5
―1―
私は今、とても嬉しかった。あの時すれ違った時間、望まなかった別れと望み続けた思いとを満たす瞬間ががようやく訪れた気がするからだ。
例えあの日の代替物だとしても、私は同じ思いを抱いている。おめでとう……と。
新しい道を進もうとしている浩平。
今もこの会場の中にいて、真剣に話を聞いているのだろうか。
いや、多分退屈そうに欠伸をしているのだろう。
根拠はないけど、そう思う。
静寂の体育館の中では、学長らしき人物の話が延々と続いている。もう二十分は経っただろうか……流石に長すぎると思う。
しかも話がループしてるし。
これは偉い人の癖だって浩平が言ってたけど、どうやら本当らしい。
「であるからして、諸君らには当大学の学生としての自覚を持ち、しっかりと行動して欲しいのであります。ではまだ話したいこともありますが、今日はこの辺りで終わりにしたいと思います」
その直後に巻き起こる拍手は、まるで学長の退場を心底から望んでいるような、そんな喝采に溢れているように私には思えた。
しかし、続いて学部長、市議会議員など学長に負けず劣らず話の長い人物の似たような話が続いた。
心なしか、場が白けて来たような気がする。
隣から、大きな欠伸の声が聞こえる。
それにつられて、私も大きな欠伸をした。
それからは……覚えていない。
「みさき、みさき……」
次に気付いた時には、浩平が私の肩を叩いていた。
「ふえ……あ、あれ? あれ? 浩平、なんでここにいるの?」
「なんでって、もう式は終わったよ」
式は……終わった?
「……寝てただろ」
「うん、なんかそうみたい」
折角、浩平の新しい門出の場所なのに。
私、寝ちゃったの? うわあ、恥ずかしいよー。
「まあ、しょうがないよな。俺だってずっと寝てたし」
「ずっとって?」
「そうだな、学長の話が始まって三分の一って所かな」
「それってほとんど全部じゃない?」
「……そうとも言うな」
開き直って言う浩平。
「全く、もうちょっと身のある、気の利いた台詞を思い浮かばないのかな」
「うん。でも、気の利いた言葉なんてそう沢山はないんだよ」
私なんて、上手い台詞がでてきた試しなんて全然無いから。人を誤解させて、慌てさせて傷付けることだけ上手くなった気がする。
でも、今は違う……そう思っていたい。
「きっと偉くなるには、人を退屈にさせる話が上手くならないといけないんだな」
浩平はこともなく言うけど、私はそれって不幸だと思う。そんな才能を身に付けてまで、人は偉くなりたいのだろうか? だとしたら、偉くなるということに何の意味があるの?
私は目が見えないから、話すことでしか他人を感じることができない。少なくとも、初対面の相手に対して話すことで相手を退屈にしか思わせない才能なんて恐ろしくて堪らない。
「どうしたんだ、そんなに蒼い顔をして」
私の思いを感じ取ったのだろうか、浩平が心配そうな声で尋ねてくる。
「ううん。ただ、浩平は偉くなって欲しくないなって思ったんだ」
「えっ、なんでだ?」
「だって、浩平との会話が楽しくなくなったら、悲しいと思うから」
私がそう言うと、浩平はぽんと肩に手を置いた。
「大丈夫だって。俺はそんなに偉くなるような器じゃないから」
ちょっと情けない浩平の言い方が何となく可笑しかった。それと同時に、私の中に生まれた小さなわだかまりは、柔らかい雪のように溶けていった。
「じゃあ行こうか。もうここ、俺たちを除けば四・五人しか残ってないぞ」
「えっ、本当?」
「ああ、片付けの人とかも来てるし、とっとと退散することにしようぜ」
そう言うと、浩平は私の手を取る。
「さあ、参りましょう、お姫様」
浩平は言ってから、ぷっと噴き出した。
「なんて柄じゃないか? みさきの場合」
「あっ、ひどいよ浩平」
何気ない会話の節々。
きっと浩平と一緒ならば、何所までも何時までも退屈なんて言葉はないのだろう。
そう……思う。
私はその手を強く握り返して。
その手を決して離さないように。
それが今の私の、絆の強さなのだと。
その時は、そう思っていた……。
―二―
外に出ると、熱気溢れる声と熱気とが青い空中にこだましていた。いわゆるサークルの勧誘という奴だ。
遅れて出て来た俺の姿を見かけた運動部員らしき人々が、まるで狩人のようにして向かって来る。
幾つかのサークルが押し合い圧し合いする。みさきと一緒にいるこの状況でも、彼らは躊躇することすらない。口々にサークルの利点を叫び合っては、ビラやペーパを押し付けてくる。
不意に背後から衝撃が与えられる。
そのせいで、俺は繋いでいた手を思わず離してしまった。しまった……そう思い、手を伸ばしたが、二人は違う流れへと押されて行く。
「うちでは週2〜3回をメドとした活動を……」
「体育会系のように肩肘を張らず、楽しい活動を……」
黙れ、そんなことはどうでも良い。
俺は人の流れを掻き分けながら、必死でみさきのいる方へと向かっていった。
―3―
するり。
予期せぬ一撃によって、二人を繋ぐ手は簡単に解かれて行く。そのまま大声を出し合う人の流れに、私は飲み込まれていった。
急に、私は、頼れるもののない暗闇の中へと放り出されたのだ。
勝手の全く分からない未知なる土地で、喧騒に包まれながら、私は必死で浩平を求めていた。
けど。
何者かに突き飛ばされた私は、弾かれるようにして転んでしまった。
そこから向けられる、声、声、声。
誰も私を知らない。
そこにいるのは皆、他人なのだ。そんな渦の中にいる……そう思うと、急に恐くなった。
寒気がする。
体が無意識のうちに震える。
「現在、私たちのサークルに入れば……」
「我々は、腐った政府と政治体系を打開すべく、日々活動を……」
違う。
私が聞きたいのはそんな言葉じゃない。
そんな言葉は、私に恐怖を与えるだけ。
そして一度膨らんだ恐怖は、どんどんと広がって行く。
私はその場にへたりこんで。
両手で体を抱きかかえて。
その場で震えることしかできなかった。
刹那……鈍い痛みが走る。
誰かが私の足を踏んでいった。
そして誰かがぶつかって行く。
「大丈夫か、みさき」
その時。
大切な人の声が聞こえた。
浩平は痛いほど強く私の手を握る。
それだけで、恐さも震えもぴたりと止まる。
「というわけで、我々は五月の初めに全国の同士と一緒に……」
「ふざけるな!!」
何処かの勧誘員らしき言葉を遮るようにして、浩平が大声で叫ぶ。
「一気に押し寄せて、人のことも顧みずに……そういうことされて、迷惑に思う人がいるって分からないのか?」
一瞬、周囲の空気が氷を張ったように冷たくなる。浩平は荒げた息を整えると、すたすたと歩き出した。
「みさき、行こう」
「うん……」
私は歩きながら、沢山の視線を感じた。それは皆、冷たくて……きっと迷惑だって思っているに違いない。
そんな雰囲気だった。
その時。
心の奥底で小さなトリガがかちりと音を立てた。それは、悲しくて封印していた記憶の欠片を呼び覚ます音だったのかもしれない。
―四―
なんで、あんな言葉が出てしまったんだろう。
俺はみさきと分かれて家に戻ってから、思わずそんなことを考えていた。
それは、彼らの行為がどんなに浅ましいかということを思わず感じてしまったから。
一人でへたりこんで、孤独で不安で。そんな女性に手の一つを差し伸べようとする奴一人すらいない。
本当なら、率先して手を差し伸べるべきなのに。
福祉系の大学に入った人間というのは、須らく他人を思いやることのできる者たちであると今までずっと思ってきたのに……。
なのになんだ、あれは。
自分の欲望と使命感とに走り、周りが全然見えていない。見ようともしていない。
そのことを思い出すだけで、俺は胃がムカムカするのを感じていた。
膨らむのは学ぶ場所となる大学への不信感。
ただ単純な、困った人間に手を差し伸べるという当然のことすら学ぼうとしていないやつらへの不信。
俺は漲っていた気力が急速に萎むのを感じていた。
ふと目覚し時計の時間を見る。
もう深夜一時を回っている。
それでも、俺は眠れなかった……考えることが多過ぎて、怒りが強すぎてとてもそんな気分にはなれなかった。
―5―
私は女の子に手を引かれて、グラウンドまでやって来た。とうとう願いが叶ったんだ。
「どうする、用事があるんなら呼んで来てあげようか?」
「うん、ごめんけど」
「いいっていいって……それで、誰を呼んでくれば良いの?」
「えっとね……」
言葉にしたのは、本当に会いたかった人の名前。
私、多分その人が好きだったんだと思う。
初恋だったんだ。
「こんにちは」
私は精一杯の笑顔を込めて、そう言った。
精一杯の心を込めて、言ったんだ。
けど、その人は……。
「何しに来たんだよ、こんな所まで」
嫌気のこもった口調だった。
私を嫌がっている……そんな言い方だった。
でも、私はめげずに言葉を続けた。
「えっと、別に用は無いんだけど……」
「用が無いなら、こんな所に来るなよ」
にべも無い、拒絶の言葉。
この前話した時には、優しい話し方をする人だって思ったのに。今の彼の言葉は刃のように鋭く、痛かった。
「ちょっと話しただけで友達にでもなった気か? はっきり言って、こっちは迷惑なんだよ」
迷惑?
「あ、あはは……」
私はそんな言葉に、空笑いを返すことしか出来なかった。
私は、迷惑な、存在なの?
「いやああああっ」
私はそんな声と共に、布団を跳ね上げた。
粘り付くような汗と、記憶とが、頭の中でスパークを起こしている。
「夢?」
よりによって、あんな夢を見るなんて。
今、何時だろう。
私はベッドサイドに置かれているトーキング・ウオッチのスイッチを入れた。
「イマ、イチジジュウサンフンデス」
無機質な合成音が、暗い部屋の中に響く。
恐い。
体が……震えが止まらない。
まるで砂漠の真ん中に一人で放り出されたように粘り付くような恐怖が、心を包み込む。
誰か。
誰かの声が聞きたい。
誰の声?
私は手探りで電話の子機を引き寄せると、震える手で慎重にボタンを押していった。
プルルルル……。
プルルルル……。
虚ろなコール音が、刺のように耳に痛い。
カチャリ。
受話器の上がる音。
私はすぐに、その人の名前を呼んだ。
―六―
「浩平……浩平……」
こんな夜更けに誰だろう……そう思って取った受話器から聞こえて来たのは……。
みさきの囁くような、俺を呼ぶ声だった。
「みさき、どうしたんだ、こんな夜中に?」
俺と違って、みさきはこの時間には既に眠っている筈だ。それが、目を覚ましていてこんな時間に起きている。
だから、何か重大な事件が起こったのでは……そう思ったのだ。
「ううん。特に、用は無いの。けど……迷惑だった?」
「そんなことは全然ないぞ。夜は俺の活動期間だからな」
「そう……なの?」
まるで蛇に睨まれた蛙のように。
余所余所しい赤の他人のように。
恐縮そうに尋ねてくるみさきの、弱々しい声。
「みさきが、俺の所に電話を掛けてきて、迷惑だなんて、俺は全然思わない」
俺は、諭すように、宥めるように。
そして自分の心でみさきを包んであげられるように。
細い声で、ゆっくりと言った。
「本当?」
「ああ。それよりどうしたんだ、なんか声がひどく震えてるみたいだけど。まるで恐い夢でも見たみたいに」
その言葉に、受話器の向こうのみさきは黙り込む。
どうやら図星らしい。
「うん、恐い夢。二度と見たくない、見ることはない夢だと思ったのに……見ちゃったんだ。夢の中でも私は目が見えなくて、だから見るっていう言い方は、正しくないかもしれない……」
細い声。
まるで地獄から這い上がる為に垂らされた一本の蜘蛛の糸みたいに簡単に、ぷっつりと切れてしまいそうな。
「そっか……それで、どんな夢を見たんだ?」
「……ごめん、今は上手く話せない。それに、話したくない……」
それは冷たく拒絶するような、ぞくりとするような声だった。何故かはしらないけど、みさきは酷く傷付いている。それはみさきの見た悪夢のせいだということも分かっていた。
でも……だとしたら何と言ってやれば良い? 浩平は拙い頭で、それを必死に探そうとした。
けど結局は無駄で……。
『でも、気の利いた言葉なんてそう沢山はないんだよ』
それはみさき本人が言った言葉。
それでも。
何か、良い言葉はないだろうか?
でも、それを考えるのも。
すぐに嫌になって。
俺は何も考えずに言葉を紡いでいた。
「分かった。話したくないならそれでいい。でも、恐いことがあったら何時でも俺に言ってくれ。何時でも、俺に電話を掛けてきて欲しい。恐かったら、話を聞く。それでも恐かったら、すぐにでも駆け付ける。迷惑だなんて思わない。嫌だなんて言わない。それよりも、俺はみさきがそんな思いでいる方が……嫌だ」
頭が真っ白だった。
何を言っているのなんて、覚えてない。
でも……それは全て自分の言葉だ。
受話器の向こうの愛しい人は、何も答えてくれない。
俺は……。
「ありがとう……」
その時だった。
みさきのそんな言葉が、受話器を通して流れてくる。
それは、脅えたような……何かに脅えたような声ではなく……穏やかで優しいいつものみさきの声だった。
「ごめん、いきなり電話して。でも……浩平に電話して良かったよ」
「いいっていいって。それより、本当に大丈夫なのか?」
「うん、もう平気だよ。じゃあ浩平、お休み」
「あ、ああ、お休み」
俺は少し戸惑いながらも受話器を置いた。
「夢……か。なんだったんだろうな」
俺は思わず呟いた。
みさきをあそこまで脅えさせるような夢……。
きっと本当に……悲しいことなんだろう。
―7―
私は受話器を置くと、大きく息を付いた。
嬉しかった。
浩平の言葉。
私のことを、迷惑じゃないって言ってくれた。
それはきっと、私の独り善がりなのだと思う。
でもあの時の私にはそれが必要な言葉で……。
浩平は私にその言葉をくれた。
気の利いた言葉、私を強く勇気つけてくれる言葉。
浩平の言葉は強い。
私も、何時かあんな風に強い言葉を……人を勇気つける言葉を生み出すことができるだろうか。
そうだ……。
その時、私は一つのことを考えていた。
人を勇気つける言葉、楽しい物語。
夢?
そう、ずっと夢見て来た。
でも、今度は現実にしたいと思った。
おぼろげながら、私の心にスタートラインが見えてくる。私が辿りたい、進みたい道を切に思った、これが最初の瞬間だった。