さっぱりとした顔の真希が現れる。その幸福を、守りたかった。「その、髪が硬いとこういう時に厄介なのよ。折原――折原?」
真希が呼んでいた。浩平は彼女の元に近寄り「可愛い」と、耳元で囁く。そして、無事な右腕の方で彼女の体を抱きしめた。
「お、折原――もう、甘えんぼ」真希の言葉は、まるで馬鹿な弟を叱る姉のような優しさを含んでいた。そして、真希自身も浩平の抱擁を嫌とは全く感じていなかった。「でも、嫌じゃないかな。折原が抱きしめてくれるの、すっごく嬉しい。折原の胸の中、わたしの居場所って気がすんのよ。馬鹿よね、馬鹿みたいよね、らしくないよね、こんなのさ」
けど、浩平は黙殺した。今まで、誰にどう思われていたかはどうでも良かった。ただ、真希のことを今、どう思っているか。それだけが、大事だった。
できるならもう少しだけこうしていたかったが、熱のせいで眩暈がする。否応なく、浩平は休むことを余儀なくされた。今度はソファでなく、二階の浩平の部屋に向かった。真希に布団を持たせるのが心苦しかったが、肩を負傷しているのでどうしようもなかった。
布団を引き直すと、浩平は肩が負担にならぬように体を傾けて眠った。真希はそれから一度、部屋を出ると氷の入った洗面器、清潔な布、タオルを二枚に包帯をもってやってきた。
「先ずは包帯を変えないと。少し痛いけど、その――我慢して」
「別に遠慮するなって。我慢しなさいっ、くらい強く言ってくれた方が真希らしい」
「う、また人のことを強気な女性みたいに――」と、そこまで言ってから、真希は上目遣いで浩平をのぞむ。「そういや、折原ってわたしのこと、その――名前で呼んでない?」
「いや、だって――昨日、苗字で呼ぶのを嫌がってたから。そう呼ばれるのが嫌だって言うのなら、やめるけど」
ついつい自然に言っていたが、よく考えるとそれは突然だし妙に馴れ馴れしいものだった。しかし、真希は責めるどころか首をふるふると横に振る。
「ううん、別に構わないけど。確かに、まだ苗字だけで呼ばれるの、辛いから。自分が本当に自分なのか、分からなくなる――」
彼女は、不安の中で生きている。包帯を巻き終わり、タオルを絞って浩平の頭の上に載せると、直ぐに体を預けてくる真希の仕草は、そのことを痛いほどに示している。
「折原――」真希は言いながら、浩平の布団に潜って来る。勿論、その目的はただ襲い来る様々な負を追い払うことだ。邪な想いなど、一つもない。そして、浩平にもまた真希の存在が必要だった。お互いの欠けてしまったもの、それを埋める為にただただ抱きしめ合うことが必要だった。
時々、そっとキスをした。真希の恥らう顔に、浩平は思わず手を伸ばす。とてもとても閉じた空間、二人だけの、楽園。けど、それはちょっとした気紛れや悪意、現実の中で簡単に崩れてしまう、砂上の楼閣――未完の楽園だった。
人間には、楽園はないのだろうか。真希の健やかな瞳が、浩平にそのことを絶望させる。知恵の実を食べた人間は楽園と不死を失い、永遠を孤独なものとした。
こうして、食事の間以外はずっと二人でくっついていた。真希の用意するご飯はかなり手が込んでいて、和食に飢えていた浩平には涙が出るほどのご馳走だった。
「うんうん、真希の作る料理は上手いな」ご飯に味噌汁、ひじきにかれいの煮付、白菜の酢和えと、日本人の琴線に触れるラインナップに、浩平は思わず呟いていた。「きっと、良いお嫁さんになれるぞ。或いはついつい事件を目撃する女家政婦とか――」
「なんで折原はオチをつけないと気が済まないのよっ!」案の定、真希は少し厳しい目つきで折原を詰った。「――でも、折原、酷いよ。もう断然、最低っ!」
いきなりの剣幕に、浩平は思わず腰を引く。
「その――他人事のようにさ。その――――んっ!」しかし、次の瞬間には真っ赤になっていた。「もう良いっ、もう良いわよ。その、おかわりあるから遠慮せずに食べなさいよ。早く元気になって――」
突然、真希の言葉が止まる。そして、紅くしていた顔色を徐々に悪くしていった。
「折原が元気になって、それから――それから、もっと沢山あるのに。怯えて生きなきゃいけないのかな? 折原と一緒にいられるのは嬉しいけどさ、本当にこれで良いの?」
将来のこと。真希の向けられたその先には、未だ暗い闇が佇むのみ。浩平は自問する。彼女には道がない。光の一条も指さないそこに、道があることを真希は知らないのだ。やはり、照らさなければならないのだろうか、暗く青い炎であっても彼女の道を照らさなければならないのだろうか。夕食を夢中で食べる振りをしながら、浩平はしきりに問いかけていた。
己の、心の中に。
食事が終わると、真希の用意してくれたお湯で体を拭いた。それから下着を身につけ、包帯を変えた。夜具を身にまとい、自分の部屋に向かう。真希は片付けや入浴などで一時間くらい作業をしてから二階に上がってきた。由起子の少しだぶだぶな服は、しかし火照った肌を俄かに強調していた。胸元が覗き、落ち着かないことこの上ない。
それでも己の劣情を埋め、湯上りの匂いがする恋人と添い寝するという理性が飛んでしまいそうな事実と戦い、何とか勝利を収める。しかし、勝った気は全然しなかった。悶々とした何かが、蓄積されただけだ。
それをリプレイしたかのような日々がもう二日続き、四日目に浩平は何とか学校に通えるまでに回復した。真希は心配そうにしていたが、流石に四日も二人して休むと不審がられると真希を説き伏せた。そうなると、浩平の中を燻るのは暗い炎のように狂めいた感情だった。
真希を再び、心狂わせることない日常に戻す方法。それは――根源を排除すること。真希の父親を殺すことだった。そして、自分には完全犯罪という形でそれができるのではないか、と思い始めていた。
今日は、瑞佳が家に来なかった。暫くは起こしに来なくても大丈夫だという説得がようやく、身を結んだのだろう。浩平は客観的にそう考えていた。
しかし、懐かしい筈の学校、クラスは浩平を温かく迎えてはくれなかった。自分を知るものが多い分、その疎外感もまた格別だった。この世界はもともと、自分なしの歯車で構成された機械ではないのかと、錯覚するほど、浩平は孤独だった。思い出したように、三日も休んだ理由を聞いてくる友人がいた。大丈夫かと心配してくる幼馴染もいた。素っ気無いけど、優しい言葉をかけてくる転校生もいた。真希の友達もいた。それでいて、何かがおかしかった。矛盾している、と感じた。昼食を取り、退屈紛れに落書きをしている時、初めてその違和感に気付く。
同じ日から休み始めた真希について、誰も浩平に聞いてこなかった。少なくとも、七瀬留美や浩平の知る真希の友人達は浩平と真希の関係を知っている。聞いてこない方がおかしい。しかし、彼らの日常は平然と流れていた。真希のことは頻りに心配されていた。しかし、誰も自分と真希を結び付けてはいなかった。確実に、この世界からの接点が狭まっている。その証左を、浩平は初めてその身に突きつけられた。
その場所が、浩平に近付いているのを感じた。
そして次の日も、瑞佳は家に来なかった。暫くは起こしに来なくても大丈夫だという説得がようやく、身を結んだのだろう。浩平は祈るような気持ちでそう考えた。
その日のクラスは、浩平に孤独を強要してきた。彼らは浩平が同じクラスの人間だということは知っていた。しかし、誰も浩平と接点があるとは考えていなかった。他人か、或いは重要度の低い知人か。どちらにしても、接点は更に狭まっていた。余りに早すぎる――その独りに耐え切れず、浩平は学校を抜け出した。そして微かに痛む傷も隠して兎に角走った。真希に会いたいと思った。せめて彼女にだけは自分を刻んでおきたかった。
しかし、家に戻ってもそこに真希の姿はなかった。一階にも二階にも、何処にもいなかった。リビングもダイニングも台所も、倉庫も由起子の部屋もトイレも洗面所も玄関も靴箱も、二階の浩平の部屋ももう一つの空き部屋も、もぬけの殻だった。
そして、浩平は何時の間にかへたり込んでいた。そして、何時の間にか笑っていた。笑い声を、狭苦しい自分の部屋に響かせたくてしようがなかった。もう、最愛の恋人さえも自分のことを覚えていない。笑って、笑って、自分のことをとことん笑い倒して。それが収まった時には、浩平に新たな感情が浮かんでいた。
その感情は暗い炎の色をしている。全てから忘れられる運命の人間だからこそ可能なこと。一人の女性を救う為に一人の人間を――。
しかし、その感情は遮られた。唐突な乱入者によって、そしてその言葉によって徹底的に遮られたのだ。
「折原じゃない――学校じゃなかったの?」
振り返るとそこに見える真希の、驚きに満ちた顔は。しかし、浩平のことを他人とは見なしていなかった。知り得るからこそ浮かべる、多彩な心の動きだった。
「――真希のことが心配で、さぼってきた。そしたら、家の何処を探してもいないから、心配で、その――もしかしたらと思って」
「買出しに出てたのよ」真希は、浩平の表情が真剣なことに気付き、思わず言い訳していた。「その、夕食で欲しい食材が幾つかあって――その、勿論注意したけどさ。その、折原――もしかして怒ってる? 軽率なことしたって、怒ってる?」
浩平は大きく首を横に振った。
「真希は、俺のことが分かるのか?」
「分かるって、折原でしょ? どういう――」
しかし、浩平は次の言葉を出力させない。その言葉は戸惑いと共に、何処かへ消える。浩平は真希を無意識に押し倒していた。もう、自分と繋がりのある人間は彼女しかいない――その想いが更なる繋がりを求める願望へと浩平を追いやっていた。ベッドに流れ込むように倒れると、浩平は躊躇なく行為に及ぼうとした。
しかし、真希の少し戸惑ったような。
悲しみを帯びた瞳が、浩平を留めた。
愛しい人間を慰みに求めてはいけないという思いが、強く浩平を戒めていた。それでは劣情のままに真希を犯そうとした彼女の父親と同じだ。浩平は一瞬でも、安易な繋がりに逃げた自分を悔やんだ。彼女との繋がりは肉体のそれもあるけれど、長い間かけて築かれてきた信頼や優しさや慈しみ――そして何よりも愛し合う心の故である筈だったのに。
浩平は肉体的に繋がることで、繋がりを確認しようとしていた。
「ごめん」浩平は真希の顔を覗き込み、真摯な謝罪の言葉を向ける。「悪い、真希の気持ちも考えずに――」
そして身を起こし、真希を解放しようとする。しかし、彼女は咄嗟に浩平の両腕に手をかけると――浩平の顔を引寄せて、キスをしていた。深く貪るように舌を挿し込み、浩平の咥内を盛んに掻き回す。その夢中さに脳が痺れ、何時の間にか浩平も激しいキスに答えていた。浩平は真希を更に強く抱きしめる。そして真希も同じように。
互いに息することすら許さぬくらい、ひっきりなしにキスを交し合った後、口元の涎の後を隠そうともしない真希が、優しく囁いた。
「良いよ」真希は、浩平の行為を肯定する。「わたしは、浩平となら――いつでも良いんだからね、遠慮なんかしないの」
間近で見る顔は紅く火照ってて、恥ずかしさを堪えながら必死で言っているのが浩平にはよく分かる。それだけに募った感情と劣情と――何より繋がりを求めたいという充足願望は最早、留めることができなかった。浩平は再び真希を押し倒す。
「良いんだな」
「うん。でも――今度は余り痛くない方が良いかなって思うけど、無理?」
無理だなんて、男の尊厳を伺うようなことを言われれば、できないなんてことを返すことは到底、できる訳がない。でも、そう――ずっと思っていたのだ。次があれば、もっと上手に愛することができるのではないか。それはただの願望かもしれないけど――。
そんなことを考えながら、二人はゆっくりとベッドに沈み込んでいった。