―1―

 私は本当に必死だったんだ。

 その時は恐いって感情もなくて……。

 ただ、会いたかった……それだけだったんだよ。

 例えほんのちっぽけな光でも、それがあれば闇の中も恐くない。

 その時はそう思っていた。

 慣れない杖をつき、壁を手で辿り、少しずつだけど進む。普通に歩けば、五分とかからない距離。

 でも普通という中に、私は含まれていない。

 それは悲しいことだった。

 チャイムの音がする。

 授業の終わりを告げるチャイム。

 私は心が湧き立つのを抑えるために、大きく深呼吸した。

 うん、大丈夫。きっと、大丈夫。

 その時は、根拠もないのにそんな気持ちで一杯だった。

―二―

「おはよう浩平、朝だよ」

 みさきが俺の体を揺さぶりながら言う。

 大丈夫、そんなに焦らなくたって……。

「もうすぐ昼だよ〜」

 何、もうそんな時間か?

 何故、起こしてくれない。俺はそんなことを思いながら、がばあっと身を起こした。

 薄暗い視界。

 カーテンから漏れる淡い光。

 鳥の囀る声、そしてみさきの声。

「おはよう浩平、朝だよ」

「もうすぐ昼だよ〜」

 騙された。

 俺は目覚ましから聞こえて来た声を無造作に止めると、もう一度安穏とした眠りの中へ……。

「って、駄目だ駄目だ駄目だあーっ!」

 非常に大事なことを失念していたことを思い出し、何もない空間に向けて声をはりあげる。

 今日は俺の入る大学の入学式だ。寝惚けた頭でそんな記憶を呼び覚ますと、俺は改めて時計を見た。

 午前七時。

「はあっ、心臓に悪いぞ」

 まだ充分に余裕のある時間を指している時計を見て、俺は思わず安堵の溜息を付いた。

「全く、変なメッセージを吹き込んで……」

 毎度毎度こんなメッセージで起こされて胆を冷やしているのは、我ながら間抜けだと思う。

 けど俺の場合、本当に放っておくと昼まで眠りかねないタチなので、冗談とは取れないのだ。

 そういう俺の行動パターンまで読んでのメッセージなのだろうか? だとするとみさきの洞察力はかなりのものだと言える。何といっても複雑至極な俺のパターンを読めるんだからな。

 考えてて虚しくなるので、これくらいでやめておくことにする。

 昨日、みさきとの電話の後すぐに眠ったから、延べ十時間は寝たことになる。

「道理で目覚めが良いわけだ……」

 俺は体をうんと伸ばすと、派手な音と共にカーテンを開け放った。

 眩しいほどの日光と共に入ってくるのは今日という光。

 出て行くのは昨日という闇。

 既に習慣となった一日を始めるための儀式をすませ 、リビングに向かう。そこにはすっかり身支度を整えた由起子さんがいた。

 髪が少し湿っているから、多分朝風呂かシャワーでも浴びたのだろう。

 紺の格好良いスーツで身を包み、手には鞄を持っている。どうやら出掛ける直前といった様子だ。

「おっ、浩平か。今日は早いな……もう少ししたら、様子を見に行こうかと思ってたけど、そんな心配もなかったみたいだね」

 由起子さんの俺に対する喋り方というのはえらくフランクだ。それは気兼ねのない関係とも言える。

「まあこんな時くらいは早く起きないとな」

「とか言って、高校の入学式の時は遅刻しそうになって慌ててたらしいじゃないか。とうの入学式には居眠りまでしていたらしいし」

「なっ、なんでそんなことを?」

 俺はそんなこと、由起子さんには一言も話していないはずだ。

 それに対する由起子さんの答えは簡単なものだった。

「瑞佳ちゃんから聞いた」

 俺は今現在、異郷の地にある長森に僅かばかりの殺意を覚えた。次に帰って来たら、延髄切りごっこで遊んでやろうと心に決める。

「また、くだらないことを考えてるんじゃないだろうな」

 少し冷めた表情で俺を見る由起子さん。

 俺は僅かに目を逸らして答えた。

「まっ、それはどうでも良いとして……私はもうすぐ出るから。本当は私も出たかっけど、どうしても外せない用事があってな」

「気にするなって。どうせ退屈な式だし」

「同感だな。けど若い内の忍耐というのも結構重要だぞ。大人になると、耐え忍ばなければならないことのなんと多いことか……」

 真面目な言葉とは裏腹にからからと笑ってみせたこの辺りに、小坂由起子という女性の豪胆さと強さとが垣間見られた気がした。

「半分は冗談だけどな。じゃあ朝食は台所に用意しといたから、適当に摘んどいてくれて良いから。それから二度寝なんて考えないように」

「分かってるって」

「そうか……では検討を祈る。あと、川名さんのところにも宜しく言っておいて欲しい」

 最後に冗談めいた台詞を残すと、由起子さんは足早に家を出ていった。

「相変わらず忙しそうな人だよな……」

 俺は叔母が慌しく出て行く様子を見て、思わずそう呟かずにはいられなかった。

 台所に行くと、西洋の田園風景がプリントされている陶器皿に、目玉焼きとベーコンが仲良く並んでいた。

 シンプルながらも味の深い、朝の定番メニューだ。これにパンと牛乳、或いはコーヒーを組み合わせれば朝食が完成する。

 俺は食パンをトースタに放り込むと、鍋に牛乳を張って火をかけた。今日は珈琲を飲んで、強制覚醒モードに入る必要はないからだ。それに、長森がカルシウムを取らないとという名目で大量に置いていったから余ってしょうがないということも前提にあった。

 牛乳に膜が張らない程度に温めると、さじ一杯ほどの砂糖を注ぐ。僅かな甘味を加えることで、ホットミルクの旨みはぐっと増す……これがまた美味しいのだ。同時に、トースタに放り込んでおいたパンが焼き上がる。

 時間に余裕がある日は、何処かの健康番組でやっていたように、一口ごと三十回咀嚼して食べようとかそういう殊勝な気分になってくる。

 しかし数口もしない内にまどろっこしくてやめた。結局はいつもの食事パターンというわけだ。

 食事が終わると食器を台所に重ね置き、部屋に戻ってハンガーにかけられたスーツの装着にかかった。

 鏡を見ながら何度かネクタイの位置を調整し、必要以上に締めて苦しくなり、更にはワイシャツの首回りが鬱陶しくて何度も直す。鏡をみて僅かな歪みが気になってはネクタイの角度を直し、スーツの埃や糸屑を払う。

 その全てが少し鬱陶しかった。

 難儀な着替えが終わると、丹念に歯を磨いた。

 準備が終わり、時計を見ると午前八時少し前。思っていたより時間が余ってしまった。

「案外、呆気ないもんだよな、こういうのって」

 時間がない時はそれで慌ただしいが、時間が余りすぎるとそれはそれで暇だ。さて、これからどうしようか……。

 考えてみたが、答えは一つしか思い浮かばなかった。

―3―

「第九十四問、世界一高い山は?」

 なんだ、簡単だよ。

 そう思い、私は早押しボタンのスイッチを押した。

 ピンポーン。

 お定まりの音がする。

「答えはエベレストだね」

 ピンポン、ピンポーン。

 しばらくの静寂の後、そんな音がけたたましく鳴り響く。

「正解です。優勝した川名みさきさんには、カップラーメン一年分を……」

 遠くから歓声の音が聞こえる。

 やった、これでラーメンがお腹一杯……。

「何がお腹一杯よ。ほら、起きた起きた」

 次に聞こえて来たのは、お母さんのけたたましい声だった。布団を剥がされ、ようやく体を起こす。

「うー、おはよう、お母さん」

「おはよう、じゃないよ。もう浩平くん家に来てるよ」

 浩平くん、家に、来てる? その三つの単語が、眠りと覚醒との間でふわふわと行き来する。掴もうとするとあっちへ行き、触ろうとすると向こうに行く。

 ようやく言葉が繋がったと同時に、私は大声を上げた。

「ええーーっ、嘘、嘘、もうそんな時間?」

「いや、まだ時間に余裕はあるけど。早く準備が出来たから、一層のこと早く家を出たんだって。まあ分からないでもないけどね」

 お母さんが淡々と説明している間にも、私は色々なことを考えていた。

 まだパジャマだし、髪もボサボサだし……。

 手で髪の毛の様子を探る。

 寝癖も出来ているようだ。

 顔を洗って、髪を梳かして、歯を磨いて、とっておきの洋服に着替えて……。

「お、お母さん、どうしよう、どうしよう」

「そんなに慌てなくても良いって。浩平くんには家に入って待って貰ってるし、それにレディは殿方を待たせるものよ」

「う〜、そうかな〜」

「そうなのよ。昔も、今もね」

 自信を持っていうお母さんに、私の心は少しずつ落ち付いてきていた。

 大きく深呼吸。

 そして溜息のように吐く。

 すると暗い感じも全て息と共に出て行く。

 残るのは活動のための活力だけ。

「うん、じゃあ超特急で仕上げるね」

 私はすっかり眠気の吹き飛んだ体を起こすと、洗面台へと向かう。

 左手で髪を撫で付けて、同時に右手で歯を磨く。

 もっと時間をかけたかったのだが、そんなことを言っている時間はない。

 最後に冷たい水で顔を洗う。

 そして最後に服。

 色は分からないけど、とても優しい服だ。

 前に袖を通してみてそう思った。

 ちょっとふわふわしてるけど。

 よし、準備完了。用意は全て整った。

 舞台に出る役者のように、私は堂々と歩いて出る。

 しばらくの沈黙。

 そして言葉。

「おはよう、浩平」

―四―

 最初、現れた時、俺には目の前にいる女性が誰か分からなかった。

 いや、顔は同じなのだがイメージが全く違う。

 いつもは「見た目はお嬢さま」なのだが、今は見た目もそこから発するオーラのようなものもお嬢さまめいて見えた。

 シックなブラウスにフリルのたっぷりとついたスカート。小麦畑に佇むは深窓の礼嬢かと言わんばかりの服装だ。

(こりゃあ……ちょっとやり過ぎじゃ)

 心の表層ではそんなことを考えていたが、もっと深い所では額に飾っておきたいほど可愛い……そんなことばかりを考えていた。

「みさき、その服装は?」

「あっ、これ?」

 そういって、みさきは服をふわりと風に浮かせた。空に舞う羽のようなスロー・モーションで、スカートがなびく。

「お母さんが見立ててくれたらしいんだけど……似合う?」

「あ、ああ。うん、凄く……可愛い」

 うっかりと口に出たクサイ台詞に、俺は素早く口を紡ぐ。しかし、時は既に遅し。

「本当? うわー、嬉しいな。これ、私も気に入ってたんだよ。なんか優しそうな服だから……って、ちょっと変な表現かな?」

 みさきは服をぱたぱたさせながら満面の笑みを浮かべて見せた。

「いや、そんなことはないけど……」

 少し俯いて俺は答えた。

 みさきはいつも通りの調子なのに自分だけ変に緊張して、馬鹿みたいだ。すると彼女は台所から流れてくる匂いに鼻を追わせた。

「それより私、お腹ぺこぺこだよ。お母さん、朝御飯は?」

「……結局、みさきは最後まで花より団子なのね」

 みさきの母親は僅かに溜息を付くと、流し場に向かって歩いて行った。

「むー、ひっかかる言い方だなあ」

 少し頬を膨らませたみさきを見て、俺はクスリと笑った。笑いと同時に緊張もどこかへと消える。

 それは何気ない日常の一コマだった。

 御飯を何杯もお代わりするお嬢さま以外……は。

 でもそんな光景も既に俺にとっては日常なのだから、慣れというものは恐ろしいと思う。

「浩平もどう?」

「あ、いや、俺はもう家で食べて来ましたから」

「ふーん、そう……残念ねえ」

 みさきの母親がいかにも残念そうといった調子で言う。

 この人って世話好きなんだな。

 ふと、そんなことを思った。

 それにしても、食卓に並ぶ料理はどれも美味しそうなものばかりだった。俺の家はいつも洋食だから、和食膳は尚更美味しく見える。

 炊き立てのごはん。

「うーん、今日のごはんは特に美味しいよ」

 わかめと豆腐と油揚げの入った味噌汁。出汁の良い匂いがする。

「お母さん、お味噌汁、お替わり」

「はいはい」

 しゃっきりとした漬物にひじきと豆の煮物。

「うーん、しゃっきりとした歯応えが……」

「……すいません、俺にもやっぱりください」

 みさきが幸せそうに食べているのを見ると、急に腹の虫が騒いで来た。

「うんうん、やっぱり若い人は遠慮しちゃ駄目よ」

 笑顔で差し出される茶碗を、俺ははにかみながら受け取った。それにしても、それを見て満足そうに頷くみさきの母親が気になる。

「どうしたんですか、そんなににやにやして」

「いや、二人だったらお似合いの夫婦になるんじゃないかと思ってね」

 俺は含んでいたごはんを思いきり噴き出した。みさきはみさきでお茶を噴き出し、苦しそうにむせていた。

「い、いきなり何言うんですか?」

「そ、そうだよ、お母さん」

 とんでもないことを言う御仁だ。

 俺はコップに注がれたお茶を一気に飲み干して、ようやく落ち付いた。

「浩平くんが家に来てくれたら、私も安心出来るんですけどね。あっ、でも婿養子ってのは体面が悪いわよね。それにやっぱり、三つ指突いて宜しくお願いしますって言われて父親が涙ぐむっていうのが常套句かしら」

 俺はもう一度噴き出しそうになったのを辛うじて堪えた。

「私もういい、ごちそうさま」

 みさきは半分ほど御飯の残っている茶碗を置くと、慌てて立ちあがった。

 御飯を見捨てるということは、余程慌てている証拠だ。

 根拠はないが、間違い無い。

「……浩平、私、浩平の通う大学案内して欲しいんだけど」

「えっ、でも俺だってあまり……いや、そうだな」

 みさきの懇願する様子に、ようやくその意図に気付く。

 あんな精神攻撃を受け続けては、耐えられない――それはこちらも同様だったが――のだろう。

 ここは三十六計逃げるが勝ちだ。

「そういうことだから、もう出掛けるね」

「そうね、それも楽しいかもしれないわね。じゃあ浩平くん、みさきを頼みますよ」

「は、はあ……いや、はい、分かりました」

 こうして俺とみさきは、妙に御機嫌なみさきの母親に見送られて、走るように家を出た。いや、実際に走って出た。二人してしばらく夢中で走り、そして角を曲がった所でようやく足を止める。

 大きく何度も深呼吸。息を整え、心の方も休まってきたところで、二人して顔を見合わせた。

「ふう、いきなりあんなこと言うんだもんな」

「本当だよ……」

 俺とみさきは同時に溜息を付く。

 それから無言で少し歩いた。

 更に無言で少し歩く。

 無言で……。

「浩平、気を悪くしなかった?」

 突然、みさきが口を開いた。

「気を悪くって?」

「だから、私と、その……」

 みさきはそう言うと、俯いて顔を紅くする。

 つまりはそういうことなのだろう。

「俺は全然構わないぞ」

「そっか、私もだよ……」

 とても恥ずかしい会話をしているような気がする。

 でも、それも悪く無いと思った。

 俺は強くみさきの手を強く握る。

 繋いだ手から気持ちが通じるように……。

「でも、どうする? 今から大学に言っても早過ぎるぞ」

「うん、だから案内してよ、大学の中」

 俺はみさきの言葉に、改めて首を捻った。

 確かに受験で一度行ったことはあるが、どんな構図になっているかは全く知らない。

「俺もあまり知らないけど……でも、中がどうなってるか知るチャンスかもな」

「そうだよ。だから行こう」

 こうして俺は、時間が来るまではみさきと大学の中を回ってみることにした。

「でも、あそこにあんな建物が出来るなんてな……」

「知ってるの、浩平」

「ああ、あそこは小さい頃、秘密基地とか作って遊んだからな」

 俺は幼い時の記憶を思い起こす。

 結局は途中までしか出来なかったけど、固い土の壁に痕跡くらいは残すことが出来た。

 草むらに火を付けて、危うく山火事を起こしかけたこともあるのだが……。

 時々あそこで遊んだ。主に波長のあう友人と夜遅くまで騒いでいた。長森も何度か誘ったことがあるが、秘密基地という男の浪漫は分からなかったようだ。

 夏は通りすぎる風が心地良くて……遠くにある空が少しでも近くに掴めるような気がして、一人でずっと眼下に広がる光景を眺めてみたりもした。

 あの風は今でも、あそこにあるのだろうか。

 俺は、そんなことを考えた。

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