夢というのは一つじゃなくて……。

 人の中にいくつもあって、時には反発しあう。

 だから、捨て切れない夢たちだったとしても……。

 振り捨てて進まなければならない時だってある。

 でも、いつかは思い出して……。

 捨てられた夢たちのことを。

 あなたに力を与えてくれた、

 かけがえのない夢たちのことを……。

―1―

 目覚めは最高だった。

 きっと、自分を変えられる日ってこういうことを言うのだと思う。

 示し合わせたように淡い太陽の光が、晴天から降り注いでいた。

 だから、いつも震えながら立っていたスタート地点に、今日は震えずに毅然として立つことができる。

 恐いという気持ちは消えない。でも、今日は側に浩平がいる。

 訓練だから、声をかけることも手を差し伸べることも決してないと分かっているけど、それでも側にいてくれるだけでとても嬉しかった。

『俺には頑張れって言ってやるくらいしかできないけど……』

 ここに来る途中、浩平がかけてくれた言葉。

 頑張れと言うだけだって浩平は言うけれど、その一言で勇気がでてくる。

 そう言ってくれる人がいる、励ましてくれる人がいる、側にいてくれる。

 それがどれほど、私に力を与えてくれるか……分かっているのかなあ。

 だから、私は満面の笑みを浮かべて言うのだ。

『ありがとう、浩平』と。

「……今日は調子が良さそうですね」

 訓練員の人が、私に声をかける。

「そうですか?」

「うん。何だか、明確には言えないけど良い感じがしますよ。上手く行きそうなオーラというか……」

 そうかもしれない。

 握り締めるハーネスからも、不安感は浮かんで来ない。

 私はゴーのサインをユーキに出した。

 いつもと同じように、道路の状態が変わって外に出たことが分かる。

 途端、得も知れぬ恐怖感が私を包み込む。

 昨日も、一昨日も、その前の日も私を強く支配した感情だ。

 やはり、どんなに調子が良い日でもそう簡単に恐怖というものは消えない。

 私は歩道の真ん中まで出た所で、一度立ち止まる。

 このまま左に行けと命令を出せば、ユーキは百メートル近く先の横断歩道までまっすぐ進むだろう。

 そんなことがふと頭に浮かんで、私はいつもよりも冷静な自分を発見する。

 昨日も一昨日も、そんなこと一つも浮かんで来なかった。ただ、深淵に広がる世界と付随する闇とに脅えるだけだったのに……。

 大丈夫。

 今日なら、私は一歩を踏み出せることができる。

「ユーキ、ゴー、レフト」

 私は微かに震えた声で、そう指示を出す。

 歩き出すユーキの歩はやはり少し速く感じられたけど、私もそれにひきずられないように強く歩を踏みしめた。

 微かに感じるでこぼこだって、過剰に恐がらなければ大丈夫だ。

 歩幅と回りの音から、もうすぐ横断歩道だということが分かる。

 今日は横断歩道を渡り、左に曲がり、二百メートルほど進んだ所でもう一度横断歩道を渡る。

 そこには信号が付いており、車通りも多いらしい。そこを渡って、最後に訓練所の外周を一回り。

 それが、今日の訓練コースだ。

 今から渡る横断歩道は、言うなれば第一難関だ。こちらは音で横断順序を示す機械が付いてないから、私の感覚とユーキの感覚だけが頼りになる。

 横断歩道の近くまで来ると、ユーキの歩行速度がゆっくりとなる。そうして、危険地帯が近いことを私に教えてくれているらしい。

 私は歩道に敷かれた点字タイルを踏みしめる感覚が変わったことを確かめると、ユーキにストップをかけた。

 それから、道路の方に感覚を集中させた。

 今は車が通っているから、エンジンの音が聞こえる。

 車がこちらにぶつかって来ないかと一瞬心配になるが、何とか堪えた。

 しばらくすると、車の音がぷっつりと途絶える。

 意識を集中させてみるが、遠くからも車が来ている様子はない。

「ユーキ、ゴー」

 足元に何の目印もない道路を歩くのはいつだって恐い。今は、自分の意志でそれを行わなければならないのだから、尚更だった。

 ようやく横断歩道を渡り切ったと分かった時、私は思わず大きく溜息をついた程だ。

 大丈夫、行ける。

 私は左に曲がるように指示を出すと、そんな思いを胸に秘めて歩き出した。

 人とすれ違う時はやっぱり恐いけど、恐怖感はぐっと薄れている。

 そして、いつの間にか信号付きの交差点の所まで来ていた。ここが第二の、そして最後の関門なんだ。

 ここでは青信号になると、歩行者にそれを知らせる音楽が流れ始める。

 葬送行進曲ととおりゃんせが交互に流れる……確か、そうだったはず。

 とおりゃんせが流れ出したら、もう一度向かい側に渡る横断歩道を渡れば良い。

 私はそれだけのことを、頭に何度も言い聞かせていた。

 葬送行進曲が止まる。

 もうすぐ反対側が赤になり、こちらが青になる。

 そう思った時、とおりゃんせのメロディが響き始めた。

「ユーキ、ゴー」

 私は少し間を置いて、ユーキに指示を出す。しかし、私の声にユーキは全く反応しなかった。

「ユーキ、ゴー」

 私はもう一度、今度はもう少し大きい声で指示を出した。けど、やはりユーキは……。

「あ……」という声が後ろから響く。

 その声を聞くと同時に、一際凶暴なエンジン音が私の目の前を駆け抜けた。

 巻き上げられた生温い空気と塵が、喉に入り込んで苦しい……。私はあまりに突然の出来事に、思わず地面にへたり込んでしまった。

「川名さん、大丈夫ですか?」

 訓練員の人の声。

「みさき、大丈夫か?」

 この声は浩平の声だ。そう言えば、あの時の「あ……」も浩平の声だった。

 私に危ないって、伝えようとしたんだね。それよりも何よりも……約束通り側にいてくれたんだ。

 一生懸命だったから、気が付かなかったけれど……。

 それから私はユーキの体を触る。

 ユーキはこのことが分かっていたから……。

 危険が迫っていたから、わざと動かなかったんだ。

 主人が危険だと判断する時に起こす、主人を守る為の不服従。

 こうやって、今も私を守ってくれた。

 実際にそれを体験して、ようやく分かったんだ。

 このコはすごく明敏な感覚と賢さを持っているんだって。そして私は、このコが身を守ってくれるほどにこのコを信用してなかったんだ。

 ようやく、それが分かった。

 私は自分が歩いていた気でいたけど、ユーキはいつも私を導いて守っていてくれる。

 私は……やっぱり弱い人間なのかもしれない。

 結局、いざという時に信じるべきものを信じることができないのだから。

 私は……。

 その時、ふと右手から軽く引っ張るような感覚がした。

 握り締めていたハーネスを通じて、ユーキが何とか意志を疎通させようとしていた。

 そっか……。

 まだ頑張れって、そう言ってるんだね。

 それは都合の良い解釈だったかもしれないけど、私にはそう思えた。

「まだ、続けられますか?」

 訓練員の人が、声をかける。

「はい、大丈夫です」

 私はさっと立ち上がると、そう答えた。

 ユーキが文字通りの勇気を与えてくれたから。

 私はもう少しだけ頑張れると思う。

 まだ、とおりゃんせは鳴り響いている。

 車が通る気配もない。

 だから、私は素早く指示を出した。

「ユーキ、ゴー」

 私を導くユーキの足取りは、今度は速いと思わなかった。丁度良いスピードで、私は迷うことなく渡り切る。

 今度はユーキのことを強く信用して。

 心に大丈夫だと言い聞かせなくても、私とユーキが手を取り合えば、どんな場所でも超えて行けるような気がした。

 目の前の景色が変わる雰囲気を、手に取るように感じられる。

 左へ、まっすぐ、一旦停止……思っていたことが自然と指示として出せた。

 もう少し……あと少しだ。

 私は強く一歩ずつ、踏み固めるようにして前に進む。

 そして、ゴールの先には……何があるのだろう?

 それは多分、今までよりほんの少しだけ強い自分が立てる、新しいスタート地点なんだと思う。

「到着っ」

 私は足元が変わったことを確認すると、思わずそう口に出していた。

 ユーキにストップの合図を出すと、優しく頭を撫でてあげる。

 そう言えば、ユーキにこうも優しく接するのは久しぶりだった。

 最近は自分のことしか考えられなかったから。

 何かに心を奪われている時には、いつも周りのことが分からなくて……。

「みさき……」

 潤んだ声と共に、左手が優しく包み込まれる。

 私が良く知っている、浩平の優しい手の感覚だ。

 でも、気が付くと側にいてくれる優しい存在たち。

 だから、怖いことにだって立ち向かって行ける。

 今日は、それを再確認したような日だった。

―二―

 俺は玄関前のソファに座って、一人みさきを待っていた。

 今日は一日中みさきの訓練を見守って……、

 はらはらすることも一度や二度じゃなかったれど……、それでも明るく毅然としたみさきを見ていると、こちらまで身が引き締まるような思いを受けた。

『でも結局、強いってどういうことだろう?』

 以前、みさきが俺にそう尋ねたことがある。

 でも、強いというのは一体、どのようなものを指すのだろう?

 肉体の強さ?

 速く走ったり、高く跳んだり、或いは相手を打ちのめしたりする……。

 それは多分、違うはずだ。

 肉体の強さを持っていたとしても、それが本当の強さだとは限らない。

 それはきっと、何かに敢然と立ち向かう……、今日のみさきが見せたような、そんな心なのだと思う。

 俺はいつかなれるのだろうか? そんな強さを持った人間に、例え辛いことがあっても貫き通せるような、強い人間に……。

「あの……」

 俺がそんなことを考えていると、近くの方から声がかかった。

 見上げると、みさきの付き添いをしていた若い訓練員の男性が立っていた。

 何度か見かける顔だが、積極的に言葉を交わしたことはない。

「えっと……なんですか?」

 何か用事だろうか、そう思い、俺は普通に尋ねた。

「あのですね……貴方と少し話したいことがあって……隣、座って良いですか?」

「あ、ええ、どうぞ」

 話したいこと……とは何だろう。

 隣に座る男性の顔を横目でみながら、そんなことに頭を巡らせる。

「いや、別に訓練と関係があるとか、そんな話じゃないんですよ」

 そんな俺の心を読み取ったのだろうか……男性は慌てて手を振った。

 ブルーグレイの作業着の居住まいを正すと、男性は話を始める。

「ただ、羨ましいと思ったんです……折原さんと川名さんの関係が。二人でいるのは何度かみかけたんですが、お互いがお互いを信頼しているのが、見ているだけで分かって……何だか……」

 作業服の男性は声を詰まらせたが、やがて真面目な顔をすると俺に尋ねて来た。

「折原さんは……もし今後、捨て切れない夢が見つかったらどうしますか? それが、川名さんを諦めなくてはならない夢だったら……貴方なら、どうしますか?」

 その質問に、俺は思わず眉をひそめた。

 何故、彼はそんなことを訊いてくるのだろうか?

 問い質してみたかったが、相手の余りに真摯な表情に、それはできなかった。

 それは彼にとって、非情に大切な質問なのだろう。

 そして、俺の返す答えも、とても重要なのだろう。

 俺は少しの間を置いて、きっぱりと答えた。

 考えるまでもない質問だったから。

「どんなに魅力がある夢でも、みさきが側にいない夢なんて未練はない。俺の夢の中にはいつもみさきがいるし、いなかったらとても悲しいと思う」

 我ながら甘い言葉であると思ったが、それが俺の偽らざる本心だから……。

 男性は一瞬、寂しげな表情をみせたが、次の瞬間には穏やかな微笑を浮かべていた。

「折原さんは……強いですね。僕にあの時、それくらいの強さがあれば……」

 そして、口を何かの形に開く。

 しかし、そこから言葉が紡がれることはなかった。

「すいません、つまらないことを聞いてしまいました。先程のことは、全て忘れて下さい」

 男性は大きく頭を下げると、「それでは仕事の続きがあるので……」と言って、奥の方へと消えて行った。入れ違いで、みさきがこちらへやって来る。

「おっ、みさき……今日は早いな」

「うん。大事な彼氏を長い間待たせたら駄目だって……」

 俺は咳込むのを何とか押さえ込まなければいけなかった。誰も彼もが恐ろしいことを平気で口に出す。

「頼むから、平気で寿命を縮めるようなことを言わないでくれ……」

 そう抗議したが、みさきは楽しそうな微笑を崩そうとはしなかった。

 逆にその笑顔で、俺に尋ねてくる。

「ところでさっきまで、ここで話をしていたみたいだったけど……、どんなことを話していたのかな?」

 妙に余裕を抱いているみさき。

 こうなると、どんな手を使ってでも反撃したいと思うのが男の性で……。

「みさきが俺にとってどんなに大事な人かということを話してたんだよ」

 思わず、そんなことを口走っていた。

 みさきはきょとんとした表情をみせたが、徐々に頬を朱に染めた。とはいっても、普通じゃ分からないくらいの変化だったけど……。

「……浩平だって、私の寿命を縮めること言ってるよ」

 言ったこちらも寿命が縮んだ。

 勢い任せで吐いた言葉がどれだけ恥ずかしいか……、俺は身を持って知ることとなってしまった。

 俺は照れを隠すようにみさきの手を握ると、そっぽを向きながら言う。

「じゃあ、行こうか」

 みさきはまだ少し戸惑っていたが、俺の声を聞くとゆっくり歩き出した。

 手を取り合い、ゆっくりと……。

 本当の強さとは何だろう。まだ、答えは出せないけど……。

 隣にいる、愛しき人と一緒ならば、その答えも見つかるかもしれない……。

 春は行き、もうすぐ梅雨が訪れようとしていた……。

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