針鼠は知らずに棘で互いを傷付けあう。

 人間は知っていて故意にナイフで相手を傷付ける。

 でも、殆どの人は前者の方が愚かだと決め付ける。

 傷付ける必要もないのに傷付ける方が余程愚かなのに。

―一―

 困惑の思いを隠せぬまま、俺はみさきの待つであろう訓練所に足を運んだ。別に電話連絡でも構わないのだが、この状況では直接会ってもう少し混み入った事情を聞くのが得策だと思ったのだ……というか、これでは納得がいかない。

 まるで、俺だけが一方的に悪いみたいで。そこでみさきの母親に電話して、少し事情があるので今日は俺が迎えに行きますと事前に連絡しておいたのだ。

 そんな回想的なことを考えながら、ロビーに足を運ぶ。 そこには訓練を終えて待機しているみさきの姿が見られる筈だった。しかし、今日に限ってはロビィは裳抜けの殻だ。何かあったのかなと思いつつ、俺はソファに腰かけた。下手に動いてニアミスというのは避けたいし、落ち着いてものを考える時間が欲しいとも思ったからだ。

 しかし、後者の願いはその後すぐにやってきたみさきと西崎さんの姿によって掻き消された。

「あ、折原さん。今日は貴方が来たんですか?」

 彼も迎えのローテーションは大体把握しているので、ここに俺がいることに少し驚いたようだった。

「えっ、浩平がいるの?」

 対称的に、みさきは明るそうな声をあげて俺の存在を確認しようとしている。

「ああ、少し用事があったからな。それと、例の返事も貰ってきたし」

 例の返事……という言葉に、西崎さんの方が大きく反応する。が、すぐに冷静な様子を取り戻す。

 というより、無理にそんな状況を保っているように見えた。そう言えば、出てきた時に二人とも少し悲哀を込めた表情をしていたような気がした。

「それは良いんですけど……」俺はそのことが気になって、ふと尋ねてみた。

「ところで何かあったんですか? 二人とも暗そうな顔をしてるけど……」

 そう問いかけると、明るさを取り戻していた筈のみさきの顔にも目に見てすぐ分かるほどの翳りがさした。西崎さんの表情も、同様に強張ったものとなっている。

「ああ、実はね……」西崎さんは少しの沈黙の後、今日の野外訓練で起きたことについて語った。「……とまあ、こういうことがあったんだよ」

 事の顛末を聞いて、まず飛び出してきたのは驚きだった。しかし、それは徐々に侮蔑と怒りの感情へと転嫁していく。それが頂点に達した時、俺は感情を含めて大声をあげていた。

「何ですか、それって……どんな無責任な分別を持っていたらそんなことができるんですか!」

「全くだよ。お蔭で今日の野外訓練は中止。川名さんも所長も酷くショックを受けてね」

 そう言われて、俺はみさきの方を見た。俯き加減な様子で、しかしみさきは気丈に答える。

「私は大丈夫だよ。怪我もなかったし、そんなに気にしてないから……」

 嘘だ、と思った。相手の感情をより敏感に感じるみさきのことだ。そういう悪意についても、一番強く受け止めているのは間違いない。その体の奥底に相当のショックを留めているということは容易に想像できる。

 それにしても……憤怒の収まらぬ頭で俺は考えを巡らせる。どうして、そんな残酷なことができるのだろうか。大方、動物相手なら罪にはならないだろうとタカを括っての行動だろう。学生と言っていたから、ばれても罪は軽いと浅はかに思っていたのかもしれない。

 だが、人間じゃないからって無闇に傷付けて良い訳じゃ無い。更に、盲導犬は一人の人間の命を預かっているのだ。それによって危険が及ぶということに頭がいかないのだろうか。

 確かに俺だって、高校の時は色々と迷惑をかけるようなことはやってきた。だが、最低限の節度というものは守ってきたつもりだ。しかし、これは余りにも度が過ぎている。

「それで……」頭の中はまだ沸騰気味だったが、それでも訊かずにはいられなかった。「そのことは、もう大丈夫なんですか? 同じことが起きる、なんてことはないですよね」

 そのことが、俺には一番気がかりだった。一度失敗したからといって、易々と引っ込めばよいが、そうでなければ……悪戯が繰り返されることもあり得るのだ。

「そのことについては、僕も所長や他の人と話し合いました。制服を着てましたから、どこの高校の生徒かは分かります。顔はちらと見ただけですから、詳しくは分かりませんが。で、警察には一応連絡しておきました。多分、軽い注意くらいで収まるって警官は言ってましたが、それでもないよりはましですから。

 後は、悪戯をした学生の通っている高校に注意を促す……というか、今後こんなことがないように伝えてもらうことはできます。それでも、完全に可能性がないとは言い切れません。だから、こちらでもできるだけ注意してより良い自衛手段を取る、取るべき手段はこれくらいですね……」

 幾つかの手は打っては見たが、それが明らかに不充分だと感じていることは、西崎さんの口調からも感じ取れた。確かに、他に明確な方法がないのならば仕方ないのだろうが……どうも、釈然としないものを感じる。何しろ、下手すると生命にも関わる問題なのだから。

 ロビィに重い沈黙が訪れる。それは、努力を平然と踏みにじる悪意というものの執拗な重たさのせいだろうか? だとしたら、こんなに嫌なものはないと切に感じる。

 どのくらいの時間が過ぎただろうか。

 ようやく、俺はゆっくりと口を開くことができた。

「そう……ですか、分かりました」

 それしか答えられない自分がもどかしい。けど、どうすることもできないのだ。あえて言えば、これで高校生たちが反省しただろうと楽観的に願うだけだった。

 俺は俄かに絶望的な気持ちを含んだまま、大きく頭を下げた。

「じゃあ、用がないなら帰るけど……みさきはまだ用事があるのか?」

 そう言うと、みさきは首を傾げて疑問をぶつけてくる。

「うん、それなら良いけど……今日は、お母さんが迎えに来る日だったんだよね。なんで、浩平がここに来たの?」

 みさきの指摘に、俺はあっという声を辛うじて飲み込んだ。先程のショックな話のせいで、ここに来た本来の目的を完全に失念していたのだ。全くもってうかつだった。

「忘れてた……実は橘さんから伝言というかそういうものを預かってきたんです。それで、そのことを直接二人に伝えたくて……」

 俺の言葉に、今度は西崎さんが我に帰り、それから興奮した様子でこちらに向かってきた。

「えっ、本当かい? それで、どうだったんだ?」

「それが……」

 その言葉が少し気まずいせいもあって、俺は一旦言葉を切った。それから少し躊躇した後、橘さんが言ったことを一字一句漏らさずに伝えたのだった。

―2―

 浩平の話を聞き終わると、西崎さんは動転を言葉にも隠さずに言葉を紡ぐ。

「ああ……やっぱり、あいつは僕のことをまだ怒ってるんだ」

 その様子にどう声をかけようか迷っていると、先に浩平が喋り始めた。

「そのことなんですが、西崎さんと橘さんの間に昔、何があったんですか? 間抜けな話なんですけど、俺はみさきからも貴方からも全く事情を聞いてないから、どうしたら良いかさっぱり分からなくて」

 そう言えば、私も悩んでいることがあると聞いたくらいで具体的に何があったのかは聞いていなかった。

「えっと、私も聞いてなかったんですけど」

 ゆっくりと尋ねると、西崎さんは軽く溜息を付きながらその話を始めた。

「いや、まあ情けない話だよ。ようは、私の優柔不断が原因だったんです。私と麗、いや橘さんとは大学のサークルで出会ってね。それで、その時同じような夢を持っているってことで意気投合したんだ。それから、僕と橘さんが恋人同士になるまでそう時間はかからなかった。

 彼女は我の強い性格だから喧嘩もしたけど、基本的には仲が良かったと僕は思ってる。向こうがどう思ってたかは分からないけど。けど、大学を卒業した僕たちは違う道を歩むことになった。橘さんは大学院に残って勉強、僕は盲導犬の訓練士になるために施設で勉強しながら働くことになった。県すらも隔てていたから、連絡は専ら電話だった。

 最初は毎日のように電話し合っていたけど、やっぱり遠距離恋愛は実らないって本当なのかもしれない。段々と電話の回数も減ってきて、しかも橘さんは研究が忙しいからって対応も素っ気になってきた。で、遂には忙しいから余り電話してこないでって言われた。

 その時、僕は『ああ、終わったな……』って思った。僕が彼女を好きだった程、向こうは僕のことを好きじゃなかったんだって。そう思い込んでしまった。それで、たまたま通った合コンで出会った女性と付き合うことになったんです。古い恋は捨てて、新しい恋をつかもうって……それが一番良いって。

 でも、全て僕の勘違いだったんだ。橘さんは決して、僕のことを嫌いになった訳じゃなかった。ただ、研究が捗らなくてイライラして……それでついあんなことを言っただけだって。彼女の性格を考えれば、そんなのすぐに分かったことでした。でも、遠くに離れていたから……どうしても最後の一線でそれを信じることができなかった。

 そして……彼女は急に尋ねてきた。そこには僕と新しい恋人がいた。当然、三つ巴の喧嘩が始まった。そして、最後にはどちらを選ぶって問い詰められた。僕はそれに答えられず……そして、二人の女性の心を傷付けてしまったんだ」

 西崎さんの話が終わり、ロビィはまた静寂に包まれる。私はこの話を聞いて、悲しいなって思った。

 多分、誤解の積み重ねだったんだろう。生活環境が違って、距離が離れて、ちょっとずつ互いを信じられなくなって……そんなすれ違いの繰り返し。

 それは、もう少しお互いを思いやることができれば防げたかもしれない悲劇……。

「すいません、湿っぽい話で」

 西崎さんは、苦渋を秘めた口調と共に詫びの言葉を述べる。そして、こう話を繋いだ。

「ずっと思ってきました。僕にあの時、それくらいの強さがあれば……って。折原さんに以前、ああいうことを尋ねたのは僕と境遇が似てると思ったからです。二人とも、しっかりとした夢に向かって歩き続けている……そんな風に見えたから」

「……あの時のことですか?」

「はい」

 浩平の言葉に、西崎さんが肯定の言葉を返す。

 私だけが事情を知らず、少し悲しい気分になった。

「あの、それっていつのことなのかな?」

 私がそっと声をあげると、浩平は私が初めて野外訓練でうまくいった日のことを話してくれた。

 二人の間でそんな会話があったんだ、と同時にあの時の恥ずかしい言葉の意味が分かって、妙に納得できるものを感じた。

「そして、月日は巡り偶然にも僕と橘さんはこの場所で再会しました。けど、橘さんは最初から僕の存在なんか知らなかった……そんな目で僕の元を通り過ぎていきました。それで改めて、彼女の傷の深さを知ったんです。そうです……」

 そこで言葉を切ると、彼は心強さのこもった口調で続けた。

「僕は……最初から分かってたんです。素直に謝らないといけないんだって。それなのに、僕は姑息にも親切を利用して彼女の心を聞き出そうとしてしまった。もしかしたら、もう許してくれてるって……そんな虫の良いことを考えてしまって……。怒るのも当然ですよね。もう、口だって聞いてもらえないかもしれない」

 その言葉を最後に、西崎さんは再び押し黙ってしまう。でも、本当にそうなのだろうか? 

 橘さんは西崎さんのことを本当に嫌いになったのだろうか? 私は違うと思った。根拠はないけど、何となくそう思うのだ。例えば、西崎さんに無視を決め込んだ行為だって、よく考えれば感心の裏返しとも取れる。本当に興味がないなら、普段通りに接すると思う。

 それに……何か分からないけど、浩平の話してくれた科白の何かがひっかかるのだ。私はもう一度、橘さんが浩平に伝えた言葉を思い出した。確か……。

『で、あいつは何って言ってたんだ。どうせ、今私があのことをどう思ってるのかってことなんだろ? だったら、あいつにこう言っておいてくれ。大事なことを他人任せにするような奴に答えることは何もないってな。それを、よく伝えておいてくれ』

 こんなことを、浩平は言ったと思う。私は一行ごとに科白を分解して、考えてみる。すると、とてもおかしいことに気がついた。私はいてもたってもいられずに、思わず口を開いていた。

「それは違うよ」

「違うって?」浩平が私に問い掛ける。

「西崎さんは、橘さんが自分のことを嫌ってるって思ってますよね。でも、それは違うと思います。だって、本当に嫌ってるんならよく伝えておいてなんて言わないから。だから、本当は橘さんも何かを伝えたいんだよ。それで、浩平を通してそんな台詞を届けさせたんだと思う」

「本当ですか?」西崎さんは、強い切実さを以って私に尋ねてくる。「だが……麗は、いや橘さんは僕にどうして欲しいんでしょうか?」

 それについても、私には確信があった。完全ではないけど、多分間違いないと思う。

「それは、西崎さんが直接尋ねてきてっていうことなんじゃないかな? だって、他人任せにして欲しくないって言ってるんだから」

「あ!」と西崎さんが感嘆の声をあげる。

「確かに……そうですよね、最初からそうすれば良かったんだ。彼女に思いのたけをぶつけて、後は詰られても殴られても……それは僕のせいなんですから」

 僅かな静寂が間を置き、そして西崎さんは私にこう言った。

「川名さん、ありがとう。貴方のお蔭で、僕はどうしたら良いか分かった気がします。早速、今度の休日にでも彼女の働いている大学を尋ねてみることにします。研究熱心な女性だったから、きっと休日でも研究室の方にいるでしょうから」

 そして、私の手を強く握り締める。その感触に最初は戸惑ったものの、それが感謝を込めたものだと分かって途端に気恥ずかしい気持ちが湧いてくる。

「じゃあ、僕は仕事に戻ります。本当にありがとうございました」

 西崎さんは最後にそう言うと、ロビィを後にしたようだった。二人きりになると、浩平は弾んだ口調で私に話しかけてくる。

「どうなるんだろうな? 西崎さんと橘さん」

「きっと大丈夫だよ。多分、二人ともその時のこと、謝りたいって考えてる。あとは、どれだけ素直になれるかってことだと思うよ」

「……そうかなあ?」

 浩平は、なおも半信半疑な様子で呟く。

「うん、そうだよ。みんな、傷付け合いながら歩いて行くのは嫌だから」

 私は半ば確信をもってそう答えた。

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