Chapter4
愛が壊れそうになる時も……

 愛するということは、積み木を一つずつ積み重ねていく作業。愛を壊すということは、その積み木からたった一つのピースを抜くということ。

 故に愛が壊れるということは、案外簡単に起こってしまう。それは誤解やすれ違いだったり、時には他人の悪意だったり……。

 電車の震動が、私を小刻みに揺らしている。隣に座るお母さんに手を取られて、私は今日も訓練施設に向かっていた。

「そう言えば、あと三日なのよね……あそこに通うのも」

 お母さんが感慨深げに声を出す。訓練期間は約六週間だと聞いていたが、随分短い期間だったように感じられる。もっと前から、例えば半年くらい前からずっと通ってきたような錯覚をおぼえるのだ。それほど忙しく、そして充実した日々だったんだなと、私は改めて思った。

「うん。あと三日かあ……それで、訓練施設の人ともお別れなんだね。少し寂しい気がするよ」

 脳裏に、訓練施設の人々の名前や声を思い浮かべる。まずは所長の田中一郎さん。初日に会って以来、あまり出会う機会はなかったけど、とても思いやりの強い人だと私はその少ない出会いから感じ取っていた。動物たちの魅力について語る時の明るい声、それから今のペットの悲しい事情について語る時の悲しそうで、それでいて信念のこもった低い声。真摯さと誠実さで、所員の人からはとても慕われている。

 それから、私の訓練の担当をしてくれた西崎さん。指導する時には少し厳しい口調だけど、それは周りの助けがなくなってからも自分の意思でちゃんと行動できるようにとの思いをこめていることを私は知っている。けど、それ以外となると大人しげでこう思ったら悪いかもしれないけど、少し頼りない性格。そう言えば、この人の恋愛の悩みを解決しようと、浩平が色々と走り回ったんだよね。その相手が、浩平の通う短大で働く橘さんっていう講師だったというのには少し驚いたけど。西崎さんは、昨日も遅くまで電話で橘さんと会話をしたって嬉しそうに話してくれた。

 他にも、色々と親切にしてくれた所員の人たち。皆ともうすぐお別れということは、やっぱり少し寂しいな。

「そう……みさきにとっては余程良い環境だったのね。最初は不安だったし、途中で悩んでた時は凄く心配だったけど……今は良かったと思うわ」

「私もそう思う。大勢の優しい人とも会えたし、外の世界を模索するための新しい勇気もわけてもらえた気がするから。それにユーキとも会えたしね」

 ユーキ、目のない私に光を与えてくれる私の大切なパートナ。この仔も、私にとって新たにかけがえのない存在になりつつあった。心を許し、いとおしいと思える存在の増えること。その心地良さも、私の心を自然と弾ませた。

 あと三日、今まで過ぎた時間に比べれば余りにも短い時間。だからこそ、今まで以上に精一杯頑張らないといけないなという気概を刻み込む。

「それで、今日と明日は最終テストみたいなものなんでしょう? 今まで以上に長い距離を歩くって聞いたけど、体調は大丈夫?」

 お母さんは、安心しているとはいっても私のことをいつも心配してくれる。毎日同じようなことを言われるのだけど、これも私のことを本当に心配してくれてるからなんだよね。

「大丈夫。良く寝たし、朝食も欠かさずに食べたから」

「そうね……でも、油断はしちゃ駄目よ。落とし穴って、案外もうすぐ終わりっていう所に仕掛けられたりするものだから」

「そうだね……うん、気を付けるよ」

 最後の『よ』の字と重ねるようにして、目的地の駅の名前が車内にアナウンスされる。それからすぐに、電車は停車を始めた。完全に加速度がゼロになってから、私はお母さんに手を引かれてホームに降りた。

 駅の正面に出ると、私は白杖をついて歩き始めた。最初は道が分からないので、お母さんや浩平に手を引いてもらっていたが、最近では道筋や点字ブロックの位置を覚えて極力自分の力で歩くようにしていた。訓練の助けになると思って始めたことだけど、今ではスムーズに歩ける。

 今日はさしたる障害物もなく、私は訓練施設まで辿り着いた。

「それじゃあ、みさきを頼みますね」

 お母さんは、いつものようにそう言う。実は、大事な子供を保育園に預けるみたいでちょっとこそばゆかったりする。

「じゃあ、いつもの時間で良いわね」

 私が「うんっ」と答えると、お母さんは「頑張ってね」と手を握りながら励ましてくれた。これで、一日頑張ろうって気持ちになれる。でも、浩平の時の方がもっと強くそう思えるって言ったら怒るかな?

 お母さんの足音が完全に遠ざかってから、西崎さんはいつもより緊張した声で、今日のコースについて話を始めた。

「今日は、今まで分けていた二つのコースの両方を歩きます。まず、いつもの通りにここを出発し、次に公園の方をぐるりと一周します。その後、入ったところと同じ場所から出て、今度は商店街の方を周って帰ります。かなりの距離を歩くことになりますが、やはり日常生活となるとこれくらいの距離を歩くことが多々あるので、いつも以上にそのことを考えて動いて下さい……と言っても、そんなに緊張することもないですから。焦らずゆっくり行きましょう」

 その言葉に、私は心持ち厳粛な気分を高めた。まあ、湯をたっぷりはったお風呂に少しだけ薬缶の熱湯を注ぐくらいの気持ちの高めようだったけど。

 準備が終わると、私はハーネスを握り締めていつものコースを歩き始めた。点字ブロックを基点として進み、横断歩道を渡って左折、そこから信号付きの交差点まで進む。公園へは、ここを右折すれば良いのでここの横断歩道を渡る必要はない。

 ここから二百メートルくらい進んだところに公園がある。入口には車などの大型車両が入れないように鉄製の柱が等間隔で並んでいる。でも、目が見えないとこういう所が簡単に困難な障害物へと変わってしまう。ここを簡単に抜けられるのは、ユーキが障害物を判定して、上手く交わして進んでくれるからだ。

 私がいつもコースにしているこの公園は、中央に池があってそれを中心に遊歩道が大きく一周している大きな緑地公園だった。あまり人通りが多くなく、道を遮るものも少ないから外の環境に慣らすのには最適だと話していた。それに、時折聞こえる鳥の囀りや木々のざわめき、子供たちの楽しく騒ぐ声も私は好きだ。

 砂道をしばらく歩くと、ユーキはゆっくりと動きを止める。何回か通っているのですぐに分かるけど、最初はそこに段差があることも知らず、突然止まってしまったユーキに困ってしまった。

 私はユーキに階段があることを教えてから、行けと命令する。足元に神経を集中させてゆっくりと一段ずつ進んだ。こういう場所は、何度歩いてもやはり緊張してしまう。足場も良くないので、一度こけてしまったのだ。

 そこからは、公園をぐるりと一周するまで大きな段差はない。周りにも気を配りながら、楽しい公園散策になる……筈だったのに。

 しばらく歩き……道が少し狭くなるところだったけど、突然、鈍い音と小さな呻き声がして、隣から西崎さんの気配が消えた。代わりに、背後から複数の嫌な気配を感じる。

「ユーキ、ウエイト」

 私は待ての命令を出すと、ゆっくり今来た方角へと振り返る。そして、その気配が気のせいで無いことを知った。

「おい、大丈夫か? こんなことして」

 少し脅えたような、男性の声。

「顔は見られてないから大丈夫だよ。ばれっこないって……それより、どうする?」

 何? 何を言ってるの? 私は訳が分からず、次の行動を考えることすら出来なくなっていた。

 分かってたのは、何かのトラブルに巻き込まれてしまったということ。

「そりゃ……決まってるだろ?」

 三人目? 前の二人とも声が違う。でも、そんなことはどうでも良かった。頭の中に最悪の予感が過ぎる。私だって、子供じゃない。このシチュエーションが何を意味しているかは……。

 私はハーネスに力を込めたままに、二歩後ずさった。そして、今の私にはそれが限界だった。

「でも、大丈夫か? ばれたら洒落にならないぜ」

「ふん。あいつは目が見えないんだ……ばれるなんて絶対ないよ」

 男たちの会話の一つ一つが、私に絶望を植え付ける。そしてにじり寄る足音……。逃げられない……恐い……でも……声が出ない。

「考えて見ろよ、こんな美人とヤれるチャンス、そう簡単にはないんだぜ」

 その言葉と、服を強引に掴まれて前に引きずり出されるのとはほぼ同時だった。

 強い衝撃で私はハーネスから手を離してしまう。

 途端、言いようの知れぬ恐怖が心全体を支配した。もう、私を助けてくれる人は誰もいない。

 私は完全な暗闇の中に、放り込まれてしまったんだ。

 そして、ギリギリ保って来た理性の糸が……切れた。

「いや、助けて、お願……」

 しかし、声が出たのはそこまでだった。ひどく無骨な手で、口が強く塞がれ、声を出すことがどうしてもできない。それから、着ていた服が強引に引き千切られる。私は予期せぬ行動にバランスを崩し、茂みへと体を倒してしまった。

「へへ、じゃあ、俺が一番だな」

 下劣な声と共に、胸へと電気のような寒気が走った。好きでも何でもない人に、胸を触られている。涙が出そうだった……いや、もう既に涙は流れていた。

 何で? どうして? 私がこんな目に合わないといけないの?

 掠れる思考と悪寒……その隙間から聞こえてきたのは、弱々しい犬の鳴き声と別の男の容赦ない哄笑だった。

「おい、こいつ本当に何をやっても動かないんだな」

 再び聞こえる鈍い音、一際甲高いユーキの鳴き声。

 虫の這いずるような悪寒が、再び全身を襲う。ユーキが酷い目にあっている、しかも私の命令を遵守しているがために。

 何とかししないと……私はどうなっても良いからユーキだけは助けないと。

 私は本能的に、口を抑えていた腕に思いきり噛み付いていた。

「ぐあっ!」

 相手もまさか私に抵抗されるとは思っていなかったのだろう……戒めは簡単に解かれた。私は暗闇の中を我武者羅に進みながら、思いきり叫んだ。

「ユーキ、逃げて! 早く、お願いだから逃げて!」

 茂みの細い枝が皮膚を引っ掻き、突き刺す。でも、そんな痛みはもう気にならない。何とか、ここから一緒に逃げないと……。最低でも、ユーキは助けないと。

 けど、私の思いは再び強い力によって遮られる。不意に、皮膚へ激しい痛みが襲う。多分、平手打ちされた。そして、再び男に組み敷かれる。

「お前みたいな奴をオンナにしてやろうってのに、ふざけた真似しやがって!」

 お前みたいなやつ……今、暴行を受けているという事実よりもその言葉の方が心に突き刺さった。お前みたいなやつ……目が見えない人間は、こんなことをされて当たり前だという、価値観。こんなにも身近に、しかも大勢、自分を見下している人間がいるという絶望感。

 だったら、私の信じてきた世界は何だったの? 確かに偏見を持っている人はいるかもしれない。けど、頑張れば分かってもらえるものだと、心の中では期待してた。

 世界って、こんなに醜かったの? 欲望に身を任せて、自己中心的な考えを剥き出しにして……。少しでも他人と違うところのある人には微塵の権利も認めない、そんな世界だったの?

 だったら、どんなに努力したって無駄なんだ……。

 こうして成すがままにされても、どうしようもないんだ……。

 嫌、もう嫌。

 光なんて、どこにもない……。

「お前たち、何をやってるんだ?」

 遠くから、そんな声が聞こえる。誰? 

 でも、多分、私を虐げようとしてるんだ……。

「やべっ、お巡りだ!!」

 体に込められた強い力が消える。

 どうしたんだろう……。

 何だか肩の方がスースーする。

 ちょっと寒いかな。

「待てっ……あっ、くそ……。おい、大丈夫か……大丈夫か……」

 誰? もう良いよ……近付かないで。

「ったく、最近の学生は酷いことしやがる……おい、大丈夫か?」

 頭が朦朧とする。意識が……。

「くそっ、救急車と、それから応援と……おい……大丈夫か……」

 途切れた。

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