一度壊れた絆は、元に戻らないのだろうか?

 確かに昔は、愛しさや優しさを感じるられる、

 そんな嬉しい一瞬があったのに。

 今では、それも思い出せない……。

―一―

 人間、嫌なことは無意識に逃避しようと試みるものだ。俺はどうやって橘さんから件のことを聞き出そうかと考えていて、授業の内容が完全に耳から耳へと素通り状態だった。

 ぼーっとしていても眠っていても文句を言わない授業だったから良かったものの、そうでなければ怒声の一つでもとんでいたことだろう。

 俺は、無意識に幾何学的模様をノートに走らせていた。まる、さんかく、しかく……様々な初歩的図形が重なり合い、既に原形など微塵も感じられない。もっとも、何かを意図して描いた代物ではないのだが。

 ふと、左腕の時計に目をやる。十一時四十五分……あと五分で二限目の授業は終了してしまう。しかも、また明日みたいなことを言っていたから彼女とは必ず遭遇する筈だ。

 どうにか話を聞き出そうと幾つかのパターンを考えてみたが、どれも簡単に粉砕されてしまうことは容易に予測できた。結局、間を見計って単刀直入に訊くという手段が最もベターな手段であるという結論に至った。或いは、一層のこと無理だったといって誤魔化してしまおうか……そんな不埒なことも頭を過ぎったのだ。

 だが、それをやるのも気が引ける。やはり、頼まれたからには……しかも、もしかしたら一人の人間の運命を大きく変えるかもしれないと思うと、逃げる訳にもいかない。

 微妙なジレンマの崖っぷちに立たされ、最悪な状況の中に活路を見出そうと俺はペンを無意味に走らせながら回転の良くない頭脳をフル回転させていた。

 しかし、時間の矢はそんな俺の努力を嘲笑うかのように授業の終了時刻を通過する。黒板の説明は書きかけだが、時間に厳格な講師はぴたりと手を止め「今日の授業はこれでおしまいにする」と言い残して肩筋張った歩き方で講義室を退出していった。

 俺は奇妙な図形だけを書き記したルーズリーフを急いで鞄にしまうと、講義室を飛び出す。

 が、運命の女神はそれを嘲笑うかの如く彼女を俺の眼前へと登場させたのである。

「おっ、出てきたな。早く行かないと学食が混み合うぞ」

 大袈裟に手招きする橘さんの様子に、俺は逃げ出したい気持ちで一杯だった。

 というか、裸足でだって逃げ出したかった。明日への禍根を残さないのなら、俺はみっともなく一人逃避行へとこの身を捧げただろう。

大体にして、思い悩むという行為自体が俺の性根とは余り噛み合わないものなのだ。その原理を破るほどの運命と懇願があったからこそ、混乱状態に陥りながら懸命に言葉を探していた。もう、手遅れだが……。

「あ、はい……」

「どうした? 顔色が悪いが……何か悪いものでも食べたか?」

 そんな、いつもなら軽く返せるような冗句も今の俺には苦痛だった。

「なんだ、本当に悪いものでも食ったのか? いつもの覇気が感じられないぞ……っと、早く行かないと学食が戦場になってしまう。話を訊くのは、エネルギを確保してからにしよう」

 こちらとしてはエネルギなどどうでも良いのだが、それだと逆に怪しまれると思い、俺は素直に彼女の言葉に従った。橘さんは空揚げ定食、俺は麻婆丼を頼むと、いつもの中庭へと出る。噴水を中心とした広場は、生徒同士、或いは生徒と講師の語らいが気軽にできるようにという思想から設計された自由空間となっている。

 俺に限って言えば、その設計思想は完全に的を得ていることになるのだが、今という時に限ればそれは呪いじみたものにすら感じられた。

 そんな心中を察してか察さずか、橘さんは隣にトレイを置いて早速会話モードに入った。

「で、早速だが何故今日の君はそんなに辛気臭い顔をしてるんだ。何かまた悩みなのか? さてはみさきさんと痴話喧嘩でもしたか、レポート提出の期限が間に合わないとか……」

 それなら良い……いや、それも良くないか。しかし、彼女は俺の憂鬱が彼女自身のせいだという可能性を微塵も考慮していない。まあ、こちらが一方的に訊くのだから予測なんてできないが。それでも、普段通りに明るい橘さんの様子が少し恨めしいことは間違いない。

「いえ、まあ、こちらとしても色々あるんですよ」

「何だ、官僚答弁のような物言いだな。私と君の仲だ、隠し立てする必要はないだろう。もしかして、子供ができたといかそういう類の悩みか? いや、まあ最近は学生結婚だって珍しくはないからな。結婚式だって、内輪で挙げてしまえば良い。勿論、その時には私も是非招いてほしいものだが……どうした折原君、頭を思いきり抱え込んで」

 恐るべき論理の飛躍だった。もしかして、この学校に無分別に広まっている噂というのは、彼女の頭の中で今のように根拠のない推測によって組み立てられたものではないだろうか? そんなことが容易に想像できて、思わず頭が痛くなってきた。

「違うんですよ、そういう悩みじゃなくて……その、そう言った類の悩みじゃないんです」

 頭部の鈍痛を堪えながら、俺は気力を振り絞ってそう反論する。

「そうか……じゃあ、どんな悩みなんだ? お姉さんにとっくりと話して良いんだぞ」

 お姉さんなんて年頃じゃなかろうに……心の中で毒づきながらも決して言葉には出さない。

 世の中には、口に出せば破滅に追いやられてしまう言葉というものが存在するのだ。

 だが、話を切り出すには絶妙なタイミングと言えた。

「ちょっと橘さんのことで訊きたいことがあるんです」

「何だ? 年齢とスリーサイズは秘密だぞ」

 相も変わらずの態度だが、俺は敢えてそれを無視して言葉を繋いだ。

「その、西崎さんって人のことについてなんですけど……」

 その名前を口にした途端、空気が豹変した。まるでロシアン・ルーレットで拳銃をこめかみに当てているような……鋭く怒気を孕んだ緊張感が辺りを覆い尽くす。

 しかし、そんな空気も一瞬のことだった、怒気は鮮やかに晴れた青空に拡散し、替わりに冷笑にも似た言葉が発せられた。

「成程、自分で訊くのが恐いから他人を使って聞き出そうって魂胆か……」

「いや、それは……」

 違うと答えようとしたが、彼女の独断的な科白は、俺の弁護を完全に封殺するに等しい威圧感を以って続けられる。

「で、あいつは何って言ってたんだ。どうせ、今私があのことをどう思ってるのかってことなんだろ? だったら、あいつにこう言っておいてくれ。大事なことを他人任せにするような奴に答えることは何もないってな。それを、よく伝えておいてくれ」

 最後に念を押すと、橘さんは憤りを隠すこともせずに昼食のトレイを持って立ち上がる。

「あ、どうしたんですか?」

「気分が変わった。今日は研究室で食べることにするよ」

 そう言い残すと、制止の言葉を発する間もなく彼女は足早に立ち去ってしまった。

 一人残された俺は、気まずさを全身で受けてしまい動くことすらできなかった。

 一つだけ分かるのは、橘女史の逆鱗に触れてしまったということだ。はっきり言って、最悪の結果だった。

「まずったなあ」俺は思わず呟いた。

「第一、あのことって何だよ。俺には全然説明がないじゃないか」

改めて考えると、情報が足りなさ過ぎることがすぐに分かってくる。これでは、新たな手を取ったにしても結果が同じことは目に見えていた。

 仕方なく、俺は細々しく昼食を咀嚼しながらこの次の行動について考え始める。

 が、ロクなアイデアが湧いてくる筈もなく、今日は諦めるしかなさそうだという結論だけが、唯一の確信という体たらくだった。

―2―

 門を出て、いつもの歩道をある程度進むと、小さな横断歩道がある。車や自転車が来ていないかどうかを耳と気配で確認し、素早く渡る。それから左へ九十度転進し、しばらく進むと信号付きのもう少し大きい交差点が迫ってくる。右へ曲がると住宅街や公園の割と閑静な場所に出る。

 一方、真っ直ぐ行くと商店街などの混雑した空間へと続いている。

 右側のルートは、人通りも少なく安全と言うことで何度も歩いてきた道だ。

 真っ直ぐ進むルートは、昨日初めて向かった場所だった。

 人が多いとトラブルの起きる可能性も高くなるし、より強く集中しないといけない。それに日本は道が狭いので、慣れない手付きでおいそれと歩くのは無理なのだ。これは全部私じゃなくて講義で聞いた内容とか地図の受け売りなんだけど。

「じゃあ、最初に言った通りに今日も商店街の方を通りますから」

 西崎さんの声に、私は小さく頷く。それから、歩行者の信号通過を示す音楽に耳を欹てる。とおりゃんせから葬送行進曲に曲が変わると、渡って良いということになる。私はいつも通り……と言っても、右に曲がる時は待たなくていいんだけど、曲が変わるのを静かに待っていた。すると突然、横から西崎さんの怒声が飛んだ。

「こら、お前たち何をやってるんだ!」

 その様子に、私が何か悪いことをしたのかなって思った。けど、すぐにそうじゃないって分かった。私に呼びかけるなら、お前らなんて言い方はしないからだ。その直後に、

「ちっ、逃げるぞ」

 という言葉と複数の足音が遠ざかって行った。

「ったく、最近の若い奴らは何考えてんだ……」

 西崎さんは口々に不平を漏らしながら、大きく溜息をついた。

「あの、どうしたんですか?」

 不安になって何事かと尋ねると、彼は苦々しい口調を保ったまま答えた。

「あいつら、ユーキに煙草の火を押し付けようとしてたんだよ。盲導犬って、命令がないと動かないってことはよく知られてるだろ? だから、それが本当かって試そうとしてたんだ。全く……何てことをするんだろうな」

「……ひどい、そんなことをする人がいたの?」

 私は心からの感情を込めて、そう発するのが精一杯だった。無抵抗な生き物にそんな残酷なこと……なんで、そんなことができるんだろう。

「ああ、本当にひどい話だと思う。残念なことだけど、あんなことをする奴って、結構いるからね……やりきれないよ。煙草を押し付けたり、足を踏んづけたり……。自分がやられたら痛いって分かってるのに、人間じゃなければ平気で傷付けたりできる。

 盲導犬じゃないけど、ストレス発散だからって簡単に殺してしまうんだから……。最近でもあったろう? むしゃくしゃしてたからって警察官が近所のペットを殺して回ってたっていう嫌な事件が。ああいうのを聞くと、人間って何て卑小なんだって思ってしまうよ」

 その事件なら、私もニュースで少しだけ聞いた。嫌な話だと、お母さんやお父さんと話したことを覚えている。私は人間が卑小だと思ったことはない。良い人だって沢山いることを、知っているから。けど、悪意を持った人間もいるってことだって、同じくらい知っている。

 そして、それを思い知らされることは、とても悲しいことだ。

 結局、今日の野外訓練は大事を取って中止ということになった。思ったよりも早く帰ってきた西崎さんと私を見て、所長の田中さんは何事があったのかと驚いて駆け寄って来る。

 西崎さんの報告を聞いて、田中さんは気の毒な程の大きな溜息を付いた。

 それから、これだけをぽつりと呟くと所長室へと閉じこもってしまった。

 その言葉は、私の心にもずっしりと届く悲しく苦しげな声だった。

「私は……そういう不幸をなくすために頑張っているのに……」

 私もそのことが少なからずショックで、後の講義や地図読みの実技に身が入らなかった。

 今回は西崎さんが付き添ってくれたから良かったけど、一人の時にユーキが襲われたら、私は助けてあげることができないのだ。私からの命令がなければ、決して動こうとはしないのだから。

 訓練所での一日が終わるまで、私はずっとそのことを考えていた。ユーキが私を守ってくれるように、私はユーキのことを守れるのかって。

[PREV PAGE] [SS INDEX] [NEXT PAGE]