6月3日 木曜日

 雨は嫌いじゃなかった。

 でも、誕生日に降る雨は嫌い。

 私が雨女なのだろうか……もしかしたら単に季節の所為なのかもしれない。

 けど、誕生日には雨の降ることがとても多いのだ。

 意地悪な空だなと、私はいつも思ってしまう。別に、空が悪い訳じゃ無いということは分かってるけど。

 それでも、誕生日の度に降る雨は僅かな憂鬱の種だったことは間違いない。

 例えば、遊園地や動物園に連れて行ってくれる……そんな時に限って、ひどい雨が降ってしまう。まるで、私の外出を妨げるようにして。

『雨が降ってる……』

『そうね、この雨じゃ遊園地には行けないわね』

『照る照る坊主、何個も作ったのに……』

 私がしょんぼりとした表情を見せると、お母さんは少し困ったような顔をして言うのだ。

『今日は駄目だけど、また近いうちに連れてってあげるから』

『じゃあ、来週』

『えっ……まあ、うん良いわよ』

『やった、それじゃあもっと沢山照る照る坊主を作らないと』

 その日、ティッシュの箱をまるまる二つ使って沢山の照る照る坊主を作ってしまい、お母さんとお父さんに呆れられてしまった。

 でも、その時の私はそんなこと全然気にせずに、沢山の照る照る坊主を軒先に吊るし、来週は晴れるようにって一生懸命に祈った。

 ついでに、来年の誕生日はちゃんと晴れますようにって。いっぱい、いっぱい祈ったんだ。

「どうしたの、窓なんか眺めて」

 私が空の様子を気にかけていると、お母さんが部屋に入ってきた。そこからは、淹れたての紅茶とチョコレートの良い香りがする。

「明日の天気はどうかなって、少し心配になってたんだ。ほら、私の誕生日ってよく雨が降るから……」

「うーん……言われてみれば確かにそうね。あっ、紅茶とお菓子持ってきたから」

 お盆とテーブルがかちゃりと音を立てる。私は手探りでティーカップを取ると、軽く匂いを愉しんだ。

 私の家の紅茶はティーパックに湯を注ぐようなものではなくて、もっと本格的な淹れ方をしている。だから、とても良い匂いがする。私は早速、夕食前の間食に手を伸ばし始めた。

 正直なところ、少しお腹が空いてもいたから。

「みさきは本当に、何でも美味しそうに食べるわねえ……」

 お母さんは私がお菓子を食べている様子を見て、そんなことをしみじみと言う。

 そんなに美味しそうに食べてるかな、けど本当に美味しいし……。

「ひょう……だっへ本当に美味しいし……」

「みさき、食べるか喋るかどっちかにしなさい……全く、食い意地がはってるというか……」

「ひどいよ、食い意地なんてはってないよ、私」

 お母さんは少しの沈黙の後、軽く溜息をつきながら言葉を続けた。

「そんなにがっついてると、男性にも呆れられるわよ」

「えっ、でも浩平は美味しそうに食べてる私のことも好きだって言ってたよ」

 再び、沈黙と溜息。

 私、何かまずいことを言ったのかな?

「だったら、何も言うことないわよ……まあ、良いけど。で、話は変わるけど明日のパーティで特に何か食べたいものってある?」

 パーティと言っても、家族の中で開かれるささやかな会だ。

 一昨年は雪ちゃんを招いたんだけど、最初は困惑気味にこんなことを言った。

『これだけの料理……全部食べる気?』

 去年は浩平を招待したんだけど、やっぱり驚きの思いを込めて言われたのだ。

『これ、全部食えるのか?』

 でも、パーティと言えば沢山の料理が所狭しと並んでいる筈だ。

 小さい頃に見たドラマでは、パーティというのは全部そうだったような気がする。

 料理が一杯あって、みんなが楽しそうに笑っている……それがパーティだから。

 私はそんなことを考えながら、片隅では何が良いかなと頭を巡らせていた。

 去年は大きな七面鳥と、チョコレートケーキがメインだった。

 だから、今年は……ローストビーフなんてパーティっぽい感じがするし美味しいし……、

 あ、でも今年は趣向を変えて和風なものも良いかな……とても迷ってしまう。

 ケーキだってバターに生クリームにチーズに……色々あって一つに決めきれない。

 いつの間にか明日のご馳走のことで真剣に悩んでいると、お母さんは「……決まらないなら今すぐでなくても良いから」と諭すように言った。

「うん、ごめんね……あ、あとティッシュの余りってないかな?」

「ティッシュ? もしかしてみさき、今年も照る照る坊主を作るの? そんなことしたって、晴れる時は晴れるし降る時は降るわよ」

「うーん、そうかもしれないけど……でも、やれるだけのことはやっておきたいんだ。やらなくても結果は変わらないかもしれないけど、やらなくて悪い結果になったら絶対に後悔すると思うから。だから、お願い」

 私が頼み込むように手を合わせると、お母さんはゆっくりと立ち上がった。

「分かったわ、でも二箱も三箱もあげられないけど」

「うん、二つか三つで良いよ。沢山作ったら、お母さんが飾るの面倒だと思うから」

「そんなこと気にしないで良いわよ。十個でも二十個でも飾ってあげる」

「じゃあ……沢山作るけど大丈夫? あ、それと逆さまに吊るさないでね。照る照る坊主って、逆さまに吊るすと逆に雨になるって言うから」

「はいはい、分かってますって」

 母はそう言うと、静かに部屋を後にする。

 私は部屋にあるティッシュで、早速照る照る坊主を作ってみた。目や口の位置は推測だけど、男前の表情になっている筈だ。

 黒マジックのキャップを戻したところで、部屋にお母さんが戻ってくる。

「ん、これだけあれば十個でも二十個でも作れるでしょ」

 どこから持ってきたのかは分からないが、箱には殆ど新品並にティッシュが詰まっていた。私は夕食の時間まで、許す限り照る照る坊主を作り続けた。

 夕食に呼びに来たお母さんは、その姿を見て驚きを声色に写して呟いた。

「沢山作ったわねえ……まあ良いわ、全部軒先に飾っておくから」

 私は「ありがとう」と言葉を返すと、軒先に並ぶであろう照る照る坊主に向けて祈った。

 明日はどうか、晴れてくれますようにって……。

6月4日 金曜日

 けど、その願いは私を起こした雨音と共に吹き飛んでしまった。

 窓を大きく開け放つと、大量の湿気を含んだ空気と静寂にも似た雨の調べが隔たりを乗り越えて入り込んでくる。全身を風に舞う雨が濡らし、私はゆっくりと窓を閉めた。

 そして、小さく息を吐く。

「今年も雨、か……」

 細い声で呟くと、私は少し重たい体をひきずってダイニングに向かう。漂う心地良い朝食の香りも、今日は少し味気なく感じた。

 席に座ると、お母さんがご飯と味噌汁を装ったお椀を運んでくる。

「みさき……残念だったわね」

 遠慮がちに話しかけてくるお母さんに、私は小さく頷いてみせた。

「照る照る坊主、効かなかったけど……どうする、全部降ろしとく?」

 うん……と最初は答えようとしたが、すんでのところで思い留まる。

 照る照る坊主たちも頑張ってくれたのに、効果がなかったからといってあっさり降ろしてしまうのは可哀想だと思ったから。

「……ううん、今日の間はずっと吊るしておいて」

「そう……分かった。で、料理の方だけど何が良い?」

 料理のこと……今日の天気のことにかまけていて、すっかり忘れていた。

 私は五分ほど悩んだ後、去年と同じで良いと答える。変わり映えがないのは少し寂しいけど、七面鳥もチョコレートケーキもとても美味しかったから良いと思う。

「じゃあ、いつもよりも腕によりをふるって作るから」

 お母さんは明るい口調をこちらに投げかける。それは、私のことを元気付けようとしてくれてるんだってすぐに分かった。

 そんなに暗そうな顔をしてたのかな? そうかもしれない、やっぱりあれだけ祈って雨だったのはショックだったから。

 でも、誕生日なんだからそれじゃいけないよね。

 今日はとても良い日なんだから暗い顔をしてちゃいけないと思った。

 確かに雨かもしれないけど、お母さんもお父さんも浩平も私のことを祝ってくれる。

 美味しい料理とプレゼントと大好きな人たちの笑顔……それだけでもとても幸せなことだ。

 けど……やっぱり、良い天気であって欲しかった。

 朝食を済ませると、私は自分の部屋に戻った。

 今日は盲導犬の訓練は休みだけど、別の用事があったからだ。

 それは、お父さんとお母さんからのプレゼント、と言っても家族全員で使うものだった。

 まあ、お母さんが家計簿で使うとかお父さんがプレゼンを自宅で作れるというのは後付けの理由だったけど。最初は私が使いたいと言い出して、それがたまたま私の誕生日に近かったから、プレゼントという形で我が家に導入されることになったのだ。

 パーソナル・コンピュータ、それが今日うちにやってくる大きなプレゼントの正体。私の夢のために必要なものは何かとずっと考えて、浮かんで来たのがこれだった。

 コンピュータなら文章を声にして読み上げてくれる機能があるし、キータッチを覚えれば、目が見えない私でも整った文章を素早く組み上げることができるから。

 私が長い間、ずっと閉じ込めて来た夢。憧れて来たけど、無理だと思い込んでいた目標。それは、読んだ誰もが楽しいって思える物語を作るということ。

 雪ちゃんの劇で幾つかアイデアを出しあったことはあるけど、物語を組むということは今まで体験したことがないものだった。でも、そのことはずっと考えてた。私の作った話の方が面白いと言ってくれた友達の言葉を聞いた時から。

 凄く単純な理由かもしれないけど、私の心の片隅には少しずつ燻っていた。

 目が見えないから文章だってうまく書けない……そのことは分かっている。けど、他の方法を考えるということもしてこなかった。ただ、諦観の思いだけを残していた。

 でも、夢に向かって着実に進んでいる浩平を見ていると私もって思うようになった。これは欲張りなことかもしれないけど、私にも掴みたい夢がある。そのための努力はしても良いんじゃないかって、思えるようになった。

 現実にしたい夢のために……。

 既に、物語の内容は頭の中で固まってる。

 ある一組の恋人が、様々な苦難に打ち勝ちながら幸せを掴んでいく話。

 少しばかり私の実体験が混ざってたりするけど、物語ってそんなものだよね。自分の体験したことや読んだ本から想像の翼を大きく広げる作業はとても面白い。

 けど、一つだけ納得のできない部分があった。

 この物語に相応しいタイトルがどうしても見つからないのだ。でも、まだ時間は沢山あるからゆっくり決めれば良いと思っている。

 色々なことに思いを巡らせていると、不意に玄関から呼び鈴の音が響いた。

 電気屋さんかな? と思ったらその通りだった。玄関から廊下にかけて、荷物と衣服の擦れる音が通過していく。きっと、パソコンを運んでいるのだろう。節々には男性の呟き声が聞こえて来て、電気屋さんであることが確認できた。

 少しすると、お母さんが私の部屋に入って来た。

「みさき、あなたのプレゼントが届いたわよ」

 予想はしていたが、お母さんの言葉を聞くと途端に好奇心が湧き上がって来る。

「本当? さっき運んでいったから、もう触ったりできるかな?」

「まだみたいよ、電気屋の人が設定なんかに時間がかかるって言ってたから」

 どうやら、もう少し時間がかかるらしい。

 残念に思っていると、お母さんがやや口調強めに話しかけて来た。

「それにしても小説が書きたいからパソコンが欲しいって……いきなりそんなことを言われたから最初はびっくりしたわよ。それに、他の人には秘密にして欲しいって……別に隠すことじゃないでしょ」

「うーん……でも、やっぱり恥ずかしいよ。特に、浩平に見られるのは……」

 物語の登場人物の男性は、もろに浩平を意識して造形している。

 そのことが分かってしまうんじゃないかって思うと、不安になってしまう。

「彼に見られると困る文章を書く訳か……まあ、どんな内容かは察しがつくけど」

 本当だろうか? それについては、私も信用できなかった。

「でも、パソコンだと文章も早く打てるようになるけど、それでも大変よ。タイプのキー配置を全部覚えるだけでも一苦労だし、それができるようになったからってすぐに文章を打てるようになるわけじゃないし。練習は辛いでしょうし、思い通りにいかないかもしれない……」

「そうだね、いっぱい苦労すると思う」

 そのことは、私だって充分承知している。

「でもね、叶えたい夢のために努力することは当然だから。それに、好きでやってることだから辛くはないよ。お母さんには、これからもっと迷惑をかけると思うけど」

 私が少し熱っぽく語ると、お母さんは僅かに偲び笑いを漏らした。それから何事かを少し考えると、先程よりも柔らかな口調でこう言ってくれた。

「そう、そこまで覚悟ができてるなら何も言わないから。それと遠慮せずに、何か助けが必要な時はお母さんに言ったら良いのよ。みさきは美味しそうにご飯を食べる時のように、堂々して遠慮なんてしなくて良いんだから」

 端々が引っ掛かる言い方だけど、お母さんが私のことを応援してくれるってことは分かった。 そのことはとても嬉しかったし、改めて頑張らなくちゃって思う。

 午後からは、設置が終わったパソコンをお母さんと二人で色々と弄っていた。と言っても、初期設定だから操作しているのは殆どお母さんなんだけど。

 それに、私もお母さんも機械には弱いからしばらくたっても初期設定が終わらなかった。

「これ、難しいわね……テレビと似ているのに、操作とか全然違うし」

 確かに、パソコンのモニタはテレビの手触りとそっくりだった。でも、電気屋さんが言うにはこれは本体じゃないらしい。

 二人して、いい加減困ったという言葉が増えてくる。

「お母さん、今何時?」

「えっと、三時過ぎ……いけない、パーティの準備ほったらかしのままだわ」

 パソコンの方も気になったけど、パーティの準備はもっと大事だ。これだと、夜に食べるものがなくなってしまう。

「うーん、じゃあこっちの方はまた明日で良い?」

「そうだね、これじゃパーティの料理がなくなっちゃう」

「……分かったわ。明日、また頑張ってみましょう、自信はないけど」

 お母さんは心底残念そうに言うと、パソコンの置かれた居間を後にした。

 今日には一度使ってみたいと思ったけど、初期設定ができてなければしようがない。

 私は仕方なく、椅子をぐるぐる回転させながらキーを触る練習を少しした。

 あとで、とても目が回った。

 目が回って少し気分が悪くなったので、私はソファで少し眠っていた。

 どのくらい眠っていたのかは分からないけど、目覚めの音楽はオルゴールの音だった。

 聴いたことのない曲だけど、とても明るい曲だと思う。

「おっ、ようやく目が覚めたか」

 斜め上方から、とても聞き慣れた人の声が聞こえてくる。それが突然だったからしばらく浩平の声だとは気付かなかった。

 ようやく周り始めた頭で状況を察し、私は慌てて体を起こした。そして洋服を整えると、慌て気味の声を押さえることなく言葉を紡ぐ。

「あ、え、浩平……いつ来たの、私どのくらい寝てた?」

「えっと……ここに来たのは午後四時くらいだな。ちなみに今は四時半少し前だ」

 私とは対称的に、浩平は極めて冷静な口調で状況を説明する。

「四時半? じゃあ……浩平が来てからずっと眠ってたってこと? なんで起こしてくれなかったの……退屈だったでしょう」

「いや、そんなことはなかったな。みさきのお母さんに料理の力仕事を任されて、今まで生地とか練ってたし……それにみさきの寝顔を見てるのも楽しかったしな。涎なんか垂らして、本当に幸せそうに眠ってたぞ」

 浩平にそう指摘されて、私はすぐに口元を拭う。僅かな湿り気が、袖の端に残っている……涎って、うわっ、恥ずかしいよ。浩平の前で、涎を垂らしてぐうぐう眠ってたなんて……。

「えっと、それは……うー……」

 言葉が詰まって全く出てこない。

 顔も自分で分かるほど熱い……きっとまっかっかなんだと思う。

 私は何とか誤魔化そうとして、散漫な神経を色々なところに集中させる。

 その中に、夢を貫いて耳に届いたあの旋律も含まれていた。私は興味半分、話を逸らす気半分で音楽のことを浩平に素早く尋ねた。

 浩平はオルゴールの蓋を閉じると、螺旋を巻きながら話し始めた。

「あ、これか。いや、誕生日のプレゼントにって買ったんだ……オルゴールだけどな。なかなか良い曲だと思うんだけど、どうかな?」

「うん……とても明るい曲っていうか……元気が沸いてきそうな感じがするよ。これ、曲の名前はあるのかな?」

「ああ、えっと……名前は聞いてないな。なんか、作った人のメッセージなら刻んであったけど」

 そう言って、浩平はオルゴールに刻んであるっていう一節を諳んじてみてくれた。

「If more darkness and darkness in your mind,

bright season will come nearadays.

I hope this sound lights you

and your tendernesses brightly.

……英語だけど分かるか?」

 最初は少し戸惑ったけど、よく聞いてみれば簡単な単語や文節で構成されている。だから、訳文もすらすらと口に出すことができた。

「もし、深い闇があなたを満たしたとしても……輝く季節はきっと訪れる。願わくば、この旋律があなたと大切な人に明るい光を灯しますように……こんな感じかな?」

 結構意訳だったりするけど、意味は間違っていないと思う。

「うん、そうだと思う、でも、みさきの訳の方が良い感じがするな。俺も訳とか考えたんだけど。なんか、綺麗な詩を読んでるような……そんな感じ」

「そうかな……えへへ」

 文章が綺麗だと言ってもらえて、思わず私は嬉しい気持ちになる。その時、私の胸にずっと悩んでいた答えが舞い降りてきた。

 それと、この曲のタイトルも。

「ねえ、浩平。さっきの曲の名前だけど『輝く季節へ』っていうのはどうかな? 箱に刻んであった文章にも合うし、良いんじゃないかな」

「輝く季節へ……か。うん、いいんじゃないのか……ぴったりの曲名だと思う」

 輝く季節へ、その言葉を私はもう一度心の中で繰り返した。

 ずっと考えてた物語のタイトル……相応しいものがないかって思ってた。そうだ、これこそ幸せを掴もうとする二人には相応しいタイトルだ。

「ねえ、もう一回さっきの曲を流してくれるかな」

 私がそう頼むとすぐに、オルゴールは輝く季節への調べを奏で始めた。音は部屋の中を自由に駆け巡り、こだまし、明るい気分で満たしてくれる。

 徐々にペースが遅くなり、そして完全に止まってしまうまで私と浩平はずっと、その曲を静かに聴いていた。そして、蓋は再び閉じられる。

 すると、浩平が何気なくぽつりと呟いた。

「あ、雨やんでるな……」

 その言葉に、私は次に家の外へと感覚を傾ける。確かに、今まで静寂の中に僅かな音を響かせていた雨の気配がなくなっていた。

 けど、それを嬉しがる間もなく唐突に浩平が私の手を握り締めた。そして、強引な調子で私を廊下から玄関まで引っ張っていく。

「えっ、浩平どうしたの?」

 だが、浩平は私に何も答えず黙って私に靴を差し出すだけだった。仕方なく、私は靴を履いて浩平の応じるがままに外へと飛び出した。

 雨上がりの湿気が、夕暮れ間際の大気と混じり独特の香りを発している。僅かに纏わり付くそれは、僅かに火照った顔と心を冷ましてくれた。

 家を出て少し歩いたところで、浩平は不意に立ち止まる。

「どうしたの? 急に飛び出したりして……何かあったの?」

「……虹が出てる」

 虹……!

「えっ、本当? 虹って空に広がる橋みたいな奴だよね、七色に光る」

「ああ。雨が上がったばっかりだから、虹が顔を出したんだな。で、いても立ってもいられなくなって。みさきにもどんな感じか説明したくって」

 浩平が興奮した様子で喋り出す。虹をみて外に駈け出すなんて、まるで子供みたいだ。

 でも、私だって虹が出てるって言われたら急いで飛び出すだろう。直に見ることはできない。けれども、虹の出ている大気をこの身に感じることはできるから。

 私は全身で空気の匂いを嗅いだ。雨上がりの爽やかな匂いが、より鮮烈に感じられるそれから両手を広げて、少しでも多くのイメージを受け止めようと試みた。

「凄いよね、空にぱあって出てるんだよね。今、どんな感じなの?」

「そうだな……今は赤の勢力がちょっと強いかな。それからオレンジ、黄色、黄緑、緑、青……、紫は少し弱いかな。でも、時間が経ったら紫も強くなってくるかもしれない」

 浩平が説明してくれた虹のイメージ。

 私は幼い頃に穴が空くほど眺めた虹のイメージにそれを重ねて、心の空に投影した。

 鮮明とまではいかないけれど、虹というものが鮮やかに甦って来る。

 とても、綺麗だった。

 それから私と浩平は、虹が消えてしまうまでずっと空を向いていた。これだったら、雨の誕生日というのもそんなに悪くない。

「ねえ、浩平」私は隣を歩く浩平に、ふとこう尋ねた。

「これって、もしかして天からのプレゼントかな?」

「……ああ、そうかもな」

 浩平は照れ臭そうな口調でそう答えた。

 家に帰ると料理の準備が整ったのか、良い匂いが台所から漂って来た。

 顔を覗かせると、フライパンが油をはねる音が強く充満していた。

「みさき? 料理はもう少しでできるから……つまみ食いしちゃ駄目よ。……あら、さっきよりもずっと明るい気がするけど何か良いことがあったの?」

 お母さんが不思議そうに言うので、私は笑みを浮かべて大きく「うんっ」と頷いた。

 お父さんが帰ってくるとすぐに、パーティが始められる。浩平は去年と同じく料理の多さに驚いていたけど、これくらいが普通だと思う。

 七面鳥が二皿にチョコレートケーキのLLサイズ、空揚げに焼肉にサラダに、他にもテーブルに収まらないくらいの沢山の料理が並んでいた。

 まず、最初に誕生日おめでとうって蝋燭の炎を吹き消した。そして料理を食べながら、最近あったことを色々と話した。

 夢のことはまだ話してないけど、突然に打ち明けて浩平とお父さんをびっくりさせてやろうと思う。

 浩平にはいつもびっくりさせられてばかりだから、たまにはこちら側から驚かせても良いよね。

 そう考えると、自然に楽しい気分で心が一杯になった。

 楽しいパーティはあっという間に過ぎていった。これからまた一年間待たないといけないと思うと少し寂しい気もする。

 後片付けも終わると、浩平は少し不安定な足音をさせながら家の外に出る。お父さんが、酔った勢いで浩平に散々酒を飲ませたせいだ。

 これがなければとても良い父親なんだけどと、みさきは軽く溜息を付いた。

「浩平、大丈夫? タクシーとか呼んだ方が良くないかな」

「大丈夫だって……歩いていった方が酔い冷ましにもなるからな。それにしても、あれだけ酒を飲まされるとは思わなかった……」

 浩平は、こめかみを親指で押さえながら顔を伏せる。

「まあ、色々と面白い話も聞けたし楽しかったけどな……ふふふ」

 普段なら浩平はそんな笑い方はしない。

 やっぱり、酔ってるのかなと少し心配になった。

 きっと浩平の顔は真っ赤に違いない……私は玄関まで来ると浩平の両肩をしっかり支えた。

 靴を履く時に転んでしまったら大変だと思ったから。

 靴を履き終わると、浩平は小刻みに揺れる体をこちらに近づけてきた。

「じゃあ、また明日な〜」

 浩平の挨拶に、私もまたねと返そうとしたのだが……言葉を発するべき唇が、不意に柔らかい感触で塞がれてしまう。

 それが浩平の唇だと気付いた時には、既に僅かなお酒の感触だけが残っていた。

「それじゃあ……みさき、愛してるよ」

 そう最後に言うと、浩平は今度こそ本当に自分の家へと帰っていった。

 私は気恥ずかしさとくすぐったさが体を覆うのを感じながら、部屋へと戻った。

 枕に顔を突っ伏すと、浩平の最後の言葉が甦ってくる。

 酔った勢いで言ったとは分かっていても、普段はあんなことを言わないからやっぱり嬉しい。

「けど……」私は誰にも向けずに、ひっそりと呟いた。「今度は、お酒に酔ってない時に言って欲しいなあ」

 私はベッドに横になりながら、心からそう思った。

 そして、来年の誕生日もこれと同じくらい楽しいものになりますようにと。

 照る照る坊主と虹に祈りながらゆっくり、ゆっくりと眠りにおちていった……。

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