―1―
穏やかな町並みに、行き交う人の流れ。それらを柔らかく照らす、燃えるような夕焼けの色。流れる雲さえも空を彩り、夕焼けのオレンジに無数の煌きを与えている。
反対側を見ると、東の空から夜の濃い藍色が迫っていた。暗闇を現す濃密なブルーも、今はまだ優しくおもちゃや玩具を持って走り回る子供たちを包んでいる。
通り過ぎる雲の薄い部分からにじみでる、そんな昼と夜の狭間の色。
あの時、何気なく見上げた夕暮れ時の空。
それは何故か、今でも印象に残っている。
今でも脳裏に浮かぶ、あの風景。
でも、それは段々と薄れてきている。
見ることが出来ないから。
夕焼けの色を今でも見ることが出来たならば、もっと鮮明にあの光景を留めておけたかもしれないのに。
けど、それは叶わない。
もう一生、目が見えないと分かった時、私は死のうと思った。暗闇だけの世界に、私は何の価値も見い出せなかった。
涙を流しても,ぼやけることのない視界。
泣くことでさえ、私は悲しかった。
大好きな両親の顔、友達の顔。
見たかった映画、ドラマ、本。
何気ない奇麗な風景、変わりゆく時の色。
全ては失われたと思っていた。
どうやって死のうかと、幼心に考えを巡らせていた。
そんな時だった。
一人の友人からかかってきた電話。
普段と変わることのないはずんだ声で、友人はこう言った。
ドラマの最終回、思ったより面白くなかったよ、と。
私の考えた話の方が、ずっと面白かった、と。
その言葉に、私は驚いたのだと思う……本当に。
私は、前に考えたそのストーリィを、思い浮かべた。
頭の中でそれは、見えていた時と同じように鮮明で、生き生きと動いているのが分かる。
その時、なんとなく分かったような気がした。
見えなくなっても、見えるものもあるのだということ。
だから、これからも生きていけると私は思った。
何気ない一言が、文字通り運命を一八〇度変えてしまう。生きていれば、誰だってそんなことはあると思う。
私はその言葉で、救われたのだと思う。この先、必ず付き纏う闇の中に光を見出すことができるようになった。正にある意味で、運命の転換点だったに違いない。
けど、言葉はいつだって人を希望に向かわせるためだけに、存在するのではない。闇から光を見出すことがあれば、それはとても良いことだと思う。けど、得てして人間は光から影を引き出してしまう。その気はなくても人を傷つけたり、或いは明確に意志をもってその影を見せつけるような人間だっている。
私はしばらくして、それを知ることになった。
―二―
新しい出会いと出発の季節。
希望と桜の花びらとが舞う頃。
見上げれば、蕾ははちきれんばかりに膨らみ春の訪れがすぐ側にあることを示している。俺はそんな中を、もっとも愛する女性の手を引き、春の予感を匂わす桜並木を二人で歩いていた。
少し前までは、一時も離さないくらいにきつく握られていた手も、今は自然と結ばれている。その理由を、恐らく普通の人が聞けば単なる御伽噺として黙殺するであろう。しかし、これは実際に体験したことであった。
えいえんの世界、幼い時に俺はその世界に行くことを盟約付けられていたらしい。そして事実、俺はその世界に誘われた。強い強制力と、全ての絆の消失という絶対的な死によって。そう、誰にも認知されない存在は死と等しい。もっとも、これは何かの哲学者の受け売りなのだが。
しかし、俺はその絶対的な死というものを教授することはなかった。みさきだけは、皆が記憶を薄れさせる中でただ一人俺のことを覚えていてくれた。その絆を支えにして、えいえんの世界という虚無と緩慢に満ちた世界から帰ってくることができた。何度、平板が無限に続く怠惰な世界に身を委ねようと思っただろう。望むものが側にいて、それがずっと続く世界。理想の世界。けど、その誘惑が胸を巣食う度にみさきのことを思い出し、いつか現実の世界へと戻ることを欲することができた。
結論から言えば、えいえんも決して世界の終わりなどではなかった。どのくらいの旅をしてきただろう、唐突に世界の終わりに出口が現れた。そこには扉も鍵もなく、進めば拒むものはいない。
「やっぱり、あなたの望む世界はここじゃなかったんだね……」
幼き少女、えいえんの歌い手はそう寂しく呟いた。その姿に僅かな躊躇を覚えながら、しかし確信をもって呟くと次の瞬間には元の世界に戻っていた。みさきと二人でアイスクリームを食べようとした場所、そこに俺は舞い戻っていたのだ。そこにはアイスクリーム屋の店員はいたが、みさきの姿はなかった。
店員から、既に一年近くの月日が経っていることを知った俺は急いで学校に向かった。その日が卒業式であったことを、鮮明に覚えていたからだ。俺とみさきは屋上で再会した。一年ぶりの再会は、積もりつもった悲しみとそれ以上の歓喜をもって果たされたと思う。その日、俺とみさきは全身をもって再会の喜びと愛情を確かめあった。
「一年間は、やっぱり辛かったよ」
何気なく天井を眺めていると、すぐ隣でみさきが切なそうな顔をして呟いた。しかし、その次には慈愛に満ちた笑顔に変わる。
「でもね、帰ってきて来るって信じてた、ずっとずっと信じてたよ。だから、もう離さないでね」
胸に顔を押しつけるみさきの頭を、俺はずっとずっと撫で続けていた。月すらも、気を利かせて俺たちの元から姿を消していたように思えた。
そうして、えいえんの世界からの帰還、そしてみさきとの再会からあっという間に一ヶ月経った。
みさき以外の皆から失われていた記憶は、俺の帰還によって取り戻されていた。しかし、あの日からの一年間は、彼らの頭からはすっぽりと抜け落ちていた。
まるで、パズルのピースを無くしたかのように。
俺がこの世界から帰って来て二番目にしたことは、抜け落ちた一年間の記憶を、どうやって皆に納得させるかだった。
取りあえず、担任教師には突然の病気で一年間ほど、転地療養していたのだということにしておいた。
これは、叔母の由起子さんのアイディアだ。
教師は判然としない顔をしていたが、渋々納得したようだった。自分の裁量を超える判断に、或いは戸惑ったのかもしれないし、無闇に留年者を出したくなかったのかもしれない。まあ、一つだけ言えるのは無事とは言えずとも卒業できたということだ。
自分が幼い頃に生み出した盟約の世界にいました、なんて言うわけにもいかなかったのでそれは非常に助かることだった。高校には俺のことを覚えている奴だって結構いる――この辺り、俺が色々とイベントや馬鹿なことをやった影響が大きいのだが――ので、無為な騒ぎを引き起こす可能性もあったからだ。
実際、クラスメートの間に少しばかりの波紋が巻き起こったのだが、ひどい病気を抱えていたの一点張りで押し通した。その過程が強引だったためか、最後には皆、渋々ながら納得したらしい。
但し、瑞佳と由起子さんの二人には本当のことを話した。適当な言葉を並べても、この二人だけは欺きとおせないと思ったからだ。
俺の話を聞き、瑞佳も由起子さんも最初は信じられないといった顔をしていた。
それはそうだろう。俺だって、そんな話をされたら普通は信じない。しかし、判然とはしない表情を浮かべながらも、二人は俺の言葉を信じたようだった。
「信じられないことだけど、でも……本当だと思うよ。だって、浩平のこと、一年も忘れてるなんて、普通じゃ有り得ないもん」
「私は非科学的なことは信じないけど……でも、そうだね。浩平が一年間も姿を消して、記憶にも残っていなかったのは確かだし……」
対称的な二人の言葉。瑞佳は心情的な立場から納得しようとし、逆に由起子さんは論理的な思考からまた俺の言うことが嘘でないことを承知してくれた。
けど、二人とも俺のことを心配していたのは、表情から痛いほど分かった。それは、存在を忘れていたことに対する罪悪感に満ちたものだった。まるで、針で突き刺したような心の痛みは、俺にも伝わって来た。多分、その痛みの正体を前もって知っていたからだ。
それは多分、俺の心にある罪悪感と同じ所に根ざしている感情。根拠はないけど、それは正しいと思う。
俺がみさきに言ったこと。
一生、彼女の目でい続けるという約束。
ずっと、彼女を愛するという約束。
盟約の世界にいた時も、ずっと待ち続けていたみさき。
俺のような奴のために、一年間も……。
だから、俺は強く思う。
俺をこの世界に繋ぎとめてくれた思いを、川名みさきという女性を、何があっても守って行こうと。
何があっても、愛しつづけようと。
それが、俺の新しい盟約だ。
―3―
浩平がこの世界に戻って来てから半年が過ぎた。
もう季節は秋。
木々ももうすぐ、赤や黄色に色付くだろう。
それを見ることが出来ないのは少し残念だけど、悲しくはない。秋の味覚の多彩さや、健やかな大気がそれ以上に秋というものを私に教えてくれるから。外の世界を回るようになり、それを今まで以上に明敏に感じることができた。
町や道路、並木道広がる公園。以前なら恐怖の対象でしかなかったそれらの世界も、今では恐いと思うことはなくなっていた。慣れというものもあるけど、何より隣に浩平がいるから。
二人で手を繋いで歩きながら、浩平は町並みの些細なことをいつも話してくれた。私はその言葉を聞いて、その様子を頭の中に思い浮かべる。
通りを歩く、人々の様子。
町や、店や、空や、雲の種類。
凄くぼやけてはいるけど、でも確かに世界がそこにあることは感知できる。
「そう言えば浩平、受験勉強は進んでる?」
「うーん、まあぼちぼちかな?」
私の言葉に、浩平は気の無さそうな声で答えた。これは、余りはかどっていない時の声だ。
「まあ、時には気分転換も重要だってことだよ」
「ふ〜ん、じゃあ浩平が私と一緒に歩くのは、単なる気分転換なんだ」
「え、いや、そういうわけじゃ……」
「冗談だよ」
そう言うと、私はくすっと笑った。
「……全く、時々びっくりするようなことを言うよな、みさきは」
「そうかな? 面白いと思ったんだけど」
「急に切なそうな声で言うんじゃ、冗談にならないって」
浩平が少し非難めいた言葉を返す。
流石に、ちょっと演技が入り過ぎたかなと思う。
何度か雪ちゃんの部の稽古を手伝っただけだけど、もしかしたら演技の才能もあるのかなと思ってみたりする。
ちょっと楽しいその想像を打ち消すと、私は言った。
「もう秋なんだよね……何だか、あっという間だよ」
矢のように過ぎて行く時間。
去年は、もっと時の過ぎる速度が遅いと思っていた。
けど、大切な時間が過ぎるのは早い。
「そうだな……ついこの前まで、暑い暑いと文句を言ってたような気がする」
心地良い風が、二人の間を駆け抜ける。
風は平等に皆に吹くものだけど、今の風は何故かそう思えた。
そう言えば、浩平と初めて出会った時も、風や夕焼けに得点を付け合ったりしていたっけ。
「何か、面白いことでも思い出したのか?」
浩平のそんな声が聞こえる。どうやらあの時のことを思い出して、自然に笑みが浮かんでいたようだ。
「浩平と初めて会った時のこと、考えてたんだよ」
「えっと、確か掃除をさぼって屋上にいたんだよな、みさきは」
「え〜っ、違うよ〜」
私が文句を言うと、浩平は笑い声を上げた。
「あははは、冗談だって。ちゃんと覚えてるよ」
「ひどいよ〜、からかうなんて」
「さっき、みさきも同じことをしたからな。これでおあいこだ」
浩平があまりに笑うので、私は手を振り払うと、白杖を使って一人で先へと歩き始めた。
そんな私を、慌てて追い駆けて来る浩平の足音が聞こえる。
「ご、ごめん、みさき。もしかして、本当に怒った?」
そんな浩平に、私は精一杯の笑顔を浮かべて言った。
「冗談だよ、浩平」
―四―
「どうだった? 面接」
「はあ〜、駄目かもしれない」
俺は散々だった面接の内容に、思わず溜息を付いた。緊張して、練習していた分の半分も言えなかったからだ。
俺が受験したのは、数年前にこの町に出来た福祉・看護系の短期大学だった。
最近は、福祉というものが日本という国においてもキーワードの一つになっているから、全国各地にそういう大学や短大が設立されているそうだ。
俺が受験したのも、その中の一つだった。
福祉系の大学を受けることを決意したのは、勿論、みさきという女性と出会ったというのが一番大きい。いや、俺の動機の全てと言っても過言ではない。それまでの俺の人生に、そういう接点はほとんどなかった。
ただ、小さい頃に一度だけ……それはあった。妹が入院してしばらくの時が経ち、胡乱な宗教に逃げた母は娘の世話を見ることを完全に放棄し始めていた。
俺は学校をたびたびサボり、今まで以上に妹の病室に入り浸るようになった。それを諌め、そして妹のことを娘のように献身的に面倒を見てくれた看護婦の姿。唯一の接点にして苦く、けど暖かい記憶。
或いは、幼い頃のそういう体験も自分の進路にプラス向きに働いたのかもしれない。
「でも、練習とか結構やったんでしょ」
しょんぼりと肩を下げる俺に、マイナス思考の渦を感じ取ったのだろう……みさきが慰めの言葉をかける。
「まあ、それなりには……」
と言いつつ、内心では全く自信がなかった。
「だったら、多分大丈夫だよ」
そんな俺の心情を知ってか知らずか、みさきが根拠のないことを言う。
でも、安心しきった笑みを浮かべているみさきを見ると、反論出来なかった。まあやるだけやったんだ、後は天に任せようと素直に思える力を与えてくれるような気がした。
それも、みさきの魅力の一つなのだと思う。
「でも、面接ってどんなことを話したの?」
みさきの言葉に、俺は繋いでいた手を微かに震わせた。ちょっと、いや、かなり恥ずかしいことを言ったから。
「どんなことって、名前とか出身校とか志望動機とか……後は、こういう方向に進む動機とか……至って普通のこと」
「動機って……やっぱり、私のこととかも話したのかな?」
ずばり、的を得たみさきの言葉に、俺の動揺は強まる。
「まあ、少しは話したかな……」
本当は、少しなんてものじゃなかったのだが……。
俺は詳しく詮索される前に、話を逸らすことにした。
「まあ、試験も終わったんだし、今日は何処かに遊びに行こうぜ」
「うん、でも……」
みさきが真面目な顔をするので、俺は思わずどきっとする。気付かれたのかもしれないという予感が、ふと背筋を過ぎる。しかし、彼女はその意を全く解せぬ、とぼけた声で弱々しい声をあげた。
「それよりもごはんを先にしようよ。私、お腹ペコペコ」
俺は道路に体を突っ伏した。
「どうしたの、浩平」
確信犯的なみさきの物言いに、俺は心の中で溜息を付いた。
―5―
今日は、浩平の受けた短期大学の合格発表の日だ。合格発表と言っても、ドラマであるように掲示板貼り出しではない。発表日の当日に、電子郵便で各々の家に配達されるのだ。
プライバシーとか、情報技術革命とか浩平は話してたけど、私はよくドラマである掲示板に張り出された受験番号に二人して喜び抱き合う、そういう場面を想像していたので、少し残念だったというのが本音だった。
でも、浩平が福祉系の大学を受験すると言い出した時には驚いた。
それは勿論、私のことがあってのことだろう。
けど、私は浩平が自分の夢を曲げて私に無理して付き合ってるんじゃないか、そんな風な考えが第一に浮かんできた。心配になって覗き込むように尋ねると、しかし浩平は優しい目付きで私の方を見ながら答えた。
「俺は、今まで漠然と生きてるだけだったからな。高校に行くのだって、みんなが行ってるからってそんな普通の理由だった。夢だって、どちらかと言えば馬鹿にしてた方だし」
浩平は、少し恥ずかしがるように言葉を続ける。
「けど、今の俺には夢がある。少しでもみさきの、この世で最も愛する女性の 力になりたいってことだ。そして、現実にしたい夢なんだ……って、ちょっとくさいかな」
私は驚いた。
浩平が、そんなことを考えてくれていたこと。
そして、私が思っているより、浩平は私のことをずっと思ってくれていること。
胸が一杯で口には出せなかったけど、とても嬉しかった。私はただ一言「頑張ってね」とエールを送った。
それから、浩平は勉強に励むようになった。
勿論、あまり勉強が好きでない浩平のことだから、しょっちゅう気をちらしてばかりだったけど……でも、頑張っているのは分かった。
高校の計らいで卒業は出来たとはいえ、三年生という受験にとって一番大切な時期にに全く勉強しなかったことはかなりの遅れらしい。
私も勉強をみてあげた。国語や英語なら少しは力になれたけど、理科や数学といった理数系科目ではあまり役に立てなかった。逆に私の知らない知識を浩平に質問して感心していたこともあるくらい。こんなことなら、もう少し勉強しておくべきだったと思った。
また、長期休暇の時は長森さんが受験勉強を手伝ってくれた。彼女は頭も良いし、浩平との付き合いが長いから、教えるのも上手かった。
浩平の集中力が尽きかけようとすると、発破をかけたり、休みを入れたりするのは流石だと思う。
そういうのを傍で感じて、羨ましいなと思った。実を言うと、少しばかり嫉妬もした。
「羨ましい、ですか……」
「うん、なんか浩平と長森さんって、見てて凄く良いパートナーだって思うから」
私の言葉に、長森さんは少し暗い声で言った。
「でも、わたしは結局、浩平のこと、忘れてた。みさきさんは浩平のこと、ずっと覚えてたんだよね。わたしは、そっちの方が羨ましいと思う。長い時間、浩平と一緒に過ごして来たけど、結局、浩平とわたしの絆って、そんなものだったのかな……なんて思ったから」
私には長森さんの顔は見えないけど、きっと悲しい顔をしているのだと思う。私は少しでも嫉妬の心を抱いてしまった自分を恥じた。
「みさきさんは浩平のこと、ずっと待ってたんだよね。ただ一人、この世の中で浩平のことを覚えていて、辛いのに、待ち続けて」
「ううん、違うよ」
私は小さく首を振った。
「私だって、浩平のこと、何度も忘れようと思った。彼のこと、誰も覚えてなくて……雪ちゃんも、澪ちゃんもみんなみんな。だから、最初からいなかったんだって、浩平って人は、元々存在しない人だって、そう思おうとしたよ。でも……やっぱり、出来なかった」
私は一旦、言葉を切る。
「浩平が私にくれたもの、楽しい思い出、他愛ない会話の一つ一つ、外の世界に飛び出す力をくれた強さと優しさが一気に溢れてきて、止まらなかった」
私を司るものの中で、余りに沢山の部分を占めて来たから忘れることなんてできるはずはない。
その強さを、浩平を忘れないために、あれから私は外の世界へと出る努力をした。
白杖を付く練習だって沢山した。点字ブロックが敷いてある場所なら、苦労しながらも一人で歩くことだってできるようになったのだ。
ほんの些細なことだって、私にとっては怪物のように恐怖だった。自分を押し潰す、影だけが見えた。
それでも、浩平から教えて貰った強さを光にして進んでいた。光と影を抱きしめたまま、それでもしっかりと前を向くことができた。
私の心に大きな影響を与えてくれた人。
強い繋がりを持つ人……愛すべき人、愛したい人。
そんなことを淡々と、私は長森さんに話した。
「強いんだね、みさきさんは」
「ううん、私は強くないよ。そう思うんだったら、それは浩平がいたから」
「そっか……でも、絆って、そういうものなのかな? 時間じゃなくて。わたし、浩平にはしっかりした女性が世話してあげなきゃ駄目だって、思ってた。けど、みさきさんと出会って浩平は……上手くは言えないけど、私の手助けなんていらないほど、強くなったような気がする」
強さ。
私は浩平に、沢山の強さを分けてもらった。
私も浩平に、強さを分けてあげているのだろうか?
「おっ、何を話してるんだ、二人とも」
そこに、何も知らない浩平の声が聞こえて来た。
「女だけの内緒の話。ねっ、長森さん」
「えっ……うん、そうだよ」
蚊帳の外の浩平は、ちぇっと舌打ちする。
それが可笑しくて、私と長森さんは大笑いした。
「……き、みさき!!」
そんな考えに耽っていて、私は母の呼ぶ声に気付かなかった。
「あっ、ごめん、お母さん。どうしたの?」
「電話よ、浩平くんから」
母はそう言って、私に受話器を渡した。
うちの家では、私と浩平の付き合いは公認のものとなっている。特に母は、浩平の人柄に随分好意を持っていて、まるで息子のように思っている。
時々、夕食を一緒に食べることもあった。
父は、少し不機嫌そうな声だけど、男親というのは皆そういうものだと、母が後で耳打ちしてくれた。
「何か、嬉しそうな声だったけど」
「そうなの?」
私は母の言葉に、思い当たることがあった。
受話器を耳に当てると、真っ先にこう聞いた。
「浩平、受験の方はどうだったの?」
浩平は、少し間を置いてから言った。
「合格だったよ」
声の調子から予想はしていたものの、やはり直接結果を聞くと改めて歓迎の気持ちが湧いてくる。
「やったね、浩平」
明るく声をかける。浩平は嬉しさを隠せないながら、戸惑いも含んだ様子だった。
「うーん……でも、何で合格出来たんだろうな。面接なんか、散々だったのに」
浩平は自分が合格出来たことを、まだ信じられないようだ。
「でも、合格したんだよね。浩平が頑張ってるってこと、向こうも分かったんだよ」
「そっか……そうだよな」
受話器越しの浩平の声が、段々と明るくなっていく。そんな浩平に、私はとびきりの思いを込めて言った。
「浩平、合格おめでとう」
「ん、ありがとう、みさき」
再び季節は春。
何かが始まる予感に満ちた季節。
そして、私の思いは間違っていなかった。
私と浩平は、新しい出会いを迎えることになる。
それは、二人の世界を広げる出会いだった。
良い意味でも、悪い意味でも……。