―一―

 月と明滅する電灯とが、夜の大気を照らしている。吹く風は尖っていない針のように肌を刺す。

 四月上旬の陽気はまだ冷たい。

 微笑むような三日月が、空に一つ。

 横には笑顔のみさき。

 今は隣を歩く長森と楽しそうに話している。

 先程、深山……それから澪の順で家まで送り届け、帰り道が同じの三人は夜道を歩いていた。

 俺は専ら聞き耳を立て、或いは談笑を続ける女同士の会話というやつを傍目で見ていた。

 真新しいアスファルト、古ぼけた壁。左手には三人がかつて通っていた高校。

 今は闇の化粧を受けて、独特の雰囲気を醸し出している校舎。更に迫る闇と冷気の中、俺たちは静かに歩を進めていた。

 そして学校の門。しょっちゅうみさきの家に通っている俺にとっては珍しいものではないが、長森はカーテンから覗く朝日を見るかのように、眩しそうな目をして在りし日の思い出を見ていた。

「そっか、もうここを卒業して一年になるんだね…」

 長森はそういうと、目を瞬かせた。

「一年……もうそんなに経つんだな」

 疾風が通り過ぎて行くかのように、瞬きの魔法が次の季節へと追い立てていく、そんな慌しい一年間。少なくとも、過ぎた日々に思いを馳せる余裕などなかった。だから今、ここで過ぎた一年に思いを寄せる。

 勉強、ひたすら勉強。

 否、俺はそんな辛い記憶を彼方へと吹き飛ばした。

「この一年は、あっという間だったよ、本当に。どの一日も惜しいくらいに短くて、そして大切な日」

 みさきは目を瞑り、右手を胸に当てると僅かに俯くようにして話してみせた。思い起こすということを、彼女は体全体で表現しているのだろう。

 そんな姿を見て、俺にもそんな思い出が湧き出て来る。

 春、夏、秋、冬。

 色、音、空気、匂い。

 目を瞑れば、心から自ずとやって来る思い出。

 有限だけど、愛しい思い出だ。

「じゃあ、私はここまでだから。お休みなさい、浩平、長森さん」

「うん、おやすみ、みさきさん」

「じゃあな。今日は寒いから、腹出して寝るんじゃないぞ」

「うー、私そんなみっともないことしないよー」

 ちょっとばかりからかってやると、みさきはいつも拗ねたようにして反応してくれる。でも内心では冗談だと知っていてやっているのだろう。

 確信はないが、そう思う。

 分かっていて楽しんでやっている。

 それも、良かった。

 みさきと別れた後、俺と長森は再び夜道を進む。

「それにしても、今日のみさきさんは凄かったよね」

「それを言うな、長森。ああ、思い出しただけで胸焼けが……」

 あれからコンビニで調達して来た、二袋の食糧をほぼ全て平らげてしまったみさきを見て、俺は食欲が後退するのを感じていた。見慣れた俺といえども、今日のみさきには諸手をふって降参せざるを得なかった。

 そんな隙を見て伸びる、みさきの箸。

 あっという間に消える、弁当箱の中身。

 狐に化かされているのでは……一瞬そんなことを思った。だが、これは全て現実だ。

 この世で最も納得し難い現実の一つ。

 世界七不思議の一つに加える必要があるだろう。

「それって流石に失礼だよ、みさきさんに」

「うおっ、長森。どうして俺の考えてることが分かる?」

「はあ…だって浩平、口に出してたよ」

 溜息一つと共に、長森は呆れた表情を俺に返す。

「そういう所は一年経っても全然変わってないよね」

「そんなことはない。こう見えても人間の器が一回り増したと、近所では専らの評判だぞ」

「……やっぱり変わってないよ」

 会心の冗談だと思ったのだが、長森はそんな一言であっさりと返してしまう。

 俺はちょっと寂しい気分になった。

 少しの沈黙の後、再び長森が口を開く。

「それで浩平、入学式は明後日だったよね」

「おお、そうだな。でも入学式なんて四年ぶりだからな、緊張するぞ」

「ふーん、浩平でも緊張することってあるんだ」

 それではまるで、俺が全く緊張しない生き物であるかのようではないか。いや、実際あまり緊張したことなどないのだが……。

 しかし、俺にとって明後日の入学式は特別な意味を持っているのだ。言うなれば、あの日の卒業式の変わりというやつだ。緊張するなという方が無理だというもの。

 卒業式と入学式とでは意味が全然違うが、偉い人や何やらがつまらない挨拶をするという点では一緒だろう。

 祝いの席を大切な人に見守っていて欲しい。

 そういうのは少しくさい言い方だろうか?

 自分に問うて、心の中の俺は首を横に振った。

「私は用事があるから、明日には帰らないといけないけど……まっ、わたしは邪魔者だからいない方が良いよね」

「おう、分かってるじゃないか、長森」

 気まずい沈黙。

 先程の沈黙が氷が貼るくらいの緊張なら、今はドライアイスが直接肌に触れているような緊張の鋭さがある。

「こ〜う〜へ〜い〜、随分はっきり言うよね〜」

 声が上ずっている。

 顔が笑っているのが余計に恐い。

 流石に言い過ぎたと思い、俺は両手を合わせて謝りにかかった。

「すまん長森、冗談だ、嘘八百だ、偽者だ。だからそんなに怒るなっ」

「あははっ、浩平、本当に恐がってる〜」

 長森は険しい顔をしたかと思うと、その次には闇を切り裂くような声で、けたたましく笑い始めた。呆然とする俺。

 少しして俺は気付いた。

 つまりは、うまくたばかられたってことだ。

「長森いっ!」

 俺は体を震わせると、大声で叫んだ。

 それが尚更、長森のツボに入ったようで、正に狂ったように笑い始める。

 その様子を見て、俺は怒る気力すら失ってしまった。

 何故笑われるかも分からないまま、俺は未だに肩を震わせている長森を横目で見ながら歩いていた。

―2―

「……というわけなんだ。わけが分からん」

 いつもの時間、いつもの電話。

 強く優しく、受話器を握り締める。

 浩平は私と別れてからのことを真っ先に、情けない声で話し始めた。

 そんな浩平と長森さんとのやり取りを聞いて、私は無性に可笑しくなった。

「浩平ってからかうと面白いから」

「なあ、みさき。最近思うんだが、俺は肝っ玉のしっかりしたお嬢様にからかわれる星の下に生まれてきたのか?」

「うん」

 私はあっさりそう答えた。

「流石にそんなこと言われると悲しいぞ、冗談でも」

「うん、そうだね」

 本当は冗談ではなかったのだが、そういうことにしておいてあげた。

 でないと浩平が可哀想だと思ったからだ。

 ほんのちょびっとだけ。

 ちょびっとというのは可愛い言葉だと思う。

「とうとう、明日は入学式か」

「楽しみだね」

 私は心底からそう思っている。

 あの日、叶わなかった約束の続き。それが新しい出発の日に果たされようとしているから余計に楽しみで、そして二人の思い出が増えることを嬉しく思える。

「そうか? おっさんの下らない話ばっかり聞かされて、退屈だと思うけどな。みさきが来ないんだったら、ふけて中庭で昼寝でもしてるぞ」

「うーん、それは大学の生活に希望を傾ける人のいう言葉じゃ、ないと思うけどね」

「そっかな? みんな心の中ではそんなのなくて良いとか思ってるぜ」

 浩平は断言するように言った。

 私は、沢山の期待を抱いて高校に入学した時のことを思い返してみた。あの時は……。

「もう少しで寝そうになってたよ」

 座り心地の悪いパイプ椅子に座って、読経みたいな言葉を続ける校長先生。

 だから、緊張とかそういうのがすぐに吹き飛んで、退屈だということだけが強かった。それで後ろの席に座っている女の子に肩を突つかれて……。

 そう言えば、これが出会いだったんだよね。

「だろ、俺なんてすっかり寝てた。それで担任になる教師が、起こしに来てな。呆れた顔で俺を見てたよ」

「ふふっ、浩平らしいね」

 私は自分の入学式の時のことと、浩平の思い出とで一気に可笑しくなってしまった。

 最近、良く笑っている。

 それは幸せだという証拠。

 そう思いを浮かべることも嫌いじゃなかった。

「なんか妙に引っ掛かる言い方だが……」

 浩平の情けない口調も私には可笑しい。

 それから私たちは他愛ない話をする。

 今日あったこと、食べたもの、起きたこと。

 今朝は食欲がなかったから御飯は全部で一升しか食べられなかったって話したら、何故か親の経済状況について強い関心を向けていたのは気になったけど……。

「じゃあ明日は朝早いからな、寝坊するんじゃないぞ」

「それより私は浩平が心配だよ」

 私は改めてそう思った。

 一度浩平の家に行った時、起こそうとした彼の寝起きの悪いこと悪いこと。

 布団を剥がしても、枕を引っ剥がしても、転がしてみても起きない。

 だから結局……ある方法で浩平に驚いて貰った。

 ちょっと卑怯だったかもしれないけど……。

「大丈夫だって。みさきから貰った目覚まし、あれを使ってるからな」

「本当かな〜」

 私は疑いを込めた声を受話器に向けた。

「そりゃ、愛する人の声で起こして貰えるんだからな」

 浩平のそんな言葉に、私は少し頬が紅くなるのを感じた。それが少し悔しくて、こんな言葉を返す。

「うん、愛情たっぷり込めた特製品だから」

 でも言ってみてもっと後悔した。多分、他の人が見たら、私の顔はゆでだこのように見えるだろう。

 或いは紅葉か……どちらにしても紅い。

 余りに寝起きの悪い浩平に私がプレゼントしたもの。

 それは新しい目覚し時計。三十秒だけど、好きな声が入れられるという目覚し時計だ。

 それはちょっとした嫉妬が始まりだった。だって、寝言で長森さんの名前を連呼するんだから。いくら長い間、起こされてきたからって、私のこと間違えちゃうなんてちょっと酷いと思う。それも一度や二度じゃなかったから、余計に悔しくて。で、以前読んだ小説のヒロインの真似をして声の入った目覚し時計をプレゼントしたのだ。

 でも、それは秘密。言うのは、何だか癪だもんね。

 さっきから、受話器は私と浩平の間に、沈黙に似た思いだけを行き交わしていた。

 それは、言葉にはならないけどとても愛しい、愛しい沈黙の時間。声は通じなくとも思いが通じているってことが分かるから、喋るのが勿体無い気がした。

「むー……とにかく、明日迎えに行くから」

 結局、焦れた浩平が先に声を発した。

「うん、わかった」

 浩平の照れたような言葉に、私はそう答える。

 そして、ふと思う。

「でもみんな凄いね。どんどん未来に向かって進んでく。私だけが置いて行かれてるみたい」

 浩平は未来の自分に向け、確固たる目標を見付けて、それを叶えようとしている。それに比べて私は、何をしたいのだろうか……。

 それすらもまだ、よく分からない。

「そんなことないよ。俺だって自分がこれからどうなって行くかは分からないし。やりたいことがあっても、まだ何をやっていいか知らない。ようやくスタートラインに立ったようなものだから」

「うーん、そうなのかな」

 私にはどうも釈然としなかった。

 スタートがどこかを知っているだけでも、そこがどこかさえも分からない人よりはやはり進んでいると思ったから。

「じゃあ、俺は明日の準備があるから。じゃあな」

「うん、おやすみなさい」

 私は受話器を切る。

 それから思う所があって、お母さんを呼んだ。

 もう一度、明日着て行く服のチェック。

 晴れの舞台に……といっても私が主役ではないけど、準備は万端にしておかなければいけない。

「みさき、今日何度同じことをしたら気が済むのよ」

 夜遅くに尋ねたせいか、お母さんは少し眠そうだった。

「うーん、でも……」

「大丈夫よ。お母さんが選んであげたこの服とみさきなら、他の誰よりも可愛く見えるから」

「そっかな、えへへ……」

 私はそう言われて悪い気はしなかった。

 おだてられてるって気も、しなくはなかったけど……。

「だからお姫様、今日はしっかり眠って明日に備えないと……ね」

「えっ、うん、そうだね。でも、もう一度だけ」

 そういうと私は服の生地を手でなぞった。

 心地良い手触り。新しい服独特の匂い。

 明日は宜しくね。そう心の中で呟くと、私は生地に向けてくちづけをした。

―三―

 俺は受話器を切ると、火照った顔を両手で思い切り叩いた。

 これで紅葉のような跡が付いたから、照れているとは誰も分からない筈だ。

 誰かに見られるようなことはないのだが、何となく恥ずかしかった。

 部屋には明日のためだけに新着されたスーツがある。

 俺は普段着でも良いと思ったのだが、こういう時はフォーマルな服装で出なさいと由起子さんに押し切られてで仕方なく……というわけだった。

 こちらとしては窮屈な服装なんて高校で卒業出来ると思っていたから、かなり意外だった。

 長森に変だと言われ、由起子さんに馬子にも衣装と言われ、泣きたくなって来た代物。丹念にアイロンがけがなされたスーツを見やり、思わず溜息を吐くとベッドに脱力感の全てを委ねた。

 取りあえず、今日は早く寝よう。明日は幾ら早く起きても早過ぎることはないのだから。

 俺は少し前にみさきに貰った目覚し時計を仕掛けると、電気を消して横になる。この目覚ましを使い出してからは、すっきりと起きることが出来るようになった。あまり肯定したくはないが、愛の力なのかとも思ってしまう。

 でも、なんでみさきは目覚ましなんてプレゼントしようと思ったのだろうか。

 誕生日でもないのに。

 えっと……思い出せないな。

 確か俺が寝惚けて目覚ましを壊して……いや、その前に何かを話したような……。

 まあ良いか。

 覚えてないなら重要なことではないのだろう。

 そう思い、俺は眠りに集中することにした。

 緊張が眠りを妨げるようなことは全くなく、俺はごく素直に睡慕の淵へと落ちていった。

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