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何かができるのではないかという、希望。
実際には何も出来ない、絶望。
絶望から生まれる、狂気。
「おい、荷物は運び終わったか?」
「あ、いえ、もう少しで終わります」
二十キロ近い重さの段ボール箱を抱えながら、俺はやっとのことでそう答えた。
「そっちの搬入が終わったら、向こうのカバーに回ってくれ、頼むぞ」
主任の全くもって人遣いの荒い一言に、内心溜息をつく。確かに最近は色々な用事があってバイトを休みがちだったが、埋め合わせでここまでこき使われるとは思っていなかった。鬼という言葉が、浮かび上がって消える。
手っ取り早く稼げる……という理由で、運送会社の荷物運びなんか選んだのがそもそもの間違いだったかもしれない。有名な引越し会社だから、年度末以外はそこまで忙しくないとタカをくくっていたが、元の人員が少ないので結局、仕事は忙しかった。
大体、最初からここに通うのは誕生日のプレゼントを買うための資金のためであって、そこで辞めてしまっても良かったのだ。が、ここのバイトの主任に泣きつかれて――実際は泣き真似だったのだが――重労働に勤しんでいるという訳だ。
今は、別の目的があるのでやめようとは思っていない。みさきの訓練が終わって落ち着いたら、夏休みくらいにでも遠い場所に二人で旅行でも行こうかという目論見があったりする。勿論、まだみさきにも内緒なのだが……。みさきが外の世界を見るようになったといっても、未だに県外すら行ったことがない。俺としては、もう少し広い世界を感じて欲しかった。
例えば、雪。ここは真冬でも雨が降るような温暖地域だから、溢れるような雪の冷たさや柔らかさ、面白さを体感出来たらきっと喜ぶに違いない。もっとも、日本には万年雪が残る場所はないので、これは後の機会になるだろう。
或いは、人通りの少ない海岸でも見つけてそこで遊んでも良い。夏の激しい日差しに対比する冷たく清冽な海の香り。水内際を裸足で駆け巡り、海の水をかけあって遊ぶ。欲を言えば、みさきの水着姿が見られれば最高なのだが。
俺の頭に様々な旅行のビジョンが浮かぶ。それは、どれも楽しくて笑顔に満ちていて……。
「こら折原ぁ、何ボーっとしてる!!」
突然、主任の雷と共に鋭い拳が振り下ろされ、空想は雲散霧消する。
「あ、すいません……」
両手が段ボールで塞がっているため、頭をさすることも出来ずに間抜けな格好のまま、しばらく声なき悶絶を披露してしまった。
「ったく……働く時は働くけど、ボーっとしてるのが多いのはお前の悪い癖だぞ。もうちょっとしゃきっとしろ、しゃきっと」
確かに、つまらない想像をして肝心なことを放り出すことはたまにあることなので、俺としては反論のはの字も返すことができなかった。
荷物を持つ手に改めて力を込めると、一つずつ倉庫に運び込む。今、俺が手に持っているのはたまに深夜番組で宣伝している腹筋強化器具だった。本当に買う奴もいるんだなあと感心し、これは本当に効くのだろうかとやっぱりつまらないことを考えてしまった。
ようやくノルマをこなし、反対側で作業している同僚の手伝いに向かおうとした頃、再び主任が、今度はかなり渋い顔で近付いてきた。
「こっちは作業終わって今から手伝おうと思ってたところで、サボってる訳じゃありません」
「はあ……別にそんなことを言いに来た訳じゃないぞ」
主任は呆れを含んだ表情を俺に向けた。が、それも一瞬のことで再び渋い顔を向ける。
「いや、お前の叔母っていう人から電話があったんだ。ひどく慌てていてな、お前に変わって欲しいとしきりに繰り返すもんだから……」
叔母というと由起子さんか……基本的に互いの生活に不干渉の筈なのに、珍しいこともあるものだ。慌てているという言葉に少し引っ掛かるものを感じながらさして気にもせず、俺は事務室に入ると保留になっていた電話を通話状態に戻した。
「はい、変わったけど」
――浩平か? 私だけど、さっき川名さんの母親から電話があったんだ。丁度、汗を流しに家に戻ったら留守電が入ってた。それでな、川名さんが訓練の最中に暴漢に襲われて、病院に運び込まれたって。
暴漢に襲われた? 病院に運び込まれた? いきなりの衝撃的な言葉に、俺の頭は起きだちのように混沌としてしまい、どの句を継いで良いか分からなくなった。
「襲われたって……みさきに何があったんだ? 体の方は大丈夫なのか? まさか、ひどい怪我を負わされたとか」
――落ち着け浩平……いきなりそんなにまくし立てられても答えようがない。
「落ち着けったって……これが落ち着いてられるかよ。由起子さん、みさきの調子は? みさきは大丈夫なのか?」
――それが、私にもよく分からないんだ。川名さんの母親もひどく動転していたようで、病院に運び込まれたのとその病院の名前しか留守電で言ってなかったんだ。
「じゃあ、病院の名前は? 早く教えてくれ!!」
――分かった。病院の名前は……。
由起子さんから病院の名前を教えて貰うと、俺は荷物を抱えて主任の元へと全速力で戻った。
「どうしたんだ? そんなに息を切らせて……何か悪いことでもあったのか?」
「ええ。よく分からないけど、俺の恋人が暴漢に襲われて大怪我したって……」
息も絶え絶えに説明する俺に、目玉をひん剥いたような狼狽の顔を見せる主任。二、三回口をパクパクさせていたが、次には精悍な顔立ちを取り戻していた。
「そうか、それならすぐ駆け付けてやれ。それで病院の場所は分かるのか? 分からんならタクシーを呼ぶのが一番早い」
「あ……」肝心の病院の場所さえ知らずに飛び出そうとしていた俺を、主任の一言は僅かだけ冷静な自分に立ち戻らせてくれた。「そうですね、じゃあタクシーを」
俺は事務室に戻ってタクシーを呼ぶと、近くのパイプ椅子に腰をおろした。早く早く早く早く……、同じ言葉を何百回と繰り返しただろうか、ようやくタクシー独特の排気音が近付いてきた。
タクシーの運転手に病院の名前を告げて「急いで下さい」と付け加えると、タクシーは正に弾丸の如く走行を始めた。行き先が病院であるから、運転手も察しているのだろう。そこでも、俺が心の中で呟いたのは早くの一語だった。
「お釣りはいいですから」
財布から五千円を渡すと、俺はすぐに病院へと駆け込んだ。そして、視界に入ってきた看護婦に詰め寄り、辺り構わずまくし立てた。
「みさきは? みさきはどこにいるんだ!!」
俺の言葉に、看護婦は明らかに困惑していた。
「少し前に、ここに運ばれてきた女性がいるだろう? みさきはどこだ? 頼むから、頼むから教えてくれよ」
自分ながら支離滅裂な言い方だと思う。けど、これ以上うまく話せなかった。看護婦はようやく合点がいったのか、俺を宥めるように居場所を教えてくれた。
「その人なら、西棟の五一〇号室に……あっ、でも今は刑事さんが事情聴取に訪れてますけど」
事情聴取……その言葉に、今更ながら事件という名の影を強く感じる。しかし、事情聴取が出来るということは少なくとも命に別状がある怪我を負っている訳じゃない。
僅かに安堵の気持ちが浮かぶものの、まだ不安は消えない。根拠はないが、いいようのない不安が心を捉えて離さなかった。
「それでもいいですから、早く案内して下さい。それとも、警察は良くて恋人の俺じゃ駄目なんですか?」
「あ、いえ、そんなことは……はい、今から案内しますから」
看護婦は一呼吸置くと、近くにあるエレベータへと足を向けた。俺も急いで付いていく。エレベータが上昇を始めたところで、質問を再開する。
「それで、みさきの様子はどうなんですか? ひどい怪我とかしてませんか?」
「ええ、それは大丈夫みたいです。外傷は襲われて抵抗した時についた擦り傷くらいですから。けど……」
エレベータが五階に到着する。俺は看護婦の言葉を聞かずに飛び出すと、五〇一、五〇二と続く番号を素早く確認していった。五〇三、五〇五、五〇六……と少し先で遠慮がちに部屋を見つめている人を確認する。それが俺の見知った顔だったので、そこがみさきの入院して
いる病室だと瞬時に判断できた。
その足音を向こうも聞きつけたのだろう……その人物、みさきの母親が声をかけてきた。
「良かった、連絡がついたんですね」
「ええ。それより、みさきは大丈夫なんですか? みさきは……」
「はい……今、警察の方が事情聴取を……」
それだけ聞ければ十分だった。みさきはこの部屋にいる……俺はドアを乱暴に開けると、五一〇の病室に入った。中には白衣を着た男性と先程の看護婦と同じレモン色の制服を着た看護婦、それにサラリーマン風の男性が二人――きっと警察の人間だろう――がいた。
みさきは刑事の方を向いて辛そうな顔をしている。
シアン色の入院服から覗く、全身に巻かれた包帯が痛々しい。一刻も早く励ましてやりたい、その思いが抑えられず、俺はみさきの横たわるベッドに近付いた。
「誰だね、君は?」
刑事の一人が訝しげな視線を向ける。しかし、そんなことに怯む俺じゃない。
「みさき、大丈夫か?」
「……浩平?」
みさきのか細い声が、小さく震える唇から漏れる。
「本当に浩平なの?」
「ああ。それで身体の方は……」
俺はみさきを安心させようと、包帯を巻かれた右手を強く握り締めた。
「あっ、こら、よしなさい!」
医師が咄嗟に俺の行動を察する。しかし、その時にはもう全てが遅かった。強く握られた手から伝わる尋常ではない痙攣と共に、手が思いきり振り払われた。
みさきの身体の震えはそれでも一向に収まらなかった。布団を強く握り締めると、誰も危害を加えようとしていないのに、明らかな脅えの表情と金切り声をあげ始めた。
「いやああっ、来ないでっ、触らないでっ、ねえっ、誰か助けてよっ、誰か!!」
掴んだ布団を引き剥がして床に放り投げるみさき。その痛ましい光景に、俺はようやくみさきの受けた心の傷の深さを知った。深い、全てを拒絶するよ悲しみ……。
どんな仕打ちを受ければ、人はこうも激しい心の傷を受けてしまうのだろうか。そのことを想像するだけで、真冬の吹雪を浴びたようにぞっとしてしまう。
「来ないでよっ、みんな大嫌いっ、大嫌いっ!!」
針鼠のように、全身を猜疑心と恐怖の針で覆っているかのような行動。枕、花瓶の花、手に掴んだものをやたらめったらと投げつけてくる。
「鎮痛剤の用意をしてくれ、それと君、早く外に出て行ってくれ。そこにいる警察の方もだ」
医師がそう怒鳴りつけていると、そこに俺を案内してくれた看護婦がおずおずと入ってきた。俺の行動を諌められなかったことを悔いているのだろう。
「おお、丁度良い。君もこの娘を抑えつけるのを手伝ってくれ。さあ、そんなところに突っ立ってないで早く出て行くんだ」
俺は、ここでは完全に無力だった。目の前の愛する人を助けるどころか傷付けることしか出来ず、今もこうして手をこまねいて見ていることしかできない。
それがこんなに辛いなんて……。
追い立てられるようにして部屋から出た俺と二人の刑事。扉に閉ざされ、今もなお絶叫の響く空間をじっと凝視しているのに対し、刑事たちはただ軽く溜息を付くだけだった。
「あーあ、事情聴取も順調だったのに……これじゃ、今日中に話を聞くのは無理だな」
その内の一人、不精髭を生やした四十くらいの男が大声で愚痴を漏らした。懐に収められている煙草に手を伸ばすが、すんでのところで手を引っ込める。
「おっと、病院内は禁煙だったよな……」
「どうします? 今はもう、ここにいても無意味ですよ」
手持ち無沙汰に辺りを見回すその刑事に、もう一人の――こちらは身なりもきちんとしていて年齢も若そうに見えた――刑事がそう声をかける。
「そうだな……いや、もう一人の方が目を覚ますかもしれん。あと少しだけ、ここにいよう。煙草が吸えないのは少し不便だがな……まあ、彼女からも聞くだけのことは聞いたから良しとしよう」
必要以上に大声で話す不精髭の刑事。まるで、俺やみさきの母親のことなど見えていないみたいに。それが少し不快だったが、中の様子の方が気になるので、敢えて黙っていた。今は、彼らと言い争いをしている場合ではない。
聞くに忍びない悲痛な叫び声。
一層のこと、もう一度病室に入って思いきり抱きしめられたらどんなに楽だろう。
けど、それはきっとみさきをもっと苦しめてしまう。
そして、みさきをこんなに苦しめた事件が何であるか知らない自分に気付いた。
「あの、すいません」俺は先程から俯き、唇を噛み締めているみさきの母親に声をかけた。「どうして、みさきはあんな風になったんですか? 一体、何が起こったんですか?」
「それは……」
みさきの母親は最初の言葉を発したきり、口を閉ざして何も話そうとしてくれなかった。それを見かねたのか、それとも単なる興味本位か、不精髭の刑事が尋ねてくる。
「ところで先程から気になってたんだが、君は被害者とどういう関係なんだい?」
「恋人です」
俺はきっぱりと答えた。
「とても大切な、本当に大切な……」
「そうか、それは気の毒だったな」
刑事は、僅かに憐憫の瞳を浮かべていた。どうやら、完全に社交辞令や興味本位という訳ではないらしい。俺は、目の前の人物に抱いていた不信感が薄れていくのを感じた。
不精髭の刑事は少し俯いていたが、やがて決意を秘めた目で俺を見据えた。
「なら、君には事実を話す必要があるようだね。どうか、落ち着いて聞いて欲しい」
「はい……」
素直に答えたが、全てを聞いて落ち着いていられる自信はなかった。今だって、腸が煮えくりそうなのだから。
「彼女、川名さんだったかな? 彼女の話によると、盲導犬との訓練で公園を歩いている時に複数の男性に襲われたらしい。数は分からないが、恐らく三、四人だろう。最初に付き添いの訓練員、西崎という人が頭を殴られて意識を失わされた」
「西崎さんが……ですか?」
それは初耳だった。でも、西崎さんは野外訓練の時にいつもついていたのだから、みさきが襲われたとなると彼も無事である筈がない。改めて気付かされた事実に、俺は思わず尋ねていた。
「ああ。今は別の病室で治療を受けている。まだ意識が戻らない。精密検査の結果、脳に異常はないからいずれ目は覚めると医者が話していたがね。それで、彼を昏倒させた後、男性たちは……この辺りはひどく混乱していて不明瞭だったんだが、どうやら暴行を加えようとしていたらしい」
「暴行って……まさか!!」
「ああ、君の思っている通りだ。性的暴行、所謂レイプというやつだ」
そうか――俺はみさきの母親を見た――だから、あれほど頑なに話すのを拒んだのだ。そのことを話すのは、母親の心境からして苦痛以外のなにものでもない。
「まあ、こちらも公園を見回ってた警官が運良く通りかかったから未遂に終わったがね。服を引き千切られて、全身痣と擦り傷だらけで、それはもう酷いものだったらしい。こちらはその様子を直接見た訳じゃないので分からないが……。
それで、二人とも同じ病院に担ぎ込まれた……ここからは担当医の話になるがね。川名さんの方は、外傷は対したことなかったので、治療が終わった頃には目を覚ましていた。が、そこから大変だったらしい。襲われた時のショックが余程強かったのか、どんなに軽い肉体的接触でも……君も見ただろうが、あのように拒否反応を示すようになってしまった。
単に話すだけなら混乱しているにしても可能なのだが、少しでも身体が振れると駄目らしい。潔癖症っていうのがあるだろう……それに似た症状だと医者は話してた。どちらにしたって、酷い話だよ。相手の目が見えないからって、あんなことをするなんて……」
話しを終えた刑事の顔は、憤怒とやるせなさで満ちていた。
ひどい話だ。
何てひどい話だろう。
みさきが誰も彼も信用できなくなるのも当たり前だ。
外の世界が恐いと思ってしまうのも、当然のことだ。
けど……。
以前、みさきに危害が加えられそうになった時とは全く異質な怒りの感情が俺の中で渦を巻いていた。
きっと、激情なんてものを遥かに通り越したところに今の感情はあるのだろう。
炎に焼かれているのに全然熱くない……異常な感覚。
この感覚の意味をようやく把握し終えた頃、別の方角から医師がやってきて刑事たちに耳打ちした。
「……どうしたんですか?」
「ああ、もう一人の……西崎さんが目を覚ましたらしい」
良かった……助かったのか……。
取りあえずの安堵感が、俺の胸に更なる翳を落とす。
「そうですか……あの、俺も行って良いですか。西崎さんとも知り合いだから、心配で……」
それは、嘘だった。本当は、西崎さんが相手の顔を見てるかもしれないと思ったからだ。そうだという百パーセントの確信はないが、もし西崎さんが犯人の顔を見ていたら……。
そう、こんなことを思うのも極めて簡単だった。
……絶対に、殺してやる。