思いというものは口に出さなければ伝わらない。
他人が自分の思いを汲み取ってくれるなんて考えない方が良い。
人にはそんな余裕も無いし、力も無いから。
でも…本当の思いを口にすることはとても難しい。
いや、そう錯覚している。
だからすれ違ったり、誤解したり、悩んだり、悲しんだりするのかもしれない。
本当は、ただ一言の言葉で良いのに……。
六月は憂鬱な花嫁たちの祭典
〜June is fest of the blue brides〜
前編
平坦な道を、時折車体を揺らせつつ、電車は線路の上を進んでいる。
人の数もまばらな早朝発の列車に乗って、ボストンバッグを抱えた女性が一人、もの悲しそうな顔で景色を見つめていた。
窓の外に切々と降る雨は、樹々の色に僅かだが濃い深みを与えている。窓に寄せる雫は音も立てずに滑り落ちていく。
それらは最初はゆっくりで、付着した水滴を吸い取りながら、徐々に速度をあげていく。臨界点に達した所で、水滴は矢のように視界から消えるのだ。
その繰り返し。
きっと雨がやむまで、水滴の離散集合は続くのだろう。
線路に沿って設営された電線が波打つように動き(これは錯覚なのだが)、映し出された田園風景や山々は次々と別の風景に変わっていった。
そんな風景を見ていると、知らぬ間に僅かな後悔の念が浮かんでくる。黙って出てきたから、みんなも心配しているだろう。
けど、それと同時に沸き立つような怒りも胸の中にあった。原因は自分でも分かっている。今朝の喧嘩だ。それで怒りに身を任せ、荷物をバッグに放り込んで、家を飛び出して来たのだ。
あてもないままに電車の進むに任せているのは、少し幼稚だったかも知れない。
(でも、あんなことを言われたら誰だって怒るよね)
二、三度一人満足気に頷く。
「でも、これから……」
行く当てのないことにようやく気付き、軽く溜息を付く。
息は窓ガラスを白く染めていった。
けど、今は……。
「くー……」
全てを忘れて眠ってしまいたかった……。
「お客さん、お客さん」
そんな声が、ぼんやりと聞こえてくる。
ようやくはっきりとして来た目に飛び込んで来たのは、年をとった車掌らしき人。
「ん、えっと……ここは何所ですか?」
「どこって、もう終点だよ。お客さん、寝過ごしたのかね」
「あ、いえ……」
確かに寝過ごしたとも言えるかもしれない。しかし、半分はそうでもなかった。どうせ行く当てなんて何所にもないのだ。何所に辿り着いたって、余り変わることはない。
そう考えると、周りを見渡す余裕が出て来た。雨は以前として粛々と下界を湿らせ、雲は天空の蒼を覆い隠している。どんよりと垂れ込めたそれは光をも遮り、ホームには明滅もままならない蛍光灯が、苔と汚れとでむせた、小さな駅を心ばかり照らしていた。
物静かで、そして、少し悲しい……。
「まあ、皆まで言いなさんな。寝過ごしてこんな所までやって来た旅行者の行き先なんて、一箇所しかないんだから」
車掌は何故か、にやにやしながらこちらを見ている。どうやら私の荷物を見て、車掌は旅行者だと思ったらしい。本当は違うのに。
「隆山だろ、お客さんの目的地は?」
「隆山?」
私はその地名を、必死で思い起こす。そして一つのキィが、頭の中に浮かんで来た。確か有名な観光名所も幾つかある温泉街だ。
そして、数年前にちょっとした有名な殺人事件が起こった場所……。
「あ、ええ、そうです。それで……隆山まではどうやって行けば良いんですか?」
「簡単だよ。こことは反対側のホームで待ってりゃ、何時かはやって来る。それで、電車に乗って三十分って所だ」
その時、丁度駅内放送が電車の中にまで鳴り響いた。
「有り難う御座います」
私は大きく車掌の人に頭を下げると、ボストンバッグを抱え上げて、急いでホームを出た。屋根付きの高架橋を進み、線路を跨ぎ、反対側の車線へと全力で走る。
電車が着いて間もなく、私は中へと駆け込んだ。そして、軽く息を整える。高校時代は陸上部だったのだが、最近は運動していなかったせいか、少し苦しく感じた。
しかし、電車はなかなか動き出そうとはしなかった。
後で考えて見れば、ここは終着駅なのだから、アイドリング時間というものが存在する筈だ。
結局、私はまたぼんやりと外を見て過ごすことになった。
そして気だるく動き出す電車。
雨は、まだやまない……。
色々なことを考えたり考えなかったりする内に、列車は隆山へと到着した。
流石に有名な温泉街だけあって、駅の方もそれなりに大きい。
少なくとも駅員がいる。
私は乗り越し清算を済ますと、雨の降る隆山の町を、傘をさして歩き始めた。
時刻はもうすぐ五時。
今日はずっと暗い天気だったから、時間感覚が麻痺していたのだろう。
時計を見るまで、そんな時間だなんて分からなかった。
取りあえず、今日はここに宿を取ろうと思っているのだが……。
良く考えれば、右も左も分からない。
有名な温泉街だから、歩けば旅館の一つくらいに当たると思っていたのだが……。
犬に棒と同じわけにはいかないらしい。
十分程歩いていると、ようやく旅館らしき建物を一つ見付けた。灰色の瓦に年季の入った建物は、この宿の年季と格式とを示しているように見えて、私はしばらく玄関をうろうろしていた。
しかし、いつまでもそうしているわけにも行かないと思い、意を決して中に入った。中に入ると、奥の方から女将らしき人がこちらに向かって来る。
「あの、今日、ここで泊まりたいのですが、良いでしょうか」
そう尋ねると、女将は申し訳なさそうに首を振った。
「すいません、うちは予約が一杯で……」
「そうなんですか……」
「すいませんね、ほんの数分前までは空いてたんですけど」
「いえ、予約も入れずにいきなり押しかけて……こちらこそ、すいません」
私は軽く頭を下げて、旅館を後にした。
ごんっ!!
何かにぶつかる音。
音のした方向を見ると、そこには一人の女性が倒れている。どうやらバッグで弾いてしまったらしく、雨で濡れた地面に思いきり倒れていた。
「ご、ごめんなさい……大丈夫ですか?」
私はバッグを置くと、倒れた女性を起こすために手を差し伸べた。
「へ、平気……」
女性は私の手を掴むと、こちらに向かって笑顔を見せる。
その顔には、少しの泥がついていた。
「ありゃあ……」
女性は泥のついた自分の姿を、まるで他人事のように眺めている。
「ははっ、ちょっと泥がついちゃってるねえ」
手でぱっぱっと払って見せるが、染み付いた泥は取れないようだった。
「あ、本当にごめんなさい」
「いいよ、着替えは持って来てるから。それより貴方はどうしたんですか? こんな時間に荷物を持って宿を出るなんて」
「えっと、実は……ちょっとした用で宿を探してるんですが……ここの旅館は満杯だったみたいで」
その話を聞いた女性は、猫のような目で私の方を覗き込んだ。
「ふーん……そうだ、私、実は昨日からこの旅館に泊まってるんだけど、良かったら一緒に来ない?」
「えっ、一緒にって……どういうことですか?」
「つまり、相部屋しませんかってことだよ。嫌なら別にいいけども」
「い、いや、こっちはとても嬉しいですけど……その、迷惑になりませんか?」
「ええ、全然」
そう言うと、女性はにっこりと笑って見せた。
「けど、条件が一つ」
「条件?」
「その、ちょっとした用っていうのを教えてくれたら」
……私は最初、意味が分からなかった。
けど、それは、私が一人でこんな所にまでやってきた理由というものを知りたいらしい。
それが分かった。
変わった女性だと思う。
でも……嫌な感じじゃない。
それに、何故かこの人になら話しても良いと思ってしまった。
私も、この人に興味を抱いたから?
今はそういうことにしておこうと思う。
「ええ、つまらない話ですけど良かったら」
私も精一杯の笑みを返して見せた。
「じゃあ、商談成立だね。私の名前は長森って言うの。貴方は?」
「私、私は……水瀬と言います」
それが私と長森さんとの出逢いだった。
[後編に続く]