V.幻創式楽園

--A Paradise Ends--

湖にたたえられているのは形をもたぬ記憶たち。前向きな感情と後ろ向きの感情。愛する人とふれ合ったときの気持ち、愛する人の死に直面したときの苦痛、いなくなっていたと思っていた子どもを見いだしたときの親の喜び。そうした感情は、形をなさないからといって意味がないといえるだろうか? そうした記憶たちは、人間の人生にとって、新品の自動車やステレオやおもちゃよりはるかに大切なものだ。 (盗まれた記憶の博物館/ラルフ・イーザウ)

−1−

 でも、わたしは唯一の居場所さえも失ってしまった。折原の本質が失われた今、由起子さんも自分のことを記憶してはいないだろう。友人の家に逃げることもできるだろう。しかし、彼女達はごく平凡な家族を構築していることを知っている。一時の逃げ場所にはできても、長い間かくまってもらうことはできそうになかった。

 ならば、どうする? 苦痛を偲んで父さんに頭を下げる? そんなこと、死んでも願い下げだ。折原との出会いを通じて得た者を彼は全て否定した。それに――あいつはやってはいけないことをした。辛い記憶を抱き続けることも、人間にとって決してマイナスではないと分かった時、わたしは裕子お母さんの死の真実を思い出した。あれは単なる事故だということを、今では確信している。

 しかし、父さんは事故を利用してわたしに罪悪感を植え付けたのだ。警察の尋問で、何度も言われ続けるとそのことをやがて真実と勘違いし、混同してしまうということがあるらしい。父さんはそれを故意に行ったのだ。姉さんのことを利用して――そうやって罪悪を植え付けておけば、大きくなって成熟した一人の女性になった時、ことを及ぼし易くなる。ただ、その方法が余りに強引過ぎたので、逆に必要以上のことまでわたしは忘れることになったのだが。

 その点、彼は墓穴を掘ったことになる。

 義兄さんが死んだ時もそうだったのかもしれない。昭子さんをわたしの目の前で殴ったのは、強い罪悪感を焼きつける為だとすれば――事実、あの時からわたしは父さんに強く依存するようになっていた。唯一の家族として敬愛を捧げるようになってもいた。そして姉さんの告発、よく考えればでき過ぎている。全てがたった一人の人物の敬愛へと傾くように、仕組まれているようだった。そして勿論、そうだったのだろう。

 実際、彼が事を起こしたのがその証明だ。証拠はない、だけどわたしはそう思うことに決めた。自分勝手で非論理的だと言われようが、そう決めたのだ。

 姉さんまで慰め者にし、私にもそれを要求する。今考えても怖気が走る。父さんは会社人として立派に勤めていたが、その半面でやっぱり狂っているとしか思えなかった。或いはそれほどに母さんを愛していたのかもしれない。しかし、それが家庭内暴力や性的虐待の理由にはならない筈だ。なってはいけない筈だ。

 わたしはわたしだ、母さんの代わりではない。そして折原は、広瀬真希というわたしを心まで愛してくれた。わたしをわたしとして、愛してくれたのだ。

 ああ、とわたしは思う。やはりわたしは折原に救われているのだ。

 わたしは折原を喪失した悲しみを紛らわせる為、あてもなく道路を歩いていた。そして中通りから小道へ、何時の間にか細い道を行ったり来たりしていた。日は既に沈みかけている。赤紫の光が暮れゆく町に優しく注がれている。わたしは目を細めた。何て美しいのだろう。皮肉にも一人になったことで初めて気付く、それは暖かな光景だった。折原が隣にいればきっと、わたしはこのことに気付かなかっただろう。人の介在しない世界は斯くも美しいのだ。

 しかし、その光景を穢すような影がふと背後に現れる。髪を振り乱しスーツも型崩れを起こしながら、男はそれを気にしていない。目は血走り、その両手は赤く腫れていた。明らかに何かを殴りつけた痕。それは、彼こそが悪意の持ち主であることを如実に示していた。今、最も会いたくない人物が、相対している。わたしは思わず息を飲んだ。でも、不思議と怖くなかった。あの時は不意を疲れたが、仕事で疲弊した体にはわたしと同等程度の体力しかない。加えて、わたしはもう彼の戯言に決して惑わされないのだ。

 昔は叶わないと思ったほどに広い背中も、今はちっぽけで安っぽく見える。抵抗しないもの、従順でないものにしか力を振るえない哀れな男性、今のわたしにはそうとしか見えなかった。

「何の用?」

 わたしは冷たく言った。

「帰ってくるんだ」父さんは上から抑えつけるような口調でわたしを詰る。「今ならまだ、私も怒ったりしない。家出したことも許そう」

 父さんは、わたしを犯そうとしたことや浩平を殴り倒したことを微塵も罪だと感じていないようだった。恐らくそのようにして、彼は弱い人間を上から抑えつけていたのだろう。親という立場、上役という立場を利用して。わたしには今、その光景を簡単に思い浮かべることができる。何人が、彼のせいで不幸になったのだろう。窺い知ることはできないが、しかしこれだけは分かる。今、この時、この男の牙を折らなければ――わたしに未来はないだろう。

 折原の抱えている問題が折原の問題なら、ここで対峙しているものこそがわたしの問題だった。わたしは克服しなければならない。でも――どうやって?

「さあ、来るんだ」

 父さんは手をこちらに伸ばしながら近付いてくる。わたしは容赦なくその手を払い、そして堂々と胸を張った。

「嫌よ、あんたのところには戻らない」

 途端、父さんの顔が憤怒に歪んだ。一度それを曝け出すまでは巧妙に隠してきたのだろう。しかし、二度目からは隠す気などさらさらないようだった。

「我侭を言うなっ!」

 その一喝には威厳がこもっていて、流石に後ずさりそうになる。しかし、それが最後の手段であることも分かっているから、わたしは敢えて踏みとどまった。父さんと同じ舞台から降りてしまえば、即ち負けだ。

「第一、金はどうする? お前にどうやって暮らしていけるというんだ、衣食住に高校の学費――お前一人じゃ賄いきれる訳ないじゃないか」

 成程、怯まないと見たら経済的な束縛で追い詰めようというわけか。

「高校生でもバイトしながら働いてる人は沢山いるわよ。申請すれば奨学金だって取れる――苦労さえ厭わなければ中学生だって一人暮らしできるの、わたしもその道を選ぶ。娘を親の道具としか思ってないような人間の所に戻るのだけは、死んでも嫌よ」

 ならば、わたしも怖れない。この男から伸びている糸を全て断ち切るのみだ。わたしは父さんを睨みつける。金の問題を持ち出した彼を卑怯だと思い知らせる為に。

「だが――だが、お前は子供だ。子供は親の元にいなければならない。私にはお前を手元に置いておく権利がある――勿論、義務もだ」

 お金の問題で懐柔できないとなると、今度は法律。よく子供の権利とかいう話を聞くが、その気になれば法律で親は子供を幾らでも押さえつけることができるらしい。それでもわたしは強気だった。成程、折原は空威張りをしている方が似合っているというのも理解できる。どうしてなかなか、わたしも空威張りが上手いようだった。

「話はそれだけ? 貴方から逃れるくらいなら法律なんて幾らでも破ってやるわ。そのうち警察の人はわたしを逮捕するかもしれないけど、檻の中の方が、安全よ。貴方の囚われの檻の中なんかより、余程ね」

 法律に従わなければ、確かに厳しい指導を受けるだろう。しかし、それがどうした? 厳しい指導というものは逆にわたしを守ってくれるだろう。発想を逆転させれば良いだけの話だ。そう、開き直ってしまえば人間、何だってできる。

 いや、そうじゃない。折原のことを忘れたくないから、彼のくれたものを守りたかったからに過ぎない。それが今のわたしに、力をくれている。目の前の敵を挫く力を。

 父さんは今や、狼狽し始めていた。自分の力で御しきれない人間に、言うことを聞かない存在に、半ば本気で怯え始めている。彼は声を出さず、拳を握りしめてわたしを恫喝する。しかし、わたしは父さんと殴り合いの喧嘩をする覚悟があった。女なら誰でも暴力でねじ伏せられると思っているのならば、大間違いだ。

 すると彼は拳を崩し、喉を震わせながら尋ねてきた。その口調に今までの高圧的な態度は何一つない。

「何故だ、何故――真希は私は拒む。何故だ、お前は私を愛してないのか――」

 愛、ああ愛か。結局はそこに行き着くのか。それこそ、父さんが抱く妄想の源流なのだ。誰もが自分を愛してくれていると、錯覚している。無条件で相手を信頼できるようなものなんて、一生涯かけても得られないかもしれないのに、彼はそれが直ぐにでも得られるものだと勘違いしている。そして、それがわたしや姉さんを苦しめてきたのだ。

 この時、わたしは初めて、ここでしなければいけないことを知った。

 それは父さんに、この言葉を捧げることだったのだ。

「ええ、そうよ。わたしは父さんを愛してなんかいない。確かに今まで育ててくれたことに感謝はしてる。ずっと尊敬もしてた。でも、あなたがそれをぶち壊したんじゃない」

 愛していないと。愛しているとは正反対の言葉こそ、父さんを決定的に黙らせる最大の凶器だった。彼は顔を被い、苦しそうに呻き始める。

「そ、そんな――そんな筈は――」

 いや、それは正しくないのかもしれない。もうわたしは父さんのことを憎いとも思っていない。言うなれば――無関心だ。まるで失われた記憶を留める代償として、絆が断ち切られたかのように、もうどうでも良かった。

 もう目の前の人間には攻撃の気力すらないようだった。そんな父さんに、わたしは冷たい目を向ける。高圧的で冷たい態度で――。

 わたしは、父さんを、拒絶した。

「――さよなら」

 そして、立ち竦む父さんの横を通り過ぎる。後ろから激しい呻き声が聞こえてくるが、もうわたしには関係ないことだ。

 もう、わたしにとって父さんは脅威ではない。そして、向こうの方から脅威であることもなくなるだろう。暫く颯爽と歩き、何時しかあの公園に来ていた。辛い時、いつもブランコに揺られていた、あの場所だ。そこで、わたしの虚勢の糸が切れる。ブランコにもたれかかり、そしてゆっくりとそれに揺られた。

 考えること、悩むことがなくなった真希の中を再び、激しい虚無感が襲って来る。冬の風に舞う粒子の一つ一つが、わたしの記憶を奪おうと躍起になっているようだった。

「嫌、嫌だからね。わたしは忘れない、折原のこと――忘れないっ!」

 耳を塞ぎ、記憶が漏れだすことを防ごうとする。でも、記憶はそれよりももっと細かな粒子でできているらしく、そっと漏れでていく。折原の笑顔や真剣な顔がいくつもいくつも、喪失していくのを感じる。

 このまま、全部消えて行くのだろうか。残酷な寒空の中で、記憶は損なわれてしまうのだろうか――冗談じゃない。

 でも、どうしたら良いか分からない。わたしに分かるのは、どんなに無様で醜くとも生きなければならないということだけだ。

 しかし、それ以外のあてはなく、わたしはただブランコに揺られていた。ゆらゆらと、水のような流れに任せる。

 そうして、どれくらいの時間が過ぎただろうか。眠りかけていたわたしの肩を誰かが強く揺さぶっている。気だるい体を起こし、その相手をじっと見据える。わたしは驚いた。だって、心配そうにこちらを覗き込んでいるのは七瀬さんだったから。それだけではない、鈴華も、節子も、直美も、静子も、仲の良い友人達が一同に介してただ、わたしのことを見守ってくれていた。

「広瀬さん、駄目――こんなところで寝ると死んじゃうよっ!」

 七瀬さんが再びわたしの肩を揺さぶる。その勢いでわたしは完全に覚醒し、何故か現れた友人達に何か語らなければならないのではという気分にさせられた。しかし、言葉は声の形で出てこない。でも、胸に熱い感情が蘇ってきて――わたしは思わず微笑んでいた。

 そうしてようやく、言葉を発する力がわいてくる。思考回路も正常に動き出し、咄嗟に浮かんだ疑問を紡ぎだしていた。

「なんで、皆がここにいるの?」

「なんでって、本気で言ってるの? 一週間近くも学校を休んで連絡もないから、ずっと家を尋ねてたんだよ。でも、誰もいないし電話かけても反応がないから心配で心配でもう――」

 七瀬さんはわたしの胸に縋り、声をあげて泣き始める。髪が邪魔でよく見えないが、他にも何人か肩や手や足に縋り付いて来て――。

「う、うわ重い重いっ! わあああっ!」

 勢い余った友人達に押し潰される形で、わたしもブランコからずれ落ちてしまう。皆が一斉にどけようとするが、逆にタイミングを失いもつれ合ってしまった。

 皆が文句を言い合うなかで、一人だけ冷静に事態を静観している女性がいる。

 と思ったら――。

「君達、僕を押しのけて友情の確かめ合いはずるい。僕も参加させろ」

 鈴華は混乱しかけた場を本当の混乱に導いた。

「わあっ、こらやめなさい」「やめれ胸さわんな誰だよ」「うわあっ、お尻撫でないでっ」などと、好き勝手な声が後ろと上から響いてくる。真希はそこから抜け出し、ほうほうの体で彼女達を一喝した。

「こら、やめなさいっ!」

 その剣幕に、暴れ回っていた皆の動きが止まる。それから思い思いに埃を払うと、誰からともなく聞き捨てならないことが聞こえてきた。

「うーん、やっぱうちは真希がいないとチームにならないのよね」

「そうそう、この迫力――統率感が違うし」

「威圧感があります」

 まるでお芝居のような続けざまで言うものだから、真希は喉を詰まらせる。そして、溜息を吐いた。

「たく、人をそんな風に。だから、つんつんしていて怖いって風評が広まるのよ。あいつだって――」

 そう、久しぶりに明るい会話ができたと思ったら。そこから折原の思い出が次々と蘇ってきて。無意識に涙が止まらなく流れていく。

 最初は何とか宥めようとしたが、涙の原因が分からないと知ると七瀬さんが真希の手をぎゅっと握った。そして幾許かの話し合いが行われた後、わたしは皆に引かれていった。どうやら商店街に向かっているようで、何処かの居酒屋っぽい店に入ると、六人囲いの席で鉄板を中心として輪を作っていた。

 匂いからしてどうやら焼肉屋のようで。煙と火が醸し出す暖かさに、真希はようやく嗚咽が静まり始めていた。

−2−

 そこで、わたしは今まで自分の身に起こったことの全てを話した。わたしの家族のこと、そして折原浩平という失われた存在のことだ。ここにいるのは皆、一度ならず何度も折原と会話したことがある。しかし、彼のことを覚えているものは誰もいなかった。

「折原浩平?」

 節子が名前を聞いてしたことは、その細い首を傾けることだった。

「――本当にクラスメイトにそんな奴がいたの? 鈴華、あんた記憶力良いんでしょ、片隅にでも引っかかってない?」

「折原――いや、駄目だ記憶にないね」

 指名された鈴華は、悔しそうに首を振る。

「僕ですら忘れるというのか、厄介だね。僕は一度見たものは九割九部九厘忘れない。その確率をすり抜けてこうも鮮やかに忘却してみせる――恐ろしい能力の持ち主だね、その折原浩平っていうのは」

 まるで人外の化け物のような扱われ方で少しむっとしたが、しかしかといって彼のことをいないと否定する人はいなかった。皆、彼がいることを前提にして話をしてくれている。それがわたしには嬉しかった。

「でも、辛かったんですね」

 以前、男性に半強制的な暴行を受けたことのある静子が、切々と語る。

「普通の男の人でも辛いのに、それが実の父親だなんて――酷すぎます」

「まあ――しゃあないって奴だよ。親が子供に暴力振るうなんて茶飯事茶飯事」

 と、直美が極めて明るい口調でかっ飛ばす。

「こっちにも親に殴られて死に掛けたってのいるし。日本って内にこもりやすいから、陰湿なの多いらしいよ」

 わたしは直美の言葉を聞き、僅かに溜息を吐く。家庭内暴力が日本でも割と盛んであることは、由起子さんにも聞いてよく知っていた。やはり、親に暴力を受ける子供というのは確実に存在するのだ。しかし、彼らはどうなるのだろう?。

「でも――」

 その質問を代弁してくれたのは、七瀬さんだった。

「そういう暴力って許せないけど、暴力を受けてる人ってどうしてるの? やられたままなんてそんなの、許されるわけないんでしょ?」

 彼女の言葉は正義感に満ちていて耳には心地良いものだったが、しかし鈴華が大げさに首を振った。どうやら反論したいところがあるようだ。

「許されてるんだよ、日本ではね。民事不介入という言葉を聞いたことがあるかい? 警察は家族が必要ないと言えば、家庭内のごたごたに介入することができないんだ。あからさまな暴力が見逃され、その後に殺人に発展したというケースもある。日本では都合よく隠蔽されているが、暴力による解離性障害患者というのも年々増加しているらしい」

 どうやら講釈モードのスイッチが入ってしまったようだが、しかし誰も鈴華を止めようとはしない。それは勿論、わたしの問題だからということもあるが、それなりに衝撃だったのだろう。全員、子供だということも関わっているのかもしれない。鈴華は理想的な環境の中で、家庭内暴力のことを思う存分、語ることができた。

「そして厄介なのは、子供は往々にして暴力の体験に怯え親に逆らえなくなるということだね。高校生や大学生となり、明らかに親の体格を超えても暴力に対して反撃できない子供もいる。それは決して臆病なんかじゃない、刷り込まれたものが高圧であるが故なんだ。例えば新潟で九年間監禁された少女のケースもある。彼女はやろうと思えば監禁場所から自由に逃げ出すことができた。しかし、監禁者に対する虐待や反撃を恐れて、逃げ出せなかったそうだよ。想像力のない馬鹿な心理学者や阿呆が、苦痛に思っていなかったとか愛情も同時に感じていたとか適当なことを言われていたがね。十歳にも満たない少女が見ず知らずの大人に監禁されるというのがどれほどの恐怖か――」

 確かに。それは想像するだけで、身の毛もよだつ恐怖だった。

「逆に真希のように、堂々と親に反逆し勝利をしたなんて例は稀さ。大抵は大人になるまで我慢するか、そうでなければ――殺されるか」

 肉の焼ける音だけが、辺りから気持ちよいほど聞こえてくる。逆にわたしを中心とした席にだけ気持ちの悪い陰鬱がこもっていた。殺されるという言葉が、皆にとってもそれだけ強烈だったのだろう。その反応を満足としたのか、それともやりすぎたと思ったのか、鈴華は慌てて話題を締め括りにかかった。

「上手く法律が整備されない限り、この手の悪辣な家庭内暴力はどんどん増えてくるよ。まあ最近、家庭内暴力の酷いケースが新聞やテレヴィでもよく報道されてるから、法改正も時間の問題じゃないかな。ところで真希、早く飯と飲み物を頼もう。アルコール類は良い? それとも駄目?」

 鈴華は期待のこもった眼差しをわたしに向けてくる。今までのわたしなら彼女の言葉を無碍にはねつけただろう。でも、今のわたしは少しだけ寛容だった。それに、一杯くらい麦酒を嗜みたい、そんな気分でもあるのも確かだ。わたしはOKのサインを出した。

 それからは、飲めや食えやの大騒ぎだった。勿論、女子高生の集まりだから慎ましやかなものだったが、それでも皆がお腹一杯になるまで食べた。わたしはお金を持っていなかったので、出世払いということにして貰ったが。

 一時間半ほど留まった後、わたしたちは店を出た。体がぽかぽかと暖かいのは麦酒と炭の放つ赤熱の影響だろう。そんなことを考えていると、七瀬さんが今まで先延ばしにしていたことをそっと尋ねてきた。

「ところで広瀬さんって今日、泊まる所があるの? 当てがないなら、今日はうちに泊まってってよ。勿論、定宿ってわけにはいかないけど――」

「本当? 良いの?」

 その申し出はとても嬉しかったので、わたしは思わず七瀬さんの手を握り「ありがとう」と感謝の言葉を述べる。彼女は顔を少し赤らめ、しかし手をぎゅっと握り返してくれた。

「でも、今日はそれで良いかもしれないが」と、横槍を入れてきたのはこういう時に人一倍シヴィアな鈴華だった。「これからはどうする? 点々と僕達の家を巡っているわけにもいかないだろう。君は独立しなければならないよ」

「うん、それは分かってる。取り合えず安いアパートとバイト先を探して住むつもり。学校は余裕があれば通うけど、駄目なら取り合えず来年は休学かな。でも、お金貯めて高校は卒業するつもり。一緒に卒業できないかもしれないけど――」

 取り合えず、漠然と決めているのはそれだけだった。

「後はなるようになれかな。取り合えずお金の問題が一番厳しいけど、お金だけで世界が回っている訳でもないし。相手からの同情も強い武器になるから。兎に角、使えるものは全部使うつもり」

 生きる為の開き直りと言えば聞こえは良いかもしれない。しかし、要は生への執着と付随する無様な決心と金銭への思慕が幾つか――そんな俗っぽいものが今のわたしを構成していた。

 でも、取り敢えずはそれで良いのかもしれない。そしてもう一つと心の中で付け加える。以前なら決して言わなかったことを、折原とのふれあいの中でわたしは自然と言えるようになっていた。相手を頼る、ということを。

「それと――わたし、皆にも迷惑をかけるかもしれない。頼ることもあるかもしれない。その時は――協力してくれると嬉しいけど、駄目かな?」

「駄目な訳ないじゃない」七瀬さんが力を込めた口調で近付いてくる。「困っている友達を放っておくなんてできないわよ」

 そして、皆が同意して肯く。折原の言ったとおりだった、わたしが、わたしが頼っても良いんだ――そして、受け止めてくれる――。

 今日は生きてきた中で最高の絶望を味わった。

 家族を失った。

 しかし、最高の友人達の暖かさを知ることができた。

 果たして今日という日はわたしにとってどのような日になるのだろう。今はまだ分からない。しかし、これから――今までとは違う日常が拓けている。

 それだけは間違いのない事実だった。

−3−

 あれから。七瀬さんの家に一泊した後、その足でバイトを探した。自分のことをネタにするのは気が引けたけど、不況の世の中で保証もない高校生を雇う所なんてそうそうない。わたしとしては、バイトが上手く取れたという事実だけで十分だった。

 次の日、住まいのアパートも同じ手で借りることができた。敷金や礼金を多少考慮して貰ったが、それでも十万近い借金ができてしまったのは仕方のないことだろう。ちなみに三年前、自殺者が出たという逸話を付け加えてきたが、聞かなかったことにした。

 それから、日は飛ぶように過ぎていく。学費は年払いだったので三月までは学校に通えたが、四月からは自分で学費を払わなければならない。奨学金には申し込んだが、審査は却下された。家庭事情は詳しく記した筈だが、しかしそれでも一千万以上の収入を持つ親の存在と現行法がネックになったのがその最たる原因のようだ。幸い、二年の時の担任と学年主任が良い教師だったので、彼らの力添えで三年も学校には通えることになった。

 わたしの住むアパートはバイトがない休日になると、簡易宴会場になった。あとは節子や直美が家出してくると、日雇い家政婦として受け入れたりもした。

 春、桜が嫌になるほど路上を覆い。

 夏、うだるような部屋の中で鍋をやって友人達と死にそうになったり。

 秋、お金がなくてお腹が減るとお世話になった教師達が柿や銀杏を分けてくれたりした。とても美味しかった。

 冬、働いているバイト先で正社員として雇われることも決定し、生活もある程度楽になりそうだった。

 勿論、その間も折原のことを忘れたことは一日もなかった。彼のことを思い出し涙を流したのも一度や二度ではない。

 でも、取り敢えずは生きていた。

 今があり、明日がある。

 そして、再び新しい春を迎える準備も整い出したそんな気候の頃、わたしは予想だにしなかった人物と不意に再開することになった。

 それは、わたしの姉さん――広瀬美晴だった。

−4−

 わたしは最初、その人物が姉さんだとは気付かなかった。酷く気疲れした様子で子供を背負うその姿から、以前の若々しさは微塵も感じられなかったのだ。

 それでも勇気を出し、わたしは声をかけた。

「姉さん」と。その声に気付き、姉さんは振り向く。最初は驚愕の眼差しを浮かべていたが、しかし次の瞬間には寂しそうな笑みを浮かべていた。

「真希――そっか、生きてたんだ」

 それはとても意味深な言葉に聞こえたが、しかしそこに含まれる意味は何となく分かった。以前から、一つだけ分からなかった謎、そのことに当てはめた時、それはわたしの心の中で最後から二番目のピースとなりかちりとはまる。

 そのことを口にしたい欲求に駆られたが、積もる話もある。わたしと姉さんは近くの公園に向かい、どちらともなくベンチに腰掛けた。

 その時、彼女の背負っていた赤ん坊がわあわあと泣き出す。彼女はベルトを外し、子供をあやし始めた。年齢は二歳程度だろうか、しかし――わたしは思わずあることを想像してしまった。とてもおぞましい、しかし尋ねなければならないこと。

「その子供の父親は、誰なの――」

 姉さんはわたしの質問にやはり、卑屈な笑みでもって答えた。すらすらと出てくるところを見ると、その質問は予想済みだったのだろう。

「父さんよ。彼が三年前に私に孕ませた子供がこの娘――」

 やはり、そうか――。

「あまり驚いてないってことは、知ってるのね」

 真希はこくりと肯き、そして父さんとの間に起こった事件について全て姉さんにも話した。どうやら姉さんは心底、ほっとしているようだった。わたしは姉さんに恨まれているとずっと思っていたから、これは意外だ。わたしは黙って姉さんの言葉に耳を傾ける。

「そう、真希は良い人に出会えたのね。わたし、貴女に酷いことを言ったから――それがずっと心残りだったの」

「それって四年前、わたしを酷く詰った時のこと?」

 その問いに、姉さんはゆっくりと肯く。どうやら当たっていたようだ。

「ええ。もう実の父親に犯されるのが嫌で嫌で、真希を差し出せば許すって言われて、それで三年前のあの時、母さんを階段から突き落としたって――」

 吹き込んだのか。そのことを聞いて私の中に自然と、姉さんに対する労わりの心がわいてくる。憎みたくもない人間を憎むほどに心が追い詰められること。それはかつてわたしも体験したことだからよく分かる。

 それから例のことについて、わたしは直接尋ねてみた。

「一昨年の天皇誕生日の亡霊も姉さんだったの?」

 根拠はない。しかしあの時、微かに赤ん坊の泣き声が聞こえた。それで、ピンと来たのだ。姉さんはやはり憂鬱そうに肯いた。

「貴女を救いたかったの。わたしはもう、真希が父に犯されていると思い込んでた。だから、母さんの幻影を見せて――私だったらそれで後を追って自殺すると思ったから、真希もきっとそうするって。だから――ごめん、ごめんね――」

 姉さんはわたしの服に縋り、嗚咽し始める。わたしは今まで、姉さんのことを父さんとまではいかないにしても、同様に憎んでいた。でも、彼女の姿を見ていると憎めなかった。これまでの仕打ちなど、もうわたしにはどうでも良かった。今は目の前の女性をただ慰め、励ましてあげたかった。

「良いよ。姉さんも辛かったんでしょ、わたしも辛かったから分かるの。なのに憎みあったり、恨みあったり――わたしはそんなの嫌だから。姉さんも気にしないで」

 凄く偽善的かもしれないが、苦しむのはわたしだけで良いのだ。苦しみを他人にぶつけて相手を傷つけたくない――今の姉さんの姿を見ていると余計にそう思える。

「――ありがとう、真希、ありがとう」

 姉さんはそう言いながら、再び泣き出した赤子と共に激しく泣き始めた。まるで赤子が二人いるようで少しだけ大変だったけど、折角姉妹で和解できたのだから、それくらいの時間についてあれこれ考えなくても良いのではないだろうか。

 そして、赤子と同時に泣き止んだ姉さんにわたしは改めて尋ねた。

「姉さんは今、何処で何をしてるの?」

「どうかな、パートで働きながら何とか生きてるってところよ。子供ができた時、そしてそれが女の子だと分かった時、私は初めて父の呪縛から逃れることができたの。多分、堕ろせって言われただろうし、もし言われなくても――その娘は十数年経って父にまた犯されるかもしれない。それが怖くて思わず逃げだしてた。それから産婦人科を何件も回って、ようやく事情を知って匿ってくれる所を見つけたの。そこで娘を出産して、そこでパートも紹介してもらったの。借金を返して――手帳や保険証が貰えないから凄く苦労したけど、保険が利いた時の料金で見逃してくれた。おまけに凄く親身になってくれる医師の方がいて――私、初めて人の本当の暖かさに触れた気がする。それで――救われたのかな」

 姉さんの口から出る救いという言葉。それはわたしの心を少しだけほっとさせてくれた。そして、最近ではこれほどないというくらいに強く折原のことを思い出した。わたしを救ってくれた人、そして心から愛する人間のことを。

 でも、一先ずはそれを端に押し込んで。それから、姉さんと色々話をした。仕事のこと、節約の方法、子供のことで味わう苦労やその他どうでも良いことまで。その中でわたしは、今まで意図的に封じ込めていた家族に対する想いというものを思い出していた。

 そして最後に電話番号と住所を交換し、名残惜しいけど一先ずは幕をおろした。でも、また近い内に会えるだろうし、それは今やわたしにとって楽しみの一つになっていた。

「じゃあさよなら、真希。また、お話しましょう」

「うん、さよなら姉さん」

 挨拶を交わし、わたしと姉さんはそれぞれの道を進む。それから暫く歩いていると、端においていた感情が強烈にわたしを支配した。それは殆ど一瞬で、その激しさに泣いてしまいそうになるくらいだった。まだバイトまでは時間があるけど、今のままではとても仕事になりそうにない。立ち止まるだけでは足りない、もっとわたしの悲しみを強く受け止めてくれる場所が欲しい。そこまで考えて真っ先に思いついたのは、あの公園だった。折原が消えた日以来、近付きもしなかったあの公園。しかし、わたしの足はそこに向かっていた。

 まるで何かに導かれるように。

 商店街を抜け、更に道を進む。いつも折原とさよならしていたあの分かれ道を、わたしのかつての家の方角に向けて駆け足で。それでも耐え切れず、全速力で。

 切なさが、苦しみが、そして何より形容し難い予感が。わたしの心を動かす。それはなに? 一体なに? 期待して良いの? 期待しても、良いの?

 そして公園の入り口に経った時。

 わたしの心の中にある最後のパズルのピースが、明瞭な音を立ててはまったのだ。

 彼はブランコに座っていた。いつかのわたしと同じように、そこでわたしのことをじっと待ってくれていたのだ。

 彼はわたしの姿を見ると微笑み、そしてブランコから立ち上がる。

 わたしは疲れた体に鞭打ち、彼の元に駆け寄っていた。二つの存在が一つに重なる。まさか、こうまで幸せな出会いが続くなんて、でき過ぎてる。それこそドラマみたいだ。でも、ドラマでも何でも良い。今、彼と全てを交し合っているという充足を失いたくない。

 わたしは思わず声をはりあげていた。

「折原あっ! この馬鹿っ! わたしを置いて一年、一年よ。そんなに女の子を待たして、普通なら嫌われてるわよ」

 本当は責める気なんてないくせに、口からは皮肉がついてでる。ああ、何て天邪鬼だろう。折原も困った顔で、尋ねてくる。

「真希は、俺のこと――嫌いになったか?」

 その困った顔が余りに愛しくて、わたしは大げさに首を横に振る。

「ううん、そんなことない。今でも好き、折原のことが大好きよっ!」

 わたしは今までずっとためこんでいた思いを一気に吐き出す。自分がこうまで熱情的になれるのかと思ったくらい強く、強く折原の体を抱きしめる。それからゆっくりと体を離し、とても近い距離で見つめあう。折原は感慨深く、真希の頬を撫でた。

「そっか――でも一年か。きっと色々な話があるんだろうな」

 そう、それは言うまでもないことだ。

「うん、話したいことが沢山あるわよ」

「そっか、じゃあ――近くの喫茶店でも行くか? 俺も、話したいこと沢山あるしな」

 そう、それも良いかもしれない。でも、わたしは首を横に振った。話もしたいけど、それ以上に求めるものがあった。わたしはそれを折原に耳打ちする。

 そして、わたしは目を瞑る。かつて逃したその感触を求めて。

 そこに。

 わたしと折原の一年分の思いが、そっと重ねられる。

 あの日、叶えられなかった最後のキスは――。

 何よりも得難い者と共に、最初のキスとして――。

 暖かく胸を満たし、わたしの中を駆け巡る。

 その感触で私は、折原がこの世界に帰って来たことを実感する。

 だから、わたしは思うのだ。

 かつてはお互いを壊すような愛し合い方しかできなかったけど。

 今度はお互いを満たすような愛し合い方をしたい。

 できるだろうか。

 ――そう、きっとできるだろう。

 何故ならわたしの目の前には沢山の時間と愛しい人と。

 輝くような季節たちが待ち受けているのだから。

 その全てに強い想いをこめて。

 自由になった唇で。

 わたしは折原に、大切な言葉を捧げる。

「折原、おかえりっ」

 そして初めまして、わたしの新しい想い。

[The End Of Illusionable Paradise]

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