Chapter2
捨て切れない夢を追いかけて……

 辛い夜にも。

 悲しい夜にも。

 いつかは、きっと終わりが訪れる。

 勇気を与えてくれる人がいるのなら。

―1―

 私は邪魔な存在?

 生きていても、価値の無い人間?

 どうして?

 私が普通じゃないから?

 目が見えないから?

 光を感じることができないから?

 闇しか視ることができないから?

 誰か……答えてよ……。

 目が覚める。

 自分が何処にいるのかも分からず、ただこれから押し寄せるであろう音に耳を傾ける。

「大丈夫?」

 誰かの声がする。

 この声は……私を案内してくれた女の子の声だ。

「わ、たし……どうしたの?」

 声が掠れて、上手く出てこない。

 頭がまるでオーバヒートしたように働かない。

「びっくりしたのよ、急に倒れたりしたから」

「倒れた?」

「うん。いきなりふらふらと歩き出したと思ったら、しばらくしてパタリと」

 歩いて、そして、倒れた……。

 私には全然、記憶に無い。

「びっくりしちゃったわよ。それで近くを走ってた人に頼んで、ここまで運んでもらったの。今、保健室の先生いないから、ベッドに寝かせただけだけど」

 そっか、迷惑、かけちゃったんだ。

『はっきり言って、こっちは迷惑なんだよ』

 怜悧な刃物のような声が。

 無慈悲な拒絶を示す言葉を。

 脳は無慈悲にリピートさせる。

 錆び付いた感情が。

 わざと錆び付かせておいた感情が。

 厳つい音を立てて回り始めた。

 呼吸が荒くなる。

 胸が……まるで華奢な風船のように弾け飛んで消えてしまいそうだ。

「ごめんね……迷惑、だったよね?」

「迷惑だなんてそんな……私は困っている人がいたから助けただけだから」

 女の子の暖かい声が、今の私には辛い。

 そんなこと言ったって、彼女だって結局は私のことを迷惑だと思っているに違いない。迷惑なんだよと、全身で訴えているに違いない。

 でも、一番辛いのは……。

 そうとしか考えられない自分。

 醜い……自分。

―二―

 入学式の日は、いくつもの問題提起と解答とは程遠い答えだけを抱えたまま過ぎ去って行く。

そして、そのまま大学生活が始まった。

 しかし、それは俺にとって何の良い感情を思い起こさなかった。

 ここで勉強して、何が得られるのだろう。人を思いやる心のない人間がこんなにも多い場所で学んだところで、自分が本当に志すようなものになるるのだろうか? ルーズリーフと資料とを机に並べ、俺はそんなことを考えていた。

 夢のなかった頃。

 日常の流れるままに任せて、何もしなかった頃。

 それが幸せだと思っていた頃。

 時を浪費することにも、何の疑いも持たなかった。まだ自分には時間が有り余るほどあるのだと、たかを括っていた。

 今はどうだろう。

 何かを突き動かそうとする情熱を放棄して、、時のゆくまま気のゆくまま、しかし何の望みもないまま生きることが本当に良いことなのだろうか。

 少なくとも、時という概念について考えさせられるえいえんとの邂逅によって、俺はそれを良しとしてはいけないと急速に思うようになっていた。

 だからこそ、今の状況が辛い。何かの答えを求めているのに、それが得られないもどかしさを埋めようと必至で頭を巡らせる。

 そんなことを考えていると、いつのまにか授業は終わっていた。

 真っ白なルーズリーフ。

 真っ白な心。

 昼時だと言うのに何をする気力も起きず、頬杖をついたままぼうっと窓の外を眺めていた。

「どうした、黄昏少年」

 すると、背後から不意にそんな声がかかった。

 顔を上げると、そこには先程まで板書に向かって講義をしていた講師の姿が見えた。

 年は二十代後半くらいだろうか。自分の顔を良く理解した化粧も相俟って、かなりイイ線をいってると思う。

 服装は、薄手のセーターにジーンズというボーイッシュなものだった。着飾るということには無頓着なのかもしれない。とにかく、俺に声をかけてきたのはそんな人物だった。

「昼食のことでも考えていたのかな?」

 やけに馴れ馴れしい。

 中学や高校の時には、こんな馴れ馴れしい教師はいなかったように思える。いるとすれば、テレビに出てくる金八先生くらいだろう。

「違いますよ」

 俺は素っ気無く答えた。

 確かに昼食時だが、お腹は空いていない。

「そうか……では、少し語らいの時を持とうか?」

「はあ?」

 講師の奇妙な発言に、俺は間抜けな声をあげていた。

「なんでそういうことになるんですか?」

「いや、見た所、君は心に悩みを抱えているように見えたからね。それにあの時の再会を祝してということもある」

 あの時の……再会? はっきり言えば、俺には目の前の人物との面識などなかった。

「もしかして忘れてる? あっ、いわゆる女らしい格好をしているから、分からなかったりするのかな? まあ、確かに今日は一応臨戦スタイルだからな」

 女らしい……とはお世辞にも言えないが、目の前の女性はそう思っているらしい。

「入学式の時に、校舎に迷い込んでいた君と出会った筈なんだけどなあ」

 入学式?

 校舎に迷い込んだ?

 俺は記憶の糸を必死に辿っていく。そして、目の前の女性と一致するものを発掘することができた。

「えっと……もしかしてあの時白衣を着ていた……」

 男女の研究員……と心の中で呟いた。

「思い出してくれたようだね。それで入学式には間に合ったかな?」

「あ、ええ、ギリギリセーフでした」

「そうか、それは良かったな……で、話は本題に戻るが……場所を変えないか? 私はお腹が空いた」

 俺は机に頭をぶつけそうになるのを、何とか堪えることができた。というか、この人の思考パターンが理解できない。

「え、ええ、いいですよ……」

 何時の間にか、俺は目の前の講師のペースに翻弄されているような気がした。

 いや、事実そうなのだろう。

 大学の食堂は昼時だけあってかなり混雑していた。所々にある観葉植物も、今は愛でる者などいない。この辺りは、以前通っていた高校も同じようなものだったが。

「あのー、席がありませんけど」

 俺は日代わり定食にライスに味噌汁。

 名も知らぬのほほん講師は、コロッケ定食にライス、味噌汁、食後のケーキをトレイに乗せていた。彼女に言わせると、特に食後のケーキががやめられないらしい。太るという言葉を、俺は喉で必至に押し込めなければならなかった。

「そうね……じゃあ、外で食べましょうか?」

「外?」

「ええ。トレイさえ指定の場所に返せば、何処で食べても良いの、ここの食堂は」

 そう言うと彼女は、まるで自分が学生であるかのように、明るい調子でずんずんと進んで行った。しばらく進んでいくと、彼女は噴水を囲むベンチの一つに席取り、膝の上にトレイを乗せた。

 俺もそれに倣う。

「それで本題だけど……」

「その台詞、二度目ですよ」

「うーん、その冷静なツッコミはさておいて……。あっ、そう言えば君と会うのはこれで三度目だな」

「三度目?」

「やっぱり覚えてないか……」

「だって、名前だって知りませんし……」

 俺が言うと、彼女は大きく溜息を付いた。

「今日の授業の最初で話したでしょう。橘麗、まるで中国人にも間違われるが如く漢字二文字。ちなみに独身」

「誰もそんなこと、聞いてませんって」

「おかしいな……昨今の生徒に聞かれる質問ナンバーワンの筈だが……。あっ、そうか。君には愛しき人がおられるのだったな」

 その問いに、俺は何も答えなかった。何故、知っているのだという考えさえも浮かばなかったのだ。

「でも、君とはこうやってゆっくり話す機会を持ちたいと思ってたんだよ。あの時、面接官の一人だった人間としては」

「えっ? そうだったんですか?」

「うんうん」

 橘講師は顔をにやにやさせながら、大きく頷いた。と同時に、俺は気付いた。彼女はその……俺の恥ずかしい台詞を聴いた一人、なのだということに。

 途端に、顔がかあっと熱くなる。

「愛する彼女のために精一杯のできることを……だったっけ? こっちが思わず赤面しそうだったよ、全く、このう」

 揶揄するように、肘で頬をぐりぐりと突付いて来る。割とマジでやっているのか、結構痛い。けど、今はそんなこと気にならなかった。

「わっ、やめてください」

 今、思い出すだけでも顔が赤くなる。何故、俺はあんなことを言ってしまったのだろうか?

 多分、気の利いた言葉なんてこの世にそう沢山は無いからだ。これは、みさきの言葉の受け売りだが。

「なかなか面白いと思ったよ……というと、不謹慎かな? でも、少なくとも世の中の役に立ちたいなんて動機よりは共感できる」

「そういう……ものなんですか?」

 橘講師の言葉に、俺は思わず頭を傾げた。

 普通は……世のため人のため、そういう人がつく仕事ではないだろうか。

 福祉や看護という領域は……。

「今、私の言葉を聞いて不思議に思っただろ。でも、世のためなんて考え方じゃ、結局はボランティアの延長線上でしかない。福祉っていうのは殆どの場合、世のためという動機でやるものではないんだよ。世のため、世の中を変えたいんなら政治家になれば良い。もっとも最近は、真摯に世の為なんて言う政治家もいないようだが……」

 彼女はそう言って、これ以上は無いという皮肉笑いを浮かべて見せた。それを和やかな微笑に戻すと、コロッケを突つきながら話を続ける。

「福祉っていう仕事は、綺麗な仕事じゃない。綺麗なものだと勘違いしている人が多いようだけどね……看護婦と同じだよ。苦しいし、きついし、偏見だってある。特に君の目指すような職種の場合」

 食べながら喋る橘講師を見て、行儀が悪いなと少し思いつつも、大局は彼女の話に聞きいっていた。

「そうなんですか?」

「ああ。それに君は、実際にそういう事実と直面したことが、あるんじゃないのかい?」

「まあ、確かに……」

 外の世界へ出ようという勇気を持ったみさきに対して、必ずしも好意的な人間ばかりではない。

 それは俺にも少しずつだが分かってきた。

 優しく声をかけて来れる人もいれば、迷惑そうな顔をして省みることさえしない人もいる。

手を繋いで歩いていることを悪い意味で冷やかされもしたし、目の前で点字ブロックの上に平気で自転車を置いていくやつだっていた。

「でも、そういう原体験があるからこそ、君はここで学ぶ気になったわけだ」

「ええ……」

 但し、今はその信念が揺らぎ始めているのだが、そのことは口には出さない。

「確かに君の動機は、独り善がりで身勝手かもしれない。でも、夢なんて大体、独り善がりで身勝手なものだよ。私がこういう道を進み始めた動機も、自分勝手なものだった。決して、世の中のためなんて考えじゃなかったよ」

「えっ、そうなんですか?」

「まあな。もしかしたら、興味を持ったかな?」

 彼女の言葉に、俺は少し躊躇するものがあった。長くなりそうだなという思いが、漠然と浮かんできたからだ。

 しかし、橘講師はにんまり微笑むととハイテンションで語り出した。

「そうかそうか、聞きたいか」

「そ、そんなこと一言も……」

 俺は抗弁したのだが、彼女は嬉々とした表情を崩さない。どうやら最初から、話をしたかっただけらしい。

 そう思い、覚悟を決めて聞くことにした。

「実を言えば、私の実家は結構な金持ちでな」

 彼女の発した一言目がそれだった。

「何、不審な目をしているんだ。別に金持ちであることを自慢したい訳じゃない……」

 そういう橘講師の表情には、少し翳りがあった。

「まあ、いい。それで今から十五年くらい前、私の祖父が倒れたんだな。原因は脳梗塞。それで左半身が完全に麻痺してしまって、声も満足に出せなくなった。思考は比較的しっかりしていたけどな。

 それでうちは金を持っている家族の定めかな? 結構、どろどろしたもんがあったんだよ。結局、祖父の面倒を見ようというやつらはいなかった。いや、決定できなかったというのが正しいかな? 祖父に取り入って立場を有利にしようとか罵り合いばかりだった。

 そんな諍いに怒った祖母は、夫の世話は自分でやると言い出した。まっ、当然だよな? でも、祖母もかなり高齢だったから、それで介護ヘルパが雇われたんだ。歳は三十くらいだったかな、綺麗で優しい人だったよ。私も祖父の家に行った時、よく遊んでもらった。

 彼女は祖父母のことを、まるで実の親のように接してた。家族関係でぴりぴりしてた祖母も、彼女のことは信用してたようだったし。でも、それがいけなかったんだ」

 橘講師はそこまで語ると、大きく溜息を付いた。

「どうしてですか? 今までの話を聞いてると、別に問題があるようには聞こえなかったんですけど」

「まっ、普通の家ならそうだろう。けどうちは普通じゃなかった……そういうことさ」

 普通ではない……とはどういうことだろうか。

「遺産だよ。ヘルパの女性に遺産を分け与えるって、病床の祖父が言い出したんだ。それからはもうどろどろのぐちゃぐちゃ。嫌がらせ、悪戯電話、暴行未遂、殺人未遂、恐喝……彼女はありとあらゆる嫌がらせを受けたよ。そういう『普通じゃない』家だったんだ」

 彼女は、顔を歪めていた。それはなんとも形容し難い、暗い光を称えた憎しみの目だった。

「ヘルパの女性は、満足な給金さえも貰えずに家を出ることになった。それでも感謝の言葉と笑顔を、私に見せてくれた。私だって馬鹿じゃないからね。どうしてそんなひどい仕打ちを受けて笑ってられるのかって聞いたんだ。彼女は微笑みながらこう言ったよ。私は自分勝手な人間だから、目の前のことしか考えられない。目の前のことを精一杯やることしかできない。けど、そのせいでこの家の人たちが傷付くなら、それは私の望む所ではないから、だから私は喜んで身を引くんだって……。

 凄いなって思った。私だったら家の人を全て憎んで、 どす黒い心で満たされながら一生を過ごすかもしれない。それで思った……彼女と同じ道に進みたいってね。それが、私の原体験」

 俺は橘講師の話を聞いて、溜息を漏らさずにはいられなかった。

 確かに素晴らしい人だと思う。

 そこまで他人のことを思いやれる人がいて。

 笑顔で。

 最期まで笑顔でいられるということは、普通できないと思う。

 でも、俺はなんとなくもどかしい気分だった。

 確かにその人は強い人間だったと思う……だが。

「でも、やっぱり俺は納得できません」

「そうだな、私も納得できない」

 俺の言葉を、橘講師はあっさりと肯定した。

「彼女は偉いと思う。けど、私には彼女の考えは納得できなかったんだ。患者のことを思うのなら、彼女は最期まで戦うべきだったと思う。あの時、私に力と知識があればそう言っていただろうしね。私がこの大学で今も学びつづけているのは、力と知識が欲しいから。世のためなんて考えからはほど遠いと思うよ、自分でも」

 それから一呼吸置くと、今度は俺の方を鋭い目で見つめた。

「君がここで学ぶのも、知識を手に入れる為だろう? 世の中には尊敬できるやつなんて、滅多にいない。だからこそ、君がここで学ぶことには大きな意義がある。少なくとも私はそう思うよ。あとは、自分がどれだけ頑張れるかだ。それは他人と比べるべきでも無いし、比べる必要も無い」

 橘講師の言葉を、俺は心の中で反芻していた。

 言い回しが遠回りで仄めかすような感じなのだが、多分、彼女は俺の悩みを見透かしていたのだと思う。

 だから、このような話をしてくれたのだろう。

 自分のために。

 そして大切な人の為に。

 今はそれで良いと、言ってるのだ、彼女は。

 他人と比べるんじゃない。

 俺自身、何ができるかを考えて行動しろ、と。

「そうですよね……ええ、分かります、何となく」

 俺は呟くような、しかし決意を込めた一言を返した。自分が強い人間になるため、まず変わらなければいけないという考えが頭の中に生まれていた。

「そうか……では君の悩みも一段落した所で本題に移ろう」

 その言葉は、俺の決心をたちまち脳裏へと追いやってしまった。

「へっ? さっきの話が本題じゃないんですか?」

「勿論だとも。私は一度も、さっきの話が本題とは言ってない」

 真面目な顔で答える橘講師。

 だとしたら、とんでもない前奏曲だ。

「実は君のフィアンセのことなんだ……」

「フィアンセじゃないですよ!」

 多分に誤解を含んだ物言いに、俺は大声でストップをかけた。

「そっか、なら恋人でも愛人でも良い。彼女は今、白杖を使ってるんだよな」

「ええ、そうですけど」

 俺の言葉に対して橘講師が言ったことは、ある意味で今まで全く考えの埒外にあったことだった。

「率直に言うとだな……盲導犬を使ってみる気はないか?」

[PREV PAGE] [SS INDEX] [NEXT PAGE]