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でも、人は簡単に狂ってしまえるものではなくて。だから、思い悩んで苦しんで必死に答えを出そうとする。
それが正しいかなんて分からないけど、今より少しでも幸せであるように。欲を言えば、いつも笑っていられる私たちでいられたら良いなと思う。
―一―
医師に案内されて辿り着いた西崎さんの病室は、みさきのいた病室よりもものものしい機械で溢れていた。心拍計、オシロスコープ、酸素吸入器、点滴用のキャスタ等、知っているだけの器具を見てもここに通される人間が緊急事態であることは十分に分かる。
ベッドの側には、彼の上司であるである田中さんと橘さんが付き添っていた。二人とも心配そうな顔で西崎さんをみやっているが、その様子には幾分、安心の気分が見て取れた。
当の西崎さんは上頭部全体に巻かれた包帯が痛々しく、その傷痕の深さを主張していた。僅かに滲んだ血が、挫傷だけでは収まらない一撃の強さも示している。余程、容赦なく殴り付けたのだろう。そのせいか、西崎さんの顔色はまだ相当悪い。ゾンビよりは幾分マシ、と言った程度だ。
リノリウムを叩く足音に気づいたのだろう、皆が一斉に俺や刑事たちの方を振り向いた。
「折原君か……君も来てたのか? ということは、川名君のお見舞いか?」
橘さんは、俺のことを気の毒そうな顔で見つめた。ということは、みさきの例の症状のことも知ってるのだろう。
「はい……けど……」
「成程、君もあの症状を見たというわけか。多分、強烈な体験とストレスによる接触障害だと思うのだが、それにしてもあそこまでひどいのも珍しいよ。まあ、ショックから立ち直ってないということもあるのだろうが……正直いたたまれなかった」
接触障害……それは正に今のみさきに相応しい言葉だった。文字通り、触るだけで泣き喚き、ありもしない恐怖に脅えてしまったのだ。あの叫び声は、今も胸の心の奥にこびりついている。どす黒い炎と一緒に……。
「そうか……君でも、駄目だったか……」
「はい……」
うなだれるように首を縦に振る。やるせない雰囲気が病室を刹那的に包んだが、次には刑事たちの遠慮のない言葉が飛びかっていた。
「あの、すいません。私はこういうものですが……」不精髭の刑事は、警察手帳を開いて身分証明のようなものを見せた。「今回、西崎さんのあった事件について話を聞きたいのですが、宜しいですか?」
目の前に刑事がいる……そのことに記憶の混乱を起こしたのか、西崎さんの目は虚空へと舞った。しかし、すぐにことを悟ったのか、弱々しいながらも光を取り戻して質問に答えた。
「えっと……僕は誰かに殴られて……そうだ、川名さんは大丈夫ですか? それにユーキも。彼女たちは今どこに……」
そこまで一気に捲し上げたところで、西崎さんは辛そうに頭を抑えた。まだ、体調が万全とはお世辞にも言えないようだ。先程までこちらを向いていた橘さんと田中さんはすぐ彼の方に駆け寄る。それをいなしたのは、やはり髭の刑事だった。
「まあ、落ち着いて下さい。川名さんの方は、全身に擦り傷や痣がありますが命に別状はありません。ただ……」
そう言って、俺に話したことを西崎さんにもほぼ寸分違わず話してみせた。橘さんや田中さんは、この話を聞くのは初めてではないのだろうが、それでも顔一杯に苦渋の皺を刻ませていた。そしてきっと、俺の顔にもそれは刻まれているのだろう。
西崎さんは、その中でも表面上は一番激しい怒りをみせ、再び勢いをつけて話し始めた。
「何てやつだ。盲導犬を弱者の目印にして、襲おうとするなんて。到底、まともな人間のできることじゃない」
俺もその意見には同感だ。犯人たちは、いわば人の顔を被った悪魔だ。自分より弱い立場にいると分かっていながら平気で人権を踏みにじり、天に唾してみせる。そんなことができるのは人間じゃない。だから、俺も平気で悪魔になれる。今、俺が思っていることを他の人が知ったらきっと仰天して止めにかかるだろう。だから、絶対に話さない。
「で、ユーキの方はどうなんですか? あの仔は無事だったんですか?」
次に、西崎さんはみさきのパートナの盲導犬について大声で尋ねた。頭が痛むのか、しきりに後頭部を押さえているのがやはり目を引く。
「ユーキ……確か、盲導犬の名前でしたね。外傷から言えば、あの犬が一番酷いかもしれません。先程、獣医から聞いた話では肋骨が何本も折れて、肺に突き刺さっていたそうですから。今も手術中で、経過は予断を許さない状況だと……」
「ユーキもですか! 畜生畜生……あの時、僕がもっと注意を払っていれば、痛っ」
興奮し過ぎたのか、西崎さんは頭を押さえてベッドに倒れ込んでしまった。
「まあ、手術は成功するだろうというのが獣医の言葉でしたから。それより、あと一つだけ聞いて良いですか? 西崎さんは、犯人を見ましたか?」
気遣う表情を見せながら、それでも髭の刑事は最後の質問を忘れていなかった。
「犯人ですか……僕は、いきなり背後から殴られましたから。けど……制服が少しだけ見えました。あれは、公園から少し離れたところにある高校の制服でした」
息絶え絶えに答える西崎さん。そのようになっても尚、目に宿るギラギラとした光は失われていない。
「そうですか……どうも、目覚めたばかりで辛いところを色々と説明してもらってすいません。では、私たちはこのことを本部にも伝えなければならないので、これで。ほら、行くぞ」
髭の刑事は、もう一人の刑事を伴って病室を後にした。
「じゃあ、あとは医師と橘さんに任せて私たちも出ましょう。西崎くんもまだ体調が万全だとは言えないし、込み入った話もありますし……」
今まで殆ど喋らなかった田中さんが、呟くようにそう言った。
「分かりました……それじゃあ西崎さん、お大事に。橘さん、しっかり看病してやって下さいね。そうしたら、傷の治りも早い筈ですから」
「……聞き捨てならない言い方だが、分かった。まあ、他の奴らにこの役を譲る気もないが」
言ってみて、恥ずかしい言葉だと気づいたのか僅かに顔を赤らめる橘さん。その姿を見て、俺は少しだけ羨ましく思った。
本当に、頼みますよ。俺は、どんなに頑張ってもみさきの力になれないんだから、せめて橘さんは西崎さんの力になってやって下さい。俺は、心の中でそう呟くと田中氏と共に病室を出た。
薄暗いランプしか灯らない廊下で、俺と田中氏はずっと黙ったままでいた。
お互い、何を話して良いか分からないのだ。
しかし、微かに年の功が上回っていたのだろう……先に声をかけたのは田中さんだった。
「折原くん、少しは落ち着いたかい?」
「いえ、田中さん程には……」
俺は、冷静に物事を対処している彼を見て思わずそう言った。しかし、その考えが過ちであったことをすぐ思い知ることになる。
突如、鈍い音が廊下中に響き渡った。余りの唐突さに、俺は一瞬、田中さんがコンクリートに拳を叩き付けているのに、それを信じられなかったくらいなのだから。
「落ち着いてなんかいないよ。今までは部下の前だったから抑えて来たが、本当は腸が煮えくりかえってしょうがないんだ」
そして、何度も拳をコンクリートに叩きつける。その様子には鬼気迫るものがあった。拳が血で滲んでいくのさえ、止めることができない。いや、あえて止めようとしなかった。このやり場の怒りを瞬間的に留めてとして、そのことに意味などない。
だから、俺はずっとその姿を見ていた。その拳の一撃一撃が、俺の顔を殴っている……そんな錯覚すら覚えた。
ようやく音が収まった時、田中さんの右手からは血がとめどなく滴り落ちていた。ライム・グリーン色の床は、赤茶けた色に浸食され、その輝きをみるみるの内に衰えさせていった。それはきっと、怒りと憎しみに歪んだ心そのものだったのだ。それ以外の何に、こんな色が出せるだろう。
「済まない……子供ほどの年のある君に見苦しいところを見せてしまったね」
我に帰った田中さんが最初に言ったのは、俺への謝罪だった。それが逆に、哀れで心苦しい。下げた頭を毅然とあげようと試みたが、どうみてもそれは失敗だった。白髪が混じった頭髪も、その傾向を助長していた。
「だがね、これだけは許せないよ。私はずっと――前にも話したと思うが――人間と他の動物が好ましい形で共存できれば良いと思ってたんだ……思ってたんだよ。だが、現実はどうだ? 私がやったことは、単に犯罪者に道標を作ってやっただけだ。そう思うと、どうしようもなくやるせないんだ。私の今までやってきたことは全て、無駄だったんじゃないかって。私は無邪気な子供のように、決して叶わない夢を追いかけてるんじゃないかって……本当に……悔しい」
切々と語る彼の目からは、ほんの僅かだが涙が零れていた。
皆が不幸になっていく。一生懸命、一段一段積み木を積み上げていってようやく形になって来たもの――信頼感、期待感、向上心――それをたった一つの悪意が蹂躙してしまう。心を壊し、バラバラにしてしまう。
頑張っても、それを平気で壊す奴らがいる。
上等だ……だったら、俺もそいつらの積み上げたものを壊してやる、蹂躙してやる、バラバラにしてやる。
確か訓練施設の近くにある高校だったな……西崎さんの言葉を思い返すと、俺は黒い決意を固めた。
「その気持ち、俺には分かったなんて烏滸がましいことは言えないけど……」
俺は田中さんの言葉に、ゆっくりと自分なりの解答を返した。
「これだけは言えますよ。みさきを傷付けた奴らは絶対に許せない」
けど、この言葉と秘めた思いの意味に気付いているものはまだいない。
まだ、いないのだ……。
―2―
暗闇が恐い。目が見えてた時だって、こんなに暗闇が恐いなんて思ったことはない。
今ほど、目が見えたらって祈ったことはない。浩平や、お母さんやお父さんや……大切な人の顔を一目でも見られたら、きっとこの不安は吹き飛んでしまうに違いない。けど、絶対にそれは出来ない。
微かな物音、声、匂い……全てが私を不安にさせる。
この世界の全てが、私に仇なそうとしている。
本当はそうじゃない……そうじゃないんだ。
それは分かってる、十分過ぎるほど分かってる。
けど、もし今目の前に私に危害を与えようとしている人がいたら?
或いは、迫って来ていたとしたら?
物音が恐い。
楽しそうな人々の談話すら恐い。
胸を躍らせる食事の匂いも恐い。
布団を被り、僅かに痛む左腕の点滴跡を押さえながら私は強く蹲っていた。鎮静剤を投与されて得た高圧的な眠りは、私の頭を冴えさせるどころか逆に泥沼のように重くしていた。
「お母さん?」私は今も付き添っているであろう、お母さんに声をかけた。「お母さん? お母さんどこ? ねえ、どこなの?」
声が返ってこない……それだけで不安が極大まで増加する。
「あ、みさき……起きたの?」
「おお、やっと起きたか……」
お母さんの言葉に重ねるようにして、お父さんの声も聞こえた。
来てくれたんだ……その声と存在に、僅かだけど安心することができる。
「大丈夫か、みさき……っと、触ってはいけないんだったな」
お父さんの心底残念そうな声が聞こえる。ごめんね、私も繋いだ手の感触を確かめたいけど、やっぱり駄目。想像しただけで身体が震えて、頭が変になっちゃいそうだった。
「うん。ごめんね……みんなに迷惑かけちゃって」
「馬鹿、お前がそんなことを言うな」
お父さんは、私を叱責の口調でもって制した。思わず過敏に反応したのだろうか、お父さんは「すまん、いきなり怒鳴ったりして……」と言葉を付け加えた。
「だが、本当に悪いのはお前じゃない。お前は悪くない、だから迷惑をかけたとか言わないでくれ」
「そうよ。ずっと前にも言ったでしょう。みさきのことを、迷惑だと思ったことは一度もないんだから」
僅かな涙口調で、そう言ってくれるお母さん。
「嬉しい……本当に嬉しいな。私は、いつもお母さんとお父さんの愛情に包まれてきたんだよね」
「みさき……」お父さんは、そう呟くのが精一杯のようだった。
「それだけじゃないよ。本当に優しい、浩平や雪ちゃんや……色んな人の優しさを貰って、ちょっとずつ強くなったのかもしれない。外の世界にも、向かう勇気が出来たのに……。全部、駄目になっちゃった。今は、ここから外に出ることも恐くて恐くて堪らないの」
私は……心配させちゃいけないって分かってるけど、どうしても弱音を吐き出してしまいたかった。一人で閉じ込めてると、それだけで涙が出そうになるから。
「一生懸命、積み上げたものが一気に崩れちゃった……」
そう、本当に……壊れる時って本当に一瞬だったんだ。
「みんなに貰った勇気が、分からなくなっちゃった。襲われたって事実よりも、そのことの方が辛いんだ。それは本当に悲しい……悲しい……」
駄目……やっぱり、涙が出てしまった。目頭を熱い液体が覆うのがよく分かる。
「どうしてだろうね。どうして、私は強く生きることを許されないんだろう。私は、強く生きたらいけないのかな。光の届かない場所で、縮こまって生きていかないと駄目なのかな?」
「そんなこと……ある訳ないだろう」
お父さんは、絞り出すようにそう言葉を紡いだ。
「お前は、光の中を堂々と歩いて良い子だ。胸をはって、笑顔で、誰はばかることなく歩いて良いんだ」
そして、しばらくの間があった後、再び強い口調で言葉を続ける。
「くそっ、何で手を繋いで、肩を支えて励ましてやれないんだ」
どうやら、お父さんは私に触れようとして躊躇ったみたいだった。
「肝心な時にそれが出来なくて、何が父親だ……」
「違うよ。お父さんもお母さんも、今ここで私を精一杯励ましてくれてる。それだけで、本当に嬉しいんだよ。大事な人が側にいる……今の私には、それだけで十分過ぎるくらい」
でも、後に返ってきたのは沈黙だけ。逆にそれが耐えられなくて、私はできるだけ明るくこう言ってみせた。
「大事な人って言えば、浩平が側にいてくれるともっと嬉しいんだけど。そう言えば、浩平はどうしたの? 昨日は……あんな取り乱し方しちゃって、驚かせたよね」
「彼なら……」お母さんは、少し不安げに話し始めた。「鎮静剤で眠っている間に、もう一度ここに来たわよ。それで、事件のことをもっと詳しく教えてくれって。意外と落ち着いているようだったけど、何か妙な感じがしたわね。いつもと雰囲気が違う……うまく言えないけど……」
雰囲気が……違う?
「で、話を終わると最後に頭を大きく下げたの。『これからも……みさきのことを宜しくお願いします』って、やけに大袈裟な挨拶だったけど……」
これからも……宜しく?
それじゃまるで……まるで、もう二度と戻って来れないような言い方じゃない。
いや、考え過ぎなのかな……でも、凄く不安。お母さんの話を聞いて、言いようのない強い不安感――どちらかと言えば予感に近い――が私の心を支配して離れない。
考え過ぎだろうか? いや、そうであって欲しい。
二度と浩平に会えないなんて、絶対に嫌。
だから、この感覚は事件に脅える私の心の中から生まれたものなんだ……うん、きっとそうだ。
私は、何度も何度も自分の心に言い聞かせた。